『音楽之友』記事に関するノート

第3巻第10号(1943.10)


銃後の陣頭に<巻頭言>堀内敬三(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.3)
内容:戦局はますます激しさを加える。いま私たちに必要なのは旺盛な元気だ。音楽はその元気を国民に与えつづける力をもつ。明朗快活な歌をつねに歌うことによって、国民は爽やかで溌剌とした気分をいつも持ちつづけるであろう。民族精神のこもった崇高な楽曲や純粋な美に満ちた優雅な楽曲を聴くことによって、国民は清純な高邁な気宇を養うであろう。音楽は単なる娯楽ではない。日本人誰しも君国を思う心に変わりはない。音楽にたずさわる者はその忠誠を傾けて、君国のために音楽を振興し、武器としての音楽を充分に役立たせなくてはならない。音楽関係者は国民を強くし、明るくする力をもっているのだ。自信を堅持し、一段の努力を加えて銃後の陣頭に立とう。
【2005年12月15日】
健全音楽の推進 ― 戦力増強に資する音楽とは何か...(対談)吉田信 吉本明光(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.4-14)
内容:記者:ちかごろ言われる健全音楽については人によって考え方が大きく違うと思う。そこで健全音楽とはどういうものであるか、全般的に考えたうえで話を進めていきたい。●健全音楽とは 吉本:両三年来使われている言葉だが、使っている連中が定義を全然考えていないのだと思う。健全音楽とは方法論である。だから戦争に勝つひとつの手段として役立つものだったら健全音楽だと思う。いかに芸術的価値が高くても、戦争に勝つ手段でなくなったときには健全音楽ではない。武漢作戦の頃、ラジオで初めて戦争の実況放送をやった。すると内地では頽廃的だからという理由で放送が禁止されている《別れのブルース》を戦場の兵隊たちが楽しそうに歌っていた。このように銃後では具合が悪くとも、戦場の兵士たちの慰安となり士気を昂揚する手段であるならば、これも健全音楽といい得る。吉田:音楽の本質が健全なものだから、どの音楽を取りあげても本質においては健全なものだと思う。放送協会に入って約1ヵ月、放送されている音楽は多種多様にわたっているが、どれも健全だと思える。同様にわが国で演奏されているほとんどすべての音楽も健全だと思える。だから、不健全な音楽とは何かということから論じる方が早い。 ●放送音楽 記者:企画側の放送局が健全だと思って放送した音楽を、受け手がそのとおりに受け止めているかどうか、それはいかがか。吉田:その場合は健全不健全という問題ではなく、聴取者にとっての娯楽性の有無が問題だと思う。吉本:それは趣味の問題ではないか。ラジオが放送しているものを一億国民すべてが摂取するという考えが間違い。ラジオの聴取というのは自分に必要ないものは聴かないというやり方でよいと思う。記者:しかしラジオは聴くまいとしても聞こえてくることがある。この点は見過ごしてはいけないと思う。 ●勝ち抜くための音楽 吉田:この決戦下、音楽も勝ち抜くために役立たなければ行けない。ある場合には国民の士気を鼓舞する役割も果たすだろうが、それ以上に国民に慰安娯楽を与えるものでなければいけないと思う。また、今日の日本が大東亜の盟主として各国の諸民族を文化的に率いていくために、芸術的香りの高いものも作らなければならない。究極的に直接戦争に役立つために、音楽はもっとも楽しみが多くてもっともわかりやすいことが必要だと思う。あるいは、いままでの音楽よりも純芸術的観点から見れば内容的に低くとも、それが国民全体に与える娯楽の量が多く、楽しみの量が多ければそれで充分だと思う。吉本:それが実際の演奏部門に移った場合に、依然として芸術至上主義の選曲や演奏であったり、商業主義的な選曲や演奏であったりして、戦いに勝つ音楽ということが徹底していない。決戦下だから、もう少し国策を反映したやり方が必要になってくる。 ●お題目の駆逐 記者:さいきん国民歌はもっと力強く明るく楽しいものでなければならないと言われるが、その点はどうか。吉田:いかにも国民に押しつけがましい歌は、予期したような効果を上げないのではないか。歌には歌本来の使命があるので、国策を謳いこんだものならば国民に趣旨が徹底するだろうという考えは是正しなければならない。吉本:ひとつのもので何にでも間に合わせようというやり方がいけないのだ。いろいろな目的で作られた音楽があるべきだと思う。《みたみわれ》を勤労の後の慰安用として再三使用しているのはとんでもない誤用だと思う。記者:昔の盆踊りは農民にとっては士気鼓舞に役立ったのではないかと思うのだが。吉田:と同時に、ひじょうな楽しみであった。[いまは]やたらに固い歌が作られるが、固い歌ならば士気が上がるとはいえない。(つづく) ●国民合唱について 記者:放送局の国民合唱は民間のあるいは工場鉱山等の合唱運動にひじょうな影響を与えている。吉本さん、国民合唱についての考えを聞かせてほしい。吉本:国民合唱が産報方面に普及しているのは与え方の問題だと思う。つまり産報という組織を通じて命令権を持つ工場の幹部が全職員に向かって歌わせることが一つ。もう一つはいままで歌ったことのないような連中までもが皆といっしょに歌ってみて楽しいとわかること。この2つが作用して国民合唱というものが産報という組織でひじょうに歌われている。しかし、今後放送局にお願いしたいのは、国民合唱を通じて音楽による慰安というものを提供してほしい。吉田:同感だ。9月20日の航空日にぶつけて放送する《征くぞ空の決戦場》(海軍報道班員の井上康文作詞/高木東六作曲)は作詞作曲の両者が心ゆくまで練ったもので、いままでの国民合唱と趣を異にすることがわかっていただけるだろう。吉本:国民合唱という名前を変えることはできないか。合唱というと少なくとも二部で歌わなければならなくなる。吉田:あれは前放送課長で現在情報局第2部第1課長の宮本氏の案でできた。宮本氏によれば「国民歌謡」の「謡」というのが流行歌の「歌謡曲」に似通って軟弱な印象を与える。剛健で家庭の歌として相応しい名前を考えたあげくできたもので、「合唱」といっても二部三部で歌うこともあれば時には斉唱でも良いという考えだ。今後は斉唱の曲も作りたい。吉本:国民合唱の放送携帯についてお願いしたい。いままで国民合唱の指導を受けるのは何々合唱団といった合唱をやっている人たちだった。これを音楽的素養のない素人の集団を使って、いかにして一つの曲を歌い得るかというところを放送してもらうと全部の聴取者がついてこられる。吉田:いわゆる合唱以前の音楽大衆が多いと思う。その人たちがどこまで二部合唱を楽しんでいるかは問題だと思う。 ●国民合唱の改新 記者:国民合唱が放送されたことによって易しく合唱できることが普及し、合唱団の数も増えた。国民合唱はいかなる考えで始められたのか。 吉田:外国では男女が集まって歌う場合はすぐに重唱になる。日本でもできるはずということで家庭的なものをねらったのだが、結局は職場の方で使われて、国民合唱が実際に戦力増強の一翼を担当しているという点で思わぬ効果を上げたと思う。記者:以前の国民歌謡はなぜやめたのか。国民合唱と平行して行った方がいいのではないか。