V:「生きづらさ」について
自立と依存
home || 自己という病 | 孤立が心を蝕んでいる | 世界との付き合い方
T:真実を求めてしまう人間の癖
U:「自己」とは何かという問い
V:依存と自立の葛藤劇
W:血の繋がりはただの縁
X:やまいの季節
Y:自立と依存
はじめに

たとえば、印象派の画家、あのゴッホはなぜ自分に向けて銃弾をはなつことになったのだろうか。あの俳人の山頭火は何を求めて、破滅的な生活の道に突き進んでいったのか。自爆テロの若者は、起爆スイッチを押す瞬間に、どのようにたどりつくのだろうか。

他人だけではなく自分の命でさえ奪うとき、人には世界がどのように映っているのだろうか。とりかえしのつかないことを決めてしまう瞬間、私たちには世界が正しく見えているのだろうか。正しく見えるとはどんなことだろうか。

私たちは何を根拠に物事を決めているのだろうか。決めるとはいったいどんなことなのか。私たちはどのように存在していればいいのだろうか。

このような問いに、答えは出せなくとも、少しでも心やすらかになれればいい。そう願いながら書きはじめることにする。


ページのトップへ
T:真実を求めてしまう人間の癖
@思いこみだった人類誕生の真相

おそらく高校時代の世界史か生物の授業だったかと思う。「人類は世界の各地域でそれぞれ進化したのか、それとも世界のどこかで進化し、世界中にひろがっていったのか」そんな問いをなげかけられたことがあった。遠い日のことだ。人類の誕生について、多元説が一元説か、そんな問い方が新鮮だったから憶えていた。

その時、「一元説だなんて漫画だ」と心ひそかに思った気がする。中学の理科などの授業で、自然現象にはすべて法則があり、論理的に考えていけば必ずそれを確かめることができると信じるようになっていたから、人類の誕生にも、普遍的な法則や必然性があってしかるべきだと、思ったのだろう。

いまでは、人類はアフリカで進化し世界へひろがっていったことは、常識になっている。しかも、人類はみな、「ミトコンドリア・イブ」と称せられる一人の女性の子孫だという、そんな学説すらもある。もし、これを高校の時に知ったら、ひどく混乱したことだろう。「偶然!?」と。

Aそれぞれの命、それぞれの世界

生物はそれぞれの身体に応じた世界に生きているという。そんな関係の本を読んだ。考えればあたりまえなのだが、衝撃を受けた。evolutionに「進化」の訳語をあてたのがいけなかったのだ。

たとえば、こんなふうに考えていた。地を這う蟻には、世界が平らにしか見えていない。犬は赤色を識別できないらしい。こんなふうに、トンボ、魚、カエル、トカゲ、猫は、それぞれおのれの身体構造に見合った次元の低い世界で生きているのだ。人間でよかった、と。

しかし、「進化」ではなく、訳語に「適応」が選ばれていたら、生物たちはそれぞれの場所で、おのれの事情を精一杯生きているだけに思えてくる。人間だって例外ではないはずだ。

それでは、人間はどんな特殊性を背負っているのだろうか。特殊性そのものを生きている当人にわかるわけはない。自分の背中は見ることはできないのだから。

四角い穴から見あげた空は、四角に見える。生まれもった身体をつかって、精一杯動き回り、やっと探りあてた世界。そこで思いっきり生きられればそれで十分ではないか。そんな気になってくる。

B「客観的」という思いこみ

生まれたときは、刺激に体が「反射」するだけだが、筋力がつき、自分の意志で体を動かせるようになると、刺激に「反応」するようになる。そこに判断が入りこんでくる。筋肉が複雑な動きを憶えるにしたがい、「反応」も複雑になり、世界はその奥行きを深めていく。犬や猫でもそうして生きている。

だが、人間の場合はそれだけに終わらない。やがて、原因と結果とか、始めがあれば終わりがあるとか、勝手に理屈を世界にもちこみ、こうすればこうなる、あんなだからそうなった、などと解釈がはじまる。

