『音楽之友』記事に関するノート

第3巻第09号(1943.09)


自覚に立つ音楽観諸井三郎(『音楽之友』 第3巻第9号 1943年09月 p.6-7)
内容:今日のような激しい時代に音楽家として正しく生き抜いていくには、しっかりした国民的自覚をもたなければいけない。今日、われわれ音楽家がいかなることをなすべきかは誰しも心得ているであろうし、また多くの人びとがあらゆる機会に指示している。いま問題にすべきは、それがどれだけ自覚に基づいて行われているかということである。しっかりした国民的自覚に立つ音楽活動は、ただ米英を打ち破れというような大眼目を唱えているだけでできるものではない。ジャズの問題などは目に付きやすく、それだけに単純な問題といえるかもしれないが、もっと目につきにくい、しかし本質的な問題として音楽のいろいろな部分に自己革新しなければならない点があると思う。そうした根本問題とは、実はきわめて日常的なことがらや経過の内にあるのである。/われわれが音楽家としての立場に立ったとき、その国民的自覚は各人がしっかりした音楽観をもつということである。音楽観の確立は大東亜共栄圏の建設という大事業の本格的前進とともにますます重要となってくる。そして音楽観の確立は往事のごとく各人の自由に任されるべきでなく、少なくとも国家的なかたちで規定されなければならない。それを個々の個性がそれぞれに発展させていく。現在の状態を見ると、音楽観の基礎を決定せずに具体的問題ないしは末梢的な点で事務的な処理が行われているだけの場合が多いように見える。今日までのヨーロッパ音楽の取り入れ方は直目的であったので、これを充分整理することは不可欠であるし、同時にわれわれにとって必要なものは今後も充分取り入れていくべきである。他の一面は日本音楽の古典の再認識も必要だが、ただ西洋の方法論を移植しただけでは意味を持たない。大切なことは日本の古典に対しても、西洋の音楽に対しても、それをいかなる音楽観から見ていくかということである。/音楽観の確立という仕事は今日一刻も忽せにできない。それに対する綜合的、組織的な協力態勢についてはあまりにも等閑視されていないだろうか。楽壇の中央機関も、その指導監督の任にあるものも、この点についてもっと積極的であるべきだと思う。この仕事は一朝一夕にできる性質のものではない。しかも一切の音楽活動の拠って立つべき基礎であり、一切の音楽現象を批判すべき基準である。今日この問題を真剣に取りあげずして、日々の現象的激しさに目を奪われていると、真に国民的自覚をもった音楽家としての行動が知らぬ間に浮き上がってしまうのではないかと危惧される。確固たる音楽観の樹立が絶対に必要であることを痛感する。
【2005年9月25日】
青少年は音楽で鍛へる(特集・青少年と音楽)/朝比奈策太郎(『音楽之友』 第3巻第9号 1943年09月 p.8-9)
内容:大日本青少年團は大東亜戦争開始の日、全国の各青少年團に
1.必勝の信念を堅持せよ
2.国土防衛に挺身せよ
3.職域奉公に邁進せよ
4.身心を積極的に鍛錬せよ
の4項目からなる「戦時実践指針」を与え、全国青少年の努力を要請した。音楽もまたその重要な一翼を担ってもらわなければならない。これまで音楽といえば「情操陶冶」といわれたが、今日、音楽の使命は「日本精神涵養のため絶對に必要なもの」であると朝比奈は言い、その考えで大日本青少年團の音楽を導いている。大日本青少年團は創立以来音楽を重要視し、多数の音楽隊(吹奏楽団、喇叭鼓隊、鼓笛隊)を設置し、音楽指導者網の組織化と拡大化を図り、青少年向き歌曲を選定し、青少年向きレコードを推薦し、あるいは必勝の軍歌を選んで編纂するなど種々の方法を講じてきたが、戦争開始後はさらにこれを強化し、小野学の戦時的効用を最大限に発揮しようと努めているのである。/必勝の信念を堅持することは、要するに「本当の日本精神に徹する」というところから生まれてくる。日本精神を涵養することに対しては音楽が重要な役割を受けもつべきである。本当の日本精神を奮い立たせ、日本人の行動が真の日本人の姿を顕現せしめるような日本的な音楽が必要である。われわれが年少時代に遭遇した日清・日露戦争を自分で回顧したり、人の話で聞いたり、記録で見るとき、当時の日本国民の間から敵を撃滅しなければならないちう気概に充ちた国民の歌が生まれ出たということである。すなわち日本精神の横溢するところ、そこに日本的な歌が自然に生まれてきたのであると思う。ところが今次の戦争が始まってから未だそうしたものがあまり生まれていないように思うのはいかがであろうか。特に作曲家諸氏にこの点をよくお願いしたい。われわれは次代を担う青少年のために日本精神に充ちた力強い音楽を求めているのである。