V:「生きづらさ」について
世界との付き合い方
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2.「科学」 という名の物語

  •  物語のひとつに神話があります。古代の人びとは神話のかたちで世界の成り立ちや自然現象を説明しました。まずこの神話から考えてみます。
  •  古事記や日本書紀によると、日本列島は男女の神のセックスによってできたことになっています。世界各地には世界の始まりを説明するさまざまな神話があります。これらの神話がいつごろ創られたかは明らかではありませんが、現在まで語り継がれてきたことは事実です。
  •  しかし、私たちは不思議な物語としてこれらを読むことはあっても、この世界の成り立ちの実際を説明したものだとは思っていません。むかしの人は本当に神話を信じていたのでしょうか。
  • ※「(世界は物語でできている」と内容が一部重複しています。

    地動説は本当に正しいのか

    「太陽や月が東からあがり、西の空に沈むように見えるが、本当は地球が回転しているだけだ」とはじめて授業で習ったのは小学校何年のころだったでしょう。地動説と天動説の話を聞いたのは確か中学校のころだったと思います。

    そのときは「地動説が正しいのか」と信じただけでした。天動説を教会の僧侶から聞かされてそれを信じた中世の人びとのように、現代の私たちは教科書や学校という権威に従い地動説を信じているだけです。

    そう考えると現代人の科学も古代人の神話も専門家以外の人にとっては基本的には変わらないものかも知れません。

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    神話と科学の違いは何か

    神話も科学も、この世界の成り立ちを知りたいという人びとの欲求に応えて創られました。「己の拠って立つところ」を知りたいという人の根源的な欲求が元になっています。その説明に満足できればそれは立派な科学です。

    それを説明してくれる人は、古代ではシャーマンなどのように超人的な能力をもち、人びとから畏怖されているような人物でした。現代では科学者として尊敬される知識人たちです。両者がそれぞれ拠って立つ方法や能力にこそ違いがありますが、それぞれの人びとが特別な能力をもった人として信頼を寄せられた人物であることは同じです。

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    神話と科学の違いは表現法の違い

    現代の私たちが科学的な説明で納得するように、古代の人びとは神話による説明を信じていました。しかし神話と科学は明らかに異なるものです。神話と科学の違いはその表現方法の違いにあります。説明しようとする世界の見方が異なるため、説明の方法も納得の仕方も異なってきます。また、世界に対する人びとの気持ちや関わり方によっても違ってきますし、観察や測定の方法によっても異なります。

    しかし、自分をとりまく世界を説明した物語であるという点では神話も科学も同じです。その意味でこの二つは真実です。神話については古代人に聞く術はありません。だから科学がどんな意味で真実なのか、しばらく考えてみます。

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    数学的に証明できれば・・・

    多くの利害が複雑に絡み合う調整ごと。かたくなな意見の果てしない対立。そんなとき「数学のように証明したり計算したりできれば、どんなにすっきりするだろう」そんな誘惑にかられた経験はだれでも一度はあると思います。

    なかにはそれを実際に試してみようとした人もいるかもしれません。しかし、そんなことは可能でしょうか。そもそも、数学で証明できればなぜ真実になるのでしょう。数学で証明されることって一体何なんでしょう。

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    平行四辺形の証明

    「平行四辺形の相対する辺の長さが等しいことを証明しなさい」。そんな問題があったとします。これは平行四辺形に対角線を一本引いてできる二つの三角形が合同であることを証明すれば解ける問題です。

    その証明には、平行線を縦に横切る一本の線によってできる対頂角・錯角・同位角がそれぞれ等しいことを利用します。これにより一辺の長さとその両端の角が等しいことがわかり、二つの三角形が合同であることが証明できます。これで平行四辺形の相対する辺の長さが等しいことが証明されます。

    この平行線の証明では、平行線にできる同位角が等しいことや三角形の合同条件が「既知(すでに分かっていること)」として利用されていました。三角形の合同条件は背理法という方法で証明できます。

    しかし、三角形の内角の和が180度であることを証明しよ う とすると、平行線の同位角が等しいことを使うことになり、同位角が等しいことを証明しようとすると平行線が交わらないことや三角形の内角の和が180度であることが前提となってくるのです。つまり堂々めぐりです。出発点となるべき「既知」がみつからないのです。

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    数学の証明は 「公理」 を前提としている

    実はこのことは古くから指摘されており、図形の証明(ユークリッド幾何学)では平行線が交わらないことを前提として、全体の論理を組み立てることになりました。

    平行線はいくら延長しても交わらないというような、証明できない前提を数学では「公理」と呼んでいます。ユークリット幾何学は平行線はどれだけ延長しても交わらないことを 「公理」 として組み立てられているのです。

    それでは数の計算 (代数) ではどうなっているのでしょう。

    ここに、ミカン一つをのせた皿があります。それにもう一つミカンを加えてのせた皿、さらにミカンを一つ加えてのせた皿、と言うようにこれを無限に繰り返す作業をイメージしてください。

    皿にのせたミカンは量を表し、この量によって順番に並べられた皿につけた名前が数です。皿は「イチ」、「ニ」、「サン」と仮に名前をつけて呼んでいるだけです。ですから、英語では別の名前が付いていますし、書き方も一・二・三と書いたり、1・2・3と書いたりします。つまり、約束事なのです。

