ハイスクール1968 
四方田犬彦著
新潮社 2004 255p.
ISBN4-10-367104-1 \1600(税別)
■はじめに■
著者四方田犬彦氏は1953年生まれで、私と同い年。私は早生まれなので、ひょっとして学年が1つ違うのかと思ったら、学齢も同じでした。違いは、四方田氏が東京教育大学農学部附属駒場高等学校という受験校として有名な高校に在籍していたのに対し、私は都立高校。でもまあ、東京都という都心部にある高等学校で、その設置母胎が国か東京都かの違いはあるものの、1968年4月から1971年3月までの高校時代(共通しています)、それに本書では著者が浪人した(失礼!)1971年4月から1972年3月までの期間を対象に、もろもろ書いているわけです。私が本書を読もうと思った最大の動機は、実は自分の高校時代をきちんとまとめきれないできましたし、そのことが気にかかっていたからでもありました(うーん、ちょっと抽象的で意味がわかりにくいかもしれませんけれど)。目次をご覧ください。

■目次■


第1章 1968.4 7-30
第2章 1968.7−12 31-68
第3章 1969.1−7 69-106
第4章 1969.5−11 107-140
第5章 1969.12.8−1970.1 141-182
第6章 1970.2−1971.3 183-220
第7章 1971.4−1972.3 221-246
エピローグ 十八歳と五十歳の四方田犬彦の対話 247-252
あとがき 254-255

■内容■

著者あるいは私が高校に入学した1968年という年は、いまから振り返ると、それは大きなできごとが世界中で起きていました。本書でも触れられていますが、1月にハノイへの北爆が開始されました(ヴェトナム戦争ですよ、念のため)。パレスチナではアラファトが抵抗運動を組織化しました。5月、パリ大学では反ドゴール運動が開始。ドゴールは退陣に追い込まれていきました。一方、アメリカではキング牧師暗殺を契機に黒人運動が展開。そして本書には触れられていないようですが、チェコ事件というのもありました。民主化運動が盛り上がった旧チェコスロヴァキアに、危機感を抱いた旧ソ連が侵攻したというものです。日本でも、学生運動が盛んな時期でした。アメリカの原子力潜水艦が日本に寄港したりしていましたし、イタイイタイ病などの公害問題も深刻でした。いろいろな矛盾が噴出していた時期だといえるのです。

そんな1968年に、著者はすでに相当難しい数学の問題が解けたようです。著者にとって、この時期の新しい分野との出会いとしては、現代詩(短期間)、ビートルズ、映画や漫画への関心。第1章から第2章にかけて描かれています。1969年になると、マイルス体験を経てジャズの世界に入り、仲間と高校の図書室にたむろし、悪魔主義の書物やジョルジュ・バタイユの書物などを読んでいるのだから、スゴイ。そして寺山修司に共感を覚え、さらに再び現代詩に関心を寄せ始め、ついに詩の同人誌を出すにいたりました。このあたりは第3章と第4章を参照のこと。ちなみに本書では、著者の友人の名前は実名で続々と出てきます。いまや有名人という人も含まれていますから、そうした興味がそそられるという方は実際に一読なさることをおすすめします。ちょっと脇道にそれてしまいましたね。

1969年は高校、特に都市部の高校にとっては卒業式闘争やバリケード封鎖が相次ぎました。こんな記述が見出せました。

都立高校に限っていうならば、1969年とは学校群制度が導入されて最初に入学した生徒たちが三年を迎えた時期に相当している。それは日毎に加熱してゆく受験戦争に歯止めをかけようとして採用された政策で、都立高どうしの学力格差を均等化し、従来のように特定の都立高校が有名エリート高校として屹立するという現象を緩和させようという目的で実施された。だが現実には、この政策はいたるところで齟齬をきたした。元有名高と同じ学校群に参入した普通高では、教師たちはひどく緊張して受験熱を煽り、生徒はいっそうの抑圧を抱えこむばかりだった。一方、元有名高では、旧制中学時代の延長線上に平然と授業をする教師たちと、新しく入学してきた生徒たちとの間には、意思の疎通が成立せずここでも学力低下を防止せんとする理由から、受験体制の強化が行なわれることになった。
(中略)
高校紛争が絶頂を迎えた1969年とは、東京都の高校進学率がはじめて90%を越えた翌年に相当している。1950年には全国で40%をわずかに越える程度であった高校進学率は、60年代の高度成長の波に乗って留まるところを知らずに上昇し、社会のなかにおける高校の意味に大きな変動を与えようとしていた。(179-180ページ)