/大日本青少年團に属する男女青年は大部分が戦力増強のために挺身しているのだが、この人びとに良い音楽を与えなければならない。ある人の報告によれば、男女青年の(1)工場における能率、(2)青年学校における成績、(3)日常の生活態度の3つは全人数の8割まで平行(すなわち能率の良い者は成績も良く生活態度も良い)している。残りの2割を調べてみると、たいてい不健康者であったということであった。/大日本青少年團は「心身の鍛練」を重んじるが、このような不健康者がないようにして戦力を増強することが必要であるから、体育を重んじることはもちろん、同時に精神も明るく強く鍛えなければ健康者とはいえない。青少年團が男女青年に向かって音楽を奨励している理由はこの点にある。特に青少年音楽の指導者たちにお願いするが、単に技術を向上させればすむという小さな観点に立たないで、我こそ国民に真の日本精神を与え、また国民の抱く真の日本精神を顕現させる責任者であるとの信念をもって指導に当たってほしい。
【2005年9月29日】
軍楽に通ずる青少年の音楽(特集・青少年と音楽)春日嘉藤治(『音楽之友』 第3巻第9号 1943年09月 p.10)
内容:戦時下に音楽に携わっている青少年があるなら、それは第二の軍楽隊でなければならない。鳴らすものも歌うものも頭を入れかえるときであろう。銃後も戦場であることは充分認識しているはずなので、単に娯楽の一種と考えて、楽器を買ってやったからどうにかやっているだろうとか、レコードで面白く歌っているから宜しいというのでは、なんら指導精神がなくかえって人間の性情を害することになるであろう。特に歌うものによく注意してほしい。皆が喜ぶといって放っておくと、中にいかがわしいものがあって生活が廃頽的になってしまう。指導者が乏しいというのは事実だろう。急激に開けた吹奏楽や喇叭鼓隊鼓笛隊はやむを得ないが、指導者の錬成計画が漸次各地方にできつつある。次に実際の指導についての注意をあげれば
◆楽員の選択について 吹奏に適する体質と保健に留意することはもちろん、軍楽的規律と団体的錬成を施して、不適当と認めるものは早いうちに楽器を返納させる方がよい。技術のみに偏すると後で迷惑することが起こる。
◆指導者の錬成 指導者も従来講習会と称する技術のみの伝授を受けるだけではいけない。適当な地を選び、舎営訓練の共同生活に環境を改め、集団的実践訓練に入り、朝に拝し夕に反省し、真に皇国民である自覚と相まって技術を錬磨し、隊員の性格徳操を涵養する覚悟がなくてはならない。
◆むすび 健全な音楽に、時代の新動向に進むべき相違とを養わなくてはならない。音楽は軍需品なりと叫ばれて、士気の昂揚に資することはもちろんだが、少年より楽器により著しく聴覚の訓練がされることを見逃してはいけない。いまの戦争は音波電波によって索敵にたいせつな任務をもっている。それには青年や壮年にいたってからでは遅い。また精密な器械の具合を耳によって判断することがある。士気を高め、歌って和楽と能率をあげ、もって音楽報国に邁進することを望むものである。
【2005年10月6日】
寄宿舎の音楽(特集・青少年と音楽)清水脩(『音楽之友』 第3巻第9号 1943年09月 p.11-13)
内容:今日、工場の全従業員の半数近くが20歳未満の年少工だといわれている。毎年、何千何万という少年少女が学校を卒業し、生産の尖兵として、国家の尖兵として工場へ鉱山へと繰り出されてくる。世の人びとは異口同音に彼らのけなげな決心をほめ、励ましている。慣れない生活を始めたばかりの少年少女諸君は、生やさしい勤労でないかもしれない。彼らを待ち受けている勤労は、苛烈な戦場にも劣らぬまできびしいのである。少年少女の精神は、生活の激変に対して少なからず影響される。一月に1度か2度の故郷からの便りによって辛うじて父母の香りをかいでいるのだ。共同生活の楽しい味わいをもたらさなければならない。新しい生活の香りを吸い込ませなければならず、「生活指導」という言葉はまさしくそれを指す。しかし「生活指導」という言葉は決して彼らの生活に入ることができよう筈がない。親のような慈愛に満ちた手をさしのべるのでなければ意味はない。音楽はそのもっとも大きい手だてのひとつである。/清水はこれまで勤労音楽の必要なことを説いてきた。そして指導者はもちろん、事業主、あるいは職場の幹部の反省を求めたことも晏次である。いまもって音楽の実体はきわめて空疎であると断定するほかはない。音楽は理屈ではない。人と人とのふれあうところに生きた音楽の指導があるとも説いた。また形のみ整った音楽は空なる知識であって真の音楽でないということもたびたび指摘した。いつも同じようなことを繰り返し言わなければならないのも悲しい。/寄宿舎における音楽は、年少工の音楽指導の大半を占めるものである。