『音楽之友』記事に関するノート

第3巻第06号(1943.06)


日本的性格の確認<巻頭言>増澤健美(『音楽之友』 第3巻第6号 1943年06月 p.5)
内容:この大戦争の中にあっても、わが楽壇は安穏とした状態を維持し得ている。しかし、そのために音楽家および音楽関係者の多くが未だに旧来の拝外的外国依存の精神を払拭しきれず、わが楽界の日本的性格の確認を忘却したかのような証拠が随所に見出せることは、嘆かわしい次第である。一例を挙げれば、廉価な日本版ピアノ教則本よりも高価な外国の贋造版の方がはるかに需要が多く、楽譜販売者もまた贋造版を店頭に陳列して平然としている。その事実の示すところは、楽壇人の思想の底流に、不純無自覚なものが潜在しているということである。こうした潜在がわが楽界の日本的性格を不分明なものにしている。近時開催される演奏会の曲目を見ると、外国局に付加して日本人の手になる作品を挿入している場合が少なくない。この現象は喜んで良いことのように思われるが、しかしそれだけをもって日本的性格を付与し時局に即応し得たものと解釈するのは早計である。演奏会の日本的性格ということは、楽壇人が日本国民としての根本理念を把握し、曲目の選択はそれに基づいてなされるべきである。日本人の手になるものが必ずしも可とはいえず、逆に外国人の手になるものが必ずしも不可というわけでもない。単に日本人作品を挿入することは、時局便乗の看板を掲げたようなものである。同様のことは批評についても観察される。ほんらい批評は楽壇にその正道を歩ませるためにあるべきだが、批評の対象となっているものが必ずしもこの見地からして当を得たものではなく、かつその範囲はきわめて狭く、外国曲に重点を置いた演奏批評に終始するかの観がある。要するに、わが楽壇はその各部門において、まだまだ日本的性格の確立ということは認められない。これは、わが楽壇人が安穏さになれて、国民的自覚に徹していないためだろう。聯合艦隊司令官でさえ挺身第一線で壮烈な戦士を遂げているとき、楽壇人とても猛反省しなければいけないであろう。
【2004年11月13日】
音楽会企画と聴衆<座談会>加藤眞 竹内友三郎 多忠烈 近藤康二 吉田昇 中谷孝男(『音楽之友』 第3巻第6号 1943年06月 p.6-19)
内容:●1●加藤:日本における音楽マネージャーのさいしょは恐らくストロークで、イタリア・オペラやエルマン、ジンバリストなどを日本に紹介した。それで日本にマネージャーが必要なことが感じられて、日本人としては塚本嘉次郎がいちばん初めだろうと思うが、松野信太郎の方が古いかもしれない。竹内:プログラムにマネージメント松野信太郎と堂々と書いたのが恐らく第一歩だ。多:中館耕藏も昔やっていたが、のちに国立[くにたち]に入ってしまった。近藤:現在のマネージャーは芝居の番頭以下に扱われている。竹内:そんなことはない。加藤:ストロークは自分でアーチストをかかえているわけではない。自宅がある上海でアーチストをつかまえて、山本久三郎と電報で交渉していたそうだ。そこが外国のマネージャーと違う。そういうものは本当のマネージャーではないというので始めたのが塚本。松野はストローク式。塚本のマネージメントは、実際はわからないが、藤原[義江]と關谷[敏子]の2人を握ったマネージャー振りなど外国のマネージャーにひじょうに近いものがある。吉田:けっきょく外国式というと東宝とか松竹のようになる。加藤:ところが外国でも、必ずしもかかえないで、そのマネージャーに頼っていれば演奏会ができる。そういう副業的な仕事もする。中谷:ある音楽家がベルリンでピアノ・リサイタルをやったのだが、プログラムにはフィルハーモニーとベートーヴェン・ザールのいわゆるマネージャーの名がある。そしてアランジメントということばを使っていて、いわゆる日本のマネージャーという意味よりも企業的な仕事をしているということではないか。つまりフィルハーモニーやベートーヴェン・ザールの専属みたいなことなのだろう。日本の音楽会でも興行的な音楽会と研究発表的なそれとがあり、両者が画然と区別できるわけではない。興行的ということは、たとえば同じプログラムをいくつもやる。そういうのが悪い意味ではなく興行的だと思う。加藤:日響は入りきれないから2日やっているだけだ。中谷:日響の場合、見方によると2日同じプログラムをやると、2日目は芸術的に一層いいこともあるかもしれない。それでマネージャーも塚本の場合は、いい意味で興行的ではないかと思う。