清瀬保二著作集 ―われらの道―
清瀬保二著作集編集委員会編
同時代社 1983  267p.
■目次と初出■

目次と初出
第一部    戦前編
タイトル ページ 初出
フランス音楽に行くまで p.2-9 『音楽新潮』1930年1月号
ニ、三のこと p.10-15 『音楽新潮』1930年7月号
一つの声 p.16-18 『音楽新潮』1932年4月号
作品発表会後記 p.19-22 『音楽新潮』1932年6月号
旅行と音楽 p.23-26 『音楽新潮』1932年8月号
フラグマン(断章) p.27-32 『音楽新潮』1933年6月号
初夏随想 p.33-36 『音楽新潮』1933年6月号
チェレプニンは語る p.37-44 『音楽新潮』1934年11月号
日本化についての省察 p.45-50 『音楽新潮』1935年11月号
われらの道 p.51-56 『音楽新潮』1936年2月号
日本的音楽 p.57-62 『文芸』1936年10月号
近代音楽祭 p.63-71 『音楽新潮』1936年11月号
最近の論争について p.72-79 『音楽新潮』1937年2月号
ベートーヴェンについての思い出 p.80-84 『音楽新潮』1938年1月号
五月の窓 p.85-88 『フィルハーモニー』1938年6月号
1938年作曲界回顧 p.89-94 『音楽新潮』1938年12月号
「日本民謡を主題にした幻想曲」の作曲について p.95-98 『音楽世界』1940年3月号
第二部  戦後編
タイトル ページ 初出
バルトークあれこれ p.100-104 『音楽芸術』1952年1月号
日本楽界の問題は何か―作曲界 p.105-108 『音楽芸術』1952年2月号
私の修行時代 p.109-119 『音楽芸術』1956年8月号
戦後の作曲家に p.120-130 『音楽芸術』1956年9月号
音楽はこうしてふるさとになった p.131-139 『音楽の友』1959年3月号
中国音楽の印象 p.140-144 『人民中国』1962年6月号
歴史課題の荷を負う p.145-148 『音楽旬報』1963年6月10日号
日本音楽について p.149-162 『音楽芸術』1963年8月号
作曲家を志すまで p.163-229 『音楽』1966年6月号〜11月号
日本の五音音階の現代的意義 p.230-244 『音楽の世界』1966年11月号
”単純化”の問題 p.245-247 『音楽旬報』1969年10月20日号
刊行によせて(福沢一郎 高田三郎 芥川也寸志 松村禎三 武満徹) p.248-256
清瀬保二年譜(1982年11月 作成・小宮多美江) p.257-265
編集を終えて(「清瀬保二著作集」編集委員会) p.266-267
■内容■
「第一部 戦前編」17篇、「第二部 戦後編」11篇という長い目次を見ていただきましたが、本書は、1930年から1969年まで作曲家・清瀬保二が主に雑誌に発表した著作を、発表年代順に並べたものです。戦前編17篇のうち14篇までの初出が『音楽新潮』というのが目を引きますね。なぜ? と思う方もいらっしゃることでしょう。じっくり読んでいくと、228ページに
   昭和四年であったかと思うが、照井氏につれられ『音楽新潮』主幹柿沼太郎氏宅を訪れた。その
   時初めて聞いたコルトーのドビュッシーの「沈める寺院」の美しさは今日もよく憶えている。こうして
   『音楽新潮』の仲間入りをし、数人の同好者を知った。特に藤木義輔氏とはその後ずっと交遊を
   保った。やがてわたしの主張をよくこの雑誌に発表したが、このグループは近代フランス音楽通が
   多く、またパリ中心の新しい音楽の消息はいち早く載せられ(後略)
とあるのです。答えと考えて良さそうな文章ですね。

新興作曲家聯盟が設立された1930年、清瀬は自分の音楽との邂逅からフランス音楽に向かうまでを振り返りながら書いています(p.2-9)。1932年4月に行なわれた清瀬の第1回作品発表会について(p.19-22)、1934年9月のチェレプニンとの交流(p.37-44)、日本的音楽についての考察(p.45-50)、1936年10月に行なわれた近代音楽祭(p.89-94)、1938年の日本作曲界回顧(p.89-94)などなど、戦前に清瀬自身が体験してきたトピックスや自分の作曲に対する考え方が文章化されています。当時の音楽雑誌が簡単に見られない状況が一般的だとすれば、この著作集に収められた文章も貴重だといえますが、残念ながら本書もまた、入手は容易ではありません。

話を戻しましょう。日本的というと、ともすれば「狭義の国粋主義的な」傾向にとられ勝ちですが、清瀬にとって「日本的」という時は「結局創造的であれといふことに尽きる」といいます(57ページ)。この主張は、本書で何度も繰り返し述べられていることです。ヨーロッパ音楽には、日本の伝統音楽にはないヒューマンな魅力があると感じる清瀬ですが、しかし和声法ひとつとっても、習ってみるとどうもしっくり来ない面があったようで、日本で生きている現実から発想し、自分たちのものを創り出さなければと考えるようになったようです。このあたりの考え方を読んでいると、一口に「日本的」な作曲といっても、十把一絡げにして捉えることは避けなければと自戒しました。1966年に連載の形でまとめた「作曲家を志すまで」(p.163-229)は、半生を綴った貴重な文章となっていて、大分で生まれ育った清瀬にとっての音楽環境は”邦楽”が主なもので、そのうちいくらか洋楽が身の回りに聴こえてきた、といった程度だったようです。創造的な音楽を作ろうとするとき、日本的という発想が自然と生まれ出てくるのも頷ける気がします。また、単純化という面について一つ文章を残している(p.245-247)のも、清瀬の音楽づくりの一端を思い起こさせ、納得してしまいます。
【2001年2月26日】


トップページへ
私の本棚へ
前のページへ
次のページへ