『音楽之友』記事に関するノート

第3巻第08号(1943.08)


大東亜音楽科学の創建田邊尚雄(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.1)
内容:従来欧米諸国は植民地のための特殊文化を製造した例を見ない。植民地は、すべてその本国の文化それ自体を移入している。音楽はもとより言語も然りで、特に植民地のための本国語というものはない。それは当然のことで、それに反すれば植民地はついに離反することになる。植民地の原住民が本国の文化を崇敬愛慕すればするほど、そのことは真理である。今日、日本の立場を顧みれば、日本文化のありのままが大東亜民族の間に進出するのは当然で、それを偽ることは不可能である。特に南方に進出せしむべき音楽などというものはあり得ない。そこで一番問題になるのは、今日ありのままの日本の音楽界はどういうものかということである。/皇紀2600年を奉祝するための芸能祭が行われたときに、ある人は、今日は日本の音楽史上最悪の状態を示したものだと評した。思想の混乱、不統一はもとより一貫した理念や指導性もなく、ただ各個人の享楽的な音楽が雑然として散乱しているに過ぎなかった。さいわい今日の戦争は、この混乱無理想に対して警鐘を鳴らしたのであるが、世界時局の変転があまりに急速なため、わが楽界はいまだこれに正しく処する途を発見していない。/明治以来わが国は世界にその国際的一地歩を獲得する必要上、欧米文化の移入とその消化を目標として進んできた。さいわいわが国民の異常な努力はその目的を8割方達成できたといえる。いままで日本は世界の指導的立場になかったから日本文化自体が不統一でも無理念でも単なる国内事情で済んだが、ところが世界の事情は急展開し、いまやわが国はアジアに対して指導的立場に立つにいたった。指導者としての第一条件は、おのれの文化が正しい理念をもち、統一されていなければならない。/統一とは単に外形を整えることではない。独自の音楽科学をもたなければならない。われわれが「大東亜音楽科学」をもつことは指導的立場に立つうえで最大の緊急事である。音楽科学は科学によって基礎付けられた芸術方法論である。従来の音楽科学といえば西洋音楽の理論しかなかったが、それは大東亜音楽には当て嵌まらないことが多い(たとえばタイ音楽の七等萬平均律やジャワの九等萬平均律などには西洋の和声は絶対に使用できない)。西洋の理論が合理的で東洋のそれは不合理だということは絶対にない。ただ東亜には音楽の科学的理論が少なかったので、今日西洋の音楽理論だけが合理的であるように感じるだけである。
【2005年5月18日】
日本民謡の歌曲化藤井清水(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.2-5)
内容:日本民謡の歌曲化(「現代化」という内容においての)については、一つは「音」(旋律)と「言葉」(歌詞)を通しての日本民族精神の把握および昂揚。もう一つは漸次消滅に向かいつつある民謡の保存、および民族性を基調とする作曲の機運の醸成あるいは促進という、2つの重要な意義を見いだす。/民謡に包蔵された往古の人情の哀切さを、ただの感傷と見てはならない。旋律がもつ閑寂味と東洋的な深さを「哀調」とはき違えては民謡の心は語れない。藤井が「上野」に在学していた時代、『音楽』という月刊雑誌(いわゆる校友会誌と一般音楽愛好者向けの両方の性質)ががあり、あるとき誌上で民謡の採譜が募集された。全国に散在している出身者から多くの応募があると思っていたが、寄稿者は藤井の他に1名くらいしかいなかったと思う。藤井は郷里の労作唄や祭礼の囃子などを採譜して発表した。30年近く前の雑誌は散逸して手許にないが、募集の趣意書きに民謡探求が緊要事であることが強い調子で書かれていたと思う。ともかくこの民謡研究の提唱はほとんど何の反響も起こし得ずに立ち消えになってしまった。「ことば」で歌うことが卑俗扱いされていた時代とはいえ、提唱者(故吉丸教授か?)の不明(?)か時世の罪か、「時未だいたらず」であった。その後、故鈴木三重吉主宰の『赤い鳥』時代に詩人たちによって童謡復興運動が台頭し、次いで民謡の勃興となり「童謡」「民謡」と銘打った作品は詞曲ともに無数の創作が発表された。しかし、この気運は一時の「流行」でしかなかった。大多数の「童謡」や「民謡」はサロン的存在となり、一方楽譜版下製作業者を忙殺させた。かくいう藤井も数種の作曲集を出し、貴重な国家の資源を浪費した旧悪の所持者である。/ (つづく) 
しかるに古来わが祖先たちによって継承されてきた古童謡古民謡の調査研究は、少なくとも音楽的側面に関してはほとんど顧みられなかった。「わらべうた」のもつ理智を超えた童心や、民謡に盛られた古人の生活感情の深みに打たれてその源泉を探求し、そこに息づく民族精神への恭礼があってこそ創作曲が初めて国民の魂を揺り動かし得るのである。/教育音楽界は、ついさいきんまで日本風な匂いのする作曲は「卑俗」「非教育的」として扱われ、もっぱら西欧流の型によらなくてはいけないという厳格な不文律が存在していた。しかも中等学校用音楽教科書では日本人作曲家はほとんど登場する余地が与えられていなかった。そして同一楽曲に対していろいろな曲名と歌詞がついている場合、音楽教師は楽曲を生かすためには歌詞を犠牲にしなければならず、歌詞の内容を尊重すれば曲趣の表現に歪んだ解釈を与えなければならなったりする。/こうした国辱的欧米盲拝的自卑的な教育音楽界も日中戦争から今次の戦争までを一大転機として、楽壇とともに日本精神に立ち上がった。遅まきながら、まさに軌道に乗ってきた感がある。この意味においても、この度の戦争は昭和維新である。楽壇人は米英音楽を放逐すると同時に米英的な楽曲の創作も自発的に停止するに至った。そして作曲家のひたむきな意欲は東洋精神の把握、日本的感情性への悟達に向けられなければ己の使命の意義が失われてしまうことになったのである。/日本民族の発展がある限り、民謡が根こそぎ湮滅するなどということは考えられないが、ある種の民謡は漸次衰亡の運命に向かいつつあり、またすでに過去のものとなって消失したものも少なくない。