『音楽之友』記事に関するノート

第3巻第07号(1943.07)


音楽の総てを戦ひに捧げん山田耕筰(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.3)
内容:山本元帥の戦死、アッツ島勇士の勇敢な玉砕を体験した熾烈な戦局の下にあっては、楽壇の諸君もなお一層の反省を加え、楽壇から平時的な生活態度や微温的な思想傾向を除き去り、戦争目的のために統一し邁進する楽壇にすることが急務であると痛感している。音楽は戦力増強の糧である。国民が皇国に生まれた光栄を自覚させ、勇気を奮い起こし、協力団結の精神を養い、耐乏の意志を強め、普遍不屈の気力を養うことが音楽に課せられた重要な任務である。/楽壇人の生活態度を顧みてみよう。戦いをよそに芸術を弄ぶような考えがまだ残っているのではないか。産業戦士と真の戦争音楽をともに体験しようとする気塊に欠けていないか。おさらい的、社交的、皇民的意識のはっきりしない演奏会がいまなお見られるのではないか。こうした者は少数かもしれないが、たとえそうでも呑気な者や利己的な者が存在していることは楽壇の恥辱である。/戦争の役に立たない音楽は、いまは要らないと思う。目前の戦争に勝ち抜いてこそ永久的な文化も考えられる。日本が世界無比の古代文化を今日に伝えているのは、万世一系の皇室のもと国家の尊厳が犯されることなく3000年の歴史を重ねてきたからである。日本の文化は皇国とともに栄えたのであって、この大戦争に勝たなければ日本の文化はない。/聯合艦隊司令長官は最前線に進まれ、散った。山崎部隊長以下二千数百の勇士は全員国に殉じた。楽壇の一人一人は一命を国に捧げる覚悟を示さなければならない。その覚悟を音楽の実践によって現さなければならない。個人の生活などに何の思慮を費やすことがあろうか。われわれは戦時下の正しい皇民道に向かって誠心誠意邁進し、皇民たるに恥じない力強い音楽活動を展開して報国の談を発したい。
【2005年2月6日】
決戦生活と音楽小松耕輔(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.4-5)
内容:1.聖戦下、時局は今や決戦の重大時期に直面するにいたった。山本元帥の戦死、アッツ島における2000名の皇軍兵士の玉砕を見るにつけても、われわれは決戦体制の強化をしなければならないことを痛感する。では楽界および楽壇人がこれに即応する充分な備えがあるかといえば、いささか疑問が残る。まず作曲界について言えば、以前よりは時局を認識し、作品や作曲態度において国家的となっているが、なお多分の自由主義的残滓が存在しているよう思われる。これは作曲家自身の精神的覚醒を待つほかないが、愛国的情熱によって国民を奮起させ、国難に赴く精神力を発揮させるような作品を作ってもらいたいと思う。わが国の作曲家が皆この意気に燃え上がったならば、必ずわれわれが希望するような作品が現れてくることを確信する。 2.演奏方面をみると音楽会は以前にも増して盛大になっている。これはひとえに皇軍将兵のおかげであるとともに一般国民がいかに音楽を要求しているかがわかる。ここで音楽者は、ますます自己の責任の重大性を自覚しなければならない。この点から、演奏曲目の編成などは平時とは異なった色彩を具現するように、大いに研究する必要があろう。といって曲目全部を軍歌や行進曲で塗りつぶせというのではない。要は国民精神の高揚に資し、決戦体制に処すべき逞しい精神力を奮起させるような曲目を加えて欲しいのである。少なくともこうした心構えで曲目を編成すれば、現在より一層意義ある演奏会を見いだすことができるであろう。厚生音楽方面は戦前に比して著しく発展し、昨今、生産増強の必要とともに漸くその真価が認められるに至った。全国に亘って産業戦士の間には夥しい数の合唱団や吹奏楽団が結成され、その効果が認められるようになった。しかしながらその数や組織、また指導法において、なお充分ということはできない。今後益々その充実と一層の普及とによって産業戦士の決戦体制を強化しなければならない。これに対しては情報局、翼賛会、産報などの一層の協力を望む。 3.蓄音器音盤業界が著しく面目を改めたことは喜ばしい。戦前、いわゆる卑俗な流行歌氾濫時代を現出したが、時局に目覚めた結果、それらは漸く市場から姿を消した。しかし今もって、米英的功利主義の残影を認めざるを得ないものがある。少しでもいかがわしい音盤が残存すれば、良い音盤の普及が妨害される。これには先ず精神より鍛え直さなければならない。音楽行政について一言いうと、現在各官庁方面において音楽を取り扱う部門が教育方面は文部省、厚生方面は厚生省、宣伝利用方面は情報局、取締方面は内務省、鑑札許可は警視庁、国民運動方面は翼賛会というように種々に別れている。これら一切を総括した音楽行政の中心点はどこにもない。そこでいろいろの面倒が生じやすく、国策の上からみて頗る不得策だと思う。今日の状態では音楽行政の一貫した方針は窺い知ることができない。したがって音楽行政の運用目標は一定していないということになる。今日のような決戦下においては一層切実にその機構の整備を計る必要を感じる。政府はまず音楽行政の中心機構を設け、そこで政府としての音楽政策を樹立し、その意見が政務実行機関を通して急速に行われるようになれば、その成績は大いに見るべきものがあるだろうと思う。このようにして楽界の行くべき途を明示し、楽界を音楽報国の一途に邁進させるべきである。わが楽界の決戦体制が完全に確立するであろう。
【2005年2月12日】
南の空に歌ふ(五) ― 南方音楽随想 <連載>佐藤寅雄(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.6-9)
内容:5.安南の歌のいろいろ