ところがいまの演奏会の相当数は興行的な価値がなく、どうしても世の中に紹介するという意味になる。マネージャーの本質は興行的な意味合いをもつとすれば、未知数の人を世の中に紹介する場合には興行的には成立しない。そうした2つの面がいまの日本の音楽会とマネージャーにはあると思う。吉田:マネージャーは興行ということを卑下する必要はないと思う。警視庁に興行許可願を出し、経済問題と切り離せないかたちで興行するということは、実はいちばんいいことだろうと思う。興行的でないといっても結局興行している人が多いなかで、マネージャーがいなければ仕事ができないのに、それを割と軽視する。マネージャーとしては興行ということをはっきりして、その存在性を確立しなくてはならない。日本では塚本あたりがちょっとそういうことをやったが、なかなか資力が・・・。近藤:ホールによって左右されると思う。[日比谷]公会堂で演奏会をやると興行とは見ない。吉田:実際には興行だ。近藤:そうだが一般はそう見ないで、東寶劇場でやると興行に見なされる。記者:欧州は地理的にも接近しているから、シーズン、シーズンというものが明確だ。それだから欧州におけるマネージャーは権威をもっていて、シーズンには欧州各国に対して一つのアレンジメントをする。商業性と企業性をもったマネージメントだけでなく、プロデューサーとしての企画立案者でもあったわけだ。日本でそれができなかった理由は、日本の音楽の伝統が浅かったこと、それだけの企画対象をもった演奏家が現れなかったこと、したがってそれを動かす権威あるマネージャーが出現できなかった、ということだと思う。吉田:一つには日本には演奏だけで立っているアーチストがひじょうに稀だということになる。加藤:一口に言えば日本の音楽界がそれだけ発達していなかったということだ。だから私がマネージャーをしていた時は、日比谷の音楽堂では2円以上とらなかった。ところがイタリアのサンカルロ・オペラなどが来たときは、それではできない。そこで「我ガ國ノ洋樂ノ普及發達ノ為ニ規定外料金ヲ御許可相成度此段申請候也」という規定外料金徴収願という願書を書かされた。記者:さいきんは音楽家のスターがでてきたようだし、外国映画がほとんど封切りされないという戦時下の娯楽的な反映もあって、ひじょうに音楽界が盛況を極めている。したがってマネージメントも昔と違った状態になってきているのではないか。加藤:水ノ江瀧子のマネージャーは松竹で、小夜福子は東宝だというスター・ヴァリューのアーチストが洋楽にはいない。そのためにマネージャーも発達しなかったのだと思う。 (つづく) ●2●吉田:もうひとつ、日本国中で音楽会が開かれればマネージャーは仕事ができるのだが、東京のような大都会しか音楽会が成立しない。そうすると東京だけで研究発表の形式のものを扱うほかないので、外国式のマネージャー業は発達しないのだ。中谷:地方で発達しないのは聴衆の問題か、企画の問題か? 近藤:聴衆の問題だ。しかし興行外興行場において法的に音楽会を開くのが困難な事情もあるのではないか。吉田:ボス的な存在のためではないのか。多:それもあるかもしれないが、だいたい有料の会をやらせないということになっている。吉田:音楽会を開くのに適当な小屋がないということだ。公会堂は有料の会に貸さないということが全国的に多い。竹内:このあいだ聞いた話では、地方の公会堂でもし純音楽を演奏する場合、警察が軽音と区別別できないので、今度軽音楽がきて興行的なものを盛んにやっても許可しないわけにいかない。それで、とにかく音楽はいけないと公会堂の使用を禁止するという。吉田:私は違う話を聞いていて、公会堂というのは公共的な施設なのでずっと前から興行的な音楽会を頭から否定する。だからある程度の利益を市に寄付するとか、その土地の文化団体が扱ったときには認めるということが往々ある。竹内:だから地方で、たとえば広島あたりで純音楽の音楽会をやるときは小屋が良くないので学校を借りてやる。するとそこは興行場外なので料金を取るものは許可せず、会員組織で無料の会をやる。しかし実際問題とすると、そのときに金を取らないだけで会費を集めて会をやるのだから、これは一つの興行であるに違いない。地方のマネージャーが実験がないからそうなったのだと思う。これは有料でやってほしいということを当局と折衝して了解が得られれば、地方でも音楽が発達していい音楽会ができるだろうと思う。中谷:たとえば藤原[義江]が地方で演奏会をすると、そこに非常に人が入って、そのためにほかの興行がとても影響を受けるということは考えられないか。そういうことも聞いたのだ。