たとえば機業が手機織りから機械織りになった今日では、もはやその作業唄(機織唄)は60〜70歳の老褞しか知らない。それらの老人が娘時代に謡った唄をおぼろな記憶を辿りながら謡う声を唯一の頼りとして楽譜に書き表すような次第である。田植唄にしても同様に方式が変わってきて、いま余生を保っている老爺老褞たちの死後どうなっていくのか予測がつかない。この意味においても現存の民謡の調査は一日の急を要する。/もとより民謡は五線譜によって正確に記録できるものではなく、ほんの輪郭を示すに過ぎないけれど、必然的な消滅を傍観して良いというものではない。たとえ骨格だけでも楽譜に残しておくことは後世のために重要な研究資料を提供することになるのである。民謡の歌曲化もこの意味において企てれば非常に貴重な仕事となろう。/なお標題の内容については語るべき多くのことがらがある。差し当たっては日本的旋律への和声的裏付けの問題に逢着する。しかし、これは藤井自身「日本的和声法」を体制として世に発表することなど思いもおよばぬことである。本誌に出ている民謡編曲のどれかの旋律に、試しにその宮音をある長調の第5音に当てはめて、これを洋楽体系の要領における二部合唱曲に新規な編曲を試みてみるとよい。その結果予想外の暗礁に乗り上げて途方に暮れたときに、民謡編曲などという一見野暮くさい仕事がそんなに生やさしいものでないことがわかってくるだろう。 (完)
【2005年5月21日+2005年5月28日】
地方教員の音楽活動(音楽指導者網の拡大)片山頴太郎(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.6-8)
内容:1.芸術的な音楽の没落 時代の理念と感情から遊離してしまった芸術は、日本の音楽であろうと西洋の音楽であろうと、哀惜すべきものであろうと民族の誇りであろうと、遠慮なく葬り捨てられる。20世紀のさいしょの30年ほどのあいだに展開された西洋音楽のさいごの**ても、第2次世界戦争を分割線として相貌は変わる。複雑で難しい音楽のさいごは、シェーンベルクの《ピアノのための組曲 作品25》という十二音技法で書かれた作品だ。これは崩壊する方が人類の保健上よかったのに違いない。英国がわれわれの眼前に滅びゆくのを見つつある並行現象として、西洋芸術音楽の主流が崩壊してゆく状況を諦観するなどは、われわれも大人になったわけである。 2.日本音楽史の展開形式 (イ)飛鳥天平より世阿弥 雅楽など中国経由で移入した東洋諸芸が、平安・鎌倉期に国民的にこなされ、世阿弥において日本的な頂点を達成した。その後文化的には残渣。(ロ)三味線の渡来から義太夫浄瑠璃 江戸時代初期、三味線の技巧を日本的に征服して人形劇と結び、近松門左衛門との共同作業で第2次の日本的芸能(町人道的)を創成した。以後デカダンスの方向へ進み、明治以降は衰弱。(ハ)西洋音楽の摂取と大東亜戦争 伊澤修二の理念に端を発する教育音楽は、移入された西洋音楽のうちもっとも特異な形相だ。すなわち国民皆唱、国民性陶冶の挙掲、国家の推進的啓培などの方向は、今次の戦争にいたってさらに加重された。この時代の付帯的現象として芸術音楽運動の導入があり、これは畢竟教育音楽70年の基礎工作のうえに成し遂げられたものである。この(ハ)の閉鎖完成は第3次日本音楽の担うべき運命、すなわち八紘為宇大東亜といわれる世界史的な奨機の上に立つ。 3.西洋の事情 西洋の音楽は反省から新しい展開に及ぶであろうが、その委細は不明である。ただし1930年代以降ドイツにおけるヤーレ階名唱法が(一種の移動ド唱法)は新しいドイツ国民皆唱運動の方向を暗示する教育法と見られる。 4.地方の音楽の先生になり代って 教育音楽は先の(ハ)時代には全音楽(芸術的にも大衆的にも)の母胎である。教育音楽者は母の行者である。「教育音楽は過去幾十年間何等の進歩なし」との批判に対して何の申し開きもできなかったが、黙って(ハ)の完成への基礎工作に打ち込んでいた。この戦争では歌う兵隊さんとなり、ベビーオルガンで鍛錬した喉を思い出してジャバで、フィリピンで、大東亜の孫弟子をつくっている。こうして、立派に役立っているのだと職域の尊さが自覚される。学校の仕事はなかなか忙しいけれど、工場へも教えに行こう。中央の先生方は立派な代わりに[そうすることが]難しいと言って産報の役員の方々もこぼされた。(ハ)はわれらの時代。実践は音楽を土地につけること。別に運動ではないが、目的が意識されてくると次第に運動ともなろう。
【2005年6月4日】
地方音楽指導者の蹶起(音楽指導者網の拡大)落合守平(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.8-9)
内容:真の音楽は生活を豊かにし、職場における生産能率を高め、さらにその団結心を高揚し組織力を確固たらしめるものである。ところが近来まで一般の人々も、また音楽家でさえもその本質を究明することなく、音楽を単なる芸術品、娯楽品として取り扱ってきた。そして古人の生活を豊かにする要素のみが重要視され、他の2要素は完全に忘却された。そのために頽廃的亡国的な旋律が巷にあふれ、卑猥な流行歌、軽薄安価な音曲が街に流れた。地方に在住する音楽指導者もその渦中に自らを投じて、その風潮を模倣することに窮々となり、地方文化や地方音楽を育成しようという観念を捨て去り、ただ1日も早く地方から中央へ進出することのみを企てた。/しかし日中戦争と太平洋戦争の勃発は音楽の本質を認識させる絶好の機会を与えた。心ある指導者によって音楽は本来の方向へ導かれ、その活力を発揮し始めたのである。勤労音楽または厚生音楽といった名称が宣伝され、生産部門にも音楽が入っていった。生産作業の大半が音響を伴うことから、音楽と勤労の関係が吟味されるにいたった。音楽を理解する耳が生産音響のリズムを理解し生産能率を上げ、生活を充実させ、模範となる人格を涵養することが立証されている。/とはいうものの、現状はすべての人が音楽の本質を理解したとは言い得ない。悲しい事実は一日の勤労作業を終えて颯爽と帰宅する産業戦士の唇をついて、卑猥低級な歌が口ずさまれることである。大東亜共栄のため増産部門に活躍する人たちが、いまだに個人的色彩を帯びた亡国的旋律を平気でうたっている。