吉田:きのう情報局の水谷課長と話したときに国民合唱の話題が出て、吉田は国民合唱をもう少し大衆層に浸透させたいと話したところ、水谷課長も国民合唱には一つのスタイルができたので、ここらでそれを打ち破り新しい歌曲の形式をつくり出すことも必要ではないかとの意見だった。いままでと違った型のものを作りたいと思っている。 ●国民皆唱運動 吉本:大政翼賛会が今年から始めたこの運動は純粋は国民運動、精神運動であって音楽運動ではないということを強調したい。ところが指導者の音楽家の中には、あれを純粋な音楽運動として扱う傾向がある。これを職場だけでなく町内会や隣組などの国民組織を利用して国民運動と平行して音楽運動を歌を仲介役として実践していく。そうすれば国民の団結も強固になり、同時に音楽のもつ力も発揮できる。隣組などで歌唱運動ができないというのは指導者がないことと、国民合唱というものが未だ国民の生活から遊離している傾向があるためではないか。吉田:国民合唱につくお題目を避け、何か押しつけられたという感じをなくそうと話している。(つづく) ●新しい歌謡曲 吉田:国民合唱と歌謡曲や流行歌との関連についてききたい。国民合唱はホームソングやフォークソング、あるいはスコットランドの民謡や讃美歌を取りあげて作られた唱歌のスタイルを型にもっているものが多分にある。一方、歌謡曲や流行歌は日本の三味線音楽を基調にして、われわれの庶民生活のあいだから生まれた音楽だ。国民大衆が流行歌を好む事実を見過ごしてはいけないと思う。流行歌の底に流れているものを採りあげて、国民合唱のなかにその精神を盛り込んで新しいものを作り上げることも必要ではないか。吉本:お説のとおりだ。大戦勃発の8ヵ月前にできた《さうだその意気》という歌は、戦争は避けられない時期にあって一番必要なのは防諜であり、その根本問題は日本人である自覚であるという新精神を急速に国民に浸透させる必要があって、それも陸軍が命令して1度は歌うが2度目は歌わないような歌ではいけないという事情を反映して作られたものだ。作詞は一般から募集したが適当なものがなく、審査員の西條八十に依頼したが陸軍の気に入らず3回めで良しとなった。作曲の古賀政男も同様に3回目で良しとなった曲である。この曲は官庁全部が選定歌にし、歌わない者は非国民だとまで極言したが、1度歌ってみると日本人の琴線に触れた。さきほどの問いに対して過去の実例をもって答えた。 ●日本の音楽観を堅持せよ 吉田:バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンその他の音楽家が偉大であることは認めるが、たとえばベートーヴェンの9つの交響曲すべてが日本人にとって最高であるという考えは一度精算してほしい。西洋音楽史的に二流三流の作品であっても、われわれ国民の士気を昂揚したり民族の魂に訴えるものがあれば、一級の作品として採りあげて良い。日本人の作った作品を酷評し、外国人が作った曲だから良いという考えは精算してもらいたい。吉本:創作する側がレコードという商品を通じて儲けようという態度が非難されたと思う。だが売れるということはわれわれの胸を打つものがあるからだ。いままでの音楽関係者がもっていたヨーロッパ文化中心の考え方を良しとする音楽観や世界観から、ヨーロッパのいいものは採り悪いものは捨てるという考え方を強固にする必要がある。 ●レコードの効用 記者:レコードはこれまでは売らんがための露骨なものがあったと思うが、今後は許されないと思う。吉田:ひじょうに売れたレコードとは大衆が喜んだもの。音盤芸術とは一種の庶民芸術だ。たとえば《さうだその意気》が何十万枚も売れたことは、作者たちはそれによって国家に貢献していると思う。記者:しかし流行歌は大衆におもねるものが多分にありますが、いかがでしょうか。吉本:もっと本質的にはわれわれの感情に共鳴するものがなければ、大衆はついてこない。そして、たとえば頽廃的といわれる軽音楽を産業戦士に聴かせて能率が上がるならば提供しなければいけないが、有閑階級の娯楽のためには厳禁しなればならない。軽音楽は提供の仕方によって薬にもなれば毒にもなる。 ●芸術作曲家と大衆 吉田:日中戦争以後大衆に愛唱された《露営の歌》《愛馬進軍歌》《太平洋行進曲》《暁に祈る》《父よあなたは強かった》《日の丸行進曲》《国民進軍歌》《さうだその意気》《荒鷲の歌》などは大衆に接触している流行歌作曲家か無名の巷間の作曲家による曲である。これらは国民に呼びかける効果は上げている。しかし芸術作曲家がなんら国民大衆に訴える曲を書けていないのに、いたずらに流行歌を非難する態度はいけない。吉本:信時潔の《海行かば》は一億国民が感激をもって歌っているという点だけからなら、これを流行歌の範疇に入れても良い。吉田:音楽家全般は考え方を変えなくてはいけない。(つづく) ●戦力増強に役立つ軽音楽 記者:灰田勝彦には産業戦士が随喜の涙を流すが、聴いてみるとアメリカのジャズ、映画主題歌から一歩も出ていない。これがレコード化を許されていることじたい問題だと思うがいかがか。吉田:灰田の《南の旋律》が問題のようだが、多少向こうの匂いがあっても、それが日本化され産業戦士が喜び、生産拡充につながるならば、それが非常な害悪を流さぬ限り良いのではないかと思う。吉本:戦力増強に直接役立つかどうかの問題が出てくる。記者:喜べばいいのか? 吉本:ただ大衆が喜べばいいというのではなく、戦力増強に直接役立てばということが条件になる。灰田の歌で生産が上がったのならば、産業戦士に聴かせる場合だけは決して問題ではないと思う。記者:ちかごろ歌謡曲などに対しても、産業戦士が割り切れないものを感じる傾向がとても強まっている。これは、昔からいっている健全音楽に対して大衆が向上したことになるのではないか。吉本:音楽を受け取る側の世界観が替わってしまえば、健全音楽が即時に推進できるが、まだ完全ではないので過去のいわゆる退廃音楽でなければ慰安にならないという感情があり、複雑微妙な点だと思う。 ●長調か短調か 吉田:《露営の歌》《父よあなたは強かった》《暁に祈る》《さうだその意気》《荒鷲の歌》は皆短調の曲だ。これらは銃後でも戦地でも歌われ、喜ばれている。しかし純音楽畑の評論家は、短調の曲を柔軟だ、感傷的だといって非難する。検閲当局も、そうした人物の影響を受けて短調の曲が国民生活に害毒を流すという概念をもちやすい。しかしわれわれは西洋人と違う音感をもっている。それを西洋音楽の観念から非難することは嘆かわしい。記者:それは評論家の一種の錯覚だと思う。吉本:錯覚より評論家に確固たる日本観がない。吉田:短調の曲に対する考えを再検討してもらわなくてはいけないと思う。吉本:《さうだその意気》が物議を醸したのもその点である。いろいろ非難はあったが害毒の報告はないし、むしろこの歌を歌って前線の兵士同様に、死にものぐるいで増産に挺身したという報告が入っている。吉田:奥田良三が毎週1回歌唱指導に行っていた小田原の少年刑務所で《さうだその意気》が一番感激する歌だと知り、音楽者も考えを変えなくてはいけないというようなことを言っていた。そこからわれわれの音楽観をつくり出さなくては困る。短調の曲は、われわれにとって悲壮な、愛国心の発露となる。