(d)ハット・サーム (遊吟歌手の歌) 遊吟歌手とは要するに演歌師や辻芸人の類である。前述のいろいろな歌は田園の歌ばかりだったが、田園を離れ三角州地帯(トンキンやサイゴン周辺を指すのだろう)の町では魚油ランプのもとで歌う演歌師に出会う。これらの演歌師はたいてい3人連れで、盲目の者や心身に障害のある者が多く、それに若い女が連れ添って聴衆を集めている。女中や下男など下層階級の町の男女、それに兵隊や労働者もよく集まる。歌手の声は終日歌っているのでかすれて耳障りであるが、歌い方はうまい。聴衆の前に置かれた真鍮鍋に一厘、二厘と金が投げ込まれると、若い女が甲高い声を上げて歌い出す。男は二弦の胡弓を弾き鳴らし、竹をたたいて歌手の伴奏をする。また纏頭[祝儀のこと・・・小関註]がはずまれたりすると、安南楽器として特異な一弦の胡弓を爪弾きして一層おもしろいものにしてみせる。この一弦胡弓は長い共鳴箱の上に鉄線を1本張っただけのものである。演歌師の歌は哀調を帯び、月の歌とか恋愛歌が多い。 
B.労働歌
(a)ハット・ド・ヅーラ(舟歌) 運河や川で涼をとるサンパンという軽舟の船頭の歌も、仏印ではあまりにも有名である。労働歌は1日の激しい労働からくる疲労や苦痛をさらりと忘れさせるものであるが、それが一般人の歌ともなって広く人口に膾炙されているのである。順化のサンパンこそ安南の画舫[美しく飾った遊覧船の意・・・小関註]として歴史が古い。一説によれば安南の画舫は順化から始まったともいわれる。順化のサンパンは漕ぎ手が若い女で、川の両岸からたくさんの小舟が出て静かな川面をあちこち漕ぎ廻るのであるが、漕ぎ手がもの悲しげに歌う調べがあちこちの小舟から響き合う。しかし舟歌は順化にあるものだけではない。トンキン地方では違った節回しが認められる。順化とは違って男の歌であって、舟歌がとりもつ縁でしがない漁夫とお姫様が悲恋に陥る物語が安南では有名である。 (つづく) 
(b)樵夫の歌 労働歌だが、大きな木を切ったり立樹を伐採することになるので、安南の歌としては珍しくひじょうにリズミカルである。リフレーンも短いが、樵夫が膂力を揮って働くときの合いの手として自然なことなのであろう。樵夫が2人差し向かいで仕事をするとき、交互にことわざや格言を言い放ったり、短い恋愛歌を口吟んだりする。そしてさいごに、2人のどちらかが、あるいは周囲の者がリフレーンをつける。リフレーンは「ゾ・タ・ゾ・タ」という、いかにも樵夫らしいものである。
(c)野良仕事に従事する者の歌 熱帯の野良仕事は実際暑い。ひびの入った田んぼに水たまりから樋の両端へ2本の綱を引っ張り、2人の農民が水を掬い上げている姿を何度も見た。荒撫地の開墾、湿地帯やデルタの排水、それに灌漑と近年仏印の農民は血みどろの奮闘をしてきた。筆者は安南やカンボジアで水車というものを見たことがない。また日本や中国で見られる足踏み式の水車も見たことがない。たいていは樋の両端に綱を引っ張りながら水を掬い出すという米搗虫のような仕事を繰り返している農民の姿だけを見た。この地方では洪水も干ばつもひどいものだ。農民は常に両面作戦でやらなければならない。だから、よく畑の一隅に井戸が掘ってある。安南の農民歌や地方の歌は、労作の意味をハッキリ言い表したものが多い。1年中の労作の順序を歌いこんだり、畑作の暦を歌ったり、月の位置を示す月暦を歌ったりする。また、中部安南地方のあるところでは、若い男女が脱穀した米をさらに搗くために夜通し仕事をするが、ここではトンキン地方のように杵を用いない。めいめいが小さな棍棒を手に搗いたり叩いたりする。その時、短くぶっきらぼうな歌を歌う。
(d)ハット・デス・エム(子守唄) 安南の歌がすべて恋愛に関係しているわけではないという一例として、子守唄がある。わが子の幸福を祈る母の願いは敬虔である。もっとも母たちは、子守唄ばかりでなく、近所の人たちに忠告を与えたり、軽蔑するような歌詞の歌を子守唄のようにして口ずさむということである。
(f[ママ]童謡 安南には童謡の数がひじょうに少なく、満足な形をしたものは残っていない。その由来も、歌詞の意味もさっぱりわからなくなったものが多い。たとえば「タ・ヂャ・バ・バ」とか「チ・チ・チャン・チャン」などは多少なりとも陽気なものだが、歌詞の意味が何を表しているのか、またどうしてこういう子どもの歌ができたのかは判然としないのである。(完)
【2004年2月15日+2月24日】
国民皆唱運動の報告書(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.14-15)
内容:第一次国民皆唱運動は、大政翼賛会が企画し日本音楽文化協会・演奏家協会・日本放送協会が協力し、1943年2月1日から3月31日まで指導班を派遣して実施した。
歌唱指導班 担当府県名(日数)指導者名(伴奏者氏名略)・・・群馬(10日)下八川圭祐・佐藤美子。栃木(10日)鬼俊英・安部秀子。茨城(10日)鯨井孝・南部タカネ。山梨(4日)高倉敏・斎田愛子。静岡(6日)佐々木章・高柳二葉。神奈川(10日)藤原義江・鏑木欣作。宮崎鹿児島(11日)松山芳野里。広島(10日)伊藤武雄。高知(7日)神宮寺雄三郎。香川(7日)留田武。徳島(10日)鬼俊英。山口福岡(11日)古筆愛子。愛媛(9日)佐々木章・井上けい子。岡山(10日)山本春雄。大分(10日)田鎖直江・湯山光三郎。佐賀長崎(11日)秋山日出夫。北海道(3班各11日)井上けい子・松山芳野里・毛利幸直。兵庫滋賀奈良三重和歌山(5班31日)須藤五郎ほか18名。
この報告記事は1943年5月4日大政翼賛会が催した報告座談会から摘録編集したものである。
■国民皆唱運動は成功した■ 
大政翼賛会八並宣伝部長:大政翼賛会は1942年12月8日(大詔奉戴1周年記念日)を機会に一大国民運動を全国的に展開する一つとして、国民挙って歌を唱う計画をした。翼賛会として明朗な運動を起こして国民の士気の昂揚を計りたいと考え、斯界の権威者の援助を得て全国各地にこの歌唱運動を実施した。しかし地方によっては、この運動に理解をもっていないところもあったであろうし、翼賛会側の不行届きや連絡の不十分もあったろう。寒い時期で不便な場所も多く苦労をおかけしたが、この運動の成果がひじょうに大きく挙がって喜んでいる。今後もこうした運動をますます大規模かつ広範囲に展開したい。翼賛会文化部の提唱にかかわる《み民われ》の作曲も完成し、その普及宣伝を計る意味合いからも、近くまた歌唱指導運動、国民皆唱運動を展開したいと考えている。