この悲しむべき現実は産業戦士自身、自分のうたう歌が自分の活動能力や団結心を鈍らせてゆく音楽であることに気付いていないのである。この事実を音楽指導者たちはどう見ているのか。産業戦士が非時局的な流行歌をうたって、知識階級が芸術至上の境地で音楽を鑑賞している現状を眺めて、この悪現象が自分たちの責任だと自省する音楽指導者たちがいったい何人いるであろうか。地方在住の音楽指導者は音楽を骨董的芸術としたり、食うための手段としたり、気取って薄っぺらな理論を振り回してはいないか。地方の音楽水準を高め、健全な音楽を国民に与えようと積極的に活動している指導者は少ない。官憲の力をもって不逞音楽を駆逐するよりも、地方音楽指導者が団結してこの駆逐に当たるべき秋[とき]ではないのか。産業戦士がうたう不健全な歌を聴いたならば自らがその中に飛び込んで、その歌はいけない、この歌をうたおうと指導する熱意が必要だ。いまこそ音楽指導者は団結すべき秋なのである。そして周囲にある文化団体を有意義に利用して国民音楽を築き挙げねばならないのである。大政翼賛会支部に連絡して、産業報国会に自らが働きかけて、またある時はラジオを利用して、音楽指導者の力で時代の要請する健全な音楽を作り、全市民、全町民が挙って「生活的」「能率的」「組織的」な旋律を奏でる日を作るのだという熱意をもってほしい。さいごに繰り返す。音楽の指導理念はあくまで「生活的」「能率的」「組織的」でなければならない。国民勤労力を増強し、国民生活を豊富にし、親和協力の気風を醸成する音楽を音楽指導者の力によって普及しなければならない。いまこそ地方音楽指導者は挙って蹶起すべき秋である。
メモ:筆者は名古屋放送局放送部長。
【2005年6月10日】
音楽挺身隊の活動と任務(音楽指導者網の拡大)津川主一(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.9-10)
内容:都下3000の演奏家が1941年9月、多くの報国会が生まれる以前に、防衛司令部の後援を得て音楽挺身隊を結成したことは昭和の音楽史上特筆されてよい。その綱領には「吾等ハ身ヲ國難ニ挺シ、音樂ヲ以テ民心ヲ鼓舞シ、銃後ノ護リヲ固ウシ以テ聖恩ノ渥キニ應ヘ奉ラン事ヲ期ス」とある。音楽挺身隊は議論倒れにもならず、ジャーナリズムに迎合することもなく、山田挺身隊長を親分として結束を固め、隊長による地区長の任命にも何の異議を差しはさむものもなく、日本的に結ばれた職域による結合であったと言い得る。/1942年に入って本格的な活動が開始され、産報と警視庁と提携して産業戦士に対する歌唱指導を行い、農山漁村文化協会と提携して全国14県の農山漁村の同胞に対して同じく歌唱指導を行い、東京市と提携して各区に分かれて市民慰安音楽会を行い、大政翼賛会と提携して国民皆唱運動を展開し、陸海軍恤兵部、経理部の命に応じて前線慰問対を派遣した。同年中の統計は、
 開催回数     548
 派遣隊員数 1,883
 聴衆    366,330(陸海軍方面を除く)
このほか防空監視員、出征家族および白衣の勇士慰問等に挺身隊員は自発的に、または本部の命令で出動した。/1943年度に入り、いまや帝都空襲も必至の情勢となった。万一そのようになり、それが頻繁になったならば娯楽機関の再整備が断行され、各地区に娯楽機関を分散させ、交通機関を利用したり数カ所の特定地域に多数の都民が集合することを避けなければならない。不幸にして空襲が常態化することがあれば、直接間接に戦闘力力に関係しない老人や児童を安全地域へ組織的に対比させなければならない。こうしたときにこそ音楽挺身隊は青色の腕章と黒色のユニフォームに身を固めてその全能力を発揮し、国民精神の慰楽と昂揚のために各地区に分かれ挺身するときが来るのである。
【2005年6月16日】
移動音楽報国隊について(音楽指導者網の拡大)清水脩(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.11)
内容:日本音楽文化協会では決戦下の国民に健全な音楽を与えるため、楽壇を挙げて国民の中に飛び込もうという意図のもとに移動音楽報国隊結成の準備をすすめている。/移動演劇聯盟は創立以来2年足らずのあいだに数千回の公演を行い、国民の娯楽の問題を着々と解決しつつある。音楽は演劇に比べて、あらゆる点でずっと簡便で国民の志向に応えるところ大であるのに、今日まで各種団体が個々バラバラに行ってきた以外には、大仕掛けの組織もなく、音楽隊の総動員も充分に行われていなかった。遅まきながらこの運動の展開が準備されつつあることは喜ばしい。/報国隊の編成で楽曲、指導法についてもすでに具体案ができているが、成案発表の段階ではない。しかしその組織がいかように決定しようとも、要は全音楽家の愛国的熱情より発した積極的な参加がなければ、この運動の発展は望めない。同時に音文もまたこれに対して相当の英断を行わなくてはならない。移動音楽報国隊は、この意味からも期待されてよいもので、全音楽家がここで従来の汚名をそそがなければならないと思う。/戦いの熾烈さを増している今、音楽家は立ち上がらなくてはならない。死闘にじかにつらなった生々しい感動は音楽のなかに多分に吹き込むことができる。また緊張がつづく国民生活に適度の緩やかさと和やかさを与え、内的な生活力を養わしめるのも音楽の独壇場であるはずだ。今日、国民は一分たりとも無駄な時間をもってはいけないが、職場にある何千という人たちはゆたかな娯楽を求めている。過去の音楽の与え方は根本的に改め、「聴きに来い」から「聴かせに行かねば」にしなければいけないし、有閑人相手の演奏会は無用である。高い芸術であろうが軽い音楽であろうが一向かまわぬから、われわれのもつ報国の至誠を、音楽を通じて国民とともに分かちあわなければならない。移動音楽報国隊の目標はここにある。音楽を原野にはなて。
【2005年6月22日】
厚生音楽指導者養成所の設置(歌って戦ふ職場)奥田良三(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.12-15)
