ファッションの世界では流行する色が毎年変わります。流行色はパリのファッション界で決められるのだそうです。だれがどうやって決めるのでしょう。なぜそれが世界中の流行になるのでしょう。
18世紀イギリスではインドの綿織物が流行しました。それがきっかけで産業革命おきました。流行は最高のビジネスチャンスです。流行ってなんでしょう。
古い時代では宮廷や貴族社会の流行が記録されています。それが少しずつ大衆にもひろがり新しい文化として定着した例は多くあります。
宮廷や貴族社会での流行では需要は限られています。古代ローマ帝国のように大量の消費者階級を生みだした例もありますがそれは例外的です。
一方、近現代の流行は市民・大衆という莫大な消費者階級を生みだしました。彼らは、命をつなぐための支出以外に生活を楽しむという選択権を手にしたのです。
かさを支える経済力の目安として可処分所得という概念があります。「何につかってもいい」所得という意味です。所得から生活に不可欠の支出を差し引いた額です。
近現代の歴史はこの可処分所得をもった中流階級の人びとが世界中で拡大し続ける歴史でした。
このような変化がなぜヨーロッパからおきたのでしょう。
イベリア半島から東南アジアまでの広範な地域をネットワークで結んだイスラム商人はユーラシア規模で文化交流をすすめました。
中国の製紙技術、火薬や羅針盤や活版印刷術、インドの綿織物、砂糖やコーヒーなどの生活用品。アラビア数字や化学や医学。さまざまな文化が各地に伝えられました。
キリスト教の世界に閉じこめられていたヨーロッパの人びともイベリア半島やシチリア島でこれらの知識や文物に触れ、多くのことを吸収しました。
十字軍での敗北、モンゴル帝国の征服と12世紀から14世紀にかけて、ヨーロッパの人びとははじめてヨーロッパ以外の世界に関心を持つようになります。
さらに、14世紀に襲ったペストの大流行で人口の三分の一が失われる体験をしたヨーロッパでは、死後の世界での救済より生きているうちに人生を楽しもうとする風潮が強まってきました。
こうした時流に乗って商人たちはイスラム商人とのビジネスに奔走したのです。
12世紀から始まっていたこのような変化が、15世紀から16世紀にかけてのヨーロッパの大変動につながっていきました。
これまではヨーロッパ世界でおきるすべての出来事を関連づけ、それに意味を与えてきたのはカトリック教会でした。
しかし、人びとはそれだけでは満足できなくなり、新しい世界観を求めていました。
封建社会の崩壊、新航路の発見、ルネサンス、宗教改革。これらの歴史的な変化のひとつひとつは新しい世界観を求めた人びとの一つの回答でした。
ヨーロッパ中が大きな変化のうねりのなかにあったとき、イギリスでは庶民までもまきこんだビジネス熱が蔓延していました。
小商いをする者、雑貨をつくって売る者。莫大な利益を夢見て大航海にのりだしていく者、怪しげな商人に出資して高配当を期待する者。羊を飼うために農民を農場から追いだす地主。
エリザベス女王すら海賊の頭目に出資して大きな利益を出していました。
スコットランドの貧しい漁村の青年は遠い国に憧れて船に乗りますが、やがて船長の反感をかってに無人島に置き去りにされました。この青年の実話が「ロビンソン・クルーソー」の物語として世界に紹介されました。
ビジネス熱が吹き荒れていたころ、儲けをあてこんで紹介されたのがお茶であり、砂糖であり、陶磁器であり、綿織物でした。
中国やインドやイスラムから招来したこれらの商品が、小金を貯め込んだ庶民に急速に浸透していきました。
これらの新しい商品は当時のイギリス社会のちょっとしたステータスとして、まず中流以上の人びとのあいだにひろがりました。
砂糖をいっぱい入れた紅茶が産業革命期の貧しい労働者の空腹をごまかすための飲み物になるには、それほど多くの年月を必要としませんでした。
イギリスでなぜこのような変化が起きたのでしょうか。産業革命のころのイギリス様子から考えてみます。