■健民運動としても■
大政翼賛会高橋文化部長:国民全体が歌を唱う気運を作ることは、すでに考えられていたが、昨年の暮に翼賛会がいろいろな国民運動をまとめて展開するときに文化部が国民皆唱運動の案を作って出した。そのきっかけとなったのは1942年10月、四国のある会合である医師が「戦争中でも文化運動は必要である。娯楽という意味からではなく健民運動という意味から国民に明るい娯楽を与えなければいけない。その理由は、人間は楽しい歌を唱ったり明るい気持ちになると、血液の中に結核に対する抵抗力が強いアルカロージスが増える。反対に暗い気持ちになったり不愉快になると、結核菌に対して抵抗力の弱いアシトジスが増える。したがって歌を唱うことは結核撲滅運動になり、健民運動ともなる」と言ったことだった。歌を歌うことは国民の音楽的素養を高め、それによって国民の資質を高め、国民の気持ちを明るくする。同時に、歌を歌えば団体的訓練にもなり、ひとつの仕事に対する技能感覚を養うという意味で錬成の機会にもなると思う。
■現地報告の要旨■
佐藤美子:一般に子どもがあまり大勢集まると指導しづらい。群馬の国民学校では先生方にも集まっていただいて指導したので子どもたちにも行き渡るだろう。/八並宣伝部長:児童が多いのは聴衆の動員がうまくいかず穴埋めに入れたところがあったからではないか。本当のねらいは大人だが、子どもを使って大人に宣伝することも考えられる。/鏑木欣作:子どもは大人よりも覚えが早く伝播力がある。次回からは計画的に両者をうまく動員したらよい。/山本春雄:岡山の工場に行ったが、会が終わったあとで寄宿舎では女子工員が夜11時頃まで《海ゆかば》や《此の決意》などを歌っていた。このくらい徹底的に歌ってくれたのはありがたかった。/下八川圭祐:群馬では、翼賛会県幹部の皆さんが予想以上にこの運動に理解をもっていた。最初に行った小野という場所の会場では、会場1時間半前には満員で、外で200〜300人が待っていた。その熱に動かされて知らず知らずその場で12、13歌った。ほんとうに来て良かったと思い、東京でクラシックものばかりに閉じこもっているのは間違いだと思った。また沼田というところでは警察署長、村長、町長、県会議員が熱心にさいごまで歌唱指導を受けた。その会はどの会よりも厳粛で規律正しかった。/鏑木欣作:私が行った浦賀では国民学校の校長が、児童は学校で教える歌を歌わないで《野崎詣り》などを歌って困る。どうにかして国民の生活の中に健全な音楽を普及させたい、と言っていた。こうした点からも歌唱指導の必要を痛感した。/留田武:歌唱指導をやるのに始めから《海行かば》よりも《此の決意》で始めた方がうまくいった。/毛利幸尚:松山芳野里が行った《海行かば》の指導を見て感心した。はじめこの曲を知らない人はいないか手を上げさせ全員知っているはずであることを確認。次に1度歌い「60点」と点を出す、2回目で「80点」、3回目で「100点」とする。
【2005年3月3日】

楽壇戦響堀内敬三(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.16-17)
内容:■戦力増進に挺身■山本元帥は司令官として南方第一線で戦死を遂げられた。山崎部隊長以下2000の勇士は北海の孤島に自軍の10倍の敵を引き受け玉砕された。国民はひとしく奮起し、米英撃滅の決意をますます強めている。楽壇も戦争のために働いている。すでに米英の曲を葬り、悲観的・退廃的または遊蕩的音楽を追放し、楽壇人が演奏したり作曲する音楽は、日本精神を発揚したり国民の士気を鼓舞したり将兵・産業人・銃後家庭人を慰安するなど、何らかの意味で戦争の役に立つものばかりである。しかし、これに安んじてはならず、まだ考えなければいけないことがある。いま極度に不足しているのは産業戦士のための音楽である。日常娯楽に恵まれていない産業戦士は、良い音楽を聴き、良い音楽を歌いたいにもかかわらず、これらの人々には音楽が均霑(きんてん)しないのである。東京では連日演奏会が行われている。それは当然であるけれど、必要以上に高級な演奏会が多い。楽壇人は個人的な研究発表演奏会や自己宣伝演奏会や金儲け演奏会を控えて、音楽を戦闘力の糧とする産業戦士のために今こそ努力すべき時だ。専門家は独唱・独奏・管弦楽などに、素人は合唱・合奏・吹奏楽などに各自の技能を傾けて挺身し、戦力増強に貢献することを実践しよう。こうしてこそ音楽は「軍需品」といえる。 ■軍艦行進曲記念碑■日比谷公園旧音楽堂を背景に、大花壇を前に控えて、軍艦行進曲記念碑が建設され、1943年5月29日午後、除幕式が執行された。多くの記念碑はある人やことを後世に忘れさせないように建てられるが、軍艦行進曲は皇国海軍の武勲とともにある。この碑は軍艦行進曲を忘れさせまいとしてではなく、この時代に生まれあわせ、この曲を通じて皇国海軍の偉勲を讃抑する国民の感激を後世に伝えるために建てられた。 ■国民歌劇《西浦の神》■弘田龍太郎作曲の国民歌劇《西浦の神》が1943年5月下旬、藤原義江歌劇団によって上演された。物語はアイヌ古物語による英雄譚である。音楽はこれにふさわしく日本的であり、アイヌの旋律を加味している。惜しむらくは台本は詞句が長すぎ歌劇としては動きがひきたたなかったことである。これまで見られた少女歌劇的、オペレッタ的、またはレビュー的な「国民歌劇」とは違って、これが地道で正当な日本的歌劇作品であることを嬉しく思った。藤原義江はこの3日間で約6000円の欠損を出したが「よいことをした」といい、「毎年1度宛は新作歌劇を上演したい」と言っている。 ■唐端勝君の死■本誌嘱託唐端勝は1943年6月4日夜、脳出血で急逝された。唐端は各誌に指導的な論説を書き、本誌に「時局投影」と「楽界彙報」を執筆し、日本音楽文化協会の『音楽年鑑』を編纂していた。『月刊楽譜』の編集主任であった時代から唐端は楽界記録を収集し整理して、誌上に連載し年鑑に書いていたが、過去十余年の楽壇の動静は唐端によって要点を誤たりなく書き残されたのである。唐端はこの数年来健康が優れなかったが、こうした地味で面倒な仕事をよくやっていた。唐端は自分のことについては淡々としていたが、時局については真剣な熱情を吐露して楽壇に呼びかけていた。戦争が激甚になるにつれ唐端の評論はますます音楽報国の一点に凝集した。