地方出身の少年少女諸君の生活指導は寄宿舎における指導によって達成されるといっても過言ではない。もちろん、作業場における先輩たちの指導も単に技術指導だけに終わらず、人格的な接触によって完成される。しかし、少年少女の心が緊張から解きほぐされ、彼ら独自の境域を回復するのは寄宿舎における数時間である。生活指導がこの時にもっとも効果を上げるのは言うまでもない。さて、それではどうして音楽指導を行うかについて少し述べてみる。音楽にもいろいろあるが、何をおいても歌うことから始めたい。歌は音楽の最初であって最後であるともいえるのではないか。寄宿舎は完全な共同生活であるから、これほど歌唱指導に適した生活はない。朝礼時には必ず一同国歌を歌い、朝礼の最後には社歌や工場歌を歌ってもよいし、国民歌や軍歌でも良い。朝礼の次には烈しく真剣な勤労がひかえているが、昼食時には少年少女らしく戸外で飛び回らせよう。夕食後の一時をどう過ごすかは、少年少女を正しく健やかに育て上げるか、逆に堕落させたりひねくれさせたりするかによる。夕食後のわずかな時間を利用して週に2、3度ともに歌う機会をつくり、皆の心をひとつに結び合わせ、和やかな雰囲気をつくる。ここで注意すべきは、歌唱指導の時間だけですべてが終わることのないようにしたいことである。この僅かな歌の時間が彼らの生活の全体に影響を与えることが肝要である。どんな歌を選ぶか、どの程度までにするかはここでは書ききれない。健全明朗なものでなければならないことはもちろんである。寄宿舎における音楽施設としては、慰安室にラジオ、蓄音器を備えること。男子ならば吹奏楽、喇叭鼓隊、ハモニカ合奏等を組織すること。女子ならば鼓笛隊を組織し、慰安室に箏、三味線の類を2、3挺取りそろえておくことなど。男子はややもすると粗暴に傾くが、決して悪い傾向ではない。要は、この粗暴さを良く導くことである。そのためにもオルガンを備え、吹奏楽隊や喇叭鼓隊を組織するのがもっとも良い。/音楽の目指すところは音楽によってゆたかな生活感情を芽生えさせ、あわせて音楽ひとつによってすべての人の心を結びつけるところにある。清水は音楽が具体的にどのような効果を生むかまで言う力がないが、むしろ言えないところに音楽の不可思議な力を信じる。音楽には生命の躍動が凝縮されているが、その内なる力を指導者自身で体得し、さらにその体得したものを人と人との触れあうところから少年少女にうつし植えてゆくのでなければならない。職場の少年少女は歌いたいのだ。
【2005年10月13日】
音楽時評(『音楽之友』 第3巻第9号 1943年09月 p.13)
内容:○大政翼賛会が制定した国民の歌《みたみわれ》を国民に普及し、士気昂揚と健全娯楽に資するために、日本音楽文化協会の協力により楽壇人の地方出動が行われた。この機会は楽壇人の覚醒にまさに絶好である。出動する人たちは地方の人たちの生活をよく見てくるように。○その出発式で丸山事務総長は「古来、軍歌は人をして勇躍その途に邁進せしめる妙なる力を持つ」と言った。今や前線銃後を問わず血戦の連続であり、それを勝利に導くか否かは士気にある。音楽はただ一つの軍歌によってこれを推進させる力を持っている。今回の運動の意義はまことに重大だというべきである。○軍人援護運動の一環として今回日本音楽文化協会作曲部会員は、あげて作曲献納をすることになった。作曲家の奉仕はここにこそ重大な道がある。良い作品が生まれることをねがう。なぜなら作曲家が決戦意識を堅持させるか否かは、ここに一つの証左が与えられようとしているから。○南方面音楽をいかにするかは、はっきりした目標がないようだ。すでに朝日新聞の「ウタノヱホン」、レコード文協の南方向音盤、日本音楽文化協会の南方向吹奏楽譜などがある。しかし「ウタノヱホン」を除き、ほかはすべて在来の音楽である。新しい世界は日一日と展開しているのだから、南方へ送らねばならない新作こそ今後の仕事である。陸海軍報道班員として活躍し帰朝した音楽家が集まって、これに文学者、画家等を加えて南方向音楽研究会を設置するのも一方法であろう。まず何を与えるべきかを仔細に検討する必要がある。同時に南方共栄圏各国の音楽、特に民謡の権威ある集大成は急務である。中に真面目な研究家もあるが一時の流行を追うのでないものが必要なのである。
【2005年10月19日】
フィリッピンの音楽と映画今日出海(『音楽之友』 第3巻第9号 1943年09月 p.14-15)