外国流の音楽観がいままでの楽壇の風潮だと思うので、長調の曲でないと健全でないと思っている。そういう考えを改めてほしい。記者:短調の曲は退嬰的になることがあるのは頷ける。その点を警戒すればよいのですね。吉本:退嬰的というからいけない。日本人のあいだには悲壮感がある。悲壮感は退嬰的はなく積極的なのだ。吉田:詩吟によってわれわれは鼓舞される。あそこに流れているのは短調の感情だから。 ●日本人の胸を打つ作品出でよ 吉本:長調、短調の問題は音楽家が確固たる日本観をもてば解決できると思う。吉田:そういう点から発展して、日本人の作曲家から日本人の胸を打つような作品がこの戦争下に生まれるべきものだと思う。記者:いまは絶好の機会だ。吉田:この機会を逃したら千年経っても日本の国民音楽は生まれないと思う。このあいだ行われた山本元帥讃頌演奏会で演奏された、渡邊浦人作曲《闘魂》はわれわれの胸を打つものがあった。だから作曲家が奮起すれば、外国の曲を追い払う曲が立派にできると思う。現在はそれだけの作曲がないから、一時の便法で向こうの曲を採り入れているが、理想としては一日も早く全部日本の曲で埋めたい。信時潔はドイツから帰って《あかがり》《深山にて》などの日本情緒をもった曲を書き、20年経って《海行かば》を出した。だから和歌に作曲すれば《海行かば》のようなものが生まれるという単純な考えはやめた方がいいと思う。日本の作曲家達はもっとつきつめた気持ちで音楽に取り組んでもらいたい。(完)
【2005年12月19日+2006年1月3日+1月8日+1月16日】
音楽時評(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.19)
内容:日本放送協会音楽部長が更迭された。新部長は吉田信。放送音楽がとかくの噂をされている折柄、徹底した改革が期待される。これまで野にあって新部長になった吉田もよほどの決意で出馬したと聞く。先ごろ情報局は演奏会に対する新体制を要請したと聞く。演奏会はこの決戦下にあって未だ恥ずべき姿を留めている。日本人の曲が斥けられているというのは何としても不可思議千万である。曲の巧拙をいう前に、演奏家と作曲家が励まし合って日本人の作品でプロを埋め尽くさなくてはならない。日本音楽文化協会の音楽報国挺身隊が発足した。事務局機構の充実は最後の鍵を握るものだ。しかし1943年10月早々、軍事保護院献曲の普及を控え同報国挺身隊の鼎の軽重を問われる機会となった。日本絃楽四重奏団がベートーヴェンの四重奏曲全曲の連続演奏を始めた。これもひとつの大きな文化的意義をもつが、あわせて日本人の四重奏曲全曲の演奏会も行われるべきである。こうした有数の楽団が率先して行うならば作曲家達も奮起するに違いない。
【2006年1月20日】
南方音楽余談田邊尚雄(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.20-22)
内容:昨年の春以来、わが国民の注意が急に南方に向けられるようになって、雑誌や新聞に南方音楽の紹介が数多く載った。しかし、そこにはなお多くの問題が残されている。第一には、いままで多く紹介されたことがらは表面的な観察に過ぎないようであって、その内部生活にはあまり触れていない。たとえば義太夫のもつ内容とわが国民生活とのあいだの密接な関係とか、江戸時代の封建制度における各大名から派遣された特命全権大使等の外交関係と花柳界の関係から生じた近世邦楽の花柳性の問題などが、近世日本音楽を知るうえできわめて重要であるのと等しく、ジャワやタイ、仏印その他の音楽を研究するうえでも表面的な観察だけでなく、ゆっくりと腰を落ち着けて研究をしていく必要がある。第二には、それらの音楽がもつ科学性の研究である。西洋音楽の十二平均律と比較して、これらの地域の音楽がもつ異なる音律にいかなる科学的価値があるのか、その点に関する研究が南方音楽の理論を構築していくうえで重要な鍵になる。また一般にインドの楽律は8度を22分してあるというが、インドでも7音からなる音階をなぜ22分したのかについて、科学的理論を打ち立てることがインド音楽を了解するたいせつな鍵になる。要するに今日南方の音楽の問題はけっしてわが国民に紹介し尽くされたのではなく、これからようやく始まるのだということを述べたに過ぎない。/さいきんは南方の注目点が、ソロモン群島とかニューギニア、エリア諸島などの方面へ移っていった。さいきん敵が南鳥島を空襲したが、南鳥島を大鳥島と間違えたり東京都の一部だといわれて驚いた人があった。この島はマリアナ群島の近くにある。要するに今日の新戦場はわが内南洋の周囲を取り巻いて行われているのである。わが国民はこの不動の守りを熟視しなくてはならない。内南洋を形成する数千の島の一つひとつは小島といえども、それが太平洋の真ん中に数千里にわたって布陣されているありさまは、あたかも名将が配備した堅陣である。その中央に位置するポナベは天守閣に当たり、東の辺に2列に並ぶ円弧マーシャルは最前線の散兵壕である。その南にあるギルバート群島も今はわが手中に帰し、マーシャルの南縁をなしている。そこで南方の音楽というときに、この内南洋を見直してみたい。わが薩摩や大隈には名高い棒踊りがある。多くの青年男児がかけ声勇ましく長い棒をもって互いに打ち合いながら踊るのである。それと同じ踊りが八重山群島の石垣島にあり、同島の新川ではワカジマボウと呼んでいる。石垣島から南すると内南洋のナップ島へ行くが、そこでも今日盛んに棒踊りが行われている。しかも石垣島の青年が棒踊りをやるときは、頭上に細かく縮れた髪をいただいている。この頭髪は今日ニューギニア土人にみられる頭髪であって、ヤップ土人にも多く見られるものである。石垣島の棒踊りはヤップのものを模したとしか思われないほどよく似ている。(つづく)  薩摩の棒踊りも石垣島のもヤップのも、互いに向き合う二人が打ち合うのである。それがポナペに行くとすこぶる複雑になり、踊り手は2列に並んで4人が一組となり、いずれも一人は3人を相手に打ち合うのである。すなわち一人がすべて前後左右から打ち込まれるから、もし受け損じると直ちに負傷したり時には死ぬこともあり得る。相手から打たれて傷を負っても相手を恨むことは許されない。それゆえポナペの棒踊りは見ていて、手に汗を握る思いがする。この地で数十名からなる一団の棒踊りを見たが、その中央でわずか6〜7歳の小児が大人を相手どって縦横無尽に闘っていたのを見て感激したことがある。/この棒踊りがさらに東のマーシャル群島へ行くと有名な戦闘踊りがある。今日行われている戦闘踊りは古いものと新しいものがあり、新しいものはおそらくギルバート辺りでつくられたものを移入したのではないかと思われる。男子がブリキ缶を手にし、女子が歌いながら、それに和してブリキ缶で地面を叩きながら戦争の状態を描写する。次に戦いに勝って男子がタバコなど吸いながら休憩している間に、女子は戦勝の踊りをやり、終わりに男子は敵の死骸を足で蹴って海中に放棄する状態を演じる。踊り手の服装もすべて洋服で、男子は半ズボンに白シャツ、女子はすべて西洋の服である。この踊りは一種の描写劇と見られるが、われわれには興味がない。/古い方の戦闘踊りは行われなくなってしまった。