便宜上のことだったはずが、やがてそれが「客観的な真実」になってしまう。アメーバー、トンボ、魚、カエル、トカゲ、犬も、この同じ世界に生きているが、人間だけがそのことを客観的に理解しているのだ、と思いこんでしまうのだ。

だが、もし人間より複雑な身体構造をもち、もっと多元的な世界に生きている存在があったとしたら、人間は「次元の低い」、ひどく「歪んだ」世界に生きているように映るだろう。

そんな存在など想像もしようもないことだ。仮に、そのような存在を神と言ってみても、人間はそれを自分と同じような存在と思いこんでしまう。神はおのれの姿に似せて人間をつくったと、信じる人たちはいまだに多い。

C意味のない探求

無限とか有限とか、時間だとか自己だとか、そんな理屈を世界にもちこんでしまったのも、人間の事情だったとしたら、想像もつかない凄い世界に住む、神より完璧な存在だっていてもおかしくないと思えてくる。こんなふうに究極まで追求してしまうのも、人間の思考にある癖なのだ。

たとえそんな疑問に答えられたとしても、それは確かめようもないことなので、そもそもそう問うこと自体が無意味なのだ。人間は人間の事情で生きていけばいい。そう生きるしか選択肢はないのだから。

しかし、そうではあっても、おのれの癖ぐらいは自覚して、分相応に生きられれば、はみ出して無駄だに苦しむことなく、限りある命を少しでも楽しむことができるにちがいない。そう信じて、この先を考えてみることする。

ページのトップへ
U:「自己」とは何かという問い
@デカルトの魅力

六十五歳をすぎて、デカルトの「方法叙説」をはじめて読んだ。そして、デカルトが好きになった。

青年デカルトは、大学を卒業すると、約束された栄達の道を捨てて旅に出た。数学以外の学問には何の価値も見いだせなかったと書いている。そんな勉学の先に待っている将来に魅力を感じられなかったのだろう。

宗教争乱のただなか、あちこちで異端審問や魔女狩りがあり、地動説を支持したガリレオは裁判にかけられるという時代だ。チェコではじまった争乱はドイツを舞台にヨーロッパ中をまきこんで三十年も続いた。

そんな時代のなかで、デカルトは徹底的に考え抜くしかなかった。旅の先々で、不思議なそして魅力的な人々に出会い、考えつづけた。そして、結論に至る。「われ思う、ゆえに我あり」だ。

このあまりにも知られたフレーズよりも、我々を惹きつけるのはそれに至る「方法的懐疑」という彼の姿勢だ。端的に言えば、「すべてを疑ってみる」という精神である。

眼前にして、どんなにリアルに見えようと、それをいったんは存在しないとみなしてしまう。それでもなお確かに存在すると言えるものは何か。そう考えてみたのだ。

その結果、考えている自分だけは疑うことができない、と気づいた。簡単には反論しずらいこの結論の力は、存在するのに存在しないと考えてみる孤独な精神の強靱さに支えられている。確かさとは、何を根拠に成り立っているのか、それを徹底的に考えている科学者の姿だ。何をも排除しない視線を求める精神の強さと優しさである。デカルトの魅力はここにある。

A謎をのこしたデカルトの「我」

それから三百五十年、私たちはこの「我」をめぐって悩み続けている。「思う我」と「存在する我」との乖離に苦しんでいる。考えている「我」は誰なのか。在るとされた「我」はどこから来て、どこへ行こうとしているのか。それに自分で答えるしかない「我」の孤独に耐えながら苦しんでいる。

デカルトとは反対に、「我」など存在しないと考えてみたらどうだろう。デカルト以来、人間と自然との関係について、多くの知見が積みあげられてきた。地動説もひろく認められ、人類が微生物を起源とする生命の歴史のなかで生まれたという仮説も、多くの人に支持されるようになっている。そして、何ごとも科学的に説明できれば、真実だと思うようになっている。

