V:「生きづらさ」について
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C「サムライ」の母たち

明治維新で変わったことは、士農工商の身分制度がなくなったことではなく、誰もが武士になれるようになったということではなかったか。

新しい時代の「サムライ」は、武術の替わりに西洋の学問を身につけ、幕府や藩に替わって政府や企業に仕え、女たちは息子を立派な「士」にするために、相変わらず「家」に仕えた。近代日本の歴史をそんなふうに見ることはできないでしょうか。

表面だけの近代化

幕末の日本は、海外からの輸入品に関税がかけられず、外国人の犯した犯罪を自国の法で裁くことができないという、実に不利な条件で、長い鎖国の時代を終わらせました。

そんなジャパンが出ていくことになった当時の世界は、列強による植民地争奪の争いがまさに激しくなり始めた時代でした。

取り返しようのない外交上の失敗をした徳川幕府を批判し、天皇を中心に外国勢を追い払おうと、下級武士の若者を中心に尊皇攘夷の運動がおきました。しかし、欧米の圧倒的優位な国力を前に、それが不可能な選択であることが分かると、その運動は、幕府を倒し、新しい政府を樹立する方へと変わっていきました。条約改正は新政府の仕事になりました。

不平等条約を撤廃するには、欧米諸国に「もはやジャパンは近代国家になった」 と思わせなければなりません。そのためには近代化を急ぐしかありませんでした。

その結果出来上がったジャパンは、表向きは「立派な近代国家」ですが、そのすぐ裏は古い時代のままという、奇妙な社会になってしまいました。道路に面した表は、モルタルの外壁で瓦屋根を隠し、木戸を外してガラス戸を張り、床も取り払って石を敷き、しかし、その奥は畳のままの和室。そんな建物のようなものです。

この二重体質とも言える社会は、その後日本人の心のなかに強く影響することになりました。

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近代化を担った 「サムライ」 たち

まず、近代化を担った人たちについてです。

明治維新は、 「郷士」などと呼ばれていた下級武士出身の若者たちが中心になって進められました。江戸時代でしたら、一人前の武士としては扱ってもらえない立場です。さらに農民も倒幕の軍隊に組織されました。つまり武士になろうとしてもなれなかった人たちです。彼らは、新しい時代をどう生きたでしょうか。

明治になると武士身分は廃止されます。近代国家づくりでは、武術に替わって学問が「武器」 になりました。剣術を習わず、学校に通って西洋の学問を学びました。そして新しい時代の「武士」、つまりエリートになったのです。彼らこそ、大急ぎの近代化を担った人たちでした。

(医師や教師など古くからの職業には「師」の文字を使いますが、会計士、建築士など新しい職業には武士の「士」を使います。彼らは、文字どおり国を支える「士(さむらい)」だったのです。)

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近代化が手段から目的になった

明治時代、近代化は不平等条約の撤廃のための手段でした。しかし、その目的が達成されると、近代化自身が目的になってしまいました。その後、「士」(=エリート)たちはどうしたのでしょうか。

目的を失ったエリートたちは、自分たちこそ近代化の具現者として振る舞い、特権階級化していきました。

当時の給料は、働いた分しかもらえませんでしたが、公務員や大企業の社員たちは月単位で決められた額の「月給」 をもらっていました。恩給(退職後の生活を保障する、条件のいい年金のようなもの) など手厚い身分保障もあり、「月給取り」と呼ばれたエリートになることが、立身出世の象徴となりました。「娘を嫁にやるなら月給取りに」と言われるほど、エリートは庶民の妬みと憧れの対象になっていました。

その結果、どのような社会が出現したのでしょうか

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デコレーションケーキのような

スポンジの上に、クリームやイチゴにチョコーレートやウエハースで飾り付けたデコレーションケーキのような社会。それが大急ぎで進められた近代化によってできた日本の姿でした。具体的に描いてみます。

表面的には、立派な組織と「法律」が整備され、西洋の学問を身につけたエリートたちによって、効率よく「社会」が運営されている。そんな近代国家に日本は変貌したはずでした。

しかし、庶民の暮らす「世間」では、「法律」は建前としての飾り物でしかなく、本音である古い「しきたり」や「世間体」が力をもち、物事が法律どおりに進まないことは少なくありませんでした。

つまり、表面は「近代国家」で、実態は「前近代」である二重構造の社会になってしまいました。そして、「表」の世界は男中心の世界で、その男を支えるのが女の役割とされたのです。