1884(明治17)年のラエ島事件の際に、有名なアイリングラブラブ島の島王ラボンが我が使節後藤猛太郎と鈴木経勲のためにこの踊りを見せたことがある。現在はラボン王の娘が同島の酋長で、わざわざ田邊のためにジャポールで部下を率いて古い戦闘踊りを見せてくれた。ヤルート島のジャポールの町はずれに椰子の森に囲まれた広場がある。遠くの椰子の木陰から美しく着飾った婦人の一隊が太鼓に合わせて出てきたと思うと、ただちに立ち止まって「ジャボア、ジャボア」と叫び、その声に応じて森の中から男たちが「オー」と応える。両三度こうすると、急に勇壮活発な歌声ともに、手に手に4尺余りの太い棒を携えた骨格逞しき男子百名余り、4列縦隊になって整然と行進してくる。すべて真っ黒な裸体に椰子の油を塗りつけ、腰には踊り用の美しい腰簑をつけている。手にする棒はひじょうに堅い木で、中央は少し太くなっており、両端は鳥の毛根で美しく飾ってある(その形状は紀州の和歌高神社祭礼の雑賀踊りの受け棒と同じである)。男子の後方には、若く美しい女子の一団数十名がいずれも美しい花で頭を飾り、色鮮やかな踊り服を着け、2列横隊になって男子の列と丁字形になって進んでくる。その配合の美しさには感嘆させられた。一行が広場に来ると、一声鋭く叫ぶとともにただちに戦闘が始まる。女子の一団は後方の砂上に座し、女酋長自ら太鼓を打って勇壮な歌を歌うと、それに合わせて男子の一団が4人一組になって互いに棒で打ち合う。ポナペのものは単なる一個の踊りであるが、マーシャルのものは戦闘踊りであるから、婦人が激励する歌声はものすごく、これに和して行われる棒の撃ち合いは魂が入っている。こういう真剣な踊りをもっている原住民をわが日本の中に発見することはありがたいことだと思う。(完)
【2006年1月25日+1月30日】
音楽教育の事ども上田友龜(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.23)
内容:国民学校制度の実施に当たって世間の輿望を負って出発した音楽教育は、3面目を迎えたいま深い迷路にさまよい込んだ感がある。初年度は音感教育だ、和音教育だと津々浦々まで勢い込んでいたが、2年目を経過した今日ではお役目でやっているに過ぎない。計画通りに進まず疲れてきたのである。そして、こんなことをして何になるのかという疑念が強まりつつある。/これは教師の努力と根気が足らないのだろうか。教師用書には音感教育の順序や方法が詳しく述べられているので、その理論がよくわからないとしても、示された順序と方法を忠実に踏んでいけば、ある程度の成果は挙がる筈である。それがいつまで同じことを繰り返しても大した効果が現れないのは、国民学校の先生たちばかりの責任とはいえないものがあるようだ。/この夏、文部省では全国師範学校の教師を動員して相当大規模の音楽講習を実施した。上田もこれを受けた一人だが、それにつけても思うことは教科書の狙いが児童の現実とあまりにもかけ離れているということである。和音訓練もけっこうだし合唱も必要だが、こんなには子どもが動くものではない。20年来児童と取り組んで音楽をやってきた経験から言えば、これを正直にやった日には音楽は子どもにとって苦になってしまい、音楽の教師は子どもから恨まれるであろう。/ドレミの移動式階名唱法による教育が日本の音楽不信の根本原因であるよういわれ、イロハの音名唱が国民学校に採用され、3年まではドレミが使えなくなった。4年からはイロハと並用しても良いが、原則はどこまでも音名唱である。ところが今度出た師範学校本科の音楽教科書は、イロハとドレミが並立している。音楽が調性によって統制された音で組み立てられている以上、移動式ドレミ唱法がもっとも自然で理論的であるものだから、この処置はけっこうなことだ。だが、そうすると幼い国民学校の生徒に難しい音名唱を強いる理由がわからなくなる。/地方へ音楽教育の講習に行くと集まるのは若い女の先生ばかりである。面倒になった音楽は女教員に押しつけてしまう風潮があるのではないか。せっかく芸能科音楽として主要な教育地歩を獲得したのに、若い女の先生や助教の手にだけ任せておくのでは心細い。この決戦下に音楽など全廃せよという論が文教の府にもあるときく。それは音楽をこの大戦に勝ち抜く戦力たらしめるためにいかにすべきかという命題としてた。これは教育音楽だけの問題ではない。
【2006年2月4日】
独逸に於ける国民合唱運動津川主一(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.24-25)
内容:欧州に大衆的な合唱運動が起こったのは近代社会の特産物で、ことにドイツにあっては国民的な愛国運動として発達したのである。/宗教改革の時代から遠ざかるにつれて、ドイツにおける宗教的精神が低調となり、教会自体が弱体化した。そのため一時盛んだった少年合唱学校の制度が廃れ、ついで教会の正統派の合唱音楽は折からイタリアから入ってきた歌劇に押されて忘却されていった。一方、ルーテルなどの宗教改革と相まって、徐々に中世の封建制度が衰退し、ドイツは近代産業組織とともに連邦国家の形態をとりつつも、大ドイツ国家建設の一路を辿っていった。こうして、僧侶と貴族に委ねられていた音楽の擁護権が庶民階級に移り、アーリア民族の血をひく音楽好きなドイツ庶民は、民族的な政治的団結と歩調を揃えて一大合唱運動を展開していったのであった。ドイツで学生の音楽団、すなわちコレギウム・ムージクムを創立したのは作曲家テレマン(1681−1767)で、ライプツィヒ大学の学生によって組織され、管弦楽の伴奏で歌う新様式の合唱音楽は当時のバッハの人気を奪ったといわれる。こうした学生の合唱団は、これ以前にもフランクフルト・アム・オーデル大学でも組織されたという。一方ドイツの小都市では、昔少年聖歌隊で歌っていた音楽好きが合唱団を組織した。これをカントレイエンと呼び、聖チェチーリアを守護の聖人とし、教会の祝日などには少年歌手を入れたりして歌っていた。これの一番古いはトルガウにあったもので、ルーテルの音楽的協力者ヴァルターによって創立され、市の富豪や市参事会の後援を受けたり、1596年ころには準会員を募集したりした。準会員の入会資格には「麦酒を相当量持参すべきこと」とあるが、練習への出席義務の履行は厳格で、正会員は15分遅刻するごとに5プフェニック、1回欠席すると3グロシェンの罰金を出すことになっていた。ところが、これが段々社交と宴会を重んじるようになり、1735年には音楽活動を停止し、1771年には宴会も行わなくなった。1628年ころのこの団体は60名を限度とし、正会員は25名であった。1785年にハイブロンで素人の合唱団が組織されたそうだが社交が主になった。こうした社交団体に過ぎないようなドイツの素人合唱団を、芸術的にも精神的にも飛躍的に進歩させたのは大バッハの息子とともに、フリードリヒ大王の伴奏者をつとめていたカール・ファッシュ(1736−1800)である。ファッシュの功績については『教会音楽』誌上に書いたので、ここでは繰り返さないが、ベルリンの顕官の令嬢を中心に集った数人の学生がファッシュを招き指導を乞うて発足し、1790年に12名から16名からなるメンバーで規則正しい練習を開始した。