そうなら、宇宙空間にうかぶこの天体に生まれた、生物の一末裔が意識してしまう「我」とは何か。それは何に由来するのか。この問いにどう答えられるのだろうか。

B「自己」という現象

消去法で考えてみる。すべては受精卵の分裂からはじまった。そこには、「我」すなわち「自己」はまだ存在しない。存在するとすれば、その時にはたらく遺伝子によるか、それ以後の発達の過程で育つとしか考えられない。遺伝子はタンパク質の形成に関与する設計図のようなものだから、「自己」の根拠はそれに基づいて組み立てられた身体にみつけるしかない。

その身体の特徴と言えば、大脳皮質が異常に大きいことだ。胎児のころからの人の特徴だ。そのために、難産が避けられなくなった人類は、早産の道を選ぶしかなかった。

そうすると、未熟なままで生まれることになるので、だれかに頼らなければならない。一人で生きていくためには、あまりにも早く生まれすぎたのである。

しかし、未熟に生まれることは、多くの可能性を残すことでもある。ほとんど昼夜付きっきりの保育によって、乳児は多くのことを身につけ、その可能性をかたちにしていく。「自己」の基本的な部分はこの過程で形成されると考えるしかない。それはどんなふうにか。

新生児の活動は反射運動によって支えられている。その中心は母親の乳房に吸い付き、母乳を吸引することだ。乳房が世界であり、吸引しているのが「自己」のすべてである。世界を感受し、それに関わろうとする人間存在の基本形がすでにここにある。

やがて、反射による身体活動が減り、外部の刺激に反応して自分から身体の一部を動かす様子が現れてくる。感覚と活動のあいだをむすぶ何かが確かに形成されている証拠である。それこそ「自己」というしかない。つまり、「自己」とは機能なのだ。実体ではなく、世界を感受してそれに関わろうとする機能であり、その機能がはたらく現象にすぎないのである。

ページのトップへ
V:依存と自立の葛藤劇
@放り出された世界で

ひとつの状態でしかない「自己」が、確かに存在するように感じられてしまうのは、母子という関係の確かさにささえられているからではないか。そうでなければ、胎児も乳児も生存できない。それが「ほ乳類」だ。この段階では、「自己」とは母子の関係でしかない。

この関係が物理的に切り離されるのは、へその緒が切れるときである。しかし、心的には母子一体の状態はつづいている。羊水に浮かびながら聴いた母親の心音も、暖かい乳房の奥にまだ響いている。

胎児のころと決定的に違うのは、自分で呼吸をして、自分から関わっていかなければ、放り出されてしまったこの世界では生きていけないことだ。生きようとしなければ生きられない。自立への歩みはすでに始まっているのである。

しかし、過酷なこの最初の試練には、いっときの猶予があたえられている。新生児の両脇を抱きかかえたまま上体をささえて、足の裏を床につけて立たせると、足を前後に動かして歩く仕草をみせるという。そして、しばらくすると消えてしまうことが知られている。この反射現象の期間は、新生児にとっては、新しく対面することになった世界と向きあうまでの猶予期間ということだろう。

眠気、渇き、空腹、排泄、乾燥、発汗、かゆみ、痛み、暑い、寒い。次々とやってくる生理的な不全感。赤ん坊はだれに向かって泣いているのだろうか。そこには、どんなメカニズムがはたらいて、泣くという行為が成り立っているのだろうか。いずれにしても、泣けば、晴れわたるような解放感がおとずれ、やわらかい満足感にくるまれる。そしてまた泣く。そのはてしないくり返し。

A共有される世界

霊長類の眼と手には、枝から枝へと渡ったていた樹上生活時代のなごりがあるという。ひとつは、しっかりと枝を握れるように、親指と他の四本が向きあう構造になっているとこと。もうひとつは、枝にピントを合わせて、それを握りそこねないようにと、ふたつの眼が顔前に並んで配置されていること。労働と言語という人類の二大特色をささえる身体構造だ。

これが、乳児の成長にも大きく作用したはずだ。まず、眼である。乳房に頬を押しあてて見あげる母親の表情は、乳児にとって何だろう。泣き叫べば、必ず近寄ってきてくるなにか。不快の嵐のなかでおとずれる穏やかなまなざし。眼は、手は、肌は全身でそれを確かめ、快・不快のかたまりでしかなかった存在が感情となって、ひとつの対象に向けられる。