私が在籍していた高校は、東京でさいしょに卒業式闘争が起こり、機動隊が学内に入り、バリケード封鎖なども経験しました。四方田氏は

ながながと高校紛争の沿革について語ってきたが、日本の教育史のなかでもほとんど言及されることのない一連の事件のことなので、お許しいただきたいと思う

と述べています(151ページ)。たしかにそうに違いない。これが団塊の世代ともなると、大学闘争の勇士だった人たちが大勢いて、著者は

わたしは自分より数年年長の、いわゆる「団塊の世代」のなかに、1969年1月の神田解放区の栄光の思い出を高らかに語ったり、デモで逮捕された後の拘置所体験を自慢そうに回想したりする人物に、それこそうんざりするほど出会ってきた。(中略)。これではわたしの父親の世代が戦後に復員してきて、旧軍の栄光や同志愛の物語を自慢そうに披露するのとどこが異なっているのだろう。そう考え出すと、わたしは日本人のメンタリティなるものが戦中戦後を通していささかも変化していないのではないかという、暗澹たる思いに駆られてくるのだった。
(中略)。
わたしは自分がいささかでも遅れてきた世代であることを、幸運に思った


とも述べているのです。これも確かに一理あって、理解できるのです。かといって、もっと遅れて生まれてきたかったかというと、私はきっぱりとそうではないと言えます。政治の季節に高校時代を送りながら、そこにのめり込んでいったわけでもなく、少々距離を置きながらも完全に無関心を決め込めなかったのが私にとっての高校時代ということになると思います。さて、著者の高校時代の生きざまに戻ると、1969年秋の文化祭で駒場高校でも「バリケード封鎖」なるものが一瞬(といっては失礼かもしれませんが)あったことがわかります。しかし、私がいた高校のそれとも異なるのです。というのも、バリケード封鎖を実施したその日、著者は一度自宅に戻り、たくさんのおにぎりを鞄に詰めて高校に戻ったのだそうです。もちろん、籠城を覚悟し腹が減っては戦にならないと考えたからにほかなりません。しかし、学校へ戻ってみると、何ごともなかったかのように部屋は整然と整えられ、誰もいなかったというのです。つまり、自主的にバリ封(← バリケード封鎖のことを、こう略して呼びました)を解いて帰ってしまったという、なんとも腰抜けな話が披瀝されています。私は、本書でこの箇所が一番嫌いな部分です。私の高校には、他の高校のメンバーも含めてバリケード封鎖にやってきたらしく、教室を占拠して、「事件」の直後にセクトとは関係のない私や友人がその部屋に入り、議論してきたなどという経験をもつものですから、こうしたヤワな(無責任なといってもいい)やり方にはどうも嫌気がさしてしまうのですね。

1970年。日本は大阪万博で賑わう一方で70年安保闘争というのもありました。そう、ビートルズが解散したのもこの年だといいます。そして、忘れられないのが三島由紀夫が市谷の自衛隊基地に行き、演説をぶったあと、割腹自殺するという事件を起こしたことです。著者は、この日のことを

一瞬にして東京という巨大な都市のまさに中心が、ネクロポリス、すなわち死体を安置する墓地と化してしまった日であった。同時にそれは、一度しか演じられることのないスペクタクルの日でもあった。

と書いている。うまいことを書くものです。著者は1年浪人して東京大学に入学します。高校時代からのもろもろの文化との出会いを総括して、

もう遊びの時間は終わったのだと、わたしの耳元で誰かが囁いた。一杯のコーヒーを前にジャズの難解さを理解しようと耳を傾けたり、ユートピアをめぐって終わりなき対話を続けるような時代は、政治の季節の凋落とともに幕を降ろしてしまったのだと。60年代には孤立した前衛でありえた芸術は、来るべき70年代には、大衆消費社会のなかでほどよい面白さとほどよいスリルを備えた暇つぶしに成り下がろうとしており、そこで基準とされるのは、何よりもその場かぎりでの、パッケージ化された驚きであり、面白さでしかなかった。芸術が完全に消費財と化してしまう状況が、もうそこまで来ていたのである。(246ページ)

とまとめています。私の場合、こんなに考え抜いていないので、相変わらずふらふらとあっちへ行ったりこっちへ来たりしながら、すっきりとまとめきれないでいます。それにしても、参考になる書物でした。

【2005年7月4日】


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