【2005年3月6日】
音楽時評(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.18)
内容:○楽器配給に関する件が、文部省、商工省、情報局、厚生省などが中心になって先日来漸次固められている。この問題は音楽家にとって切実であると同時に、一般国民の音楽教養の素材としても忽せにできない。特にギター、アコーディオン、ハーモニカなどは産業人の健全娯楽の用具としてゆきわたらせたい。しかし楽器の原料は重要兵器の原料であるから、これまでのような贅沢は言うべきでない。要するに、少ない楽器を戦力増強に直接役立ちうる方面に適正に与えることが重要である。このためにはピアノなども有閑令嬢の嫁入り道具や客間の調度用に供されることがあってはならない。特に日本音楽文化協会の善処を望む。/○音楽家の信用が落ちている。楽壇の覚醒は一刻も猶予できない。演奏会の統制が必要であり、演奏会を仕事とする音楽家たちの奉仕が今や各方面から求められている。一人の音楽家が1ヵ月に1回、市民や産業戦士のために無報酬で働くなら、仮に東京に居住する音楽家を1000人として、運動は1年で1万2000回にのぼり、一大奉仕運動となる。これを全国的に展開すれば音楽家の面目が回復し、音楽家の良き錬成の場ともなる。ここに音楽奉仕運動を提唱する。/○これと関連して日本音楽文化協会では、移動音楽隊の組織に関して協議がすすめられている。その実現は各方面から期待されているが、最大の悩みは、いかにして音楽家をこれに参加させるかであろう。この一大組織ができたならば、これを利用しうる団体はいくらでもある。要は、この組織を運用するに足る事務局の整備が肝要である。/○戦いは勝利をめざすが、今以上に国家が危急の時に立ったならば、音楽家たちはどうするつもりであろうか。音楽を唯一の武器として戦いの第一線に飛び出すだけの自信をもっているだろうか。いや現に音楽を武器として直接戦場に立たなければならないのだ。ひとまずきれいさっぱり芸術などというものを捨て去り、一隣組員に立ち返り、そののち芸術を振り返ってみる必要があろう。そのために日本の音楽が低下するくらい何でもない。/○臨時議会における企業整備の問題を直視せよ/○10万人の転廃業者が出ることに想到し、その心情を考えてみるがよい。金山の労務者の転進あり、繊維工業の転換ありなので、音楽家の転廃業も断行されてよかろう。そしてむしろ食糧増産の戦士として、あるいは工場鉱山に半年から1年飛び込ませることも有意義である。直接戦力の増強に用のないものは一日も早く緊要なものに転じなければならない。有閑令嬢相手の音楽の切り売りは日本の敵である。
【2005年3月9日】
再起への律動(前線・銃後便り 識者論壇古川益雄(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.19-20)
内容:私たちの音楽集団は、当初、入所当時に音楽好きが集まって合奏のまねごとをしているのを[傷痍軍人大阪療養所]所長が聴き、大いにやれと言ってくださったので大療音楽研究会として創設された。大阪の阪東政一を講師として指導を仰ぐ軽音楽団であり、各楽器の研究会であり、レコード鑑賞会である。楽器は各自持ちよりか所の備品、または寄贈のものでやっているが療養上吹奏楽器は許可されておらず、ヴァイオリン、ギター、マンドリン、アコーディオン、チェロなどをやる。ほとんどの者は出征前、音楽にまったく関係なかった素人ばかりで、当所で楽譜の読み方から始めた。それが半年ほどたって(療養は1年、2年、あるいは3年、5年と長期にわたる)次の会員を募集すると、それまでの経験者は各楽器の楽しみを知り、ものすごい意気込みで簡易なワルツや軍歌、タンゴ、ポルカなどをやっている。ある程度のものができあがると一段上級の曲がやりたくなる。そして外部より入ってくる音楽はわれわれの耳を肥やしてくれる。そしてレコードの鑑賞が必要となり、当音楽会にも鑑賞部が誕生した。合奏の方は、さいきんなんとか音楽の型らしくなった。それも前述した所長の理解のほか、受持医官の医学的またはその他の立場からの援助、そして阪東氏の熱誠のおかげである。聞くところでは、われわれが入所しているような療養所は全国に□十ヵ所あり、現在なお増設されているらしい。全国の他の療養所では俳句会、短歌会、書道、華道などが専門の講師によって指導されているそうだが、音楽会のみは当音楽会以外にないという。われわれ療養している者にとっては、音楽は普通人以上に必要だと痛感している。すでに俳句の分野では療養俳句は大いなる効果を上げ、俳壇の一部となっている。われわれは良き師を得、良き保護の下にすくすくと成長している。願わくは全国幾十万の療友にも音楽が再起への手引きとなることを欲する。厚生音楽またはその他に携わっている先生方もこの点留意され、慰問演芸の音楽より一歩進んだ音楽の指導、普及を願えれば広く日本の音楽思想普及のためにも幸甚であろうことを信じている。(傷痍軍人大阪療養所)
【2005年3月12日】
比島音楽便り(前線・銃後便り 識者論壇)小野田少尉(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.20)