こうして芽生えた「自己」は、自分で体を動かすことを憶えていく。指をしゃぶる、手足を動かす、頭をあげる、ものを握る、支えられて座る、はう・・・ 身体能力を身につけていくにしたがい、世界はひろがりを見せていく。その姿は、まるで自分と世界との関係を試しながら、探索しているかのようである。

やがて、発見する。世界を見ている「自己」と、同じ世界を見ている母親の存在を。それは、眠りから覚めて眺める世界のようにぼんやりと現れ、静かな気づきとしておとずれる。そのときから、赤ちゃんは見ようとして世界を見はじめ、見ている自分をはっきりと感じるようになる。「自己」の誕生である。

B自立のはじまり

なんでもいじる。なめ回す。ひとりで声を出している。それを、危ない、汚い、退屈と感じていたのだろうか。若き父親のころの自分が残念でならない。乳児にとっては、その一つひとつが新鮮な発見であったり、成長の一歩一歩だったというのに。はっきり憶えていない。

父親にとっては仕事に近かった育児も、母親には、日々変化する二人の関係である。離れようとする母親を目で追うようになり、見えなくなった姿を探して声を出して泣く。やがて、這いながらあとを追ってくる。

そして、一人で遊んでいるのに気づく日がやってくる。そのうしろ姿は芸術家のように孤高だったり、その眼差しは科学者のように無心だったりする。二度とおとずれることのない時間である。乳児は、自分なりに世界を理解し、組み立てはじめているのだ。

空間とか時間だとか、原因と結果の因果関係とか、悟性と呼ばれている認識能力は、このころにその基本ができあがる。もはや世界は自分との関係として立ち現れ、「自己」は独り立ちをはじめているのだ。

母親との関係にもはっきりそれがあらわれてくる。母親は、自分と一体の存在ではなく、自分にはたらきかけてきたり、はたらきかける対象となるのだ。母子分離の始まりである。

C分離して現れる「自己」

意識して相手にはたらきかけるということは、ひとつの表現であり、演技である。相手をイメージして、それに向かって身体をつかって投げかける。何が届いて、どう受けとめられたのか。演じながらそれを探る。意識はほとんど相手にいってしまっている。そして反応を待っている。

コミュニケーションは、自己承認の欲求から生みだされているのかもしれない。乳幼児は、母子一体の世界から分離して生じた亀裂を埋めようとしているかのようだ。

もし、承認の反応がなかったらどうなるだろう。不安はひろがる。演じなおしてみる。無視されたら、どうなる。返ってきたのが怒りだったら・・・ 関わることは冒険だ。ましてやその対象が、世界そのものにひとしい存在だったとしたら、誕生したばかりの「自己」は世界を見失ってしまうだろう。

だが、そうでなくて、返ってくるのが、優しい微笑みや喜びの笑顔だったり、感動の抱擁だったりしたら、それは俳優誕生の瞬間である。愛が存在肯定だというのはそんな意味なのだろう。こうして「自己」はしっかりと自立の道を歩みはじめることができるのだ。

しかし、ほんとうは逆だ。はじめは、俳優は母親であり、乳幼児は観客なのだ。模倣の天才である乳幼児は、演技する母親を真似ているだけである。最近の脳科学は、人が真似をするときに反応する部分を脳のなかに見つけている。真似ながら確かめ、乳幼児は名優に成長していくのだ。

