V:「生きづらさ」について
世界との付き合い方
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T:すべてを「物語」として考えてみる

私たちは、様々なことを信じて生活しています。そうでなければ、何もできません。そう信じるには、前提が必要です。そして、その前提すらも正しいと信じるしかありません。

それでは、無条件で正しいと言えるようなことはあるのでしょうか。あるとすれば、それが基準となるべきもののはずです。

※「世界は物語でできている」と内容が一部重複しています。

1.人はなぜ物語が好きなのか

  •  そこで、一度すべては「物語」にすぎないと考えてみることから始めてみようと思います。
  •  そのうえで、何が真実として残るのか、あぶり出してみようというわけです。
  • なぜ物語なのか

    たとえ話です。「絶対安全」として建設された原子力発電所で、事故を想定した訓練をする話がもちあがります。それを聞いた住民は怒ります。「絶対安全だと言って建設したはずじゃないか。今さらどうして事故を想定した訓練なんて話が出てくるのか。絶対安全というのはウソだったのか」という理屈です。

    「原発の安全神話」が崩壊したいまでは、さすがにこのような議論は聞きませんが、以前には実際ありましたし、これに似た意見の対立はよくおきると思われます。

    そんな時、対立するそれぞれの意見を物語と見なして一度カッコに入れ、冷静になって議論してみるしかありません。

    この物語化という思考方法は、実は目新しいことではありません。英語にこれと似た表現があります。英語のニュースなどを聞いていると「アイ シンク」という発音がやたら耳に残ります。誰かが話すたびにまず「I think(私は次のように考えます)」と言ってから自分の考えを話しています。

    日本語にはこれがありません。ですから、主語すら省略しがちな日本語では、意見を言うとなおさら断定的に聞こえてしまいます。自分の立場をはっきりさせて、冷静に議論するためには、一度「カッコ」に入れてみることが有効です。

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    物語は願望でできている

    現実とは異なることを仮定して、自分の願望を表現する英語表現があります。よく例文にあげられている「I wish I were a bird.」(もし、鳥だったらなア)のあれです。これが物語の原型です。自分の願望をストーリー化したものが物語です。

    しかし、願望だけでは話はそれっきりです。何も面白くありません。やはり、そこにはわずかであっても実現への可能性がはぐくまれていなければなりません。だからこそ、物語には人を動かす力があるのですから。

    ところが、この現実というのがやっかいなのです。現実もまた物語の一種なのですから。どういうことでしょう。

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    見えているのではなく、信じているだけ

    「眼、錯覚」などのキーワードで検索してみてください。錯覚に関する例が紹介されているはずです。同じ長さの線なのに両端の矢印の向きを反対に描くだけで異なった長さに見えたりする図や、見方によって若い女性の姿になったり老婆になったりするだまし絵。壺に見えたり、向かい合う二人の人物の横顔に見えたりする「レビンの壺」などは有名です。

    私たちの感覚には限界があります。点と点の間隔が微少であれば、点線は実線に見えるでしょうし、断続的な音や皮膚への刺激もその間隔が短ければ、連続して聞こえたり感じたりします。

    眼に入ってきた光は、ほんの一部しか情報として脳には伝わらず、他の部分は過去の体験にもとづき脳で想像して再構成しているため、あたかも全体がよく見ているように見えるだけなのだそうです。見ているのではなく、想像して、信じているのです。

    小窓しかない宇宙船が計器に頼って操縦されているように、わたしたちは脳から補充される情報によって行動しています。この情報はわたしたちの過去の経験により蓄積されたものです。つまり、私たちは脳のデータベースで感覚を補いながら外界を再構成して生活しているわけです。

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    物語はただの願望なのか

    外からの刺激を加工し、意味をもったひとつの「像」として再構成されたもの、それは一種の物語です。私たちが見ていると信じている世界は、私たちが考えるほど堅固なものではありません。精神の状態によっては聞こえないはずの音が聞こえたり、見えないはずのものが見えたりする幻視や幻聴とか、手術で切断されて存在しないはずの腕が痛む「幻肢」など様々な例があげられます。また、物語をつくる人の立場や願望や癖のようなものも、物語には色濃く反映されます。

    人に見えている世界が、自分の願望を織り込んだだけの物語だとしたら、私たちはどのようにして客観的に物事を理解したり、他の人と互いに理解し合ったりできるのでしょうか。