内容:南方でもっとも音楽が盛んなのはおそらくフィリピン島であろう。フィリピン人は音楽好きで有名であり、よく家庭にピアノがあり食事の次には音楽家ダンスをというくらい音楽に親しんでいる。また、どんな田舎や町にも音楽堂があり日曜日などには演奏会を催している。しかし、音楽の力によって民族精神の高揚や情操の陶冶、あるいはより崇高、優美な精神美の探求や錬成に資するというのではなく、多くは享楽のための音楽のようである。フィリピン島の音楽を聴くと、スペインが300年、アメリカが40年と、彼らがいかに自国の音楽をフィリピン人に与え、それを扶植していたかがよくわかる。フィリピン島の民謡は、歌詞を別にすると、ほとんどスペイン風の旋律でできている。そこで、これはスペインの曲だろうと聞くと、いや昔からあったフィリピンの歌だという。さいきんはアメリカ・ジャズ調で埋まっていた。なお、舞踊についても同じことがいえると思う。フィリピン人はスペイン、アメリカの統治により自己本来の姿を失って、よく歌いよく踊る民族になったのであろう。しかし大東亜戦争後、日本の指導によって東洋精神を取り戻しつつあり、たとえばダンスホールが漸く衰退しつつあったり、バーの一隅にいたジャズ調の音楽団がいつの間にか姿を消したりしている。次に、前線巡回演奏は各隊ともひじょうに期待され、その感激ぶりはいうまでもないが、舞台に記念祭などのときにいつもフィリピン人のまずい楽隊を聴かされているので、わが皇軍軍楽隊を聴き、ここにも音楽の勝利だと言った状況である。田舎の小さい町や山中の警備隊へ行くと、聴き手は部隊の数よりも住民の方がはるかに多いことがある。住民に軍楽を聴かせることは、宣撫上多大の効果があるが、たとえばある町ではわが皇恩の宏大であることに感激し1曲ごとに萬歳を叫んで感謝の意を示したところもあったし、またある県長は日本軍が軍事のみならず、音楽芸術においてもこれほど高度であるとは予想外であると言い、皇軍にはいっそう協力をし、新しいフィリピン建設に邁進しなければならないと語ったところもあった。いまやフィリピン島も日本のよき指導によって、漸次東洋精神に還りつつある。盛んだったジャズが日々衰微の一途を辿りつつあり、それに代わる健全な音楽がますます隆盛を見つつあるのは、同じ東洋民族として喜びに堪えない。われわれも一層東亜の指導者として、軍楽報国に邁進する覚悟である。(比島派遣軍楽隊)
【2005年3月21日】
◇唐端勝君のこと(唐端勝氏を追悼す)/野村光一(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.21-22)
内容:唐端勝が鎌倉で急逝した。この土地には近親者がほとんどいなかったため、松本太郎、江口博、野村光一など鎌倉在住で日頃から親しかった者が葬儀の準備をしなければならなかった。唐端を楽壇に引っ張り出したのも私[=野村]だったし、最期を見届けるようなことになったのも野村だった。それだけに唐端の人生半ば業半ばにしての長逝は痛ましく感じられる。唐端と知り合ったのは、野村が慶應義塾大学で西洋音楽史の科外講義をしていたときで、当時いずれも独文科3年だった唐端と平尾貴四男が講義を聞きに来ていて、その後2人とは親しく交わるようになった。当時、唐端は音楽は好きだったがその道で身を立てるほどには決心をしていなかったらしい。卒業後はある会社に図書館係として入社したが、この仕事が面白くなく、他の口を見つけるために野村のところへ相談に来た。野村はそのころ、音楽雑誌『月刊楽譜』の編集変更について堀内敬三、青砥道雄、福神上太郎から相談を受けていたので、渡りに舟と唐端を推薦した。これが唐端が一生を音楽方面で口滌きする因縁となったのである。『月刊楽譜』が『音楽世界』と合併して『音楽之友』となるまでの約10年間、唐端はこの雑誌の編集に鋭意当たった。唐端の音楽文筆業者としての仕事は、だいたい編集者として終始されたが、他面自分自身の独立した仕事としても多くの希望と計画をもっていた。歴史小説を書くことなどは同君の一生の念願であったがほとんど実現されなかったことは、その方面の才能が豊かであっただけに残念であった。
【2005年3月31日】
思ひ出二つ三つ(唐端勝氏を追悼す)/石塚寛(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.22)
内容:唐端は左手が少し不自由だった。だいぶ以前、何かの演奏会に行くのに日本青年館まで圓タクで乗りつけ、降りる際、唐端の手を扉にはさみこんでしまったことがある。叫び声を上げ、顔色を変え、右腕を抱き込むようにして佇んでいた姿を見てどきっとした。そうした事情があったので、よく一緒に歩くときなど、重い荷物があると思わず持ったりしたものだ。しかし某日、唐端が2貫匁の馬鈴薯を持参して友人宅を訪問したことを知ってから、そうしたことは中絶した。○唐端が駆けた、という珍ニュースが出たことがある。ある日のたそがれ時、2〜3人で新橋駅に着いたところ頭上のホームに横須賀線がすべり込んだ。すると目の前を脱兎のごとく改札口へ駆けぬかんとする男があり、見ると唐端だった。唐端は声をかけられて初めてわれわれに気づいて大いに照れ、毛の薄い頭をぴしゃりと叩いた。○唐端の奥さんは仲間うちでは有名な料理人である。ありふれた材料で実に見事な献立ができあがるのである。羨ましく思って幸せだなと言うと「お客さんのいるときだけさ」と言っていた。○料理の話のついでにもう一つ。いつか妙な飲み物を出されて面食らった。黄金色に濁った液体で、まことに美味く、その正体はピーナツ・バターであった。この話をレインボー・グリルの支配人にしたら、では試してみましょうということになったが、そのまま忘れていた。すると2〜3日前、關、松岡の両人がしんみりした顔つきで帰ってきた。聞くと「レインボーで唐端氏を飲まされた」と言っていた。
メモ:著者は日本音響洋楽部勤務
【2005年4月6日】
唐端君を悼む(唐端勝氏を追悼す)/野川香文(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.23)
内容:唐端は時々猛烈な憂鬱症に襲われて友だち仲間と1週間も10日も口をきかないこともあったが、そんなときでも[野川]とは割合話し合った。結婚後、鎌倉に移ってからは湯鬱症はすっかり消えて、明るく平和な日々が続いていて、ことにさいきんは肥って顔色も良くなったと得意になっていただけに実に気の毒でならない。唐端は何かやりだすと、そのことに凝る性質だった。何か衝動を受けると、それと真っ向から組みついていく強い気概があった。ひところ系図集めに凝り、自分はいったいどういう祖先をもっているのか調べたがっていたが、いつのまにかやめてしまった。そのことを尋ねると「やっぱり分からんね」と言って大笑いしていた。この傾向は唐端の音楽批評家生活のうえにも反映していた。『月刊楽譜』の編集部に入って2〜3年の間、彼の書くものには鋭さと深さがあった。それがここ数年、楽壇の諸事情が分かってくるにつれて、それと四つに組むのが嫌になってきたのであろう、文章が弱くなってきていた。博学で深さをもち、実に本をよく読み、そして思索していた。さいきん、元気になったところでひと仕事しなければならないと言っていた唐端がいま亡くなったことは残念でならない。