内容:勝利が精神文化の雌雄によって決せられる時代は日一日と変遷してゆく。飛行機の航続力や速度の進歩、その他われわれの周囲の状況をみても、近時のように急速度の変遷をみたことはなかった。/米英唯一の手順としてきた物質文化も優秀なわが民族精神によってたたきのめされたことを見せられている。軍人精神とならんで銃後国民の精神文化は国家の存亡にかかわる一大問題である。/国民皆泳、学徒体育問題、国民体力検定等体力の増強は精神文化の器として考えられるべきものである。精神文化を担う芸術方面には、立派な図書館がところどころにあり絵画館もあるが、音楽方面では民間で細々とやっている以外なに一つないといってよい。○音楽は精神文化の王である 音楽はあらゆる芸術の中でももっとも強力に人間の感覚に訴えるといわれる。音楽が一国を起こし一国を滅ぼした例は少なくない。一部特権階級のなぐさみとされ、人生の余興または営利の餌食とされた時代は昔のことである。今日では音楽も兵士とともに戦わなければならない。生産増強が叫ばれているこの時、物質の欠乏や精神の消耗を補い得るものは音楽以外にはないと信ずる。朝の出勤時にかけられる1枚のレコード、昼休みにうたわれる1曲の愛国歌がどれだけの力を与えるか、じっさいに当たったものでなければわからない。このような簡単な方法で与え得る慰楽を自分は知らない。○音楽嫌いは性格破綻者 人間の好き嫌いはまちまちであるが音楽を嫌う者はまずいないと言ってよい。「俺は音楽等大嫌いだ」と豪語する人があるが、そこには必ず原因がある。それに大学時代に音楽部の学生を柔弱だと言って殴った御大が一人前になって後、音楽好きになった人を二三知っている。音楽家の悩みの種である近隣の苦情は、だいたいが妬みから出るものが多いようだ。やる人間を嫌っても音楽自体を嫌う人は全くないといって良い。もしあったとしたらそれは性格破綻者である。○音楽は特に若い人の最好物 人間が素直であるときほど受け入れる力の旺盛なときはない。歌が嫌いになった子どもはいるにせよ、軍艦行進曲は百人が百人好きといって良い。善し悪しは別として音楽喫茶店華やかなりしころ、金龍館時代、少女歌劇時代、さいきんの軽音楽時代を通じて、どれほど若人の血を沸かせたことか。若い者の音楽好きは、いかに抑えようとしても無駄である。むしろその指導方法について考えるべきである。今これを善用しなければ百年の禍根を残すことになる。なお奥田は4年にわたって少年刑務所に音楽の指導に行っているが、彼らは音楽好きで指導の効果が甚大なことは奥田も当局も驚いている。ちかぢか青壮年の方もやることになった。
(つづく)
○厚生音楽は先ずオヤジ教育から 若い者は音楽が渇いているから、これを善導するのは音楽家の責任である。しかし長年封建制度の流れにかくれて米英的な搾取営利に汲々としてきたオヤジどもは、われわれの若い頃は映画一本も見ずに働いてきた、何が娯楽だ何が音楽だ、という。吹奏楽より明笛の方が日本的だとか、歌をうたわせるより詩吟の方が精神的だなどと言いだす始末で話にならない。音楽といえば四畳半音楽とか吉原の音楽と思いこんでいる輩もいる。奥田はかなりの会社や役所、学校等へ厚生音楽の指導に行っているが、オヤジのしっかりしていないところは効果が上がらない。/その点からみて、今度日本厚生協会で1943年7月8日から開かれた国民厚生運動指導者講習会に各府県より集まった厚生事務官に音楽の必需性を吹き込ませてもらえたことに心からよろこんでいる。○馬鹿と鋏は使いよう このように言うが、音楽ほどその使い方がむずかしいものはない。猫に小判のような与え方も、汁粉をこれでもかと食べさせるような与え方も、どちらもだめである。ある工場でラジオを買って休み時間に聞かせたところ、朝から機会の音のなかにいるのだから、せめて休み時間くらい静かにしておいてくれと苦情があったそうだ。この地方はラジオの雑音が多いうえに、やたらと大音量でかけたらしい。またある工場では機械の運動中に拡声器で音楽を聞かせたところ、気が散ってけが人が出たという。まったく馬鹿にもたせる刃物ほど危険なものはない。○音楽を聞かせるならできるだけ良い条件で レコードやラジオを聞かせるなら、できるだけ良い機会でできるだけ良い条件のもとで聞かせてもらいたい。演奏をしてもらうのであれば、できるだけ良い演奏者に頼むことだ。そして猫に小判にならない程度に情操の向上を念頭に置いてほしい。また指導するならもっとも良い先生を選ぶことである。○音楽は規律訓練の確立である 音楽が情操陶冶の圏域から脱して規律訓練であることは、戦時下である今日の国民生活に欠くべからざる要素となった。一つの吹奏楽団、一つのハーモニカ・バンド、一つの合唱隊が心を一にして1本の指揮棒によってその全能力を発揮してゆく点に共同規律訓練としての力戦の確保となる。ある工場では一日のなかで倦怠を感じる頃に、ある時は主任が、ある時は工場長が、またある時は社長が指揮をとるという。こうすることで職工の気持ちが社長に伝わり、社長の命令が職工に行き渡ることは想像に難くない。上役の気の合っているところは、初めての指導でも驚くほどまとまりが早い。○指導者養成の問題 さいごに現在もっとも重要な問題を取りあげる。吹奏楽や喇叭鼓隊等の指導者には陸海軍の健実な人がたくさんいるが、ハーモニカやマンドリン、ギター、アコーディオン歌唱指導等となると適任者が少ない。中等学校や国民学校の先生を動員してはと言われるが、地方の工場などでこれらの先生に依頼して成功しているところはほとんどない。第一に地方の先生は払底している。良い先生になればなるほど一人で何役もこなしている。また、たとえ良い先生があったとしても雑用で忙しすぎるらしい。第二に、つい学校と同じように教えてやるという観念が先立ちすぐ怒るので、教わる人が減っていく。むしろ工場内の熱心な人が皆と一緒に歌うという気持ちでやっているところの方がうまくいっているように思われる。厚生音楽指導者のもっとも大切な点は、どのように気分を掴むかというところにある。/いずれにせよ大東亜の盟主日本に厚生音楽指導者養成所もなく、またそれができる兆しも見えないことは残念である。共栄圏の音楽文化が称えられ、音楽を通じての民族融和が考えられなくてはならない今日、国民の音楽指導者ともいうべき厚生音楽指導者養成機関が一日も早く実現するよう切望して止まない。
(完)