映画館や劇場など、ふつうの興行場でやる場合はいいが、常設的でないところでやると、小さい都市ではそちらのほうが非常に影響するという杞憂がある。吉田:東京でもあると思うが、しかしそのためにその土地の興行師が不服をならべたり邪魔するということは聞かない。藤原氏は地方に良く行くが、文化的なやり方でやってほしい。ところがなかなかそういう風にできないので、活動小屋や芝居小屋、あるいは寄席めいたところでやる場合もある。でもその土地の興行師が不服を言って潰れるということは直接にはない。竹内:前にターキー[水ノ江瀧子]がある地方で公会堂を借りてやったところ、土地が狭いものだから、そこの寄席なり映画なり芝居なりが駄目になった。だからそこの興行師が怒って、常設の興行主は非常な苦痛をなめるから、公会堂をそういうものに貸してもらっては困ると訴えた。そんなことが原因して、公会堂では音楽はいけない、やるなら芝居などの興行場を借りて地方の興行者と妥協してやれという意向になってきた。記者:さいきん読売新聞社などと共催で国民皆唱運動や歌唱運動の指導ということで、地方で活躍されているようだが。多さん。多:あれは全然別。翼賛会あたりで盛んに後援してくれて、やれやれといっている。興行というよりは厚生運動であるし、国民運動だから。興行的な性格ではない。 (つづく) ●3●記者:さいきん音楽会が非常に多いし、相当聴衆が集まっているように見えるが。近藤:けっきょく外国映画が途絶したことと慰安機関が圧迫されてきているということが原因ではないか。吉田:聴衆が入る入らないは二の次として、音楽会を開催する人が多い。中谷:しかし外国から来る演奏家の演奏会はない。徴収側からいって、そういう方面の音楽を聴く機会が減っている。もう一つは、日本の楽界として独自の進歩を示しているような気概もあると思う。吉田:けっきょくリサイタルでも音楽会でも簡単にできるようになってきたと思う。切符を売るにも苦労はないし、損失の補填にしても戦前から見たら互いに楽な気持ちでできるようにやれるのではないか。中谷:しかし経済的に見ると、いわゆる新人の会は戦前よりも困難だと思う。経費は余計にかかるがお客様からいただく会員券は上がっていない。戦前派1円くらいの音楽会はざらだったが、いまは税金があるために1円60銭という会をやっている。税金を除けば決して徴収から余計にいただいていない。近藤:歌が多い吉田氏とちがって竹内、中谷、近藤は器楽が主で、だいぶ行き方がちがってきているのだ。多:歌と器楽とではだいぶ違う。中谷:もっと興行的に楽にならないと隠れた新人は出てこない。紹介の方法としては・・・、吉田:もちろん独唱会ということもあるが、それ以外の方法でも実力を認められている人がたくさんいる。中谷:やはりリサイタル形式によるのが本格的。吉田:千葉静子は独唱会を全然開いていないが、相当の人が実力を認めている。それに、やるだけの実力がないのにリサイタルをやっている人が多いのではないか。多:やったためにかえっていけない場合もある。記者:近藤氏は既成の新人を扱っているのでだいぶ違う。近藤:専属アーチストだが、外国の例と違ってアーチストに心から仕えるという意味。アーチスト自身がお金持ちが多いので、金で縛るというこではない。竹内:専属マネージャーというと、端から見ると・・・近藤:[アーチストを]抱えているようにみえる。竹内:芸術家はマネージャーに使われているのではないかという反感を心のうちでもっていると思う。実際問題は草間[加寿子]が主で、近藤氏を自分の専属マネージャーとしている。それが専属マネージャーということばから、草間さんが近藤氏に使われている芸術家というように思われやすい。吉田:芸術家に言いたいのは、この人に任せたということにしたら、全部その人にやってもらうのが徳義だ。しかし、いい話だと芸術家がどんどん話を引き受けたり、いやな交渉だとマネージャーに任せる。多:僕のところと近藤氏のところを行ったり来たりして、双方でやってくれと言う虫のいいのがいる。中谷:一つの決まった機構ができて、一種の契約にならないとどうしてもはっきりしない。多:さいきんは契約書をきちんと作り、違反すると損害賠償をとる。永田絃二郎はきちんと契約して任せてくれる。加藤:いままでのマネージャーは音楽家のマネージャーではなく、リサイタルのマネージャー。リサイタルが済めばおしまいだ。近藤:そういう意味では、草間、井上、巌本、辻の皆さんは私がマネージャーとして信頼されている。記者:プレイガイドから見て、音楽会の切符の統計率はどうか。