それが1793年には43名、翌94年に初めて限られた人々の前で演奏した。1796年にはベートーヴェンがこれを聴いて感動したのは有名な逸話になっている。会員数は63名(1794年)、84名(1795年)、200名(1802年)、300名(1813年)、400名(1827年)、500名(1833年)と発達を遂げ、1880年以降今日まで約600名の会員を擁し、今日はゲオルク・シューマンが指揮をしているが、日本でも音盤で知られている。バッハの《マタイ受難曲》の復活演奏を担ったのもこの合唱団である。しかし、この画期的な大衆合唱運動に参加する者は、はじめなかなかいなかった。この合唱団が誕生して9年後、同種の合唱団が一つだけできたが、27年後の1818年までに、ドイツでは10団体を数えるのみだった。1808年に、前記のベルリンのジングアカデミーの指揮者ツェルターが同団の24名の男子をもってリーダーターフェルを組織した。そしてテオドール・ケルナーの愛国的な詩歌にウェーバーなどが作曲するに及んで、全ドイツに男声合唱運動がまきおこった。やがてこれが国民的な団結となり、今日のゲマインシャフト精神の素地をかたち作るのに一役買ったのである。1865年にこの合唱団音楽祭が行われたとき2万人の団員が参加したが、1928年にウィーンで行われた合唱祭には20万人の歌手が参加し、このために8万人を収容する楽堂を建設した。ナチス政権となった新しいドイツで、ことに第二次大戦中、いかに国民合唱運動が民族精神の高揚と国民の団結に資しているかは近著で述べているので、これも重複を避けることとした。
【2006年2月9日】
敵地へ飛ぶ電波牧定忠(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.26-27)
内容:夜中の午前零時。海外放送は、この日さいしょの放送が始まる。1年365日、毎日1分1秒の相違もなく放送はきちんと電波に乗って飛ぶ。相手はアメリカとインド。こうして対敵放送のその日の第一声は、午前零時を期して始まる。一方のスタジオからホットジャズの音が聞こえてくるかと思えば、隣のスタジオからは耳慣れないインド音楽が哀調を絞り出してくる。またしばらくすると流ちょうな英語のアナウンスによって日本交響楽団の管弦楽が送られる。しかしこれも真夜中の1時過ぎなので驚く人もあるかもしれないが、これは前日の昼間に演奏したものをアナウンスも含めてそっくり録音しておき、真夜中の放送に使っているのである。インド向けのインド音楽はインド人の注意をできるだけわれわれの放送にひきつける手段として用いているのであって、ジャズにせよインド音楽にせよ敵に対する音楽戦略の一つに過ぎないのである。このほかにもいろいろな手によって、米英その他の諸敵国に戦いを挑んでいる。雄渾壮大な行進曲を内地と大東亜各地から公募して対敵放送の資料としようとしたこともあれば、また大東亜各地の音楽や演芸家等の演奏を直接収集して、日本が占領する各地における芸能方面の活躍が、戦時下であるにもかかわらず、これら軍政地においていかに保護され伸ばされているかという現状を、敵に対し現実の音を通して誇示することも努力しつつある。現在国内において音盤会社から発売されている大東亜の音楽も立派なものであり、珍しい収集であることにはわれわれも異論を挟むものではないし、またこれらもわれわれの対敵音楽放送の資料の一つであることも事実であるが、現在対敵音楽放送に関係しているわれわれが欲するものは常にもっとも生々しい資料であることが第一である。たとえ演奏は多少下手であっても、現実にそこで演奏され、しかもその演奏が民衆とともにあるという状態を敵に対しいかに知らしめ得るかという演奏こそ第一義的に欲するのである。(つづく)  こうした意味で大東亜各地からも続々と材料を蒐集すると同時に、国内でも各地にマイクロフォンをもって、各種の放送資料を蒐集するとともに、東京都内でも各種の演奏会を敵に向かって送り、国内においても敵米英の逆宣伝を封じ、しかも逆にこちらは真っ向から戦いに挑んでいる。百貨店三越のパイプオルガンを中継して直接アメリカに向けて放送したこともある。永年アメリカにあって親しまれた木琴奏者平岡養一の対アメリカ放送も、アメリカ人はどのような気持ちで聴いているのであろうか。日曜日の朝、静寂な教会の中、パイプオルガンの音につれて行われる祈り、ミサ。それは戦争前と何ら変わりなき民衆生活の安居を示している。これら音楽放送は孤立的に存在しうるものではなく、常にその前後にある報道や講演などと組んで国策遂行の一翼を担っているのであって、音楽的な自己陶酔に陥ることは避けなくてはならないのである。音楽資料の蒐集が現実に音楽放送を担当することのほかにも重要な仕事であることが、以上の事情から明瞭になってくるし、そのためにはわれわれが戦地にまで赴くこともあれば、いかにして最新のジャズ音楽を使用すべきかを考えることもある。以上のようにわれわれの音楽放送が対敵に全力を集注しているのは当然で、しかもこの場合音楽放送は多分に消極的な立場をとるのである。したがって、われわれはいかにしたら敵国がわれわれの放送を聴くか(敵国は何時何時の音楽放送が面白かったとは言ってくれないから)、面白くもない音楽ばかり放送したとしたら、それに続く報道その他国家にとって重要な施策などを彼らに聴かせる機会までをもなくしてしまうのではないかということも神経を悩ませる問題である。幸いアメリカでは一般民衆から短波受信機を没収したという情報は得ていないので、一般民衆もわれわれの対敵放送を聴いているとすればまことに好都合なことなので、われわれはアメリカ向けの音楽放送の強化に努めなくてはならない。ジャズの問題では、現在のアメリカにおける最新流行のジャズですら、われわれの手によって逆にアメリカに向けて放送し得るという状態も不可能ではなく、われわれは着々とその準備を怠りなく努力しているのである。なお対敵放送としては、アメリカ向けとインド向けのほかに対英、対重慶放送が重要視されている。中国向けに関しても、中国音楽音盤その他が相当蒐集されて対敵放送に威力を発揮しつつある。(完)
【2006年2月14日+2月19日】
正しく歌ふ奥田良三(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.28-29)