内容:フィリピン人は文学思想哲学といった方面は不得手で、音楽舞踊の類に対する熱情は相当なもので、才能もかなりあると思う。ただし北欧の重苦しい音楽は暑い開放的なところでは固く重いという感じを起こすし、バッハやベートーヴェンなどの反省的で瞑想的な音楽はあまり喜ばれない。どうも情熱的で感覚的な音楽が歓迎されるようだ。こういう意味でフィリピンにはフィリピンの音楽を樹立しなければならないという考えを抱いていたが、アメリカの40年間の影響は蔓延している。ジャズなどが入り込んでいるのではないかと言われているが、ジャズのようにテンポの速いものは息が切れ汗をかくので、あまり喜ばれない。むしろ南米スペイン系のタンゴやルンバのような悠暢な舞曲が行われている。/《愛国行進曲》が日本語で歌われたらよいと考え劇場で歌わせたところ、ほとんど1週間か2週間で《愛国行進曲》がマニラの街に蔓延し、それからは田舎の方へ行ってもいたるところ《愛国行進曲》である。このように歌を覚えるのは早く、子どもでも音程を狂わすことなく歌える。映画でも一番喜ばれるのは音楽映画である。/フィリピンにも主な撮影所は4つばかりあり、たくさん映画を作っている。変に暗い日本映画に反して、フィリピンのは頗る明るい映画が作られている。日本の映画はだいたい7000〜8000尺の長さが普通だが、フィリピンでは14000、15000尺という長尺ものばかりである。だから筋にまったく関係ない場面なども平気で入れてある。これを全面的に見ると、ほとんど例外なく音楽映画である。そういうと聞こえがいいが、突然にとんでもないところで歌が歌われる場面もなきにしもあらずで、技術的にもう少し自然に行ったらもっと良い映画ができるのに、ものを考えたりものをまとめたりすることは得意ではないようだ。そうであるから、映画の筋をまとめることは下手である。映画会社の社長がこのような話をやろうと言うと、監督やシナリオライターが5人も6人もばらばらに作ってしまう。だから話が重複したりすることもある。これも日本から技術者が行ってシナリオはどうやって書くべきかを教えれば、いまよりもいいシナリオができあがるだろうと思う。/フィリピンには警官と憲兵の混ざったような巡警と訳されるコンスタピュラリイ・バンドというのがあり、これを再建しようと思ったが、その楽長は現役の大尉でもあり、そこはついに手をつけられないままとなった。そこでオーケストラを再建したいと考えたが、だいたい楽団員はほとんど地方に逃げていってしまったし、残っている人間も食べるだけで精一杯の状況だった。昔は政府の補助が相当多額に出たが、現在はそうした費用も捻出しかねて苦しんだ。行政府や軍当局とも会って、一刻の文化の象徴であるシンフォニー・オーケストラを作りたいと奔走したが、そうした活動を始めておよそ半年でニュー・フィリッピン・シンフォニー・オーケストラ(新比島交響楽団)を作った。そして1942年7月26日にそのさいしょの公演をもった。/そのときフィリピンの唯一の官立大学のなかの音楽科の科長であるサンチャゴという老人が、自分の篋底深く秘めていた交響曲を公開した。そのとき同時に、満15歳になるバシリオ・マナロという少年がチャイコフスキーのヴァイオリン・コンチェルトをオーケストラの伴奏で演奏した。この少年はヴァイオリンを弾くときは一種憑かれたような、不思議な顔をして弾いていた。そして単なる道楽の域ではないのだが、フィリピンにはニューヨークやヨーロッパの音楽学校に学んだソリストが相当いるのである。このオーケストラの第1回公演では、冒頭全員が起立して《君が代》を唱したが、まことに崇厳で痛快な喜びをしみじみ感じた。このたび東宝映画が『あの旗を撃て』という映画をつくるときに、フィリピンでロケをした。そのなかのシンフォニーは今日出海が作った新比島交響楽団が演奏するそうだ。
メモ:執筆者の今日出海は陸軍報道班員。
【2005年10月24日】
拡声機を撃つ小野博(『音楽之友』 第3巻第9号 1943年09月 p.19)
内容:突撃の寸前、中国の陣地から聴き覚えのある音楽が流れてくる。2度、3度、北支戦線ではすでに経験済みであるが、敵陣から流れてくる音楽に憎悪を感じた。と同時に、音楽に偉大な力があることを、いまさらのごとく感じる。聴こえてくるメロディは内地でよく聴き覚えのある、それどころか兵隊は誰でも歌えるに違いない。それほど有名な流行歌である。それが突撃に移る瞬間に、中国が電力の強い拡声器を前線に持ち出してのレコード放送である。中国にしては、なかなか味のある神経戦をやりおる。聴くまいとしても聴かなければならない。有名な○○歌手の声である。故郷の空を想わせるような米英的リズム、歌詞、甘い声。兵隊は瞬間、故郷の香りが目の前に漂うのを覚えた。その時、兵隊は先を競って、獲物をねらう猛虎のごとく突っ込んで行った。敵は機銃弾を撃ったが、伏せる余裕はなく、突撃あるのみだ。小野少尉には先刻の音楽が聴こえているかどうか、聴き正すだけの心のゆとりがあることを不思議に感じた。機銃の音と見方の怒号の声にかき消されてか、すでに放送音楽は止んでいた。そして小野少尉は森の小梢に吊された拡声器を発見した。地上を這った細い線を200メートルばかりの地点に携帯用蓄音器があり、日本製○○レコードがあった。小野少尉はその音盤を力いっぱいたたき割った。いままで悩まされてきた音盤が日本盤であって、日本の音楽を聴いてこれほどまでに憤りを感じるのはなぜかと割り切れない感情が残った。もし突撃の寸前に勇壮な軍歌が、あるいは士気を鼓舞してくれるようなリズムが流れてきていたとしたら、もっと兵隊の血はたぎり立ったのではあるまいか。以上は、実弟小野少尉の体験談である。そこで少尉は兄の私に、日本の音楽家の使命・責任はおろそかにできない、その点、中国の方が頭がよい。立派な音楽と強い音楽家ができないなら、音楽は軍需品なりと言っても言葉のうえだけ分かっているだけだと言った。
