新世紀デジタル講義
立花隆 南谷崇  橋本毅彦 児玉文雄 安田浩 立花隆ゼミ
新潮社 2000  305p.

■目次■

はじめに 立花隆 p.9-16
序章 サイバーユニヴァーシティの試み 立花隆 p.17-58
第1章 情報原論 立花隆 p.59-101
第2章 コンピュータのしくみ 南谷崇 p.103-142
第3章 コンピュータの歴史 橋本毅彦 p.143-193
第4章 デジタル産業革命 児玉文雄 p.195-223
第5章 ネットワーク社会の将来 安田浩 p.225-284
附録 オープンソースという流れ 立花隆ゼミ p.285-303

■内容その他のメモ■
立花氏は、はじめにで、本書をわかるところだけ拾って最後まで読めと言っています。従来よしとされてきた、厳選された良書を熟読するやりかたをとらず、拾い読み、トバシ読みでもいいから、できるだけ多読、乱読する技術を身につけろというわけです。社会で増加する一方の情報流通量に対処する技術だ、ということらしいです(この箇所を読んで、私は気が楽になり、まず通読したあと、全体をパラパラめくり直してみました)。
 
本書では、サイバーユミヴァーシティの試みが序章に置かれていますが、これは1997年9月当時の講演記録をそのまま掲載したものです。問題提起として生きているという判断なのでしょう。文系の社会にもワープロ能力が必要とされるようになったこと(大学づとめをしていると、これはかなり以前から当然のことでした)、コンピュータを情報収集マシンとして使える能力をもつこと、同時に情報発信能力をもつこと。これらは、インターネットの発展によってもたらされたものです。

続く各章では、情報とは何か? のほか、コンピュータの基本的なしくみや歴史も押さえておく必要がある、そして現在すすめられている社会のデジタル産業革命とは? さらに、ネットワーク社会の将来はどうなっていくのかと、各章がかなり端的に、わかりやすくまとめられていて参考になることが多々ありました。

通読を終えて、自分の印象に残った箇所をパラパラとくってみました。
どんな対象でも「0」と「1」の表現に置き換えられれば、コンピュータの扱う対象となり、またどんな操作も「0」と「1」の表現に置き換えらればコンピュータに可能な操作になる、といったくだり(p.79 立花)は、「なるほど、そうだな」と納得でした。さらに、哲学を扱うプログラムもいくらだってある、
人間の頭がやっていることは、それが論理的なことである限り、すべてコンピュータにやらせることができる(p.68 立花)というくだりも同様に納得でした。

「カップラーメンを作る」手順を、(1)湯を沸かす(2)カップの中に湯を注ぐ(3)三分待つ、と考え、(2)の箇所をさらに細かく分解すると(2−a)カップラーメンのふたを開ける(2−b)カップに湯を注ぐ(2−c)ふたを閉じる、となるわけですが(p.107-108 南谷)、もし順番を間違えて(2−b)でふたを閉じ(2−c)で湯を注いだら、当然のことながらカップラーメンは作れませんね。これはコンピュータのプログラムを書く話につらなります。妙に感心してしまいました。

ことほどさように、むずかしいことがらを平明に書き下し、しかも内容は刺激に満ちた本です\(^o^)/
【2000年9月15日記】


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