メモ:この記事のタイトルは雑誌の目次による。本文のページにはタイトルも執筆者名も記載されていないばかりか、本文じたいも中途から始まっているように感じられる。
【2005年4月9日】
時局投影野呂信次郎編(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.24)
内容:★皇后陛下は1943年5月19日、「戦う女性」の状況を親しく視察するために東京市特別衛生地区保健館、豊島授産場、東京第一陸軍造兵廠、凸版印刷板橋工場に行啓された。こうした趣旨の行啓は前例がない。★聯合艦隊司令長官山本五十六海軍大将は1943年4月前線において壮烈な戦士を遂げたことが5月21日午後3時の大本営発表によって知らされた。われわれ均しく痛惜の情を禁じ得ないが、皇室では[畏きあたりにおかせられては、と表現されている・・・小関]偉勲を嘉せられ、元帥の称号を賜い、特に国葬を賜う旨を発表した。顧みれば、マレー沖海戦で世界を驚かし、電光石火敵主力艦隊を覆滅した大戦果の中に元帥の姿は輝く。われわれは仇を討たなければいけない覚悟をもって元帥の忠魂に応えるのみ。★第38回海軍記念日を迎えた。帝国海軍は古賀峯一新司令長官の統率のもとに士気旺盛、敵艦隊撃滅の一路を邁進しつつある。いまや戦局重大にして再び興廃を決する秋、38年前バルチック艦隊を日本海に邀撃した東郷元帥以下海軍将兵の偉勲を回想すれば、感慨ひとしお深いものがある。★1943年5月30日午後5時、さらに大本営発表は北辺アッツ島守備部隊2千数百勇士、部隊長山崎保代大佐以下全員ことごとく玉砕した悲報をつたえた。寡兵、10倍の敵上陸軍を邀撃すること18日間、5月28日ころまでに敵に6000余りの損傷を与えたが、我が方も死傷者が続出して生存者百数十名となったときに玉砕を決意し、翌29日夜攻撃を敢行した。★国家総動員審議会は1943年5月24日、戦う一億の勤労勢力を結集して生産戦に勝ち抜くため、労働統制に関する6勅令の改廃を決定した。そのうち徴用制度ならびに国民勤労報国隊の整備拡充、労務調整令による職場の転換命令、軽易な作業の女子労務による強制的代替など超重点生産をめざし、労力は急速に推進されることとなった。★故山本元帥国葬の儀が1943年6月5日、日比谷斎場において執行された。元帥の霊車が水交社から斎場へ向けて進むとき、沿道に堵列した者の胸には軍楽《命を捨てて》の曲が思われ、仇敵必滅の決意を固めるのであった。★いままでこうした場合に演奏される曲はショパンの《葬送行進曲》であったが、海軍軍楽隊の内藤清五楽長が海軍省制定曲《命を捨てて》の演奏を進言。山口陸軍軍楽隊長も賛成して陸海軍一致で採用に決定したと聞く。★緊迫した決戦段階に処し、長袖、丸帯や背広、鳥打帽を追放、必勝には扇風機も暖炉もいらない。強力な国民運動は決戦へわき目もふらずにすすむ。外国人指揮者、ことにユダヤ系の人たちを神様のように尊重したり、平気で《大ロシア復活祭序曲》を演奏したりする不心得者が未だに楽壇の一部に残存することは情けない。
メモ:筆者は朝日新聞事業部に勤務。『朝日年鑑』の音楽面などを担当。
【2005年4月18日】
音楽記録(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.25)
内容:★日本音楽文化協会の新企画として増産戦士健全娯楽を与える移動音楽報国隊が登場した。一隊は歌手、提琴、ピアノ、アコーディオンなどを組み合わせた5人くらいの編成にするが、場合によっては弦楽四重奏団だけで一隊を編成することも考えられている。★日本文化中央聯盟では、今般音楽、映画、舞踊と全面的に提携し、生産面と外地への文化工作に重点を置き、日本文化宣揚の新運動を展開することとなった。★両院文化会では今度京極子、頼母木氏を新たに委嘱することと決定した。★日響第10回定期公演は1943年6月2、3日、日比谷公会堂においてローゼンシュトックの指揮により開催される。★鳩山寛のヴァイオリン独奏会は3日、その第1回を日比谷公会堂に開く。★三浦環独唱会は8日、日比谷公会堂で開催された。★東京交響楽団第20回定期公演は13日、日比谷公会堂でマンフレッド・グルリットの指揮により開催された。★男子学校合唱競演会は13日、男子学校生徒の熱演により開催された。★軽音楽団の支配人協議会が日本精神と国家目的遂行のため、その推進目的のもとに結成された。★音楽挺身隊の前年度中における成果は次のとおりである。(1)東京産報と提携し警視管下の工場の勤労産業戦士に対し歌唱指導慰問演奏会を開催した。回数62回、出場隊員167名、聴衆22,930名。(2)社団法人農産漁村文化協会との提携のもと全国の木炭増産および漁業に従事する人々に慰安演奏会を開催した。回数140回、出場隊員280名、聴衆120,000名。(3)大政翼賛会の主唱により音楽挺身隊が実施の主体となって銃後国民の士気高揚のため全国に国民皆唱運動を展開した。回数220回、出場隊員490名、聴衆183,600名。(4)東京市内各区民の厚生慰安演奏会を各区において開催した。回数34回、出場隊員723名、聴衆39,800名。(5)白衣の勇士および防空監視所員に対する慰問回数22回、出場隊員66名、聴衆18,000名。(6)陸軍恤兵部派遣芸能文化聯盟編成、前戦将兵慰国団92班中音楽挺身隊より推薦参加の隊員203名。以上、1942年に挺身隊員の報国運動に参加した延人員総数は1,949名。★アッツ島で玉砕した山崎部隊長以下二数百勇士の戦いを後世に伝えるべき記念国民歌、山崎部隊の歌を朝日新聞社主催、陸軍省後援により広く募集することとなった。賞金は入選作1篇に対し金1,000圓、佳作には薄謝を贈呈。