加藤:統計率は難しいが、ひじょうに盛んになってきていると思う。そして、私がマネージャーをしていた時分よりも日本の音楽文化がたいへん向上してきていると思う。女学校の音楽教科書の中にベートーヴェンやバッハが出るし、多氏の市民音楽祭なども洋楽の発達に貢献があったと思う。林氏がやっている厚生文化の夕もたいへんいいことだと思う。一方、未だに発表会をやっても徴収の少ない会がたくさんある。これは、いつの場合もやむを得ないと思う。 (つづく) ●4●記者:マネージャーはプログラムについてどのくらい参画するのか。近藤:プログラムに関しては、われわれはある程度受身だ。竹内:芸術家に一任で、こちらから注文をつけることはない。相談は受けるが、あちらが主でこちらは従だ。記者:日本の作曲が進歩しないのは、いままでの日本の演奏家と作曲家のつながりがなかったから。作曲家にしても演奏される機会が多ければ、いろいろな曲を作るようになるだろう。演奏家にしても、時分の芸術を通して日本の音楽文化に対して少しでも進歩的な役割を果たそうとするなら、プログラムの組み方に配慮が必要になる。つまり、日本の作曲活動が盛んにならなければ、自分たちの演奏活動も外国の借りものばかりで終始することになる。だから日本人の作品の程度を少しでも高める協力が要請されているわけだ。マネージャーの方々から義務的にでも日本人のプログラムを入れるようすすめてほしい。竹内:さいきん演奏家自身がそれを考えている。これは日本の作曲を発展させることが第一義。もう一つは、悪く言えば、時代に迎合して日本のプログラムを入れてやらなければならないという考えでやっている。こちらが第二義。そういう意味で自然に日本人の作曲は演奏される。中谷:だいぶ前に豊増氏が日本人作曲のピアノ曲でリサイタルをやったことがある。それが小さな会場で不成功だったのだが、企画面でプログラムに組み込むものが少なかいということもいえる。もう一つは作曲者で埋もれている作曲者がいるのではないか。ある演奏家が日本人の作曲を演奏しようとすると曲に困る。井口基成の場合は諸井氏から献呈された作品があって、おそらくだから演奏したのではないかと思う。記者:豊増氏のように一夜のプログラムを全部新作の日本自作品で埋めるということは、日本の作曲と聴衆にいまだ限界があるので危険だと思う。このやり方は新響や中響、また各種の作曲発表会も成功しなかった原因になっている。竹内:それよりけっきょく経済的な考えからきている。新人ばかりやるとか、未発表のものをやるということは興行的に成り立たない。加藤:たとえば藤原[義江]のような人でも[1942年?]12月に日比谷でやった会は日本人の作曲ばかり集めたので、お客が来なかった。中谷:外国のものをやって、その間に日本人の作曲を挟む。それは聴衆の側からすると感じがそぐわない場合があるのではないか。この間の三宅春恵の場合は前半と後半を半々にした。批評を見ると日本人のものが評判がいい。吉田:歌の場合は日本人の作曲をたくさん入れる。日本の歌曲でも《出船の港》のようにひじょうにきれいなものもあるが、残念なことに短いものが多い。そのためにプログラムを組むときに苦労するのだ。 (つづく) ●5●記者:近藤さん、さいきんの音楽会の入場者はどういう層か。近藤:第一に学生だ。竹内:ところが先日各新聞に、学生は土曜日日曜日祭日以外には興行場に行ってはいけないということが出ていた。それを音楽会に援用されるとひじょうな打撃になる。芝居や活動写真や寄席と混同されて、平日に音楽会に行くのは違反であるということになると、日本の将来の文からいっても致命傷だろうと思う。軽音楽と純音楽の区別がはっきりしないが、純音楽に限っては学生の平日の入場も黙認するくらいの度量があって然るべきだと思う。加藤:軽音楽だとショップガールが多い。吉田:ただ、わたしたちマネージャーは軽音楽を一概に軽蔑してはいけない。軽音楽には軽音楽の職域奉公があると思う。お客におもねるようなことを軽音楽のアーチストがしないようになれば、軽音楽も大いにやらなければいけないと思う。軽音楽から入った人たちが純音楽にくると思う。そういう意味で、軽音楽を無視してしまうのはあまりに高踏的な考えだと思う。竹内:軽音楽は純音楽にまで行く一つの過程だから絶対必要だ。中谷:広い意味でいって、そういう聴衆を啓蒙して引き上げることが必要だ。記者:プレイガイドの切符の売れ行きは、ほかの娯楽に比べてどの程度のものか。加藤:実に微々たるものだ。松竹4軒、東宝3軒の切符を取り扱う金額に比べると1割程度だ。