昭和激動の音楽物語 
高橋巌夫
葦書房  2002  214p
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ISBN 4-7512-0828-4  ¥2200(抜)
高橋巌夫氏は日本最初の音楽プロデューサーであったといいます。高橋氏が音楽プロデューサーを生業としていたのは、1940年から戦中、戦後のある時期まで(具体的にいつ頃なのかは不明)。ことに戦中の記述について意識的にページを割いて書いてある。「はじめに」を読むと、氏は
 軍部ファシズムの外圧によって洋楽界がいかに押しひしがれ、歪められたことか。そしてそれに迎合する分子がいかに多かったことか。僕は集めた資料をできるだけ駆使しつつ、これに自らの音楽活動の中での見聞を重ね合わせ、この激動の音楽物語をつづろうと思っている。
 平和に本の今日、六十数年前の日本楽壇の歴史を振り返ることによって、二度と戦争への道を歩まぬ決意を新たにしたいと思うのである。
と述べているのです。期待をもって読み始めました。

■目次■


はじめに p.1-3
序章  この歓びをみんなに p.9-18
第1章 音楽に魅せられて p.19-50
第2章 戦雲下の独立 p.51-71
第3章 「音楽は兵器なり」 p.72-94
第4章 音楽は不滅なり p.95-122
第5章 音楽戦犯論争  p.123-151
第6章 復興への道のり p.152-178
第7章 戦後オーケストラ事情 ― 僕と東フィル p.179-201
終章  ヨーロッパへ p.202-211
あとがき p.212-214

■内容その他■
高橋氏は1934(昭和9)年3月、日本楽器東京支店に就職。以後約5年、1939(昭和14)年4月に会社から独立するまでに、当時の第一級の音楽家や愛好家を知ることになります。この年には、氏に召集令状が来ましたが病気除隊して帰京しました。氏は芝高輪に住む鍋島直忠侯を訪ね、音楽プロデューサーになろうとしている計画を打ち明け激励を受けます。そして1940(昭和15)年1月、芝・佐久間町にタカハシ音楽芸術社をスタートさせ、さらに3ヵ月後には鍋島侯爵の紹介で、より地の利のいい新橋第一ホテルそばに事務所を移転し、音楽プロデューサーとしての活躍がはじまりました。

1940年には鍋島侯爵の紹介で三浦環と出会います。これを機縁に三浦のコンサートをプロデュースしていくこととなるのです。この年は、2月8日に会議が開かれ、楽壇を新体制にあわせて一元化していこうという動きがあったことが読み取れますし、紀元二千六百年奉祝の演奏会も催されました。そんななかで、私が「おや?」と思って読んだのは次の箇所でした。
  しかし、こうした風潮に迎合しバスに乗り遅れるな、とばかりに洋楽界でも作曲家聯盟の旗ふりで次々と新曲が発表された。(中略)
  しかし、これらの曲は先に紹介した会合以来の「時代の要請」に応えてただ作られたといだけで、期待されたほどの評価は受けなかった。 (p.54−55)
前後を読むと、氏はポピュラーな名曲を中心にプログラムを組み、誰でも気楽に親しめ、楽しめる演奏会を企画することを心がけていたようです。その分、日本人作曲家の新作については厳しい評価が待ち受けているようです。

興味深い記述は、ほかにも何箇所も見出せました。

まず、1940年の技芸者登録制度を挙げましょう。
劇場に出演する歌手、レビューの舞踊家、オーケストラのボックスで演奏する楽壇や演奏家は許可証を必要とし、警視総監が交付した写真入りの「技芸者証」がなければいっさい舞台に立てなくなるというものである。  (p.63)
ところが、
実際には交響楽団員やクラシック音楽関係者は除外されたが、僕のようなものはこの公認許可証が必要となる。僕は直ちに申請し、公認の興行者証を交付された。楽壇では僕が第一号だった。               (p.63)
技芸者証を交付されるための試験というか、面接に行ったという話しや記述は読んだことがあったのですが、オーケストラの団員やクラシック関係者が技芸者証登録制度から除外されたのは、知りませんでした。

1942年2月、東響の恤兵金献納音楽会から、情報局の命により開催に先立って演奏者と聴衆が全員皇居に向かって拝礼することとなったとあります。驚いたのは、以後いかなる会も開演前にこの国民儀礼を実行したと記述されていることです。

人物については、数回出てくる三浦環にまつわる感動的なエピソードがいくつか挿入されていますし、戦時中、音楽評論家がどのような文章を書いていたかも比較的長い引用をしながら、無茶な論陣を張っていたことを明らかにしています。

また、山田耕筰についても良い人として語られています。「したがって」と続けていいかどうかは迷うところですが、戦後の山根銀二対山田耕筰の音楽戦犯論争については、山田に対して同情的です。戦時中楽壇を牛耳っていた日本音楽文化協会の役員は、第一線を退いた人や評論家ばかりで構成され、老獪に秀でたる彼ら(=役員)は対外的に信頼度の高い山田を一切の代表格に仕立て、人のいい山田は彼らを信じ、言われるままに行動したにもかかわらず、山根はその責任をすべて山田に押し付けようとしたというのが氏のいうところです。これには異論もあるかも・・・。

「物語」と銘打っているだけに読みやすいです。興味のある方はぜひ一読を!
【2002年5月13日】


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