これまでの議論を簡単に整理してみます。
私たちは、「世界」の外側に立って「世界」を眺めることはできません。仮にそういう立場があるならこう見えるはずだと前提することで、「世界」を「客観的」に描き、近代科学は大きな成果をあげることができました。
また、「自己」とは人との関係に基づく意識でありながら、あたかもそれが他から切り離されて、生まれながらに存在するかのように仮定し、その「個人」という考え方に基づいて近代社会は成りたっていました。
「客観的世界」という自然観と「個人主義」という人間観、この二つの「物語」を啓蒙することこそ、近代の学校教育の使命でした。
したがって、学校での教えを忠実に学べば学ぶほど、この二つは信念のようになっていきます。その結果、優等生となった彼・彼女は、抽象的な「世界」に「個人」として放り出され、存在しない「自分」探しのゲームにはまってしまうのです。自分とは関係なく存在するはず「世界」 のなかに、「自分」という幻想をさがすことになってしまうのです。
このことが、合理的な思考が完成する前期・思春期(中学)と、抽象的な思考が育つ後期・思春期(高校)の間で、矛盾となって露呈してきます。場合によっては、それがアイデンティティーの危機をもたらしてしまうことにもなるのです。
しかし、誰にでもそのような危機が訪れるというわけではありません。そこにはどのような事情があるのでしょうか。
「自己」 が育つ過程について順を追って整理してみます。
I {me=you(me)}の関係において、相手が自分のことをどう思っているかは分かりません。しかし、ライブだから相手は目の前にいるのですから、you(me)は相手の様子を見て自分で想像することはできます。そして、多数のmeを束ねる役割をIが果たしたように、相手に見えているだろう自分の像が統合されて、「Me」が形成されます。イメージですからIに対応させて大文字で表し、「自己」は次のように表現できます。
I{me=you(me)}Me
これは、動物のレヴェルで言えば、 「喰うか喰われるか」あるいは「敵か味方か」の関係です。それが人間では 「好意的か、反感を持っているか」 と言ったことになります。好意的であれば安心でき、反感を持っている相手なら警戒しなければなりません。
自分に好意的な人に囲まれて育てば、イメージされる自己像「Me」は肯定的なものとなり、「me」を統合する「I」も安定します。それとは反対に、いつも緊張した人間関係の中で育てば、否定的な自己像しかイメージされず、「I」は不安定なものにならざるえません。
言い替えれば、どのような人間関係を体験したかで、形成される自己像(Me)もそれをイメージする自己(I)も異なってしまうということです。
つまり、どんな「Me」が形成されるかで、自己肯定感がもちやすいか、自己否定的な感情に苦しむことになるかが決まってくるのです。
自己否定感は、不安なことや緊急事態に対して緊張している状態の感覚です。周囲に神経を集中し、どう行動しようかと筋肉は緊張しています。つまり交感神経が働いている「動物」的な状態です。
それとは反対に、自己肯定感は、満足して安心し、副交感神経がはたらいている状態です。
これは生物としての基本原理ですが、人間の場合にはその上に関係性が加わります。母親にその生存のすべてを任せている人生の初期段階で、緊張した状態が続いていたら、どのような「自己」が形成されるでしょうか。
乳幼児期に親から虐待を受ければ、自己肯定感を味わう機会は少なくなるでしょう。また、周囲の接し方に一貫性がなかったら、乳幼児は混乱し、安定した「I」は形成されないでしょう。
「自己」 形成は実に微妙な過程です。乳幼児は自己肯定感の体験を糧にして、手探りで「I」をつくりあげ、心の世界を育てていきます。
生真面目な親が陥りやすい子育ての誤りとして、子どもへの過干渉が近年よく問題にされます。
過保護と混乱して理解されることもありますが、過保護は、保護しすぎることです。そこには、子どもを否定する要素はありません。その存在を肯定する姿勢があります。
しかし、過干渉の親は、子どものことに口を出しすぎ、子どもなりの判断や自己決定の機会を奪ってしまいます。子どもは、自分なりに価値判断する力を育てることができず、常に親の態度を気にするようになります。
一見、過干渉は心配し過ぎる親の親切心のようにも映りますが、子どもにとっては明らかにそれは「支配」でしかありません。子どもの人生を母親が奪ってしまっているのです。
しかし、困ったことに、干渉している親はそのことに気づけず、干渉し続けてしまい、子どもの自己形成に深刻な影響を与えてしまうことになります。なぜなら、子ども本人にも、過干渉の親の態度は「愛情」に映ってしまい、歪んだ親子関係は思春期になって、病として露呈してきます。(暴力を愛情の証拠と思い込んでしまう DV と似ています)
このような母子関係は、どのように形成されるのでしょうか。
かつて、「母源病」という言葉がさかんに話題になったことがありました。子どもの発達(特に精神的な発達)における障害の多くが、母親の子育てに原因があるという考え方です。
最近では、そのような極端な議論は聞きませんが、その考え方は今でも強い影響をもっています。例えば、親の強い過干渉を受けて育ち、中年になっても、精神的に苦しみ続けているような場合、親と真剣に対決しなけれ
ば、生涯その苦しみから逃れられないと言われたりするケースです。
母子関係が心の成長に重要な影響を与えている とするこれまでの議論も、 「母源病」 の考えと同じように思えます。
しかし、議論されるべきは、その責任の所在ではなく、なぜ母親がそのような母子関係をきづいてしまうのかという、原因論でなけばばなりません。子育ての時期に母親がどのような環境に置かれていたのかという問題意識です。
そこで、もう一度、乳幼児期の母子関係について考えてみます。
自立とは、人間関係が増えることによって、依存の対象が増えていくことでした。母親との間にきづかれた、{me= mother(me)}の関係をもとに{me=you(me}} の関係が増えていき、それを束ねる働きとして「I」と「Me」が形成され、安定した人間関係が気づかれるようになります。このことを次のように表しました。
I{me=you(me}Me
つまり、「自己」にはme=you(me)のライブ「自己」とI=Meのイメージの自己があることになります。このイメージの「自己」はライブの「自己」の体験があればこそ、形成されるのですから、いちばん始めの{me= mother(me)}こそが基本です。
もし、この関係が何らかの理由で、いつまでも強い影響力をもったらどんなことになるでしょうか。言うまでもなく、新しく生まれる{me=you(me) }にも影響し、「I」や「Me」の形成にも大きく影響してしまうはずです。
これが「母子分離の失敗」によって引き起こされる、発達における障害のプロセスです。問題は、なぜ、このようなことがおきるのかと言うことです。
そのことを考えるために、しばらく日本の近代の歴史について復習してみます。