ミメーシス ―― ヨーロッパ文学における現実描写(上)(下)
E.アウエルバッハ [篠田一士・川村二郎訳]
ちくま文庫 1994 430p, 488p.

大学時代に知った図書ですが、初めて通読したのは1996年のことでした。さいきん、少し読みなおしたい箇所が出てきてました。興味の尽きない図書なのですが、再読した分を中心にノートを作っていこうと思っています。(1999.11.01)

■著者と本書について■……■目次■……■内容その他のメモ■

■ 著者と本書について■
本書はErich Auerbach: Dargestellte Wirklichkeit in der abendlandischen Literatureの全訳です(初版は1946年の出版)。本書は、ほぼ3000年に及ぶヨーロッパ文学の作品から具体的なテキストを選び、文体の分析批評の方法を用いながら、リアリズム論の問題を追及しています。
著者エーリッヒ・アウエルバッハ(Erich Auerbach)は、1892年ベルリンに、ハイデルベルクで法律を、その後グラフスヴァルト大学ロマンス語学科に在籍しました。第二次世界大戦中はユダヤ人であるため、トルコへ移住し本書の大半を書き上げました。アウエルバッハは、当時イスタンブールにはヨーロッパ研究のための完備した図書館は一つとしてなかったと書いています。1947年に渡米し、1957年に没[以上、主として上巻巻頭にある篠田一士の"序にかえて"より要約]。(1999.11.01)

■目次■(1999.11.01)
第1章 オデュッセウスの傷痕 (上巻 p.17-53)
第2章 フォルトゥナタ (上巻 p.54-94)
第3章 ペルトス・ウァルウォメレスの逮捕 (上巻 p.95-138)
第4章 シカリウスとクラムネシンドゥス (上巻 p.139-165)
第5章 ロランがフランク勢の殿軍に推挙された次第 (上巻 p.166-217)
第6章 宮廷騎士の出立 (上巻 p.218-248)
第7章 アダムとエヴァ (上巻 p.249-294)
第8章 ファリナータとカヴァルカンテ (上巻 p.295-344)
第9章 修道士アルベルト (上巻 p.345-388)
第10章 シャステルの奥方 (上巻 p.389-430)
第11章 パンタグリュエルの口中の世界 (下巻 p.9-43)
第12章 人間の本性 (下巻 p.44-90)
第13章 疲れた王子 (下巻 p.91-130)
第14章 魅せられたドゥルシネーア (下巻 p.131-171)
第15章 偽信者 (下巻 p.172-234)
第16章 中断された晩餐 (下巻 p.235-291)
第17章 楽師ミラー (下巻 p.292-320)
第18章 ラ・モール邸 (下巻 p.321-383)
第19章 ジェルミニィ・ラセルトゥー (下巻 p.384-429)
第20章 茶色の靴下 (下巻 p.430-475)

■内容その他のメモ■

◆第16章◆
本章では、18世紀のフランスの著作から、アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』、ヴォルテール『哲学書簡』そのほか、サン・シモン『回想録』などが取り上げられている。
アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』(1731年の作)。この物語は、「」が重要性を持ち始めたのが特徴となっている。また金銭の話が細かく具体的に記され、リアリスティックである。さらにエロティックなものの描写がされ、その一方、深刻ぶる割には浅薄である。テキストは、リアリスティックなものが深刻なものと混合した中庸体が特徴といえる。
ヴォルテール『哲学書簡』。第六信から採った例示されているテキストには、ロンドン株式取引所の印象が書かれている。宗教と商業の対比がみてとれ、ヴォルテールは商業に優位を与えている。そのテキストは、事件の展開を素早く鮮やかに要約して見せ、急速な場面転換を伴う。また、唐突な対照も読みとれる。そこには『マノン・レスコー』のような感傷性はなく、快活なテンポがある。ヴォルテールのテキストは、問題の単純化という特徴をもっている。
サン・シモン『回想録』。宮廷内部の日常的なもの、醜いもの、品位のないものを描写し、文体の水準において、人生理解と人生表現の近代の形式の先駆者となっている。
〜メモ〜(1)『マノン・レスコー』の「涙」の指摘については、河盛好蔵訳の岩波文庫で調べると、15ヵ所(p.16、p.33、p.49、p.56、p.72-73、p.80、p.111-112、p.116、p.152、p.158-159、p.181、p.183、p.190、p.200-201、p.210)。このほかに、涙を伴ったに違いない「泣く」という箇所もあり、「涙」も出なかったという意味の箇所が1ヵ所。納得。/(2)本書で紹介されたテキストは、ロンドン株式取引所にはあらゆる国々の代表者が集まり、そこではどんな宗教も同じ信仰を持っているかのように遇しあう。仕事が終わると、それぞれの宗教に帰っていったり、飲みに行ったりする(ここでは宗教と酒を飲む行為とが同列に扱われる)。そして皆が満足すると結んでいる。注目したいのは、宗教と商業のどちらが人類の幸福に寄与するかといえば、あきらかに商業だとヴォルテールは主張していることだ。(1999.12.01)


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