    それでは、1+1=2は普遍的な真実でしょうか。実はこれは定義にすぎません。

    「1+1=2」は1+1= (1+1)=2 

    を意味しています。はじめの「1+1」は単位となるもの(ミカン)をひとつ加えることを意味します。次の(1+1)はそれをひとまりの集合(皿)と見なしています。最後にその皿に「2」という名前をつけます。

    その結果、私たちは「2」という名(=皿)を指して、(1+1)(=ミカン)を連想します。つまり量(1+1)と数(2という名前)は同じことを表していると理解しているのです。

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    永遠に1を加えることができるか

    1に1を加える。さらに1を加える。永遠にそれを続けることができるでしょうか。できるということを前提にして成りたっているのが自然数です。このことは、余りにも単純すぎるので当然だと誰もが思いますが、それを証明することはできません。

    たとえば、1づつ加えていったら、元に戻ってきてグルグル回っているだけかもしれないですし、同じ数が出てきて、ダブりがあるかもしれません。そんなはずがない、と誰しも思いますが、厳密には、平行線が交わらないことが証明できないように、これも証明することができず、公理として前提とするしかないのです。 (これを、「ペアノの公理」といいます。)

    前提に矛盾が生じなければ、何を前提にしてもいいわけですが、計算をしていくと、やはり矛盾が出てきました。足し算、かけ算はよかったのですが、割り算では割り切れない場合が多く、引き算では小さい数から大きい数は引けません。

    そこで、分数や小数を工夫し、マイナスをつけた負の数も発明されました。さらに、ルートをつけた無理数や「i」の文字をつけた虚数なども登場し、矛盾はその都度、回避され数の世界はどんどん広がっていったのです。

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    物理学も怪しい?

    平行線は交わらないとか、1+1は無限に繰り返すことができるとか、数学はこうした公理という証明できない約束で成り立ち、それで矛盾が生じなければ、その前提の範囲で真実だとする学問でした。それでは物理学はどうなっているのでしょうか。

    仮説と実験によって組み立てられてきた物理の法則こそ客観的な真実ではないでしょうか。そう考えたいのですが、実は物理学の真実も結構、「怪しい」のです。

    高校時代、物理の時間にいろいろな計算問題をさせられました。公式や記号もたくさん覚えました。しかし、今思うと「ちょっと待てよ。あれは何を計算していたのだろう」といろいろ疑問が湧いてきます。

    例えば電気の計算でアンペアーやボルトなどの量を数字で表し計算していましたが、この数字はどこから導かれたものなのでしょう。どうやって測定したのでしょう。その単位はどこからもってきたのでしょう。

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    物理の量は相対的なもの

    電流は何を基準に定義されているのでしょうか。1ボルトや2アンペアーなどひとつひとつの物理量の定義は教科書に説明されています。それによると電気を帯びたふたつの物体の間にはたらく力(互いに反発したり、引き合ったりする力)を根拠にして電気の量であるクーロンという単位は定義されます。

    しかし、このクーロンという単位自身はどこからもってきたのでしょう。どうやって測定するのでしょう。実は、クーロンはバネばかりで計測されました。電気を帯びた物体の間にはたらく力の強さを、バネが伸びた量で眼に見えるようにしているだけなのです。それと同じ長さだけバネを伸ばす「おもり」の重さ、つまりグラムやキログラムで、電気の強さは確認されているにすぎません。

    さらにクーロンから導かれたボルトやアンペアーなどは、すべて電気に関する自然現象を説明するために便宜的に作られた単位にすぎず、物理学者が集まる国際会議で決められたのです。

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    物理現象は[重さ]と[長さ]と[時間]で説明できる

    高校の物理の教科書をよく見ると、物理現象の大きさを表す単位は力 (F) によって測定され、それから公式が導かれれて新しい単位が定義されています。力(F)は質量と加速度(長さを時間で割りさらにもう一度時間で割ったもの) の積で表されます。ここに登場する単位は長さ・時間・質量(重さとして実感できる)の三つです。

    私たちが実感できる量の単位は実は長さと時間と重さしかありません。光の強さや音の大きさも実感できますが、その大きさを数字で表しても、それから長さのような具体的なイメージを持てる人は少ないでしょう。私たち人間はなぜ長さと時間と重さで物理現象を表すようになったのでしょうか。(正確には、地球上では質量に地球の重力をかけた量が重さですが、ここでは質量=重さとして議論しました。)

    その理由は、長さと時間と重さは私たちの日常生活に欠かせない基準だからです。物を作ろうとしても商売をしてもすぐにこれらの物差しが必要になります。つまり、物理学の根拠は日常生活の体験によって支えられているのです。

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    長さも質量(重さ)も時間も相対量

    私たちが知っている1メートルの長さをなぜ1メートルというかその根拠はありません。現在の30センチの長さを1メートルとしてもよかったのです。これも人間が会議で決め、条約(メートル法条約)にされただけの約束事でしかありません。

    重さについてもそれは同じです。時間は太陽の周りを1周する地球の運動を基準に計算されていました。地球が太陽の周りを回ることから季節がめぐり、地球の自転が夜と昼をつくっているので、そこから計算しています。身近な現象とつながりがあるからです。

    つまり、物理現象を説明する基本単位は地上で生活する人間の生活実感にもとづいて決められた人為的な数値にすぎないのです。(ただ、矛盾なく、だれでも納得できるように決めるには、多くの英知を必要としましたが・・・)

    注:正確を期すため、計測技術が進歩した現在では、異なった方法で決められています。

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