内容:福井県下にある陸海軍病院の慰問を終えて帰京すると、一人の少年が玄関先で待っていた。少年といっても22歳になる若者で、聞けば1943年6月小田原の少年刑務所を出てある工場で働いているというが、今年の暮れには入営するという。来訪の理由は、入営したら生きて帰るとは思わないが、せめてそれまでのあいだ好きな歌を正しく歌えるようになるにはどうしらよいか相談に来たのである。奥田は毎週時間が許す限りこの少年刑務所に歌の指導に行っていた関係で、そこにいた若者が相談に来たわけである。奥田はいつも、歌うならば正しく歌えと言ってきたので、それが本当にわかってもらえたと嬉しく思った。入隊し、出征し、戦死する。しかしせめてそれまでのあいだ1ヵ月でも2ヵ月でも正しく歌を歌いたいという気持ちは尊いものである。幸い[8月]20日から都民音楽院夏期講習会も始まり、9月から新学期の募集もあるので初等部と普通部の両方に出るよう話をして分かれた。彼は喜んで顔をほころばせながら帰って行った。/奥田が地方の工場や青年会などを回って一番驚き恐ろしく思うことは、あまりにも邪道な歌い方をしている人が多いことである。これらの人たちは米英思想華やかなりし頃に売らん哉主義で作られた流行歌の魔術にかけられその真似をしているのだ。本人はそれが立派な声楽であり芸術であると心得ており、これを聴いた会社の幹部重役連は音楽とはこういうものだと断定して音楽不用論の導火線となるのも無理からぬことだと思う。青少年は音楽がとても好きで、歌うことを楽しんでいる。ここを一歩進めて皆で良い歌を正しく歌い、思想の向上、団結心の養成まで持っていかなければ嘘である。ここまでくると前号で書いた「厚生音楽指導者養成云々」の問題に帰着するが。毎日新聞社の音楽コンクールもけっこう、産報放送局共同主催の勤労者音楽大会も、また国民音楽協会の合唱コンクールもけっこうであるが、正しく歌う厚生歌唱競演会などもやってほしいと思う。各工場から喉自慢を出させて正しい歌い方とはどのようなものであるかを示してもらいたい。何ヶ月か前、レコード文化協会と東京新聞主催でこれと似た催しをする機運があったようだが、いつのまにか立ち消えになってしまった。これは結局流行歌手の登竜門になるはずであるし、思想面からいっても重大なことだと思う。情報局、厚生省、翼賛会、産報、東京都または放送局、乗杉さん辺りが力こぶを入れて、こんなことこそやってもらいたい。申込みは職場の責任者を立て、予選は休電日、日曜、週日の夜間などを利用する。本選は盆の休みとか正月の三が日を利用するなどすれば仕事に差し支えることはないであろう。/全国の人が正しく歌を歌えるようになり、共栄圏の全民衆がひとつになって歌えるようになったときこそ立派な大東亜の団結を見るときであろう。文句やゴタクを並べているときではない。詩人は大いに書き作曲家は大いに作る。何千何万あってもかまわない。そしてよく歌いよく働くことだ。それ以外にない。同好の士よ、常に正しく朗らかに歌って大東亜の建設に、世界の勝利に、大手を振って邁進しよう。
【2006年2月26日】
楽壇戦響堀内敬三(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.30-31)
内容:●音楽演奏会を活発に 高級な音楽を理解する能力において日本人は第一流の民族である。これは民族性の優秀さが第一の原因であるが、解説付き音盤演奏会が全国各地で行われ音楽愛好者に良い音楽を聴かせ正しい鑑賞態度を知らしめたことを挙げなくてはならないと思う。演奏会に発達した欧米に比べ日本では演奏会が地方では多く行われ得ないために、その代わり音盤演奏会が行われた結果、かえって優秀な演奏による名曲が広く聴かれ、欧米の音楽鑑賞者よりも優秀な音楽鑑賞者を日本に多く生むことになったのであろう。いま厚生慰安の施設は一般に甚だしく不足している。この場合、各地在住の音楽家および音楽知識人が各地で解説付き音盤演奏会を頻繁に行うことは望ましいことである。しかしそのやり方は道楽主義であってはならない。高級な音楽を聴く機会を万人に与えて、戦力増強に資するという考えでなければならない。高級な作品を選び、なるべく邦楽の優秀作を加えて日本の伝統音楽の美を一般人に知らしめるようにしたい。敵国人の作品は排撃すべきであり、時局下において好ましくない題材のもの(《新世界交響曲》のように敵国の国土風物を讃美するもの、《道化師》のように貫通を是認するもの、《ドンファン》のように中心人物の性格が不道徳なもの、江戸音楽の中に現れる遊蕩的なもの等)は避けなくてはならない。高級な音楽による満足は深くかつ長い。音盤演奏会はこの点から戦いに勝つために立派に役に立つのである。●剛健なるもの いま必要なのは剛健な音楽である。ところが作曲においても、演奏においても、感傷的な線の細いものや小手先の技巧に終始するものが多い。軍歌とか時局歌でも、どっしりとしたものよりも薄っぺらな作品が多くて、この演奏がまたかなりヒステリー的であるようである。悲壮の美を狙った作品に死しても明るい快活なものを狙った作品にしても、剛健なところがないとだめなのである。作曲家も演奏家も、この点をもう少し考えてもらいたい。●陸軍の三軍楽少佐 1943年8月3日、現地軍楽隊長岡田國一大尉、同大沼哲大尉、戸山学校軍楽隊長山口常光大尉の3名は、いずれも陸軍さいしょの軍楽少佐に進級し、そのうち岡田少佐は任務を終えて8月下旬に帰還した。岡田少佐は満5年9ヵ月、北支派遣軍楽隊長として北は蒙彊、西は山西、南は黄河東は山東半島にわたる幾万qの旅程を重ね、一度の病気もせずに、将兵の激励に、傷痍軍人の慰問に、住民の宣撫に努力した。大沼少佐は日中戦争以来、北支と中支に出征し、帰還して戸山学校軍楽隊長となったあと、再び現地に出て重要な方面で軍楽隊長として活躍している。山口少佐は中支の軍楽隊長を長くつとめ、帰還して戸山学校軍楽隊長となり、陸軍軍楽隊の根幹部隊を率いて軍楽部将兵育成の任に当たっている。今後なおすぐれた頭脳と手腕を持って、一層の活躍を遂げられんことを祈る。●聴衆に媚びるな 軽音楽を聴きに行って一番不愉快なのは楽長のアナウンスである。マイクロフォンの前へかがみ込んで、聴衆に色目を使いながら歯の浮くような声を出してこちゃこちゃ喋るあれである。それから楽器をそうするにしても変に格好をつけて不愉快である。能楽でも義太夫でも聴衆に向かってお辞儀などしない。聴衆にお辞儀をするのは西洋から来た習慣である。聴衆にお辞儀をしても少しも悪くはないが、媚びへつらう必要はまったくないのである。近ごろ商人がお客を鼻であしらうようになっていただけないが、音楽家は逆にお客に対して愛そうがよくなり過ぎたのではないだろうか。
【2006年3月2日】
時局投影(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.32)
内容:天皇陛下は酷暑厳しきこの夏に避暑にもでかけず、多くの重要事項について各分野の権威から進講を聴取しておられる。聖慮に副うことを誓う。 1943年8月12日朝米機8機が北千島に来襲したが、わが陸鷲の激撃にあって5機(うち2機は不確実)が撃破された。昨年本土を空襲した米機をいち早く発見報告し、敵の攻撃を受けて総員艇と運命をともにした特設監視艇に初の感状を授与、上聞に達した旨、8月20日に発表された。同日、在支陸鷲は桂林の米空軍基地を急襲し、続いて23日に重慶、萬縣に進攻、さらに零陵、衡陽を連爆、執拗に本土爆撃を狙う米空軍の出撃企図を粉砕した。軍防衛陣に感謝し、防空演習を怠るな。 地中海戦線は8月17日の枢軸軍のシチリア島撤退、東部戦線は8月22日ドイツ軍のハリコフ撤退によって欧州戦局の重大化が伝えられる。カナダのケベックにおけるルーズベルト=チャーチル会談の主要議題はもっぱら欧州関係で、特に米英ソ三国関係の調整、イタリアの処理対策などと言われるが、東亜の対日反攻作戦も主要話題に上っていることはほぼ確実である。8月25日、大本営はニュージョージア島およびベララベラ島を中心とする南太平洋方面の決戦が激化の一途を辿りつつあることを発表した。