【2005年10月27日】
南の空に歌ふ(完) <連載>佐藤寅雄(『音楽之友』 第3巻第9号 1943年09月 p.20-22)
内容:6.前対戦当時の安南歌 ロ.貴族階級の間に生れた歌 a.ニャム・キヨウ(嬌[キョウ]の詩) 貴族社会に源をもつ嬌[キョウ]の詩の一節をそらんじて歌うことが流行となっており、演歌師が街頭で歌うのもこの有名な文学の伝播に役立った。嬌の詩は昔大臣だった阮遊(ニユエンヅー)が中国に旅行した折、水嬌(チュイキョウ)という女官が恋愛に悩んだすえ自殺した哀話をきき、安南文で3000句からなる文学に仕上げたもの。この叙事詩ができるまで安南語による文学を顧みなかった文士学者も、以後、安南語の詩文に力を注ぐようになった。嬌の詩は大臣から車夫にいたるまで愛誦されているので一種のモラルとなって安南の人たちの日常生活に食い込んだ。このように一般に広がるまでは、いろいろな過程を経てきた。嬌は前述のごとく漢学全盛の宮中から生まれている。この嬌から出たものに《ハット・ノイ》や《ハット・ニヤ・トロ》《ハット・ア・ダウ》などがある。こうしたものの歌い方は始めは朗吟風のもので、楽譜も調子もなく、胡弓や一絃琴の伴奏もつかなかった。  b.ハット・ノイ ニユエン・コン・トリュウ(1778−1856)が、この種の歌の元祖ではないかといわれている。彼は深山の美しい詩を残している。このほか、官吏や学者たちが作った詩歌が相当あり《石像の歌》などよく歌われる。この時代には恋愛詩が少なくなり、歌う者に気まずい思いをさせるようなむき出しの真実もない。そのかわり格調が整い、脚韻がふまれ、儒教精神が浸透している。死と生の問題を取りあげ、人生の短さを嘆き、宇宙の美しさを歌ったリする。《ハット・ノイ》はさいしょ、宗教上の大きな儀式や大祭のときに演ずるものとして、滅多に歌われなかった。しかし時代が移るとともに大衆化し、また他の名前をつけて変化し今日も歌われている。しかし、今日では往事の高尚な詩の精神や趣味などは若い安南人たちには真に理解されてはいない。
(つづく)
二.過渡期の歌 過渡期には、次第に各国の影響を受け、いろいろな歌がどっと入りこんで流行歌のうえに大きな時代を劃するようになった。  a.改作した歌 《ビン・バン》《ヴォン・コン》《シュアン・ヌ》《マウ・タム・ト》などの新しい歌は中国の歌から出ているもので、よく歌われる。また演劇の方面からも新しい歌がたくさん出てきた。トンキンとサイゴンの距離は青森から長崎以上もあるので、風物その他もだいぶ違ってくるが、歌の流行や歌い方、好みも違ってくる。同じ安南語を使っていてもハノイとサイゴンでは言語が少々違う。サイゴンでは韻文音楽劇の安南芝居が盛んで、良い歌手が出れば人気も加わることとなり、ニヤム・フイとかフン・ハ、キム・トア、ターン・ロアンといった歌手が有名である。  b.際物 [キワモノ] 仏印では《支那の夜》や《愛国行進曲》《暁に祈る》その他を真似ている。だから歌詞くらいは際物ができそうなものだと考える。前の欧州大戦のときには、フランスの戦線に安南兵、カンボジア兵がたくさん動員されたが、兵士たちとその家族の別離は格別悲しいものだった。この辛い別れの感情が、当時の安南人のあいだに感動的な歌曲を流行させた。内容は夫の運命を心配し、独り残された自分の寂しさを歌ったものが大部分だった。その悲しみは心臓をえぐるような態のもので、その気持ちがわかるような気がしてならない。この歌は、当時の若い男女にとって思想的に不吉な役割を果たしたといわれる。このたびの大戦では皇軍や在留邦人が、日本の明るく威勢の良い歌を歌うので、サイゴンなどでは葬式の楽隊にまで《愛国行進曲》その他の日本の曲を演奏して原住民の心を大いに明るくしている。  c.カ・ユエ 安南の王城の地順化の有名な歌である。もっとも知られているのはタン・タイ帝がレユヨン島へ島流しにされたときに歌われたものである。順化の歌は今日ではあまり歌われないが、《ナム・ビン》や《ナム・アイ》などはよく歌われている。
(完)
メモ:筆者は陸軍報道班員。