真似ながら演じ、承認を確かめて、演じ返す。そのくり返しによって、相手のイメージと自分の役が決まっていく。そして、できあがるのがパーソナリティーだ。

パーソナリティーとは仮面のことだ。古代ギリシアの演劇でかぶられた仮面のことをペルソナと言ったが、それがパーソナリティーの語源だ。このことの意味は限りなく深い。

ページのトップへ
W:血の繋がりはただの縁
@関係のなかの「自己」

「マ」と発音するときの口の形は、乳首をくわえようとしたときとおなじ形をしている。母親や食べ物を表す幼児語には「m」音ではじまる単語が多い。これは世界共通らしい。

幼児によってその順序は異なるようだが、前後しておなじころ、独り立ちして歩いたり、言葉を話すようになる。 

立って歩くようになってからだと思う。「いないないばー」遊びに笑いころげ、何度もつきあわせられる時期がある。相手が突然現れるのが面白いのだろうか。相手から発見される瞬間のスリルを楽しんでいるのだろうか。

幼児のこころの中はわからないが、幼児が夢中になるこの遊びは、自己と他者との関係について質的な変化が起きているしるしである。相手から見られている自分を意識し始めているのだ。それは「自己」を相手との関係において認識できるようになった証拠なのだ。

Aはじまる仮面劇

母親がいなくても、幼児が父親と平穏にすごせるようになるのはいつごろからだろうか。早くから保育園にあずけられる場合もあるのだから、それは父親というより、母親以外の養育者ということになる。

母親に育てられない場合もあるから、母親のことを「第一養育者」、だから、多くの場合父親は「第二養育者」と考えればいい。ここでは、便宜上、母親、父親と言うことにする。

幼児は母親との関係を基礎に、父親とも安定した関係をきづきあげていく。しかし、その関係は明らかに母親とのそれとは異なる。幼児が、母親のイメージにもとづき自分の役をつくったように、父親とのあいだにも、別のイメージと役を見いだしていくが、基本となるのは、母親との関係である。

その母親との関係も、いつも同じで、安定しているとはかぎらない。幼児や母親の気分でそれはいくらでも変わりうるが、母親のイメージが安定していれば、それに対する幼児の役も安定する。だから幼児は安心できる。

母親と父親は別人だ。だから、そのイメージも異なり、それに対応して演じられる幼児の役もその都度ちがってくる。しかし、演じているのは幼児自身である。同一人物なのだ。このことをどう考えればいいのだろうか。

B人はみな多重人格

「同性カップルの結婚は神の教えに背く」日本ではそんな言い方はしないが、それが生殖を基本とする家族の本質に反することだと、感じる人は多いだろう。しかし、これは、結婚という制度と自己決定権の問題なのだから、これをもって人類の絶滅を案ずるのはポイントがずれている。

気になるのは、人の精神形成を父母との関係において説明するフロイトの理論だ。同性カップルの場合、養子ということになるのだが、子どもにとっては父母にかわりはない。

フロイトの場合、口唇期・男根期・肛門期とか、去勢コンプレックスなどと、性的な問題と結びつけて、こころの世界を説明することが多い。二人とも同性の、性転換を行わないカップルが父母だしたら、このことはどうなるのだろう。

あげあしをとりたいのではない。フロイトの精神分析における性的な表現は、やはり比喩だと、言いたいだけだ。

つまりこういうことだ。口唇期とは、乳児期における母子関係の世界。男根期は、母子関係に父親が加わる家族の世界。そして、排便トレーニングが課題となる肛門期は、社会な関係の世界。乳幼児は、それぞれの段階を経て精神発達をとげるのだということを、性を本質とする家族の関係を軸に、フロイトは説明したのである。

さらに、母親を第一養育者、父親を第二養育者、社会的な人間関係を第三・・・N養育者との関係とすると、それぞれにイメージがあるのだから、それぞれに対応して役(=人格)が生じるのである。つまり、人間はだれでも多くの人格をもつ多重人格者だということである。

C多重人格に横軸をとおす

比喩的に「二重人格だ」とはよく言うが、多重人格となると病だ。「解離性同一性人格障害」などという病名もある。つまり、多くできてしまった人格に、本人が同一性を見いだせなくなり、それぞれ別人のようにふるまってしまうのだ。自分が別人格としてふるまっていたことにまったく記憶がないのである。

相手によって態度を変えるという意味での多重人格には、それを束ねる意識がはっきりしている。焼き鳥の串、鵜匠が握る綱、ハブ空港、車輪の軸のイメージである。この束ねる軸となるのが、「自我」と言われているものである。束ねられなくなれば、自我は崩壊する。