【2005年6月28日+7月1日】
◇音楽は産業戦士の家族なり(歌って戦ふ職場)/小野博(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.15-16)
内容:私小野は過去4年間、厚生音楽指導会を通じて、音楽の意義や音楽家の使命がどの辺にあるか、戦争に勝つために音楽がいかに必要とされ重要性をもつものかについて、悟らせてもらった。思いおこせば溶鉱炉のそばに佇む[産業]戦士、飛行機の精密機器のそばで精神を統一させ緊張したあの顔、油に汚れたままの顔で歌う[産業]戦士、可憐な乙女が落下傘を縫う一心不乱な顔、軍港の養成工の頼もしい精神、加薬工廟における規律正しい厳とした青年の顔。これらの皆さんが歌うときは涙ぐましいほど喜ばしく感じた。小野より年長の[産業]戦士ばかりの工場では、指導曲が《出せ一億の底力》だった関係もあって皆に歌ってもらえるか懸念していた。ところが青年に勝るとも劣らない意気に満ちた声で立派にこの曲を覚えたときには、歌というものがいかに人生に必要であり、音楽が生活の一部であるか、はっきりと教えてもらった。この時は主催者側の産報の署長も感激していた。しかし、私はいつか音楽は阿片のごときものであると話したことがある。使い方によって薬にもなれば毒にもなる。いま誰かが俗悪な歌を平気でうたっているとすると、それを聴く人は歌い手の人格まで窺われてしまう。産業戦士の人格の向上こそは、やがて製作される平気にも[影響を]及ぼすことだろう。音楽趣味の向上こそ、良品増産に及ぼす影響大と信じる。産業兵士の大半は流行歌を歌うこと聴くことをたいへん喜ぶようだ。流行歌を一概に排斥しようとは思わないが、自分の身につける音楽は、歌詞の面から当然自分を導いてくれる音楽でなければならない。いつか産業戦士と座談会をしたときに、流行歌は覚えやすく懐かしさがあるといった人があった。その懐かしさとは言った人の父母が艶歌師の歌うのを聞き覚え、今日の流行歌がその伝統をいくらか汲んでいるために感じるのではないだろうか。また流行歌は今日のわれわれの環境でも味わえる感傷的な歌詞や節で満たされているといった人もあった。その感傷を健全な感傷に導くものこそ健全音楽であらねばならない。さらに産業戦士がどのくらい歌を覚えているかを試したことがあったが、覚えやすく親しみやすい歌が流行歌以外にもたくさんあることを余りにも知らない。その点は、工場での音楽普及の責任がなさ過ぎたこと、音楽家の今までの活動が産業人まで入っていなかったことなどが原因とされる。富士山麓のある工場では《曙に立つ》を女子産業戦士が合唱、輪唱して、親しみと懐かしみのある歌にした例もある。人格向上のためにも情操を豊にするためにも、良き音楽を求めて生活のなかに取り入れるべきである。声を揃えて歌っているときこそ、心が一つになっているときであることを忘れてはならない。
【2005年7月7日】
作業服と歌(歌って戦ふ職場)秋山日出夫(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.17-18)
内容:南海の決戦はいよいよ熾烈さを加えているが、敵軍は連戦連敗の損失を被っているにもかかわらず豊富な物資に頼って挑戦してくるから軽視することは許されない。今日、前線と銃後の区別はない。勝ち抜くために日夜の別ない奮闘を続けている製産陣各工場は、すでに第一戦陣地となんら変わることのない決戦を行っている。日本の兵士は何十倍もの敵を向こうに廻して決してうち負けない。しかし、これらの兵士に充分な装備があってこそ鬼に金棒といえるのである。充分な補充をいたすことこそ我ら生産陣の責務であると考える。重大な責任をもつ生産陣と歌についていささか述べてみる。/決戦下に職場で歌でもなかろうという考えは、もう古い。どの職場でも今日では盛んに歌いまくっている。そんなものかという人には一度やってご覧なさいと言いたい。わずかな暇を割いて油のまま、埃のままの作業服で歌いまくる職場の歌には、社長も工場長も見習工も男女の区別もなく全職場が一丸となっている。老人が孫のような年代の少年工といっしょに歌っている姿を見出すとき、実に頼もしく思う。日頃の疲労をその歌声によって吹き飛ばすのである。歌い合わせる職場の一時こそ一心一体身分の上下はない。こんな工場こそ第一線の製産工場として役に立っているところであり、事実模範工場であると聞いた。/和やかで朗らかな歌声こそ製産陣の疲労に活を入れるものである。そして皆が喜ぶならどんな歌曲でもよいという考えをもつ歌い手や指導者がまだ多いが、考え直してほしい。昔流行した流行歌調、ジャズ調の歌をうたえば喜ぶには違いないが、喜び方を考えてほしい。決戦下産業陣営にこれらの歌は一切無用であり排撃すべきことは言をまたない。同じ喜んで歌うにしても、感激性をもつことが望ましく、指導されるべき精神がほしい。共栄圏指導者としての誇りも感じられ、心からの喜びが感じられるものであってほしい。だから工場でうたう歌が単なる慰安娯楽であってはならない。昼休みに出かけていって歌唱指導をすると、疲労しているはずの工員諸君が別人のように元気に歌う。つい規則の時間を10分、15分と食い込むことがあるのだが、工場長係長の人たちからこの時間は午後の仕事で埋め合わせてみせるから心配いらないと言われたことが再三ある。嬉しいことであり、自分の仕事がどんなに張り合いのあるものかと感激している。戦争は長期になることを覚悟しなくてはならない。楽壇諸氏に対して、死力を尽くして職域の奉公を職場へ農村へ漁村へ鉱山へ出かけ、増産戦士のために捧げてほしいとお願いする。
【2005年7月16日】
楽壇戦響/堀内敬三(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.19-20)
