吉本興業の研究 
堀江誠二 著
朝日新聞社(朝日文庫  1995  268p
.)
ISBN 4-02-261059-X  ¥550(抜)
本書は吉本興業がどのような足跡をたどって今日にいたっているかについて、1912(明治45)年に吉本の創業者・吉本吉衛兵(のちの泰三)とせい夫婦が寄席の経営に乗り出した前後の記述から始まり、1994(平成6)年あたりの状況まで、実にコンパクトにまとめられています。といっても、明治・大正・昭和戦前戦中期あたりまでの33年間について、よりページを多く割いています。というわけで、さっそく目次をご紹介しましょう。

■目次■


プロローグ ヨシモトが走る! 15
第1章 演芸王国の誕生 23
天満宮裏門界隈/マイナスからのスタート/明治末期の演芸界/銭が安くて面白ければ・・・・・・/せいの活躍/寄席経営をチェーン展開/「花月」の誕生/定員220でも600人は入る/落語の枠を超えた「笑い」/「後家殺し」春団治/十年あまりで落語界統一/芸人稼業も月給制に/「一流」の格は守る/端席の高座を彩る「あだ花」
第2章 夢は花月の桧舞台 61
震災を機に東京進出/庶民の娯楽と江州音頭/庶民エネルギーの饗宴/「客を呼べるのは万歳や」/「文化生活」へのあこがれ/万歳スカウト/出囃子を和洋合奏に/劇場へ初進出/昭和初年の万歳群像
第3章 寄席経営の不況対策 93
洋服を着た万歳師/「十銭万歳」の登場/ラジオは音の「主」か「使い」か/春団治のラジオ出演事件/モボ・モガの散歩道/貧乏だけど面白い時代/金五楼のジャズ落語騒動/笑いの慰問で朝日新聞と提携
第4章 エンタツ・アチャコの万歳革命 123
「いわゆる通人」の世迷い言/「万歳」から「漫才」へ/落語は悪あがき・漫才はわが世の春/「ショー」の元祖の仕掛け法/漫才の東京進出/「エンタツは小利口や」/「大阪落語を滅ぼしたのは私です」
第5章 寄席から映画劇場へ 147
漫才師たちの映画進出/ネタの「セリ市」/大衆を離れたところに成功はない/レビューへの挑戦/脱獄地獄「辻坂事件」/漫才映画の大ヒット/「歌謡漫才」の完成/暗い世相と明るい笑い/損をしてもファンが増えれば・・・・・・
第6章 業界戦争と太平洋戦争 175
芸人たちが消えた!/ライバル松竹のホンネ/「最後まで戦うつもりです」/幕引きは軍人援護会への献金/独占崩れて月給上がる/寄席・浪花節はレコードで/「ドサ回り」のミヤコ蝶々/演芸王国の崩壊
第7章 花のれんが甦った 203
「解散せなしょうがない」/演芸界復興への道/株式上場とせいの他界/演芸ブームの波/テレビを睨んだ舞台づくり/義理人情は必要ない/苦境の時代とボウル吉本/王国の再建/MANZAIブームの到来/吉本総合芸能学院/スターをつくる十の条件/大阪を超えた「大阪のタレント」を/「心斎橋筋2丁目劇場」の人気爆発
第8章 第二の誕生 235
新たな飛躍に向かって/静止衛星時代への対応/「漫才をつぶすかもしれない」/吉本会館誕生/昭和から平成へ―正之助の死と八十周年/正之助の素晴らしさ/集まる情報を活かす/情報は大阪発・東京経由で全国へ/異色の新人に期待/二十一世紀に向けて
エピローグ ヨシモトから明日が見える? 257
参考文献

■内容その他■
本書は吉本が(実はほかに岡田政太郎という人物も出てきますが)、演芸の中で落語よりも一段低く見られていた万歳(のち漫才)を寄席の中心に据えていった経過と、漫才が演芸の中で地位を確立した後どう発展させていったかという太い柱が一本通っています。また吉本興業がその経営でみせた、時代に対する先見の明とでもいった話題がもう一本の柱と言えるように思います。

第1章の中にある「明治末期の演芸界」という項は、実は明治の演芸界についての記述が見出せます。明治の初め、興行らしい興行といえば演劇の歌舞伎、寄席の演芸で落語、講談、女義太夫、手品、音曲程度だったといいます。それが明治20年代に入ると、大阪では壮士芝居、オッペケペー節などが出始め、同30年代には喜劇が、同40年代には桃中軒雲右衛門で人気沸騰となった浪花節など新しい演芸が芽を吹き出してきました。大阪では、落語は時代離れした落ち目の芸能だったようです。吉本夫妻が寄席経営に乗り出した時代は、まさしくそういう時代だったというわけです。

漫才の歴史については、まず第2章「夢は花月の桧舞台」を読み進んでいくと、江州音頭から発展してきた流れがわかるのですが、昭和初年にいたってもその演芸としての近代化はイマイチだったことがわかります。その当時の『週刊朝日』から挿絵入りで引用された箇所から、どんな漫才がおこなわれていたかについて、かなり具体的に想像できました。そのイメージががらりと変わるのが第3章「寄席経営の不況対策」のさいしょの項「洋服を着た万歳師」を読んだときです。エンタツとアチャコの二人組は英国製の三つ揃いを着て舞台に登場すると、自分を「ボク」、相手を「キミ」と呼び、日常的な話題をネタにしゃべくりに終始し、唄も問答も踊りも殴ることもしなかったというのです。話の内容が面白かったのでしょう、このコンビの人気は凄かったようです。その後、このコンビは4年足らずで解散してしまうのですが、その後は手を変え品を変え、漫才師が登場してきます。私は、エンタツとアチャコの項を読みながら、1970年代のMANZAIブームのときに指摘されたあることがらを思い出していました。それは、当時Tシャツを着て舞台に立った若手コンビに対して、吉本所属の漫才師に限らず、業界の年長組からは「漫才はああいう服装で舞台に立つものではない」という批判が出ていたことです。その理由がどうもよく飲み込めないでいたのですが、そうした批判をした芸人たちは、きっとエンタツとアチャコが近代漫才(というコトバがあればですが)を確立した時の服装を大事にしたいという思いが強かったのかのかもしれません。

吉本興業の経営については、いろいろ書かれています。寄席のチェーン化(1914年〜)は創業して早いうちから手がけていきましたし、芸人に対する月給制の導入(1922年?)、劇場への進出(1927年)、木戸銭(入場料)を安くする工夫(1930年)、事務員の服装を洋服に(1934年)、大衆娯楽雑誌の発刊(1935年)そのほかまだまだ挙げることができます。ラジオ、映画、テレビなど他のメディアとの競争や併存など興味深い話がつぎつぎに出てきます。ただし、これらのひとつひとつをとってみると、たとえば事務員の服装を洋服にしたのが1934年とありますが、他の業種ではどうだったのか? といった比較や、同じ業界で他の会社が事務員の服装を洋服にしたのがいつなのかといった細かいところまでは書かれていないために、それがどの程度凄いことなのか判りにくいといった感想ももちました。

吉本興業といえば、テレビのバラエティ番組にその芸人を続々と送り出していますので、たとえ嫌でも見てしまいます。現在の吉本の芸人をテレビのバラエティ番組などで見ていると、その芸は昔のそれとも違って、私はあまり好きではありません(落語が好きだという私にしてみれば、そう矛盾はしていないと思うのですが)。矛盾といえば、そんなに好きじゃないといいながら吉本の芸人が出演しているバラエティ番組をついつい見てしまい、挙句の果て、アハハハと笑っていることでしょうか??

【2002年11月3日】


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