俺は他の商品の価値を表す道具となった。しかし、金自身の価値はどのように表されるのだろうか。
金の価値がわからなければ、他の商品の価値も表せないではないか。そこのところはどうなっているのだろうか。
おれのおかげでみんなの価値がわかる。しかし、おれの価値はどうやって証明したらいいんだ。
だいたい俺は商品なのか貨幣なのか。鉱山で掘られたときは商品だ。
しかし、鉱夫たちは給料として俺を受け取っている。そして酒屋へと繰り出すじゃないか。もうその時は俺は貨幣だ。
俺は本当は商品なのか、貨幣なのか。
ある奴は俺10グラムで時計を買ったりする。同じ時計でも人によっては11グラムで交換したり、9グラムで交換したりする。時計屋の親父とお客の駆け引き次第だ。
つまり、俺自身の価値ははっきりしていないのか。でも10グラムの金は10グラムの金だ。何も変わりはしない。
俺の価値はふたつあると考えたらどうだろう。本当の価値。つまり俺が鉱山の奥深くから掘り出されたときの苦労。これは本当の俺の価値だ。
だけどそれは他の人には理解できない。鉱夫だけが知っている。そして、みんなは俺の価値をああじゃないか、こうじゃないかと想像していろんな物と交換する。
この時の俺の価値は仮の姿。いろんなところで、いろんな物と交換されながら俺の価値が証明されていく。ややこしいんで俺の仮の値打ちは価格と言っておこう。そうだ、価値と価格があるんだ。
時計1個=金10グラム:これは思惑
背広1着=金10グラム:これも思惑
時計1個=背広1着:だけどこれで交換可能
こうして時計と背広が交換されればいいのだ。そもそもどんな物も価値なんかわかりはしない。交換がくり返されて、いろいろな人の主観的な評価(価格)が平均化されればそれが結果として価値を表している。そう考えればいい。
それでは、金はただの仲介者。交換が成立すればお役ご免。ご苦労様。これでいいのか。