内容:●全国に音楽文化団体網を 素人・玄人の別を問わず音楽技能者と音楽知識者の挺身奉公しうる範囲ははなはだ広い。音楽は極度に活用されなくてはならないが、今日銃後の音楽はいまだ充分に働いているとはいえない。将兵や傷痍軍人、産業戦士たちは音楽を求めながらもそれに恵まれず、他方、音楽技能者や音楽知識者が挺身奉公を希望しながらその機会が与えられない。この不均等は音楽関係者が自発的に是正していかねばならない。/音楽を活かし働かせるためには組織の力を使うのがもっとも良い。ある団体に申し込めば、適当な演奏者や指導者等の協力が得られ、奉公の機会が与えられるということになれば、どちらにとっても便宜が多いが、東京や大阪ほかいくつかの大都市以外には、こうした団体がない。音楽が必要とされている今日、至急に全国各地の楽壇を組織してもらいたい。少なくとも市政を布いている都会には音楽文化団体があってほしい。そういう団体をいくつか集めて県単位の音楽文化団体を作り、県の翼賛会や産報と協力するとともに、これを日本音楽文化協会の支部として中央と密接な関係をもつようにしたい。/戦前の音楽文化団体は悪く言えば、道楽を共通にする気のあった人々の呑気な社交団体であった。今や音楽文化団体は音楽報国の根拠地であらなばならないので、日本音楽文化協会を中核としてひとつに結ばれなければならない。/団体をつくる時に注意してもらいたいのは、音楽文化団体が音楽家だけの利益を守る職業組合になったり、音楽家と愛好者とをつなぐ社交団体になったりしたら決してその使命は果たせない。音楽文化団体の構想は国家的、公共的でなければならない。役員の選定についても、偏頗[へんぱ]と因習を避ける用意が肝要である。偏頗を避けるには「総花人事」になる可能性もあるが、党派的になるよりもまだましである。しかし中心になって働く人にはなるべく若く実行力のある人を選んで、その人を皆がもり立てていくことだ。団体に活気ができ、真に働けるようになる。全国に報国的音楽文化団体を作ろう。こうすれば我々が希望する音楽報国が正しく早く能率よ良く実現する。●音楽鑑賞の指導 国民学校でも中等学校でも音楽の教科目に「鑑賞」が含まれているが、産業戦士その他一般の人びとに対してもそれを行いたい。しかし、実際に音楽鑑賞の指導はあまり行われていないのである。これは音盤を使っても実演を使っても行えるし、専門家以外の音楽知識人にもできるのだから、もっと盛んにやりたい。鑑賞指導は知識注入に偏しやすい。音楽をばらばらに分析したり、本質とたいして関係ない因子をむやみに付け加える結果に陥る。鑑賞指導は総合的に音楽をつかまえさせること、感じさせることが第一義である。また、時局との関連において皇国民意識の下に指導することだ。決戦下に有効適切な指導をしたいと思う。
2005年7月22日
時局投影野呂信次郎編(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.21)
内容:1943年6月15日に召集された第82臨時議会は臨時企業再編成、戦時食料増産対策など現下緊急の法律案8件ならびにこれに伴う予算案3件の11件全部を審議成立させ18日に閉会した。3日の会期ではあったが歴史的な内容をもち、特に東條首相の施政方針演説は日中条約の根本的改訂、フィリピン島独立の確約をはじめとする共栄圏建設の進捗を中外に示した点でまさしく「大東亜宣言」とでも称すべき内容であった。畏れおおき辺りでは軍令部総長水野修身、南方方面軍最高指揮官寺内壽一、参謀総長杉山元三大将の多年にわたる武勲を嘉せられ21日各々元帥府に列せられ特に元帥の称号を賜う旨のご沙汰があった。決戦下、学徒に有事即応の態勢をとらせるとともに勤労動員を強化し、その総力を戦力増強の国家要請に凝集させるために、文部省は「学徒戦時動員体制確立要綱」を立案し、25日の定例閣議を経て正式発表した。同要綱の主眼は学業、訓練、勤労を一貫し綜合的教育錬成の体系の下に学徒の心身鍛練を期し国家の現実に即応しようとする教育の全面的機動化ともいうべき施策である。1943年1月に締結された租界還付ならびに治外法権撤廃に関する日華協定に基づき、上海共同租界を中国に返還することとし、30日南京で谷大使、楮外交部長のあいだに上海共同租界回収実施に関する取りきめおよび了解事項に署名調印を終わり8月1日を期して実施されることとなった。これは中国開放を願うわが国の道義性と実効性に基づくものである。1943年7月1日、東京都が誕生した。これは従来の東京市と東京府が解体統合されて量的質的に膨大な首都に発展、大達茂雄を初代都長官に迎えて、ひとり日本の首都であるに留まらず大東亜の中心都市として発足した。 (つづく) 東京都の出現に呼応して、政府は地方行政の綜合連絡調整をはかり戦力増強を核心とする重要施策を実施するため、内地を北海、東北、関東、東海、北陸、近畿、中国、四国、九州の9地方に分け、各地方に地方行政協議会所在地の地方長官をその会長に充て、管内の地方長官を始め各種地方行政官庁関係官を委員として戦時地方行政の振作に邁進する態勢を整えた。地方協議会長は、北海道長官坂千秋、宮城県知事内田信也、東京都長官大達茂雄、愛知県知事吉野信次、新潟県知事前田多門、大阪府知事河原田稼吉、広島県知事横山助成、愛媛県知事相川勝六、福岡県知事吉田茂。1943年7月7日日中戦争6周年を迎える。米英撃滅と重慶壊滅とは一体不可分のものであることを認識して、戦争完遂に邁進しなければならない。東條首相は先に中華民国、満洲国、フィリピン島を訪問して聖戦完遂への協力を要請したが、1943年6月30日東京を出発してタイ国を訪問、7月4日にはピブン首相と大東亜建設方策に関して懇談し、北部マライ4州とシャン聯藩の2州をタイ領とすることで意見が一致。5日には昭南に到着、○○基地で寺内元帥と会見し、前線将兵の労苦をねぎらうとともに軍状および軍政状況を聴取した。6日にはドイツより来て突如自由インド臨時政府を組織する旨の画期的宣言を行ってインド独立聯盟会長に就任、運動の前衛的指導者であるチャンドラ・ボースの統帥の下に編成されたインド国民軍を視察。またブルマ行政府長官バーモを昭南に招待してビルマ独立の重要な打合せを行い、さらに7日には共栄圏の最南端であるジャワに赴き、ジャカルタの市民大会に臨み数万のインドネシア原住民に必勝の信念を吐露して感銘を与え、帰途再びフィリピン島を訪問して10日マニラ着。去る6月20日に構成されたフィリピン島独立準備委員会委員長ラウレル以下委員と懇談。このほかスマトラとボルネオを訪問して7月12日に帰京した。今次の視察を機にわが南方軍政の施策は一段と飛躍するものと期待される。 (完)
