「自己という病」とはどんな病気なのでしょうか。
それはまず、自分への軽いこだわりから始まります。たとえば、どうしていいか迷うことがあれば、私たちは少し立ち止まって、自分の置かれている状況を見直します。そして、腹が決まれば行動へと移っていきます。
しかし、場合によっては立ち止まったまま動けなくなってしまうこともあります。それが長引き、こだわり続けることになってしまうと、いよいよそれは「自己という病」のはじまりです。こじらせてしまうと慢性化し、生涯この病に苦しむことになります。
山や砂漠、草原や雪原など目印や目標物のない場所で、自分の居所が分からなくなると、同じ所をグルグル回り、最後には遭難してしまうことがあります。「自己という病」にはそれと似たところがあるように思えます。
そもそも、自己は実在するものではなく、人としての「はたらき」ではないでしょうか。つまり現象です。それは自転車に例えることができます。自転車はただのスチールと合成ゴムでできた工業製品でしかありません。しかも、止まったままでは倒れてしまいます。しかし、走り続ければ倒れません。走り続けるという「はたらき」が自転車という存在をささえています。
自己もそれと似たところがあると思います。「はたらき」でしかない自己にこだわり、悩み続けるのは、在るはずのない答えを探し求めるようなものです。この簡単な理屈に気づかず、多くの人が「自己という病」にかかってしまうのだと思います。
この「自己という病」について、具体例をあげて考えてみます。
例として、知人のことから始めます。
「つまらない人生だった」。彼はそう言葉を残して亡くなりました。病気で体力も気力もなくしたうえでの弱言だったのでしょうが、なぜかいつまでも心に残ってしまいます。
どんな人生だったのだろうか。心残りになるようなことがあったのだろうか。自分はどうなのだろうか。などと次々に想いが湧きます。そして、気づきました。もしかして、「どんな人生だったか」が問題なのではなく、死を目前にそう思ってしまう「自分」がいただけではないだろうか、と。
そもそも、「つまらない人生」とか、そうでない人生とかあるのでしょうか。あるのは、時々おとづれるささやかな解放感ぐらいで、あとは無表情でやり過ごす日々のくり返しというのが、現実に近いのではないでしょうか。
むしろ問題にされるべきなのは、「つまらない人生」と感じてしまう「自己」のありようではないか、そう思われるのです。もし、そうなら、何がそう感じさせてしまうのでしょう。
いろいろなことをのり越えながら生きてきたのに、その人生を「つまらない」と感じてしまっては残念な気がします。なぜ、そのような感じ方をしてしまうのでしょう。
私たちは普段は自分を意識しないで生活しています。あれをしなければとか、何を食べようかとか、いつも自分が主人公になっています。そんなときは特に「幸せ」とか「不幸」とか感じませんし、考えもしません。
しかし、「自分はこれでいいのだろうか」とか、「自分がほんとうに望んでいるのは何か」とか、「あと何年生きられるのだろうか」とか、自分を意識するときはなぜか「重苦しい」気持になっています。そのような状態は長く続かず、たいていは目先のことに追われる自分にいつの間にか戻っています。
ところが、自分へのこだわりがメインテーマになってしまい、そんな状態から抜け出せなくなる場合もあります。やがて、周りへの関心が薄れ、奇異な行動をしてみたり、日常生活に支障がではじめます。さらに、自分自身や他の人に攻撃的になってしまい、大きな事件を起こしたりする場合もあります。どうして、こんなことになるのでしょうか。きっかけは何だったのでしょうか。
こんな体験をしたことはありませんか。小学校の頃、運動会の準備なんかで行進の練習をしていて、周りの人に歩調を合わせようとて、手の振り方と足の出し方がちぐはぐになり、つまづきそうになった。あるいは、意識しなければ自然に書けたはずのただの平仮名のひと文字が、意識したために、たとえば「ぬ」ってこれでよかったかしら、などと自信がなくなってしまった。または、巧く弾けていたはずのピアノが、左右の指の動きを意識したとたん、弾き間違えそうになった。そのような経験をしたことはありませんか。
なぜこのようなことが起きるのでしょうか。次のように考えてみました。赤ちゃんが自分の力で立って歩き始めたころは、その一歩一歩はぎこちないのですが、何度も失敗し、少しずつ歩けるようになっていきます。
このようにして、私たちは複雑な動きが自然にできるようになります。一つの行動をくり返すうちに、その行動を指示する神経回路が強化されるのでしょう。だから、自然に体が動くように感じるのです。しかし、意識したとたん、この自動操縦システムが解除されて、歩き始めた頃のようにぎこちなくなってしまうのではないでしょうか。
これと同じようなことが、「自己」についても起きてしまうことがあります。いくつか例をあげて、このことについて考えてみます。