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「女たち」の生きる道

この近代化の歴史を女性の立場から見るとどうなるでしょうか。

江戸時代の武家の女は、立派な「あととり」を産んで、男子なら立派な「武士」として育て、女子なら理想の母になるように育てることが求められました。親が決めた家に嫁ぎ、妻として夫に尽くし、立派な「あととり」を育てる。「三代に仕える」 のが女の生きる道でした。

明治になって、男なら誰にでも、教育によって「武士」(=エリート)になるようになると、世の女たちには、「武士の妻や母」のように生きる道が拓かれました。

しかし、実際は家に縛りつけられた一生でした。仕事一筋の夫は、家庭を顧みず、家事にも育児にも関心を示しません。女の関心が向けられるのは子どもだけです。

子どもとの世界だけが生き甲斐になったのですが、責任を負わせられたかたちでもあった女の立場は、孤独でした。「家のことはお前に任せた」と言われた女には失敗が許されません。勢い、子育てに神経質になってしまうこともおきます。それは、子どもの精神的な成長にも大きく影響したはずです。

ここに、固着していく母子一体の世界が芽生えます。

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母と学校の共犯

男子の場合、立派な「武士」(=エリート)に育てるのが母の使命ですから、当然、教育にも熱心です。母親による子どもの支配は、学校という仕組みを取り込むことで、大がかりなものになっていきます。

まだ幼い小学生にとって、学校は体験したことのない世界です。我が儘や好き勝手は許されず、時間を守り、授業中は先生にしたがい静かに勉強しなければなりません。

母親の顔色を見ることには長けた子どもですから、先生の意をくんで、一生懸命勉強します。赤い丸ばかりの答案用紙を持ち帰れば、母親はご機嫌です。こんなことで母親が喜んでくれるならと、子どもはいっそう勉強に励みます。

こうして、母子一体の世界は、学校教育という仕掛けによって、ますます強化されて行くことになります。

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はしごが外されていく思春期

小学校の高学年になると、日々の努力のおかげで「優等生」 になった子どもは、教師や仲間から一目おかれるようになります。ちょうど、社会的な意識が生まれるころですから、自分は特別な存在だと感じるようにもなります。

学習内容も、日常生活に関する具体的なこと中心だったそれまでと違い、論理性や社会性を重視した内容になり、自分の前に新しい世界が拓けていく体験をするのもこの時期です。

そんなこともあり、「努力さえすれば、自分には何でもできるのだ」といった「万能感」が育ち、それが「自己像」(Me)になっていきます。

しかし、思春期・前期から後期にかけて、何かが変わり始めます。

まず、「優等生」であることに、なんの価値もないに気づきます。それは、将来の進路選択に関する私的なことでしかないのです。いや、むしろ「優等生」であることによって、疎んじられたり、時には軽蔑の対象にもされるようにもなります。

「理性を信じ、正しい方法で道筋を追って探求すれば、どんなことでも理解し解決できるはず」 と信じてきた生き方が根底から崩れさっていくのを感じ、強い不安に襲われたりもします。

息子がそんな状態にあることも知らず、母親は相変わらず期待の目を向けているように感じられます。かつてのように、具体的なことで干渉してくることは減っていきますが、母親が満足する自分であり続ける義務感のような感情は、消えるどころか、彼の内面からしめつけてきます。

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イメージの世界が本当の世界

元「優等生」に決定的に欠けているのは、{me= you(me)}のライブな人間関係の体験です。強すぎる母子関係がその機会を奪ってきたのです。  { me= mother(me)}イメージの「自己」 (I=Me)もこれに基づいて形成されるのですから、彼は現実感の乏しい世界に生きることになります。

孤立感、欠乏感、寄って立つべき足場のない頼りない感覚。限りなく広がるそのような世界で、自分を守るにはどうしたらいいのでしょう。

現実の人間関係からかけ離れたイメージの世界に (I =Me)を構築するしかありません。しかし、そのような「自己」 のままで、現実の人間関係の世界に降りてきたら、彼にたまたま関わってしまう人間は、大きな悲劇に巻き込まれしまうことになるかもしれません。

そんな彼は、どうしたらいいのでしょう。周りの人は、どのように彼に関わればいいのでしょう。

「自己の病」は「関係の病」でした。まずは、孤立無援の彼に手を差し伸べることから始めるしかありません。

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