しかも日響の月2回があって、5000人の会が4日あってのことだ。竹内:それは当然だ。ラジオの聴衆の希望を募った統計を見ても、浪花節が最高位でこれを100とすれば、西洋音楽は0.1。そうすると、その売り上げはいい方だ。記者:時間と入場料の問題はないか。つまり、現在のようにいつ空襲があるかわからない状態になると夜は早じまいをしたり人間の出歩きが不自由になっているのだが、音楽会の開催時間は変わっていない。それと入場料は他の娯楽と比べて高くはないか。吉田:時間の問題は、ひと頃から見れば始まる時間も終わる時間も早くなっている。そして演奏時間も短くなっている。中谷:昔は10時だったのが今は9時だから1時間早くなっている。吉田:終わるのは8時半から9時の間だ。竹内:休憩を入れて全部で2時間というのが標準になっている。入場料の問題については税金が上がったために高くなっているだけだ。多:入場料そのものは昔から同じだ。竹内:ほかの物価から見れば安くなっている。記者:しかし映画と比べると高い。吉田:映画と音楽会を比較することは無理だ。映画は日本中ぐるぐる廻るが音楽会はたったそれ1本で2時間しかない。アーチストも1年中ぐるぐる廻りはしない。記者:もうひとつ、現在音楽会が開催されるのは都会中心だ。これについては先ほどいろいろな話が出たが、たとえば今度の第二次大戦のドイツやフランスの例でも、一流の演奏家が傷兵慰問や戦線慰問にまで出かけてゆく。日本の場合、独唱の方々は一流の演奏家が行っているが、器楽の人たちが生産部門に対する慰安とか傷兵、戦線の慰問に出かけていない。戦時に動員されている生産層への音楽慰安という点では少し欠けているのではないか。多:聴く方がそこまでいっていない。中谷:楽器の問題もある。多:それから運搬の問題も。竹内:第一、前線の兵隊さんたちはベートーヴェンやバッハより虎造の石松の方を聴きたがっている。記者:都会生活の中でも音楽会に動員されてくる人はごく一部だと思う。つまりごく一部の聴衆に対してのみ自分の演奏を聴かせていることに対して、演奏家たちに懐疑はないのだろうか。近藤:音楽家はみんな聴かせたいという気持ちはあるが、それを受ける人がいない。中谷:前線、病院の慰問になると兵隊さんの中にピアノやヴァイオリンを弾く人がたくさんなければ恐らく効果がないと思う。もうひとつ、病院へ行っても楽器はない。絃楽はあるが絃楽四重奏をしてもちょっと無理だし。吉田:楽器の問題はひじょうに重大だ。歌の人が手っ取り早く行けるのはアコーディオン一つもっていけばやれるからだ。前線に限らず東京以外ではピアノの完全なものがあることがむしろ稀だ。そういう状態を考えると器楽の人は自分の演奏が充分にできないということで逡巡するだろうと思う。中谷:昔は東京の音楽会でもピアノの演奏会はこんなにたくさんなかった。それはピアノがなかったからだ。家庭にピアノが増え、弾く人が増えてきて聴く人が聴衆になる。記者:楽器の問題と地方の特殊事情はよくわかるが、聴衆一般のレベルが低いというのは大いに考慮の余地があるのではないかと思う。なぜなら、いい演奏は普遍性をもつ。地方で浪花節だけ聴かせていた人を東京に連れてきてベートーヴェンの《第五》を聴かせると、きのうまでの自分を疑うほどの感銘をもつのではないかと思う。もっと音楽を全国的に浸透させていくように努力してもらいたいものだ。吉田:企画をすると、国民皆唱運動などでも演奏家協会がそうとう斡旋する。手っ取り早く歌を集め、器楽は初めから駄目だというので口もかけない。多:市民音楽会でやったときは器楽をやり出した。ヴァイオリン、アコーディオン、ギター、マンドリンなどだったが、ヴァイオリンなど教える方がひじょうに難しい。記者:次に、これから新しく音楽会を開催する人に対する心得といったものはないか。吉田:音楽会をやるについては、技術的にも精神的にも相当の心構えがあって、なお現在の日本の状態とすれば経済的なことを相当考慮に入れなければならないということだろう。それと音楽以外の問題になるが、その演奏会に意義がないとつまらない。単に技術を習得したから新しい人が音楽会をやろうでは意義をなさない。竹内:いまわれわれのところに頼んでくる新しい音楽家は一様に設ける必要はないけれど損はしたくない、という。社会に対して自分の宣伝をやっておきながら、資本をかけずに損をしないでやろうというひじょうに利己的な考えの人もある。はっきり言っておかないといけないが、新人の場合はそういう利己的な考えでなく、みんなに聴いてもらうという意味で、全部の費用を出してもやろうという人だけが新人演奏家として演奏会を開いてもらいたい。