【2005年11月3日+11月6日】
時局投影野呂信次郎編(『音楽之友』 第3巻第9号 1943年09月 p.23)
内容:ソロモン群島のレンドバ島、ニュージョージア島ムンダ攻略を呼号、またニューギニア島サラモア付近の激闘を始めとして西南太平洋方面の敵の反抗は壮絶を極めている。敵は莫大な損害を被っているにもかかわらず執拗に反撃しつつあるので楽観を許さない。わが将士の闘魂は世界無比の強靱さを誇るに足る。銃後が「職場も戦場」の覚悟をもって誠を尽くすのみ。1943年7月14日から3日間、国民総常会第4回中央協力会議が開かれ「勝ち抜く誓」を決議した。7月19日の地方長官会議、20日の初の地方行政協議会長会議では食糧増産、企業整備、輸送力確保等当面の重要施策に関し意見交換が行われた。速く実践に移してもらおう。1943年7月20日、第3回「海の記念日」を迎え船員92氏に寺島逓相から初の勤労顕功賞が授与された。同じ日、陸軍輸送船神龍丸船長木村準二の最期が伝えられた。1943年7月22日、大蔵省より1943年度国民貯蓄目標額270億円に対し、去る4月より6月にいたる第一四半期の実績は79億400万円で目標額の2割9分と発表された。シチリア上陸以来、米英軍はイタリアに対しローマ爆撃など懐柔や威嚇をしてイタリア国内の分裂を計ろうとしていると外電が伝えている。その矢先、1943年7月25日にムッソリーニ首相辞任、後任にパドリオ元帥が就任した。新内閣は初閣議でファシスト党の解散を決定。インデルリ駐日イタリア大使は三国共同戦争の完遂方針は不変である旨わが国に伝達した。1943年8月1日、ビルマは独立を宣言、国家代表にパーモ行政長官が就任。ただちに米英に宣戦布告した。タイ国民政府は帝国とともに即日同国を承認し、かつ日緬同盟条約を締結した。また同日、国民政府とのあいだには上海共同租界の還付により在華租界の全面的返還を完了した。次いでわた治外法権撤廃の第一歩として課税権の移譲を実施した。半島に徴兵制が施行されたのも同日である。帝国在郷軍人会では1943年8月8日、大詔奉戴日を期して全国一斉に「決戦完勝大会」を開催、防衛の決意と戦時生活の徹底を表明した。8月10日からは織物の種類や規格が改正され衣料切符点数の一部が引き上げられた。戦時生活に不必要な奢侈品や不要不急品は追放すべきだ。ひとり衣生活のみにあらず。楽壇はどうだ?
【2005年11月13日】
楽壇戦響堀内敬三(『音楽之友』 第3巻第9号 1943年09月 p.24-25)
内容:■楽器使用者の責任 この春から製造販売が禁止されていた楽器類だが、このたび政府当局から一定量にかぎり重点配給が許可されることになった。学校用のオルガン・ピアノ、職場や青少年団用の吹奏楽器・ハーモニカなどは申請によって入手できるわけである。民間から銅や鉄を回収する一方で銅製や鉄製の楽器製造を許可するのは、楽器が武器でありうることを政府が認めているからである。楽器を使う者は、楽器の一つひとつを米英戦の武器として他のいかなる金属製品よりも役立たせなければならない。楽壇人はこの責任をよく考えよう。■吹奏樂の知識が必要だ 産報の調査によると1943年7月現在で全国(朝鮮、台湾を除く)の工場・会社・鉱山等の吹奏楽団は929、ハーモニカ合奏団は573、合唱団は567であるが、調査漏れや未回答があるため、およそ3割を増して吹奏楽団1200、ハーモニカ合奏団と合唱団は750と見たらよかろうということである。学校や青少年団の音楽団は別であるが、産報が調査した音楽団の指導には専門の音楽家が当たっている場合と、それだけでは数が足りずに音楽家以外の音楽技能者(音楽を能くする職場人や国民学校教員等)が指導している場合も多いのである。音楽団の中で吹奏楽は特別な知識がないと指導できない。ところが専門の音楽家といえども吹奏楽を知らない人が大多数である。この際、専門の音楽及び非職業的な音楽技能者に「吹奏楽」の知識をもつようお願いしたい。そしてその知識をもってすぐ実際の指導に当たってほしい。いまの若い人たちは軍隊的教練を必須のこととしてやっているが、音楽技能者にとって吹奏楽は同様に必要なのである。差し当たっての勉強には廣岡九一の『吹奏楽指導の方法』(大日本産業報国会発行)が実によく書いてある。なお管楽研究会や共益商社書店などから吹奏楽関係の良書がたくさん出ている。■公募管絃楽作品を見て このほど日本音響会社(ビクター)が公募した管弦楽曲と、日本放送協会が公募した「米英撃滅行進曲」の応募作品を見た。集まってきた作品の質が昔のコンクール等と比べて格段によくなったことに驚いた。日本音響の公募作曲はどのコンクールに出しても一等候補にあげられそうな作品が6つも7つもあった。