【2005年7月27日+7月31日】
「第九交響曲吹込み」の意義/上山敬三(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.22)
内容:1943年5月13日、日本音響株式会社によってベートーヴェンの《交響曲第9番》終楽章〈歓喜の歌〉が日本語訳で吹き込まれた。この《第九》はわが国さいしょの[この作品の]吹き込みであるばかりでなく、わが国音楽文化、音盤文化のうえからみても意義のあることだと自負している。この吹き込みは1943年正月早々に計画をして約半年の準備期間をもった。その間、多くの立派な外国盤があるなか日本盤作製の意味があるか、日本語訳で原語の力強さが表現できるか、日本人の演奏は《第九》を吹き込むところまで達していない、時期早尚、暴挙に近いなど、いろいろの声を耳にした。文化的な新企画につきものの非難は、それを突き破ることによってのみ前進があるという信念とわが楽壇と音盤界のため「あくまで日本人の手で」という理想をもって、この挙に打って出た次第である。/日本語訳のためにほとんど3分の2の日数を費やした。その際、音楽に深い関心をもち、外国文学に造詣の深い詩人の尾崎喜八の手を煩わしたが、ほかに幾度か独唱者の木下保、藤井典明、四家文子、香山(旧姓 中村)淑子、指揮者の橋本國彦、合唱指揮の岡本敏明らに集まってもらって尾崎を中心に訳詞の検討が行われた。逐語訳ではないが、シラーの原詩の意味と味を破壊しない完全に近い日本語訳ができたと自負している。/吹き込み当日は午前10時から午後5時まで指揮者、歌手、合唱団(国立と玉川)、東京交響楽団、録音技師などが日本青年館のホールで精魂を傾けた。テスト盤を聴くのが恐かったが素晴らしい音で、ダイナミックな歓喜の叫びが聴けた。これによって音盤企画の視野が開けたように感じる。この後も日本人の作品、日本人の演奏、日本人の録音を絶対の条件の下に戦う現代日本に必要な真に力強い、この種の音盤を続々と作製していきたいと念じている。音盤各社もこの方向に眼を向けて互いに鎬を削るならば、日本文化の飛躍に大きな貢献ができるのではないかと思う。
メモ:筆者は日本音響学芸課主任。
【2005年8月10日】

和歌作曲の思出/菅原明朗(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.27)
内容:私が『萬葉集』の2、3の歌に作曲して発表したときに、ある批評家からそんな古典に作曲しても現代人にピッタリくるだろうかと書かれたことがあった。それから15年ほど経ち、今その批評家は「萬葉集、萬葉集」と言っている。私の萬葉集に対する愛着は、このさいしょの作曲からさらに15年ほど遡る。当時私は古典美術に対する愛着から萬葉の古墳をむさぼるように訪ね回った。その頃一番感激した一つは正倉院で発見された真筆の萬葉詩人の古歌であったが、その歌は萬葉集には採録されていない。この歌に作曲し発表してから1年ほどして、日本放送協会からの依頼で小管弦楽伴奏に書き改め、荻野綾子の独唱で放送された。指揮は菅原で、同時にヨーロッパ人が和歌に作曲したフランス語歌曲が歌われた。外国人が和歌に作曲するのを知ったのは菅原が27、28歳のころで、さいしょに見たのはストラヴィンスキーの曲であった。ヨーロッパ語に翻訳された和歌はわれわれが感じる和歌とはだいぶ異なるようで、日本語に訳された「海潮音」や「おもかげ」よりももっと異なるものらしい。和歌が日本語の曖昧さを極度に利用する点に理由があるようだ。日本で和歌による欧風の歌曲をさいしょに作ったのは瀧廉太郎か幸田延あたりだと思う。しかし、これはすべて短歌であって長歌に作曲したのは菅原がさいしょだったのではないかと思う。宮内省の伶人に赤人の「不盡山」に節をつけた人がいるが、これは欧風の歌曲ではなく朗詠調の雅楽であった。萬葉調以前の古歌に節づけしたのも菅原がさいしょだったように思う。しかし、これはカンタータの歌詞として採用したのだから歌曲として作曲した人はまだいないようだ。自らを外界と隔離して静かに音を楽しむ年頃になったのかもしれない。菅原の文章が昔話のようになったのも、そのためかもしれない。
【2005年8月19日】
音楽時評(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.28)
内容:のびのびになっていた日本音楽文化協会の本年度総会は、1943年8月5日に開かれることになったが、演奏家協会との合併問題等が絡みきびしい批判の対象になっている。本協会が当初情報局の監督の下に華々しくした時は、楽壇はこの協会の健やかな発展を望んでいた。時評子の希望を述べれば、協会がいま少し明朗な事業形態を取り楽界の中核たるに相応しい強力な共同体であるよう計ってほしい。決戦下の今日、音楽家の協力は各方面から要望されており、楽界の統合団体である日本音楽文化協会の責任はますます重大である。今期の総会はこの意味においてもひとつの転機になることを願って止まない。役員総退陣を言う人までいるが、善処を望む。/音楽雑誌や音楽出版社の統合問題が起こっている。結果がどうなるかはまだ明言できないが、要は国家のためもっとも有用なものをもっとも必要な方面に配給するということが主眼にある。/大政翼賛会の第二次国民皆唱運動が1943年7月23日に出発した。国民の音楽は歌唱をもって尤とすることを果たして音楽家は心得ているだろうか。そして、この運動に協力を惜しむ人はいないだろうか。この運動から金を得ようとするほど無自覚なものもないと思う。大政翼賛会あたりが積極的に、しかも全国運動に乗り出したということだけでも、全楽界を挙げて協力を惜しんではいけない。これに関連して、日本音楽文化協会の移動音楽報国隊が一日も早く結成されることを望む。
【2005年9月4日】

◇音楽記録(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.29)