それから、希望者がひじょうに多いために、さいきん日比谷公会堂を借りるのに毎日抽選をしなければならない。一月くらい毎日通って、やっと1日とれるくらいなのだ。多:一日に10人くらい希望してくるから、向こうとしてはけっきょくくじ引きといことになる。吉田:マネージャーというものがどういう方向で、戦時下の日本の国策に沿うような努力をしなければならないかということを一言しておきたい。マネージャーというと何か悪いことをする輩のように考える人が多い。竹内:さいきん○藝というマネージャーが出てきて、ホールの獲得とかあるいは個人的中傷とか正しい音楽の方向を誤るような手段を用いてやっている。吉田:いままでのマネージャは、たしかにてんでばらばらにやっていたことが欠陥だったと思う。ここで一つの統合した組織体なり機関がぜひとも必要だ。記者:では、この辺で。 (完) 
【2004年11月22日+11月25日+12月1日+12月4日+12月7日】
南の空に歌ふ(四) ― 南方音楽随想 <連載>佐藤寅雄(『音楽之友』 第3巻第6号 1943年06月 p.20-23)
内容:4.歌合戦とトロン・クワン 前号で書いた安南[← 現在のヴェトナム]歌の分類をさらに詳しく紹介しよう。
●昔の歌で純粋に民間から発生したものの中、恋愛を主題としたもの。
(a)「フェ・ティエン」(二部合唱) 7月始めの安南の野では収穫や苗の移植、種まきにと若い男女が朝から晩までいっしょに忙しく働くが、恋の芽生える時期でもある。若い男は娘に歌で恋をけしかける。<昨日(きのう)、村の集会所の前で水を掬んだ/その時、蓮の花模様のある仕事着を置き忘れた>と歌い出し、<娘さん どうかあれを縫っておくれ/やさしい俺らの娘さん>と結ぶ。女性はさいごのことばが反復されると<わたしの立派な兄さん>という意味のことばを付け加え、娘たちが歌う番を迎える。この歌は安南民謡の大部分と同様一人で歌うもので、伴奏はともなわない。歌い手は長々と声を震わせて、あくまでもやさしく甘く歌う。
(b)「コーラ」(蒼鷲の歌) 働く若者にとって自然は何かと興味あるものだが、今期の近い青年にとってはなおさらである。<鷲が飛ぶ飛ぶ 天がける/あれあれハノイの方へ飛んでいく/やがてドングンへ帰るだろう/恋人よ、お前は私を想ってくれるだろうか(繰り返し)>と軽やかに歌う。
(c)「トロン・クワン」(輪唱) 収穫と労働の6月、7月が過ぎ、やがて秋が訪れる。月の美しい晩が続き、仲秋の祭りが迫って若い男女の胸はとどろく。仲秋の祭りは古くから若い男女や子どものための歌の祭りで、今日でも都会を除いてたいてい催されている。仲秋の祭りは安南の旧暦8月15日の夜に催され、安南語では「テット・トルン・チュ」という。ハノイ近郊ではかなり大がかりに行われ、この日には市場に菓子や餅などを特に売り出すという。祭りは伝説に起因しているので、この伝説に基づく行事を文人過客は酒を汲みかわして詩をつくり、伝説の王デュエ・トンを迎える。また一般でも月形の菓子をこしらえ神霊を迎え、不思議なかたちの提灯を作って情緒を添える。祭りのやまは子どもたちの「トロン・クワン」による輪唱と怪物仮装行列であろう。この日の夜は配偶者発見の好機会を与えるものともなっている。「トロン・クワン」の輪唱は娘たちが一方に固まって座ると、相当離れた反対側に青年たちが位置を占め、両者のあいだに綱をピンと張り両端を杭で止める。この綱を銅盤を用いて引き締めるが、ピンと張った綱を木や竹の棒でたたくと金属的な響きが軽やかに震え、男声の柔らかさに調和する。この響鳴装置がいつ頃から始められたかは知らない。歌合戦の方も相当はずむ。男の方は矢継ぎ早に質問の歌を放ち、女の方ではそれに答えなければならない。それも即興詩風に韻を踏んで応答するのが正しいのだから、聴衆は手に汗握って歌合戦に見とれる。娘たちの方がたじたじするが、それでも勇気を出して歌の花環を綴る。男女の歌の挨拶に始まり、若い男女の問答が匠に誘導されればしめたものなのである。娘たちは男たちの知識のほどを試すためにいろいろなことを訪ねる。この行事では娘たちが心理的に厳しい批判を備えて出てくる。そしてこの歌祭りが単なる祭りでなく、独身者のための祭りあるいは嫁探し・婿探しの祭りとされる所以がこうしたところにある。安南の行事としてもひじょうに地方色豊かなものとして知られている。(この章未完←原文
【2004年12月13日】
楽壇戦響堀内敬三(『音楽之友』 第3巻第6号 1943年06月 p.25-27)