米英撃滅行進曲には特別にとびぬけた作品はなかったので一等賞を出さなかったが、佳作以上の6篇は普通の標準でいえば2等以上になるべきものだった。「戦争は文化を進める」と言うが、この状況は日中戦争以前には想像できなかった。しかし、この先が難しい。バッハ以上、ベートーヴェン以上、ワーグナー以上の音楽を作り出さなくてはならない。■日本放送協会の新音楽陣 1943年8月6日に日本放送協会の人事異動が発表され、前音楽部長小林徳二郎は名古屋放送部長に、前副部長有坂愛彦はレコード文化協会常務理事に栄転、新音楽部長には毎日新聞から吉田信、副部長には教養部から宇田道夫が就任した。みな旧知の友人ばかりであるが、米英撃滅の音楽陣はますます強力になったことを覚える。■留田武君を悼む 声楽家留田武は突然逝去した。藤原歌劇団になくてはならぬ第一級のバリトンとして活躍していただけに、まことに残念である。留田は誰からも好かれ、非常な勉強家で歌劇の舞台にはいつもプロンプターのいらない人だった。音楽だけでなく演技についても努力研究を怠らなかった。これがため弱い身体を無理しすぎたことは事実だと思う。しかし、それでよいのだ。努力の結果倒れたら男子の本懐だ。
【2005年11月17日】
雄渾なる作曲と青砥道雄(『音楽之友』 第3巻第9号 1943年09月 p.26-27)
内容:大東亜共栄圏の盟主であるべき日本の音楽芸術が数機国独・伊と比してはるかに低位にあることは、現下、もっとも憂慮すべき重大事にして、音楽家は必死の覚悟をもって邁進敢闘しなければならない。いつまでのも音楽といえば西洋音楽と考えられるのは恥ずべきことで、いまもって音楽の分野では欧米の植民地であるかの域を出ていない。また、姉妹芸術である美術、文学が時局に対応する決戦体制を確立したのに対し、音楽は遅々として進捗していない。演奏界では今春以来、非常時を反映してジャズ式音楽思想を一掃して純芸術的作品が多数演奏されるようになった。これは偏に日本音楽文化協会がその陣容を整備して、国家が要望する体制に導こうとした努力の顕現とみるべきであろう。しかしながら、創作面の不活発は依然として救いがたい状態であった。一方が真摯に戦争の対応に腐心しつつあるのに、大多数はまだ日和見的根性に終始しているのは憂慮すべきで、演奏家協会と日本音楽文化協会の合同問題等は解消して大同団結し、大進軍を開始すべきである。現在もっとも必要とされているのは日本人の作曲によっていかなる場合も演奏に間に合わされるということである。戦争文学や戦争美術が盛んに創作され、これが確立されているのに反し、戦争音楽が生まれ出てこない理由はどこにあるのだろうか。作曲家があまりに簡単に放送の作曲やレコードの作曲に恵まれすぎている結果ではないだろうか。戦う同胞の万象を考えてみるべきではないか。戦時音楽の素材はたくさんあるので、ここに、いままでに考えが及ばなかった新構想の力強い生活に即した音楽の生まれ出るべき原因がある。力強い生産面を反映した雄渾なる作曲、真に日本精神に徹した音楽が生まれ出てくることを待望するものである。作曲家よ、君らの奮起すべき秋はいまである。君らの音楽報国は戦う皇国の雄塊なる姿を創作によって残すべき使命が与えられているのである。努力精進すべき作曲家の一大決意を要する重大な秋であると信じる。
メモ:筆者は科学動員協会産業課長。
【2005年11月20日】
◇音楽記録(『音楽之友』 第3巻第9号 1943年09月 p.31)
内容:●軍人援護運動に音楽家の挺身 これは日本文学報国会から軍事保護院に献納された愛国詩中の定型律のものから51篇を選び、日本音楽文化協会において同協会作曲部会員を動員して作曲に当たり、来る1943年9月10日に全作曲をとりまとめて軍事保護院に献納する。●青少年団音楽隊の指導者錬成会が開催された 1943年7月26日より8月4日まで山梨県山中湖畔にある日本製少年団分館清渓館で開催。現在、青少年団喇叭隊、喇叭隊、鼓笛隊などの指導者であって道府県青少年団音楽指導員に対し音楽の指導と錬成を実施した。●国民皆唱《みたみわれ》の指導隊を派遣 大政翼賛会で決戦下国民士気の昂揚と健全慰楽という狙いで同会の選定した国民歌《海ゆかば》《この決意》などをもって第1回「国民皆唱運動」を展開、日本音楽文化協会が実施の主体となって好評を博したので、これを徹底させるために新たに撰定した《みたみわれ》を指導曲として日本音楽文化協会と情報局の後援を得て第2回「国民皆唱運動」として戦場精神昂揚「国民歌、みたみわれを歌ふ会」を展開。この歌唱指導隊は日本音楽文化協会が中心となって結成される音楽移動報国挺身隊をもって編成された。一隊の編成は男歌手1人、女歌手1人、伴奏者1人の3名づつで(場合によっては2名)、1943年7月下旬から東京都、京都府ほか19県で開催された。