親族を強く意識するのは、今では結婚式とお葬式の時くらいです。それ以外にお正月やお盆と法事というのもあります。そんな時しか、遠く離れた家族や親戚に会う機会はありません。家族って、これからどうなっていくのでしょう。
男女の二人の関係の世界であった性的な関係について宗教や社会がさまざまな干渉をした理由のひとつは身分社会を維持することにありました。
一対の男女の関係を正当な関係と認定し、その子孫に財産を相続させる仕組みは、人間が土地に縛り付けられていた身分社会では重要な役割を果たしてきました。
人の生殖活動を社会と結びつけてきた家族制度は、近代化の過程で個人の自由という問題と全面衝突しました。
農業が中心産業の地位を失うに従い、個人の自由の方が勝利し、現在では家族は一対の男女を基本とする核家族を主流とするところまできました。
しかし、現在、一対の男女が家族を維持することがさまざまな局面で負担になりつつあります。育児放棄、幼児虐待、育児不安、引きこもり、介護などさまざまな問題が家族をめぐって噴出しています。家族内での殺人事件も最近は増加傾向にあります。
そのような中、育児・教育・扶養・介護などは可能な限り社会的な連帯や協力によって支えていこうとする傾向が顕著になってきています。核家族だけではこれらの課題は支えられないという認識は共有されつつあるからです。
しかし、生殖・出産・乳児の保育は一対の男女の課題でありつづけています。そしてそれは人が人として形成される時期と重なっている課題でもあります。
一人の女性に頼らないで、社会的に必要な人口は社会が計画的に「生む」ようになる時代は到来するのでしょうか。
優れた遺伝子をもつ卵子と精子を保存し、計画的にそれらを受精させて、試験管と人工胎盤で充分に生育させて、「出産」させるのです。これにより、女性の負担や母子の危険が軽減されるはずです。
胎内での母親との一体感を体験せず、出産後の母子との結びつきが薄く育った人間は、その間に受けるストレスも少ないため、精神的な問題を抱えることも可能性も低くなるはずです。性格的な違いも少なくなるので人間関係もトラブルが少なくてすむかも知れません。
その結果人間関係に関する感受性がまったく異なった「新人類」が誕生するかも知れません。
しかし、人間の計画的な生産を可能にする社会にも弱点はあります。
まず、人間を人工的に生産するシステムが何かの原因で機能しなくなった時、人類は絶滅するかも知れません。遺伝子の多様性も減少しますから、同じ感染症に高い確率で犠牲者が出ることでしょう。自然淘汰力も減退するでしょう。同じ性格の人間ばかりの社会では、違いを乗り越えて相手を理解したり、問題を解決する能力は低くなるはずです。
「合理的」に「人工的」に問題を解決していくと、より深刻な「不合理」に行き着くようです。
人間の力では予知できないような変化には「雑種」が強い適応力を見せることになります。文化的にも生物学的にも多様な適応力をもつ要素がストックされるのです。こう考えると、家族とは種としての人間の「雑種性」を保存するシステムのような気がします。
他人同士で集まって住む人たちが増えています。気の合う人同士で助け合って生活する形はこれからも拡大していくことでしょう。
相続や社会保障と戸籍の結びつきがなくなれば、子どもを産む人間関係(家族)と生活を共にする人間関係(世帯)は別なことになっていくに違いありません。
今は過渡期です。