内容:■楽壇人の戦い方 銃後のわれわれは戦いだけを考え、十の力があったらそれを出し切って戦うのだ。力を出し惜しみして負けてしまったら、出した力はゼロに等しい。楽壇人は音楽を通じて戦うと同時に、金銭と資源を捧げ、かつ国土防衛のため・闇退治のため・防諜のため等々の銃後国民の務めに、体力・意力・智力を捧げて戦わなければならない。楽壇人が「音楽を通じて戦う」のは当然のこと、日常生活のすべての面からわれわれの全力を絞り出すべきだ。「音楽を通じて戦うこと」は、作曲・演奏・評論・教育どの部門に於いてもやれる。音楽を通じて日本国民である自覚を高め、国民の闘志を旺盛にし、将兵・傷痍軍人・産業戦士などを慰問し、大東亜各地域に日本の文化を宣揚するなどの働きは、われわれの持ち場における「戦い」である。われわれはまずこの戦いに勝たなければならない。同時に、どの部門においても「音楽を通じて非国民になる」可能性も充分に考えたい。国民の戦意を傷つけ、団結を阻み、または英米との親近を煽るごときことを音楽や言動を通じて発表するようなことがあってはならないのだ。特に注意したいのは芸術至上主義的な主張である。軍歌や行進曲を作ったり、慰問演奏することを「低級」とか「時局便乗」と誹謗し、あるいは「高級芸術」を自己満足のために弄ぶような人たちがいまなおいるのではないかと思う。スパイもわれわれの身近にいると思わなければならない。米英の思想宣伝も潜行していると思わなければならない。楽壇人はそれに対して油断をしないようにしたい。楽壇人は自己の持ち場である音楽と、国民としての生活のうえで全力を尽くして戦い、勝とうではないか。■敵性ユダヤ人 米英の背後にあって米英を戦わせているのはユダヤ人である。自己の国家をもたないユダヤ人は、血のつながりによる団結の力をもって世界制覇のためにあらゆる手段を尽くし、すでに英米の経済界、思想界を轢断した。米英の支配者はユダヤ人である。日本の楽壇は今なお多くのユダヤ人を擁している。中には音楽的技能にすぐれた者もあるが、敵国との思想的つながりは否定できない。日本は戦争が始まる前に商工業や学術の面から完全にユダヤ人を追放してしまった。一時日本の音盤界を完全に支配したユダヤ資本もとうの昔に姿を消した。ところが楽壇人だけはユダヤ勢力が牢固として残っている。ユダヤ人音楽家は日本の楽壇に多少の貢献もしたが、彼らは莫大な収入によって充分に努力が報われている。今われわれは楽壇の第一線からユダヤ人を退かせるべきである。(つづく) ■楽壇の一元化 1943年5月5日、日本音楽文化協会理事会の席上で副会長山田耕筰は同協会と演奏家協会との合同問題が円満に解決した旨を報告した。演奏家協会は1940年11月、警視庁の技芸者許可制度施行を機として管内演奏家全部の自治的統制団体として生まれたのであって、翌年文化団体として設立された日本音楽文化協会とは多少立場を異にしたため、これまで合同が実現しなかったのだが、今回は双方の監督官庁が諒解して両者の幹部が協力して合同問題を解決した。この一つが解決されれば大日本吹奏楽聯盟も国民音楽協会もわけなく日本音楽協会もわけなく日本音楽文化協会と合一するものと思う。同様に邦楽団体も日本音楽文化協会と連携させることも可能であろう。過去において音楽界が単一組織をもたなかったのは、楽壇人がその職能別あるいは同士的結合によって各個の群を任意に形成してきたからで、必ずしも音楽家同士の角突き合いにのみ原因を求めることはできない。楽壇に存在する多くの団体は、それぞれの存立理由をもっていたのだ。しかし戦時下にあっては、同じ職域にあるものはすべて態度方針を一つにして奉公すべきであるという思想的要請が生じているのみならず、楽壇各部門の一致協力を必要とする具体的な事例も多い。楽壇各団体は「連絡協調」するだけでなく、強力に一元化しなければならないときになった。芸術家は昔から一つの団体に統合されることが難しかった。その仕事が一人一人独立してできるので団体によって束縛されることを嫌う者が多かったからであろう。これは、いわゆる「自由業」に属する人々のどの団体についても同様らしかった。しかし今はそうではない。みなそれぞれに一元化は終わり、または一元化されつつある。楽壇も一元化の方向に向かって進んできたが、いささか立ち後れている。戦時下の楽壇はばらばらであってはならない。楽壇各部門を通じ、全国楽壇を通じ一つの強力な団体を作って進まなければ日本の音楽文化は昂揚できない。(完)
【2004年12月16日+12月19日】