内容:日本音楽文化協会は1943年7月5日(日)午後6時より共立講堂において「楽壇総動員血[ママ]戦大演奏会」を開催し、米英撃滅必勝の二大献曲運動のひとつとして21名の作曲家がつくった「山本元帥讃頌」の吹奏楽、合唱、交響楽等の発表をした。「みたみわれ」発表国民音楽会が1943年7月6日(火)午後6時、日比谷公会堂で開催された。この日は従来の発表会を一新して出演者全員が防空服装で凛々しく会をすすめた。しかも全演奏曲曲を日本人の作品にしたことも特色である。なお、この音楽会は東京にひきつづき名古屋、大阪、福岡等全国7ヵ所で開催されることになっている。日タイ親善に文化使節を交換することとなり、音楽界からは山田耕筰が決定した。随員として平岡、斎田も内定。音文と音盤協は共催で1943年7月17日(土)12時30分より日比谷公会堂で「海の記念日」の記念行事の一つとして、海の記念日大音楽会を開催した。「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」を全国に募集したところ、応募数は実に9千数百に及んだ。審査員長は大本営陸軍報道部長の谷萩那華雄少将以下各審査を経て、入選1篇、佳作2篇が次のように決定した。→ 入選(1篇)賞金1,000圓 裏巽久信(兵庫県伊丹市宮池町、同県立伊丹高女教諭)、佳作(2篇)第1席賞金200圓 加藤朝春(福岡県嘉穂郡庄内村網分、会社員)、同第2席賞金100圓 大村菊枝(山口県光市浅江上ノ町)東宝映画「あの旗を撃て」の映画音楽コンクール発表会は本選を兼ねて1943年7月8日(木)午後5時30分、日比谷公会堂で開催。審査の結果、春日邦雄の幻想的交響組曲《熱風》が第1位を獲得した。

1943年7月1日(木)午後6時30分、日比谷公会堂、希望演奏会第2回公演
1943年7月1日(木)午後7時00分、日本青年館、日本絃楽四重奏団第3回公演
1943年7月2日(金)午後7時00分、日比谷公会堂、島田龍之助独唱会
1943年7月3日(土)午後2時30分および午後6時30分、共立講堂、日独親善厚生文化の夕
1943年7月4日(日)午後6時30分、日本青年館、光聲会演奏会
1943年7月5日(月)午後6時30分、日比谷公開堂、戦艦献納音楽会
1943年7月11日(日)午後7時00分、東響夏の夕
文部省第9回推薦音盤 第21号歌曲=「不盡山を望みて」山部赤人歌、信時潔曲、杉山長谷夫編曲/「故郷の翁」国木田独歩歌、信時潔曲、杉山長谷夫編曲、千葉静子独唱(富士−307) 推薦理由:2曲とも優雅で親しみのある歌曲で、気品の高い歌詞と芸術味豊かな曲節と堅実な歌唱はいずれも推奨に値する。文部省第10回推薦音盤 第22号愛国百人一首「あをによし」小野老作歌、深海善次曲、四家文子独唱/「身はたとひ武蔵の野邊に」吉田松陰歌、箕作秋吉曲、留田武独唱(日本音響) 第23号愛国百人一首「山はさけ」源実朝作歌、草川信作編曲、大江千郷独唱/「千萬の」高橋蟲麻呂作歌、河内秀喜曲、山田栄一編曲、石井亀次郎独唱(大東亜) 第24号愛国百人一首「皇は神にしませば」柿本人麻呂歌、清瀬保二編曲、高木清独唱/「しづたまき為ならぬ身も」児島草臣歌、小松清作編曲、高木清・千葉静子独唱(テイチク) 第25号愛国百人一首「天皇につかへまつれと」佐久良東雄歌、飯田三郎曲、佐藤長助編曲、井口小夜子独唱/「しきしまのやまと心を」本居宣長歌、弘田龍太郎曲、永田絃次郎、長門美保独唱(富士) 第26号愛国百人一首「岩が根も」有村次左衛門歌、佐々木すぐる曲、伊藤武雄独唱/「わが脊子は」安部女郎歌、山田耕筰曲、浅野千鶴子独唱(ニッチク) 推薦理由:作品はいずれも斯界一流の人びとの手になり、荘重にして優雅、愛国の至情烈々たる歌詞の内容をよく描いている。歌唱も優良。一般ならびに青年向音盤として推薦する。 第27号歌曲 「誓ひ」北村冴子詞、伊藤完夫曲、小松清編曲、三宅春恵、鷲崎良三独唱 推薦理由:日本放送協会撰定の国民歌謡の1曲で、親しみのある美しい歌曲である。歌唱も堅実で一般ならびに青年向音盤として推薦する。日本音楽文化協会国際音楽専門委員会では1943年に入ってから情報局第3部対外事業課の積極的援助のもとにその活動力を南方各地に活用しつつあるが、去る5月依頼数回の会合において南方方面の楽曲「大衆歌曲、管絃楽曲」を決定した。
【2005年9月12日】
編輯室堀内敬三 清水脩 澤田周久 黒崎義英(『音楽之友』 第3巻第8号 1943年08月 p.32)
内容:音楽は、国民の士気を養い戦力を強大にするためにもっとも有効な武器の一つである。音楽の道にたずさわる者は素人・玄人を問わず音楽戦士としての全力を傾けなければならない。本号は直接戦争の役に立つように音楽を働かせる点について音楽指導者網の拡大と勤労者音楽の新興とを主眼として編輯し、楽譜は時局歌のほか日本精神の昂揚および産業戦士の慰安に資する芸術曲、古典曲、民謡等を収めた。(堀内敬三)本号の楽曲選にも新機軸を出すべく種々計画がある。次号は南方歌曲を出すが、これらが作曲家の手にかかり、壮大な大管弦楽や大衆歌曲となり、大東亜の指導者たるにふさわしい音楽指導の中心をこの国に建設するよすがとなれば幸いである。(清水脩)音楽雑誌協議会定例会議において音楽雑誌の特殊性を活用するため、雑誌社自信によって日配当事者との協調をもってより有効な配給企画を立案して実行してほしいと官庁側から要請があった。さっそく具体化したい。現に日配から返品があるのに各地からの直接注文が雑誌社に殺到してくる。しかし、これにはほとんど応じられない状態である。こういうことは当然早急に是正され、音楽関係者への要望を充足すべきだと思う。(澤田周久)
おことわり 
* 本誌6月号31頁に掲載の楽譜《軍神敬頌》(名倉晰曲)は全然違う曲が入っていたため、謹んで訂正し、今月号に再掲載した。
* 本誌7月号の楽譜《噫山本五十六元帥》の「帥」の字が「師」となっていた。同曲の歌詞の「屍を越ゑて」は「艱苦を越ゑて」に訂正。
* 本誌7月号の目次に頁数が打っていない。さらに本文22頁に野川香文氏の追悼文の見出しが脱落していおり、野村光一、石塚寛氏の原稿にも多数の誤植があった。これは再校を経たにもかかわらず初稿で印刷されたためである。直接には本誌担当の黒崎の責任である。読者に対しお許しを請う。(黒崎義英)
【2005年9月19日】



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