怠け者についてこんな小話があります。
A:遊んでばかりで、どうして働かないの?
B:何のために働くのさ?
A:働いて、お金を貯めて、将来、遊んで暮らせるようになるためじゃないか。
B:だから、今こうして遊んで暮らしているんだろ?
細かな設定はさておき、目的と手段の相互関係をつく、面白いたとえ話です。
あまりにも長い迂回路に迷い込むと、私たちは目的を見失ってしまうことがあります。「どうしてこんなことをしているんだろう?」とふと立ち止まってしまいます。手段に執着するあまり、手段が目的のように思われてくるなんてこともありがちです。時には立ち止まって、そもそもの目的を考え直してみることも必要です。
なぜそんなことが起きるのでしょうか。
前項(@)の話と矛盾するようですが、そもそも目的は見つけにくいものです。ジュースを買うためにコンビニに行くというような、具体的な場合は別として、目的の目的と追求して究極の目的を考えていくと、砂漠に流れる川のように、目的への道筋はいつしか消えて見えなくなってしまいます。
そもそも、私たちは、岸の見えない大きな湖に浮かぶ無数のボートのような存在です。岸があるかも知らされていません。どこにも基準がなく、互いに影響し合う相対的な関係でしかありません。隣のボートを押せば、その反動で自分のボートも押し返されてしまうのです。
ですから、究極の目的を追求しようとしても、ぐるぐる回っているだけで、結論にたどり着けないのです。基準がないから当然です。そのため、いつの間にか手段であったことを目的にしてしまうのです。目的探しなど適当なところで止めておくべきです。
深刻に目的や意味を考えないで、結局は楽しむしかありません。究極の目的や生きる意味が分かったと思いこんでいたら、そのときは、あなたは「超越的自己」という怪物の姿になっていることでしょう。
目的も意味もなければ、何をやっていいか分からない。無気力になってしまう。そんな気持ちになる人も多いでしょう。それが「自己という病」のはじまりです。
そういうときは、考えてばかりいないで、具体的に行動することが大切です。まずできることから、手順を踏んで、少しずつ進んでいくしかありません。そうするうちに、思いもしなかったような展開が待っていたり、体験をしたこともない感情を知ったりすることもあるでしょう。それが、生物たる証です。
それでも、やはり意味や目的を求めてしまう人は、とりあえず「必要なこと」から始めてみましょう。人間なんて思っているほど高尚な存在ではありません。洗濯とか掃除とか、とにかく具体的に行動することです。無心になって徹底的にやってみてください。そうすれば、何かが動き始めるかもしれません。
まず、一歩踏み出してみてください。