こうして、「自己」が成立する。だから、それは対人関係を離れてありえない。相手があり、相手のイメージができ、それに対する役があり、多くの役を束ねる自我がはたらく。これをまとめて「自己」としているのである。この形は、新生児期における母子一体の関係を基礎に形成されるのは、これまでみてきたとおりである。

「自己」は、脳とか心臓とか、体のどこかにあるのではない。それは人間関係によって生じる状態でしかないのだ。体のどこでそれを感じているかと問われれば、生きようとする生命力とでも言うしかない。現実との緊張関係である。

D母子分離の失敗とは

それでは、自我の確立に失敗するのはどんなときだろう。それば、母子一体の世界において、母親の安定したイメージとそれに基づく役=人格がうまく形成されなかった場合である。愛されているという自己肯定感を体験できず、人格(役割)と自我(軸)との間に安定した関係が成立しなかったのである。

母親が気分次第で乳児に感情的に接していた、虐待された、無視された、強い干渉を受けて育った等々で、自己肯定感や、安心と安らぎを感じる体験をもちずらかった場合などが考えられる。

そのため、第二養育者である父親とも安定した関係ができない。たとえ、できたとしても、安定した自我の裏付けがなく、その先に第三者・・・と人間関係をひろげていくことができないのである。

つまり、故郷への愛着がもてないまま故郷を出ても、彼は旅人にはなれず、ただ生涯をさ迷い続けることになるだけなのだ。母子分離の失敗とは、そういうことである。まさに、自立の失敗である。

この母子分離の失敗が、こころの病となって深刻な事態をもたらすのは、思春期になってからである。それはなぜだろうか。

ページのトップへ
X:やまいの季節
@十二歳の大人?

朝の小学校、校門前、先生たちが登校してくる児童らに声をかけている。元気な声、ハイタッチの笑顔もある。よく見みると、年季のはいった赤いランドセルを背負っているのは、上級生だ。六年生らしき女子児童が、先生たちに混じって下級生たちを出迎えているのだ。女の先生と間違えそうだ。

小学生の授業風景などをテレビで視たりすると、その真剣な表情は、男子児童でもすでに大人の風格を感じさせることがある。十二歳の大人。子どもとしての完成期である。

しかし、中学一年生になると、実に子どもっぽくて、危なっかしい。ダブダブの学生服のせいだけでない。落ち着きがない。自信なげなのに、妙にとんがっている。

これが、六年後、高校三年生にもなると、男子の顎にはひげなどもあったりして、大人の男の匂いをぷんぷんさせている。これはいったいどういうことだろう。この六年間に何があるのだろうか。

A「若者組」という風習

十二歳ころまでは、草や木のようにすくすく一本調子にのびる。そのさまは素直と言っていい。ところが、それを過ぎると、成長の仕方に癖のようなものがでてくる。勢い余って折れてしまいそうだったり、バランスを失って転びそうだったりと、実に危なっかしい。とにかくエネルギーが過剰なのである。

性的な成熟期をむかえているためだろう。草木ものびる春夏をすぎれば、いっせいに花を咲かせ、実りの秋がめぐってくる。人間も例外ではない。ただ、この「小さな大人」にとってそれは初めてのことで、戸惑うばかりなのだ。

かつて、そんな若者が一緒に暮らす「若者組」という風習があった。先輩らの下で、酒を飲んだり夜這いをしたりと、いろいろな体験をつんで、その間に伴侶もみつけ、大人になる準備をするのである。これは一種の通過儀礼で、それを体験しなければ、地域では一人前の男として扱ってもらえなかった。(女子の若者組の例もあるそうだ)

