エノケン・ロッパの時代 
矢野誠一
岩波書店(岩波新書 751)  2001  212p
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ISBN 4-00-43051-1  ¥740(抜)
私は矢野誠一さんの著書を一冊だけ持っています。それは『落語讀本 〜 精選三百三席』(文春文庫 1989)なのですが、書店で矢野さんの名前を見かけるときは、決まって寄席関係の図書だなというイメージをもっていました。ところが本書は、ちょっと違って戦前・戦中の東京喜劇の雄、エノケンとロッパについて書かれています。

■目次■


1  わがエノケン・ロッパ体験 1
東京喜劇の象徴
笑いの飢餓の時代に
2  二人の出発 29
対照的な出自
浅草に雄飛するエノケン
千両役者の自負
3  浅草パラダイス 59
浅草興行街という小宇宙
「笑の王国」の誕生
4  丸の内アミューズメント・センター 87
小林一三の夢
ロッパの新天地
松竹から東宝へ
5  戦争とエノケン・ロッパ 129
戦時体制下のエノケン
ふりまわされるロッパ
敗戦前夜のふたり
6  喜劇役者の無念と悲惨 167
ロッパの失意の日々
苦悩するエノケン
栄光の残影のなかで
榎本健一・古川ロッパ 略年譜
あとがき
203
209

■内容その他■
ロッパは宮内庁侍医を務めた貴族院議員の六男として1903年に、エノケンは青山の靴屋の長男として1904年に、ともに東京に生まれました。対照的な出自ということになります。その後、時代を二分する東京の喜劇役者になるわけですが、本書の著者は、二人の役者としての生き様を、やはり対照的に描いています。

1922(大正11)年、浅草オペラで役者人生のスタートを切ったとされるエノケンですが、浅草オペラ自体がひと頃と比べると精彩を欠いていた時期だったようですし、関東大震災後は崩壊を迎えたといいます。その後のエノケンは、「カジノ・フォーリー」「プペ・ダンサント」という浅草を根城にした場で人気を博し、地位を固めていきます。一方ロッパは一足遅れて1926(大正15)年、文藝春秋社の『映画時代』という雑誌の編集者となります。そのロッパが、いろいろあって、役者になるのは1932(昭和7)年。この時は挫折でスタートしました。1933(昭和8)年浅草にデビューし、「笑の王国」でエノケン一座に伍すことのできる劇団ができたと目されました。

1932(昭和9)年8月には、関西から小林一三が出てきて株式会社東京宝塚劇場創立総会を催します。そして東京宝塚劇場の華々しい開場は、1934年のこととなります。浅草や築地あたりで、従来型の興行を行っていたのが松竹ですが、小林は関西で実証済みの劇場経営の近代化を東京でも敢行します。茶屋出方制度の廃止等挙げていけば、まだまだあります。この辺は、少し前にこの本棚に並べた『宝塚戦略』にも出てくるのですが、小林が花柳界を敵に回した話など、ドキッとするほどの迫力を感じてしまいます。以前から小林と親交のあったロッパは、1935(昭和10)年に正式に東宝入りします。

戦前のこの辺の記述を読んでいると、二人の役者の対照的な面が書かれているだけでなく、松竹と東宝という、興行形態の異なる二社の違いも随分言及されています。本書のテーマは演劇(喜劇)だものですから、割かれるスペースは少なめですが、二社とも映画に参入しています。面白いのは、エノケンは暫くの間、演劇は松竹専属で、しかし映画は東宝(というか正式にはP・C・Lと呼ぶのでしょう)と契約を結びという不思議な形態をとっています(第5章の終わり近くに理由が出ています)。ちなみにエノケンが松竹を退社するのは1938(昭和13)年です。

十五年戦争下、エノケンの演目はごく僅かの例外を除いて、戦意昂揚の風潮に影響されることなくみえるといいます。139ページにある演目など見ると、なるほどと思わされてしまうくらいです。一方ロッパは、早くから戦争を題材にした出し物を小屋にかけています。戦争に協力的と見なされるほどの題材選びをしていたロッパが憤慨したのが、1940年2月1日付警視庁令第2号による「興行取締規則」の改正。これは改正とはいえ、検閲制度のなお一層の強化が目的だったというので、当然古川ロッパ一座にも影響を与えることとなるため、関心も人一倍、不快の念はさらに増したのかもしれませんね。

全篇が、肩の凝らない文章で綴られているのも嬉しいかぎりです。
【2002年5月31日】


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