反攻が侮りがたいとしても、万全の備えがあればこれを撃破できる確信は微動だにしなし。 政府は1943年8月17日、「第二次食糧増産対策要綱」を発表した。土地改良事業を拡充して今後2ヵ年で米麦350万石増産を期し、19日いよいよ重要時局産業の社長を徴用、一般徴用労務者である応徴士とともに総員勤労態勢を整備。20日に「科学研究の緊急整備方策要綱」を決定した。わが科学の総力を結集して敵撃滅へと強化。国内の総力は急速に戦力化しつつある。/青木大東亜相は1943年8月19日離京。中国の実情を視察し、汪主席以下中国要人と懇談。西貢では日本産品の対仏印供給に関する調印を吉澤大使とドクー総督とのあいだに完了。20日には盤谷で帝国占領下の6州をタイ国領土に編入する条約を坪上大使とピブン首相のあいだに締結。/キスカ島守備のわが陸海軍部隊は7月下旬に全兵力を撤収し、すでに新しい任務に就いている旨1943年8月22日に発表された。 1943年5月29日、アッツ島に玉砕した山崎部隊長以下2500有余名の武勲は上聞に達し、山崎大佐は2階級進級して中将に、全将兵も1階級進級することとなる旨8月28日、陸軍省より発表された。これらの英魂の中には江本中佐以下の海軍部隊あり、軍属や傭員もあるときく。 勅撰による『日本正史』編修のことが8月27日に発表された。正史編修は醍醐天皇延喜元年に完成した三代実録以来じつに1千余年の盛挙である。  東北帝大教授で工学博士の市原通敏は1943年8月19日、車両試運転中に殉職、享年45。島崎藤村8月22日に脳溢血で急逝、享年72。 1943年8月23日、明治神宮錬成大会夏の陣。25日、大東亜文学者決戦大会開く。
【2006年3月9日】
満洲音楽情報平海峻嶮(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.33)
内容:8月には、協和会が主催の第2回日満華興亜団体会合に参列している各国代表に満洲らしいものを見せたいという趣旨で計画された「協和之團欒」という催しがあった。この催しは各国代表のほか一般市民にも大同公園の野外音楽堂で公開されたが、観客も日・満・蒙・鮮・露という各民族が集った珍しい催しであった。今回は出演者を主として青年層とし、清楚にして溌剌とした感じを与えるものを選んで組まれたので、満洲国の新しい各民族芸術がいかに起こりつつあるかを紹介するのによい機会であった。/吹奏楽はもっとも普遍性があり、しかも機動性と指導力を具備するものである。そこで協和会は、全満各市、県、旗を単位に約200ヵ所に協和青年吹奏音楽隊の設置を計り、すでに楽器の配備もだいたい整備され、指導者錬成に全満各地より優秀な満洲青年を募集、昨年[=1942年]7月、協和会青少年団中央幹部訓練處に音楽部を新設し、1年の訓練を終えた。その第一期生は全国各地の音楽隊指導者として活躍している。なおその[音楽部の]指導には海軍軍楽隊出身の清水正夫ほか数名があたっている。/栄光路国民学校協和少年団が「満洲古典祭舞」を行った。これは満洲国の国祭として春と秋に催される「孔子祭」で行われる舞楽で、伴奏は雅楽である。/新京朝鮮合唱団は日本高等音楽学校出身の金森東振が指揮で、新京在住の朝鮮系青年男女によって組織され、金森が編曲した朝鮮民謡2曲を演奏したが良かった。金森は現在新京音楽団のヴァイオリンが本職であるが、作曲面でも歌手としても活躍しており、満洲における異色の存在として期待されている。/日系の出し物としては、満洲舞踊家協会第二部会員の藤間勘喜久の振付で女学校の生徒が宮城道雄作曲の《小鳥の歌》という新舞踊を踊り、錦ヶ丘女子青年団では音楽体操《躍動》を演じた。これは昨年の明治神宮錬成大会に満洲から参加して第3位に入賞した作品で、今回も好評であった。蒙古のものは、在京の蒙古青年によって興安蒙古青年合唱団を組織して、蒙古民謡を合唱した。荒削りながら好評であった。白系露人のものは、興安北省の三疆地方で農牧生活を営んでいるコサック農民の踊りを参加させたが、手風琴の伴奏で、荒削りな、逞しい、熱狂的な踊りを見せて会衆を魅了した。/このほか満系の方には、宮内府に18〜19歳の青年を40名ほど集めた管絃楽団がある。これは今から4年前に素人の満系青年を集めて海軍軍楽隊出身の小林絹太郎が楽長として指導し、将来満系の管弦楽運動の中心になるのではないかと思われる。そのほか国軍の軍楽隊がある。/8月にはこのほかに、15日に大同公園音楽堂で関東軍軍楽隊、国軍軍楽隊、新京音楽団の合同演奏が滑空機献納のため行われたが、演奏曲目は外国曲がほとんどであった。23日と24日は公会堂で、新京音楽団とハルビン交響楽団の合同演奏が行われたが、演奏曲目になんら清新さや時代が感じられなかった。
【2006年3月12日】
第11回産報推薦職場レコード(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.36)
内容:1.勤労歌、国民歌、軍歌 ●「みたみわれ」(ビクター)(テイチク)●アッツ島血戦勇士顕彰国民歌(ニッチク)●「海軍航空の歌」(ニッチク)●「海の荒鷲」(ニッチク)●「索敵行」(ニッチク)●愛国百人一首「岩が根も」「わが背子は」(ニッチク9●「決死隊」(富士)●「遂げよ聖戦」(大東亜)●「必勝の歌」(大東亜)●「日本わらべうた」(テイチク)●「應徴士を送る歌」(テイチク)●「首途の歌」(テイチク) 2.軽音楽及合奏 ●南方歌曲による「美はしの河」「可愛いゝお嬢さん」「ジャワの子供達」「バンコックの街角」(ビクター)●「憧れ」「杜の都」(ビクター)●「軽音楽風民謡集」(大東亜)●「千鳥」「六段」(ニッチク) 3.体操用 ●「日本よい國」「花乙女の歌」(ニッチク) 4.聴覚訓練用 ●「敵機爆音集」第一輯(ニッチク)
【2006年3月21日】
前線銃後便り 日響の急襲名生東一(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.37)
内容:1941年12月6日と同様に1943年8月7日を忘れることはできない。なぜならこの日は、われわれ傷痍軍人が日本交響楽団の大挙急襲を受けて成果を納めた日だからである。療養生活には明朗な心境にあることが大切である。結核性疾患者は常に血液をアルカリ性に保つことが大切であり、反対に酸性に保つ場合は危険となるのである。前者は明朗な、後者は暗黒の心境にいるときに生じるのである。音楽による心境の明朗化はいまさら説明を要しない。以上のような見地から、わが傷痍軍人東京療養所でも音楽は重要な位置にある。ここでは春秋2回の音楽会と月2回の名盤鑑賞会とがあり、さらに日課として放送局よりの放送と、所内の音盤による放送が行なわれ、特に消灯時限の子守唄の放送は非常な好影響を与えている。曲目選定に当たっては敵国曲はもちろん、流行歌、軽音楽等平時的、享楽的音楽は排斥し、心身の練成、向上に資し得るものに力を注いでいる。次に慰問の演芸について言うと、浪曲、漫才、落語、舞踊等が多く、音楽は非常に少ない。これらはけっして満足すべき状態ではないと思う。傷痍軍人の大部分は前線、ならびに軍病院、療養所における長い生活を通じて、ある程度耳が肥えている。彼らの大切な療養時間を無意味に割かせて、音楽あるいは音楽家というものに対して誤った観念を抱かせるようなことは厳に慎まなくてはならない。この日患者は、紅潮と緊張の面持ちで静かに講堂に待機し、団員の勇姿とその演奏に対していまだかつてない白熱した拍手を送ったのである。翌日からの全患者の満足感と希望と画期的な療養生活態度の改変は何と表現したらよいのだろうか。団員は暑さをものともせず、狭い壇上で熱演をされた。団員の皆様からも厚い見舞いの言葉をいただいて恐縮した。しかし、気のせいか団員のある方々は出征前に伺った定期演奏会やその他の時よりも疲れているように見受けられた。これは激闘を物語る以外の何ものでもないと拝察される。/当日の曲目は次のとおり。未完成交響曲/竹村令子嬢の独唱/運命交響曲/軍隊行進曲/ハンガリー舞曲第5番、第6番で、指揮は山田和男。さいごに入所者○○○名を代表して日本交響楽団の皆様、今回特に尽力くださった有馬大五郎氏、理解を寄せられた軍事保護院指導課の渡邊氏に対し、再起奉公を誓うとともに厚くお礼申し上げます。