明治になって、それは悪習とみなされ、青年団に改組され、高度経済成長とともにすたれてしまった。そして、若者たちは、学校教育の塀に囲いこまれてしまったのだ。

B待機期間としての思春期

学校教育が、大人への通過儀礼として編成されるようになって、十代という人生の季節は、待機期間のようになってしまった。そして、若者は社会の管理下におかれ、大人になるための試練は制度によって秩序化され、色恋や冒険は、「非行」として禁じられるか、ドラマやゲームのなかに閉じ込められてしまったかのようである。(実は、したたかな奴らも結構いたりもするが・・・)

「ワクワクしない勉強だけど、

 やり直し利かない人生だから、

 高いキャリアめざして、とにかく頑張ろう。

 見えてしまっている未来だけど、

 それも人生、ゲームだと思えば、

 意外とこれも楽しめる。

 克己復礼、奮励努力だなんて、

 カッコわるいけれど、

 きっといつかは勝って、

 笑ってやろう、キリギリス」

こんな校歌は聴いたことはないが、お似合いの中学校や高校はきっと多いだろう。実際、中学・高校の六年間で学ぶことは、実生活から遊離した、ほんとうに必要なのだろうかと思いたくなるような、抽象的な内容の教養科目ばかりである。一部の若者を除いて、普通は、よっぽどひねくれた動機でもなければ、耐えられないようなモラトリアムの時間がつづく。

しかも、それが性に目覚める思春期にあったており、長く退屈な待機期間となっているのである。このことが、こころの病の温床となっても不思議ではない。

C孤立しやすい現代社会

精神疾患は思春期にはじまることが多いという。なぜだろう。フロイトも言うように、その原因が幼少期の体験や抑圧され性と関係しているとは思うが、古代ギリシアのどろどろとした悲劇を持ちだすようなことではない気がする。

思春期になって精神に変調をきたしやすいのは、自立という課題が、若者にとってあまりにも大きな負担になっているからだ。職業選択と結婚のことである。

現代社会では、職業も結婚もすべて個人の意志で決められることになっている。これは憲法にすら書かれている大原則。つまり、自己責任ということだ。

就職や結婚には、本人の適性・能力・人間性など人間個人の総合的な力量が問われることが多い。これが巧くいかなければ、自分の存在価値すら否定されているような気持ちになってしまう。しかも、それが時々の経済状況や出身によって影響を受けてしまうのである。自己責任では厳しすぎる現実である。

このような過酷な課題を、二十代・三十代にはクリアーしなければならない。十代はその貴重な準備期間ということになる。そのストレスを考えると、人によっては神経的にまいってしまっても、おかしくはない。

ページのトップへ
Y:自立と依存
@母子分離の成否が利いてくる

思春期になると、性的な成熟期をむかえて、自立がさし迫ったテーマになってくる。人と関わることを、内からも外からも促されるのだ。しかし、安定した人間関係を構築できるまでに自我が準備されていなければ、それは難しい課題となってしまう。自立したいが、できない自分があらわになってしまうのである。危機はたとえばこんなふうに簡単にやってくる。

男女の関係だ。定員は二人と決まっている。選別されて、過剰人員は残酷にはじき出されたりもする。無防備な自己は、対象を失ってうろたえる。自己がむきだしになる。想像だけでも、それは同じことだ。人知れず、劣等感にさいなまれ、孤立感を深めていく。多くが体験することである。

ここで行方を決めるのが、幼いころの母子分離の体験である。それに失敗し、安定した自我ができていなければ、いっそう孤立感は深まり、自らその道を進むようになる。やがてそれは疎外感へと転化する。影響は生活全般におよび、病へと進行していく。

充実した人間関係がもてず、他者不在の孤立した状態がつづいていく。砂嵐のテレビ画面のように世界は像を結ばず、ドラマはじまらない。出番のない自我は焦るばかりだ。そのような「自己」は、閉じこもってしまうか、何かを探して、さ迷いつづけるしかない。

「故郷」をもたない永遠の「さ迷い人」は、充実した生の手応えを体験することなく生涯を終えてしまうことになる。

こころを病まなければ、体を壊す。健康のためには、生き生きとした人間関係が不可欠だ。よく指摘されることだが、それはこういうことなのだろう。

A依存症の人生

関わる相手もなく、棲むべき世界もなくしてしまったら、どう生きればいいのだろうか。

世の中にあわせて生きていく人もいるだろう。手応えのない人生になるが、破滅的な事態は避けられる。「寂しく、退屈な人生」である。結果としてそう生きてしまう人は多い。気づかなければ、それはそれで「平穏な人生」でもある。