★日響臨時公演は1943年6月18、19日夜7時、日比谷公会堂にて。★斎田愛子独唱会は1943年6月20日(月)夜7時、日比谷公会堂にて。★大東亜交響楽団第6回演奏会は1943年6月23日夜7時、日比谷公会堂にて。★浅野千鶴子独唱会は1943年6月23日夜7時、日本青年館にて。★東京交響楽団第3回定期公演は1943年6月25日夜7時、日本青年館にて。★大政翼賛議会が中心となって全芸能界が一丸となって戦艦献納報国大運道を展開している折、山本五十六元帥の戦死とアッツ島の山崎部隊長以下二千数百勇士の玉砕は国民の憤怒を沸き立たせ敵米英撃滅に向かって誓いを新たにしたこの時、わが楽界は日本音楽文化を中心として21名の作曲家が全霊を打ち込んで作曲した「山本元帥譜頌」を海軍に献納するとともに、文学報国会の「軍人援護文学献納運動」に呼応して文報が献納した短歌、俳句、詩などを作曲。これを前線、銃後間を結ぶ援護運動に活用した。従来例を見ない楽壇さいしょの快挙として全楽壇を挙げて支援している。★日本音楽文化協会は戦艦演奏会五千余圓を献納した。★山本元帥を讃える国民歌が続々と完成している。そのひとつとして朝日新聞社では元帥の遺詠3首を信時潔が作曲。さらに《山本元帥の歌》の作詞を百田宗治、作曲を片山頴太郎に依頼。杉乗[ママ。乗杉の誤り]東京音楽学校校長の《山本元帥讃歌》とともに元帥讃仰三部作として去る12日午後2時、東京音楽学校奏楽堂で同校主催の「山本元帥讃仰演奏会」で発表された。次に武井大助海軍主計中将の歌詞、信時潔の作曲で《山本元帥を讃ふ》が完成。また毎日新聞社は作詞を大木敦夫に、作曲を海軍軍楽隊に委嘱した。★日本音楽文化協会と国民音楽協会共同主催の男子学校合唱競演会は、最優秀校に立教大学が決まり、文部大臣賞の栄誉を得た。★タイ国の首都バンコクのルンビニー公園に建設されることになった日泰文化会館陣容が決定した。音楽は伊藤良平である。
【2005年4月24日】
満洲音楽情報鈴木正(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.26-28)
内容:5月は満洲にとっても日本と同じく多難な1ヵ月だった。山本司令長官の戦死とアッツ島玉砕は4300万満洲国民にとっても痛恨きわまりない報道であった。しかし満洲は戦争の厳しさによく堪えて、大東亜の兵站基地としての任務達成に拍車をかけているから安心してほしい。ところで満洲藝文界の5月の記録は次のとおり。/5月1日付で総務庁弘報所長武藤富男が情報局第一部長に栄転し大東亜思想戦の第一線に乗り出すことになった。弘報所とは日本の情報局に相当するが、武藤は弘報所長として満4年にわたり活躍した。特に藝文関係では藝文指導要綱を発表し、各種の藝文団体を統合し組織して、満洲藝文の基礎を固めた。藝文関係者は小藝文祭を5月11日新京記念公堂で開催して武藤の送別会に替えた。音楽の部門からは新京音楽団管絃楽部および合唱部が出演し、感謝の意を表した。後任には興安南省次長市川敏が任命された。市川は山口県生まれで東大卒業後満鉄に入社、建国とともに満洲国入りした人である。/日本の大政翼賛会に相当する協和会では思想工作ならびに国民啓蒙の強化を期して文化部を設置することとなった。これは各部に分属していた既存の関係班、係を統合したものである。/満洲の放送は資本金1億円の特殊会社である満洲電信電話株式会社の経営で、受信機の販売をも行っている点が日本と異なる。全満18局ほとんどが日満語の二重化であるが、哈爾濱のみは白系ロシア人向けの第三放送がある。4月に新京中央放送局が改組拡充されて放送総局が設置され、指導監督が強化されることとなった。日語放送番組の大半は東京番組の入中継であるが、満洲の特殊性を活かすため在満芸術家は充分に動員されている。満洲の誇りうる音楽家としては白系ロシア人のチェリストで哈爾濱交響楽団団員のアレクセー・パゴージンがいる。彼の音楽は上品優雅で、音色は豊醇、実にきれいに旋律を歌わせる。また音程は狂いなく技術は確かでリズムは健康である。知性と感性はみごとは平衡を保ち、熱しすぎることもない。しかし彼にも欠点はある。ともすれば自らを妖しい夢魔の淵に引き入れ、自らの苦悶を楽しむような気分が潜在していることもある。技術は日本でも一流中の一流となりうるし、30歳前後の前途のあるチェリストであるが惜しい。10日の夜はロンベルグの《喜遊曲》とリーの《ガヴォット》を放送し、29日にはパゴージン兄弟らで組織している弦楽四重奏の放送があったが、既述の傾向がみられた。/29日には来満中の斎田愛子が放送した。斎田は一昨年の初来満した折の真摯な態度が好印象を残し、特に招聘されたのである。彼女は新京に着くや「戦争と音楽」について「もはや音楽は音楽芸術家や一部の音楽愛好家と称する人々の占有物であってはならないと思います。今こそ音楽は全国民の断じて勝ち抜く鉄の決意と感激の中にあります」と述べた。斎田愛子特別出演による新京音楽団演奏会という名称の彼女の演奏会は30日、新京記念公会堂で開催された。当日は全満各地にある忠霊塔の春季例大祭にあたったのであるが、折柄アッツ島の玉砕が報じられた。知らせを聞いた新京音楽団では聴衆に勇士の玉砕を報じ全員起立して黙祷を捧げ、大塚淳指揮のもとに全員で《海ゆかば》を斉唱したのである。終わって主催者より国防献金の提唱をしたところ、感激した斎田が献金箱をもって客席を回るとイタリア大使館員バサーリア氏が「盟邦の玉砕将士の記念に」と金100圓を献金したのを始め、たちまち770圓あまりが集まった。このことは新聞に写真入りで掲載され全満に感激を呼んだ。音楽家がこのように国民的感激の中にとっさに、しかも自発的に挺身して成功した例は満洲では珍しいことではないかと思う。
【2005年4月27日】
第ニ回巡回演奏会を聴いて石井計記(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.26-28)