●情報局では交響楽団の動員態勢を確立し、毎月1回交響楽団協議会を開くことになった これは交響楽団相互の連絡協調を計り、時局下の交響楽団に国家目的に即応させるか、演奏企画に関する問題等を協議する筈である。協議員は日本交響楽団(有馬大五郎)、東京交響楽団(早川彌三衛門)、大東亜交響楽団(福村恒雄)、青年日本交響楽団(服部正)【( )内は責任者】。●戦時下の満洲国を素材として満洲新京音楽団で管弦楽曲を募集 財団法人新京音楽財団では戦時下満洲文化の昂揚に資すべく戦時下の満洲を素材とする管絃楽曲を一般作曲家から広く募集することとなった。募集要項は「時局下の満洲を素材とせる管弦楽曲」所要時間30分。示された編成のほかに満洲楽器を使用しても良く、打楽器は4人以内で演奏可能な範囲で範囲において使用すること。1人1回限りで管弦楽総譜にピアノ・スケッチを添えて演奏時間概算を付記し、すべてペン書きで提出する。応募資格は東洋人であること(東洋居住の白系露人も含む)。送付先は新京特別市永楽町4−1、藝文会館内。締切は康徳10(昭和18=1943)年12月15日。発表は康徳11(昭和19=1944)年1月31日で、優秀作品は特選として賞金1,000圓、副賞として満洲に因む作曲希望者(入賞者中)に満洲視察旅行費として500圓を贈呈。視察旅行後6ヵ月あいだに前項作曲を完了提出すること。なお、入選作品がない場合はこれを決定しない。入選作品の著作権は新京音楽団へ帰属、楽譜は返還しない。また入選作品は新京音楽団公演で発表する。作品には応募者住所氏名を表紙以外に記入しないこと。入選作品以外は楽譜を返還する。●第2回南方向吹奏楽譜決定 日本音楽文化協会国際音楽専門委員会では先に第1回南方向吹奏楽譜を銓衡、春に決定したが1943年7月14日正午より3時まで、新田ビル第一会議室で第2回銓衡委員会を開催、これを決定した。第3回は7月28日正午より前記の場所で開催。●国立作曲研究会第5回試演会 1943年7月25日(日)夜7時、麹町区六番町の村山スタジオで開催。出演発表者は村山重任、富永三郎、関原利江、澁谷修の諸作品を日本絃楽四重奏団演奏、宮本良平、渡邊美子、堀口瑞枝、西田幸子等の独唱により発表。●海軍軍楽隊日比谷奏楽 海軍軍楽隊は1943年7月24日(土)午後5時、日比谷音楽堂で日比谷奏楽を開催。今回は東京都と改称されてから初奏楽である。●能楽5流が報国団を結成 1943年7月13日午前9時30分、豊島区駒込染井能楽堂で技芸部委員会を開催。伝統を護って一般芸能界と隔たった特殊な高踏的存在と見られていた能楽界にもここに決戦下に即応する態勢となった。●留田武 バリトン歌手として期待されていたが、16日関西の演奏旅行から帰ると同時に扁桃腺周囲炎を起こし、23日敗血症で他界した。享年33歳。留田は1912年10月18日金沢生まれ、武蔵野音楽学校出身、薗田誠一、ノタルジャコモ、下八川圭祐に師事。
【2005年12月1日】
編輯室澤田周久 黒崎義英・加藤省吾・清水脩・青木栄(『音楽之友』 第3巻第9号 1943年09月 p.32)
内容:食糧増産が痛切に感じられるこのごろ、自宅の畑にスイカが実った。種子を蒔いてからの苦心を思うと喜びが大きい。スイカづくりで農の尊さを教えられたが、愛読者諸氏が雑誌の苦心を読みとっていただけるといいと思った。(澤田)今月から本誌の編輯は清水修が担当する。黒崎は音楽之友社全般の企画に参与することになり、主に出版部の仕事を引き受ける。音楽雑誌が近々第二次統合の気運に際会しているが、音楽出版界においても大同団結の具体化が議論されている。雑誌制作がマンネリズムに陥らないためにも雑誌の編輯者はときどき交代してみる必要がありはしないか。(黒崎)1943年8月5日に行われた日本音楽文化協会の総会において多年の懸案であった演奏家協会との合併が決まり、楽壇一元化もその軌道に乗ってきたかの感がある。しかし日本音楽文化協会の今後に課せられた使命は、ますます重大となってきた。願わくは日毎激化しつつある決戦下に、音楽もいかにして直接戦力増強に寄与すべきかの方途につき、確固たる方策を樹立し全楽壇こぞってこの一点に全力を集注できうるように切望したい。(加藤)決戦下青少年の活躍はあらゆる意味において期待されている。今月はこうした意味から青少年の音楽はいかにあるべきかについて大日本青少年団朝日奈副団長の原稿をいただいた。(清水)雑誌に直接関係する人の協力はもちろん、楽壇人の総意を反映し、さらに楽壇への反響が密接になるようその交流を緊要とするものである。したがって総員で雑誌を盛り上げ、謙虚な気構えと聖戦完遂への熱意とをもって初めて使命が果たせると思う。(青木)
【2005年12月8日】



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