ときには、殺人にまでいたることもあるが、身近なだれかを選んで、無理やり「大切な人」にしてしまうケースもよくある。避けられればどこまでも追いかけ、嫌われれば暴力さえ辞さない。相手が諦めたり我慢したりしただけなのに、本人はそれと気づかず人生をおくってしまうことも多い。虚しく、惨いことだ。

寂しい自分を忘れたり慰めたりする道もある。コントロールできればいいが、薬物、アルコール、浪費、ギャンブル等々、一度陥ってしまえば、破滅的な道へは紙一重と近い。人間の脳はそういう仕組みになっているのだ。

依存症とは、関わる対象を見いだせないでいる「自我」が、架空の対象に向けてつくりあげる人格の病だ。そこには、自分を肯定して止まない絶対者があらわれる。その関係はあまりにも甘味なので、一度体験すれば、そこから抜けでることはきわめて難しい。

なぜ、人は依存するのか。それは、誰もが人生の原初に体験する、愛という存在肯定のかたちに似ているからである。

B個体的自己と相関的自己

「自己」とは、だれかに依存しなければ生存すらできない新生児と、第一養育者(母親)との間に生じた状態からはじまる。それは、名づけることも自覚することもできない「意識」そのものであった。

やがて、命綱でもある第一養育者の存在を意識すると同時に、そう意識している「自己」に気づく。世界に目覚める瞬間がやってくる。個体的自己の誕生である。

第一養育者との豊かな関係がひろがっていくと、そこに第二養育者(父親)が加わり、関係は複雑になってくる。気づかぬうちに演技することをおぼえる。状況や相手によって、役を切り替えて対応している自分(相関的自己)がいる。

演技する相手がつぎつぎに増えて、演じる役も増えていくが、演じている自分は確かに同じ自分だ。この感覚が自我だ。大変だけれど、大丈夫。混乱はしない。慣れればこれもけっこう面白い。安定した自我が育っていく。

こんなふうにいかない人生もある。

C超越的自己

関わりの対象をもたない「自己」。眼前にする世界が存在しないと感じている「自己」。デカルトが発見した「我」と似ていないだろうか。デカルトが依存症に苦しんだとは聞かないが、近代の入り口で「発見」された「自己」とそっくりの「自己」が、いまでは、世の中にあふれている。

「死んでしまったら、どうなるのだろう」と考えている「自己」。これはだれもが体験する「自己」だ。この、人と人との関係から遊離した超越的な自己とは、いったい何だろう。

乳幼児は、自分の体を自由に動かせるようになると、周りの世界を自分との関係として理解しはじめた。やがて、類似、因果関係などと抽象度を高めながら、世界はひろがりを見せていった。

そこに、視点の転換がおきる。他の人も同じ世界を見ていることを知るのだ。自分から放射状に放つ視線ではなく、外からやってくる視線。それは、だれのものではない、超越的な視線だ。それを神の視線といってもいい。永遠、形而上的、絶対的、超越的な存在ならなんと呼んでもいい。

実は、この視線は、特別なものではないのだ。人間の思考の癖といってもいい。そのおかげで、人間は言語などという厄介なものを持ってしまったのである。

しかし、気をつけなければならない。これは、砂漠の蜃気楼のように、人を欺すことがあるのだ。人との関わりを見失い、道に迷った人に、永遠だとか、宇宙の果てだとか、そんなものを、いとも簡単に見せてしまうのだ。

一度、これに欺されると、人は周りが見えなくなり、絶対者のように振るまいはじめる。人はだれもそんな超越的自己を秘めているのだが、日々の暮らしのささやかな歓びを大切にして、怪獣が目覚めないように、そっと寝かしているのだろう。       


ページのトップへ | home