内容:1943年春、○○工廠において開催された日本音楽文化協会ならびに朝日新聞社主催の第2回巡回演奏会は画期的な慰問演奏として、季節もよく曲目も一般的な魅力があり、空前の大盛況であった。あの人気は季節や曲目だけでなく、山田耕筰、中山晋平、早川彌左衛門、四家文子、江木理一など当日の来演者が地方の演奏会としてはほとんど完璧に近い理想的顔ぶれに負うところがきわめて大だったとみるべきである。出演者の熱演も並々ならぬものがあった。当日さいしょの管弦楽行進曲《皇軍讃歌》(深海善次作曲)が早川彌左衛門の指揮ではじまったとき、われわれのように音痴の輩も粛然とした思いをさせられた。当日の感じを正確に表現することは難しいが、これだけの演奏ができれば、音楽を味わうのにはもうこれで充分であるとの感を強くした。アルト独唱と歌唱指導は《田植唄》《荒城の月》をはじめ《楽しい奉仕》などよく知られた歌曲を、円熟した四家文子が豊かな声量で聴かせてくれたことは、聴衆を魅了して止まなかった。慰問音楽の要は新たなものを紹介することや、芸術的に優れた名作のあまりに高級なものよりも、多くの人が知っている歌曲を最上の手段で聴かせることがもっとも効果的であると信ずる。この意味において、巡回慰問を兼ねて概して音楽的教養の低いわれわれに音楽を知らしめ、広く音楽に対する知覚的水準を引き上げようとする報国運動を続けている日本音楽文化協会が、タイケの行進曲《旧友》やベートーヴェンの《交響曲第5番》のあいだに《日本の母の歌》や《この道》などの大衆的なものを組んだことは賢明な策であり、ここにも演奏会の成功の一因があったことが窺える。つづいて行われた江木理一の音楽体操は異彩の出し物として当日の演奏会を意義あるものにした。こうして情報局選定の《愛国行進曲》を会衆が合唱して第2回巡回演奏会は終了した。私石井は、演奏会開催に尽力した関係各位に厚くお礼申し上げるとともに広く楽壇関係者にお願いしたい。戦争が決戦段階へ突入した今日、戦闘に欠かせない兵器の生産戦に日夜挺身奉公する産業戦士は「日響」の定期演奏の中継どころか、ラジオや音盤も充分に聴く時間さえなく奮闘しているのである。産業兵士が大都市からの慰問団の来演をいかに待望しているかを知っていただきたい。そして慰安の一夜が明日の戦闘の大きな原動力になることを想ってもらいたい。米英撃滅の必殺兵器を生産する戦士に大いなる希望をもたせ増産戦線に闊達な戦闘を続けられるよう励まし協力して欲しいと願うのである。
【2005年5月3日】
戦艦献納寄附金募集社団法人 日本音楽文化協会(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.28)
内容:今や敵米英は膨大な生産力を唯一の頼りにわが国に反撃しようとする態勢を強めている。ここに1艦の犠牲に対しては10艦の建造をもって答えることこそ銃後国民の現下の急務である。日本音楽文化協会は、さきに戦艦献納大演奏会を企画し成功させた。しかしながら全楽壇が一丸となってこの運動に起ち上がるべき秋である。この趣旨のもとに本協会は、戦艦献納寄付金募集を開始する。楽壇はこぞってこれに協力されることを切望する。
●募集要項
1.寄付金は一口金2圓とする。
2.納付先:京橋区銀座西8−8新田ビル日本音楽文化協会戦艦献納寄付金募集係宛
3.寄託者氏名は「音楽文化新聞」ほか各音楽雑誌に掲載する。
●受託済
1.金5024圓86銭也(戦艦献納大演奏会純益ならびに出演者各位、井口基成氏、草間加壽子氏、早川彌左衛門氏、斎藤秀雄氏、尾高尚忠氏、金子登氏、東京交響楽団殿)
1.金1000圓也(音楽雑誌協議会殿)
1.金200圓也(田中伸枝氏・・・聲伸會音楽純益より)
合計 金6224圓86銭也
【2005年5月6日】
◇編輯室/清水脩 加藤省吾 沢田周久 黒崎義英(『音楽之友』 第3巻第7号 1943年07月 p.32)
内容:本誌編輯の手伝いをすることになった。音楽雑誌は今や諸方面から注目を浴びているだけに編輯室はひじょうな意気込みを堅持して、これに応えようとしている。決戦下の国民の音楽を指導するのは音楽家の努めであるが、音楽雑誌もまた指導性をもつべきであることは論を待たない。この意味で努力してみるつもりである。(清水脩)/1943年6月5日夜、編輯部の唐端勝が急逝した。唐端氏には自分がこの生活に入った頃からずいぶん世話になった。特に音楽之友社となって自分が新聞の責任者となってからは、いろいろ無理なお願いもした。逝去されてから3週間も経つのに、いまでもひょっこり編輯室に現れそうな気がしてならない。(加藤省吾)/天下の諸雑誌は国策の命ずるままに必死に対応しつつ全知全能を傾けてきたが、今や事態はより以上の整備統合を余儀なくしている。われわれはこの事実を厳粛に認識し、その解決に向かうべきであると信じる。音楽を国家と国民に対して真に結合させなければならない。音楽雑誌は近い将来、再び脱皮更正すると思う。よき友で学究であった唐端氏逝き、清水氏入社。流転創生の諸相を切に感じる。(澤田周久)/戦争を勝ち抜くために政治、経済、文化の一切が国家目的に合致し決戦段階に対応しなければならないことは贅言を要さないが、立ち遅れた音楽界に関する限りその切り替えは容易ではない。たとえば戦争と文化が切り離されて論じられたり音楽の効用と価値が転倒して考えられたりする。国民大衆にもっとも生活的なつながりのある軽音楽や厚生音楽部門についても本質的で具体的に論及され実行されているだろうか。ジャズを排撃し米英音楽を禁止することは容易であっても、問題を抽象的に解決しない限り具体性が出てこない。高級音楽の普及や国民皆唱運動もけっこうだが、これは新文化の創造や娯楽性の転換と無関係だろうか。/演奏家協会に音楽挺身隊があり日本音楽文化協会に音楽報国隊が結成される。そして都会の音楽会に芸術至上主義の残滓があり、軽音楽の演奏に米英性があることも事実である。音楽界の一切の立ち遅れや混迷は音楽者自身の内部にある。こうした意味で音楽の技術指導者層の覚醒よりも、それを指導する音楽の精神指導者たちの自己反省が一段と求められるゆえんである。/本号の楽譜は山本元帥、アッツ島諸勇士たちの偉業を偲ぶために特集を組んだ。(黒崎義英)
【2005年5月12日】




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