メモ:筆者は傷痍軍人東京療養所に入院中。
【2006年3月21日】
音楽記録(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.38)
内容:情報局では演奏会の決戦態勢を要望。1943年8月11日、音楽会マネージャーを招致し、曲目に関しては邦人作品を必ず演奏すること、宣伝広告は簡素なること、および開演終演時間等にわたって詳細に演奏会指導要領を指示した。大政翼賛会では文化職能団体別に勤労報国隊結成を要請した。日本音楽文化協会では増産の援兵としてさっそく結成の準備にかかった。1943年8月5日に日本音楽文化協会本年総会が産業会館で開催された。この総会において演奏家協会との合同が実現し、新理事に演奏家協会から大村能章、橋本鑒三郎、福井巌が就任した。タイ国外相ヴィチット来朝に際し、日本音楽文化協会国際音楽専門委員会ではタイ国音楽事情を聞くため1943年8月18日、同会委員長京極高鋭をはじめ、園部三郎、野村光一らが帝国ホテルに同外相を訪問して、種々懇談した。音盤の適正配給を期すため販売機構の一元化を協議中であったが、このほど資本金200萬円の日本音盤配給株式会社を創業、創立総会を開き、社長を武藤與一(日蓄専務)と決定した。日本音楽文化協会報国挺身隊はいよいよ活動を開始することになった。さいしょの仕事は軍事保護院の軍事援護楽曲の普及で、10月の軍人援護習慣を期し全国各府県に60の挺身隊を派遣することに決定した。日本音響株式会社募集の管弦楽曲は予選を通過した江文也、戸田邦雄、陶野重雄、伊福部昭の四氏の作品により、1943年8月27日審査会を開き、伊福部昭の《交響譚詩》が入選した。藝能文化聯盟では芸術家の資質向上を図るために、同聯盟に練成部を設け、講習会を開くこととなった。日本絃楽四重奏團ではわが国さいしょの企画として、1943年9月28日の第1回公演から来年6月まで6回にわたりベートーヴェンの全弦楽四重奏曲を演奏することとなった。陸軍軍楽隊長の岡田、山口両隊長はこのほど軍楽少佐に昇進した。朝日新聞学芸課の相島敏夫は、このほど出版会雑誌第二課長に就任した。日日新聞社で音楽を担当していた吉田信はこのほど日本放送協会音楽部長に就任した。これにともない、前音楽部副部長有坂愛彦は日本蓄音機レコード文化協会常務理事に、入れ代わりに同理事竹越和夫はふたたび日本放送協会に返り咲き、国際部欧州部副部長に就任した。中華民国では、このほど宣伝部布告をもって不良歌曲、不良流行歌を追放することを決定した。
【2006年3月26日】
本誌の廃刊と新雑誌の創刊に就きて(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.39)
内容(=引用):御稜威のもと皇軍の威武ますます高く、一億國民は必勝の信念に燃え、米英撃滅の大使命に向つて邁進しつつあるの秋、音樂雜誌界は更に陣容を新にし、力を協せて音樂報國の道に徹すべく情報局ならびに日本出版會御指導の下に自發的統合を行ひ、本誌ならびに「音樂公論」「音樂文化新聞」「國民の音樂」「吹奏樂」「レコード文化」(五十音順)は?[← 玄が2つ並ぶ漢字]に一齊に廢刊して新左記二種の音樂雜誌を十一月號から創刊することになりました。
一、「音楽文化」 音樂専門家、音樂指導者、音樂知識人を讀者とし音楽を通じ日本精神の昂揚と戦力の増強に寄與すべく報道、論説、資料、研究ならびに時局下必要なる樂譜等を掲載する月刊雜誌(價五十銭)
二、「音樂知識」 一般の音樂鑑賞者及び音樂実践者(特に生産部面に従事する青年層)を讀者とし、決戦下に於ける國民に有用なる正しき音樂知識を平易簡明に解説し且つ時局關係歌曲及び厚生慰安用音樂の楽譜を掲載する月刊雜誌(新定價五十銭)
本誌は?[← 玄が2つ並ぶ漢字]に廢刊しますが「音樂文化」及び「音樂知識」に本誌の使命を引き継ぐ事になりました。各位これまでの御協力を感謝し、併せて新雜誌への御支援を切望いたします。尚、舊「音樂之友」「音樂文化新聞」の直接讀者の方で、新雜誌(購讀繼續御希望の方は左記新會社へ御一報下さい。前拂金の残部を以て新雜誌を御送りいたします。

昭和十八年十月一日
「音樂文化」「音樂知識」発行所は 東京都京橋區銀座四−一佐藤ビル
日本音樂雜誌株式會社

【2006年4月3日】
編集室堀内敬三 澤田周久 加藤省吾 清水脩(『音楽之友』 第3巻第10号 1943年10月 p.40)
内容:音楽雑誌の統合により本誌は本号限りで廃刊し、あらたに『音楽文化』を創刊して音楽専門家・音楽指導者・音楽知識人の機関とすることになった。従来の本誌編輯関係者全員に旧『レコード文化』より青木謙幸を加えた編輯陣で、堀内敬三がこれを主宰する。ページ数も多くして内容を充実させる予定である。(堀内敬三)/各界の企業整備が急速に進められているこの時期に、音楽雑誌も第二次統合を無事に終えた。これはひとえに時局の必然性と業者の大乗的精神のしからしむるところで慶賀に堪えない。現在の雑誌は全部廃刊し、あらたに専門誌と大衆誌とが11月号を創刊号として発刊される。いま私たちは新雑誌の構想に全知全能を集め、強力な時局下の大雑誌たらしめんとしている。(澤田周久)/現在6誌ある音楽雑誌も決戦下に即応するため情報局の指導により第二次の統合が敢行されることとなった。新雑誌は専門誌『音楽文化』と一般誌『音楽知識』の2誌で、本誌は主として『音楽文化』の中にその命が生かされることと思う。一昨年秋の第一次統合以来、編輯の一員として携わってきたので本誌ならびに読者諸氏とお別れするのは寂しさを覚えるが、しかし今度はさらに強力な組織のもとに優秀な音楽雑誌が創刊されるはずである。(加藤省吾)/読者諸兄も決戦生活に挺身されていることと思う。本誌今月号には国民の音楽がいかにあるべきかを探求すべく、今般放送局の音楽部長に就任した吉田氏と讀賣の吉本氏が対談した。新しい方向がこれによってかいけるされることと思う。楽曲選には米英撃滅行進曲のピアノ譜を載せた。そのほか対敵放送余談、南方音楽等新味を出したつもりである。(清水脩)
【2006年4月9日】



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