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    誰かに語りたい「王様の耳の秘密」

    イソップ物語のなかにある「王様の耳はロバの耳」というお話を知っていますか。お城に呼ばれた床屋は王様の散髪を命ぜられ、そこで王様の耳がロバの耳のように変形していることを知ってしまいます。その秘密を口外することを禁じられた床屋は苦しみます。誰かに言いたくてしょうがないのです。そこで床屋は井戸の中に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫びます。床屋はなぜそんなに苦しんだのでしょうか。

    「UFOを見た」と言う人も、この床屋と同じです。彼らは、UFOの存在を知って欲しいと真剣に訴えます。自分だけが見た、自分だけが知っているという状態に耐えられないのでしょう。自分の発見を自分以外の人と共有することにより、自分が発見したことを確認したいのです。そうしなければ気持ちが定まらないのでしょう。そう考えると、床屋の気持が分かるような気がします。

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    人は物語を共有したがっている

    床屋と同じように孤独なのが殺人犯です。殺人犯は自分が罪を犯したことを隠したいという欲求と、それを人に話したいという欲求の間で苦しみます。

    ドストエフスキーの小説「罪と罰」の主人公ラスコリーニコフもそうでした。犯行の秘密を人にもらせば逮捕されるかもしれないのに、なぜラスコリーニコフはそれを人に話したのでしょう。

    犯人にとって殺人は、彼を世界と結びつけている唯一の糸です。しかし、それを人に言うわけにはいきません。殺人によって世界とつながってしまった犯人は、その物語を人と共有する道を失ってしまうのです。犯人は誰とも共有されない世界に一人で生きなければならないのです。そこには人としての真の孤独があります。

    「奇跡の人」という映画で知られる、ヘレン・ケラーの話にも同じことが言えます。見えない・聞こえない・話せないという三重の困難をかかえたヘレン・ケラーに言葉の存在を教えることによって、家庭教師のアニー・サリバンは、ヘレンが自分と同じ世界に生きているということを気づかせようとしました。

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    みんな自分と同じだと信じている

    人は物語として世界を再構成し、それを他の人と共有します。人は物語によってこの世界に踏みとどまっていると言えます。

    しかし、言葉によって世界を他者と共有するという心の動きはなぜ生じたのでしょう。

    ある生物学者は、人とは他人も自分と同じだと信じ込む存在だ、と定義しました。そのような心のはたらきはどのようにできたのでしょうか。

    実は、人は自分の物語を人と共有しようとするのではなく、他の人と共有できる物語をつくろうとするのです。「自立と依存」で見たように、赤ちゃんには、母親が見ている物を自分も見ていることを知ることによって、自分と母親が同じ世界に存在していることを感覚的に理解します。そのような体験を経て、言葉が話せるようになっていきます。

    さらに、相手の立場に回り込むようにして、物を見る(=理解する)習性があることを、鏡像理論をとおして考えました。互いに共有し合うことを前提として物語が語られているのです。共有できない物語は意味がないと言ってもいいでしょう。

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    共同視線

    人は、自分は他の人と同じものを見ているのだという実感を求めています。これを共同視線と呼ぶことにします。人はこれをとおして「自分は他の人と世界を共有しているのだ」、「みんなと同じ世界に生きているのだ」という安心を得ようとします。

    共同視線によって世界を共有したいという欲求こそ、人が物語を求める根源的な理由です。物語とは世界を共有する形式なのです。人は物語を語ることで、自分がよって立つ拠り所を、そうあって欲しい世界への願望として語っているのです。自分の物語を他の人と共有することで、そんな自分を自分で確認しようとするのです。

    もし、誰とも物語を共有できなかったとしたら?自分で自分を認められなくなり、強い「自己否定感」が生じます。(誰もいないところで、物語を語り続けるようなものです。)

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    死後の世界の物語

    みんなと共有して生きてきた世界から自分だけが去っていく。これは寂しいことです。去ってどこへ行くのか分からなければ、それは恐怖ですらあります。死が怖いのはこうした心理がはたらいているからかもしれません。

    人は言葉を持ち、世界を同世代の人たちと共有し、さまざまなことを願って生きています。最後はひとりだけでそこから去っていきます。こうした現実がさらに私たちを物語に引きつけているのです。死を超えた世界、永遠不滅な物語。それは宗教や科学というかたちで育っていきました。

    しかし、あえて言います。宗教も科学もまた物語なのです。それはどういうことでしょうか。「科学は宗教ではない。永遠不滅の真理だ」という私たちの確信について考えてみます。

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