時局投影唐端勝(『音楽之友』 第3巻第6号 1943年06月 p.28-29)
内容:●銃後の隣組と靖国の遺児 新潟市西港町4丁目の石澤忠さんは日中戦争の勃発と同時に応召、1937年10月戦死した。翌38年には奥さんが亡くなり、6つになる長男の定夫君と2つになったばかりの次男幸栄君の二人が残った。これを捨てておいては日本人の恥と同町の高橋賢一さんを中心に、月額46圓の扶助料を中心として二児のの身の回りの世話から万端にいたるまで交代で世話をして、今年定夫君は国民学校3年生、幸栄君は国民学校に上がるところまで漕ぎつけた。●工芸技術保存に銀銅の特配 銀銅その他の金属はすべて戦争目的のために動員され一般製品は製造禁止になっているが、日本工芸の技術を保存するために一定の資格者には特配の道が拓かれることになった。その資格者は1943年3月17日に開かれた大日本工芸会一般委員会席上、帝国芸術院工芸関係会員、文展、旧帝展第四部の審査員の経歴を有するもの、無鑑査資格者を中心とし、各種展覧会入選経験者で現に芸術活動をしているものなどと決定された。新進作家についても別途の考慮が払われることとなっている。●南京へ文化使節 1943年3月30日、中国の首都南京で開かれた遷都3周年記念祝典に際して4月1日より3日間、中日文化協会主催で同地に開催された全国文化代表大会の招聘に応じて、国際文化振興会では我が国の学術、芸術、体育、教育等各文化層の代表約10名を派遣した。その顔ぶれは藍谷温(東大名誉教授)、信時潔(作曲家)、斎藤`(東洋大学教授)、谷川徹三(法政大学教授)、池崎忠孝(代議士)、大串兎代夫(国民精神文化研究所)、佐藤武夫(早大教授)、河上徹太郎(文学報国会評論随筆部会幹事長)、小崎靖純(山崎経済研究所所長)、武者小路実篤(作家)、平沼亮三(貴族院議員)等である。●陸軍の論功行賞 第7回大東亜戦争死没者行賞(陸軍第5回)、第53回支那事変生存者行賞(陸軍第40回)、第64回支那事変死没者行賞(陸軍第46回)が1943年3月23日賞勲局ならびに陸軍省より発表された。右のうち金鵄勤賞を授与されたもの606名、殊勲甲は12名である。●独立ビルマの領域 東條首相は今議会の最終日の3月25日本会議劈頭において、内外諸情勢に関して報告を行なった。そのなかで独立ビルマ国の領域はシャン、カレンニを除く全ビルマであることを宣言した。●第二次特別攻撃隊の武勲 1942年5月31日特殊潜航艇をもってマダガスカル島のディエゴ・スワレス湾およびオーストラリア州のシドニー港に突入し偉功を奏した第二次特別攻撃隊に対しては1942年12月8日付けをもって聯合艦隊司令長官より感謝状が受明された。上の旨、上謁に達せられた由1943年3月27日海軍省より公表された。また上攻撃隊戦死者十数名に対して二階級を特進させた旨報告があった。(つづく) 
●学園の改新 1943年より高等学校の修業年限が3年から2年となるが、この機会に学園の諸体制が全面的に改新されることとなった。従来の知識偏重を弊を脱することとし、学園修練の根本を挙行一致に説くことになる。学科も道義科、古典科、経国科などを新設し、稽古照今の方針のもとに指導者の養成を目的としている。また学生は全寮制とし皇国民錬成の実を上げ、外出も週2回以内となっている。この高等学校の革新を狼火として全国の高等諸学校にわたって各種の改新が行われつつあるが、運動競技も一部の選手のものとせず、また興行化の傾向を是正して錬成第一とする。その結果、全国的にもてはやされた東京の各大学野球リーグ戦もすでに廃止され、入場料を取って一般観客を集めることはなくなった。その他各般にわたって競技本位より錬成本位に大転換を行なうこととなった。●高度飛行研究に死の実験 航空医学に殉じた2名の学者の業績がこのほど上聞に達せられた。岡山医大生理学教室副手藤田茂(34)と同西崎良虎(37)は、軍医大尉および軍医中尉として同大学生理学教室で生沼曹六教授指導のもとに高度飛行の人体に及ぼす影響について研究を続け、召集解除後も陸軍当局より航空技術協会を通じて高度飛行に関する研究、特に呼吸代謝に関する研究の委嘱を受けていたが、1943年1月20日、約○○メートル上空と同じ状態に空気を抜いた鉄製低圧タンクの中で心臓視力の変化を自ら実験中、突如発火して殉職を遂げた。両名は大学葬をもって厚くその業績をたたえられ、また両氏の研究は同大学によって受け継がれ3月27日から3日間九州大学医学部で開かれた日本生理学会総会で発表された。両名の殉職を聞くや東條首相兼陸相は、その功績を顕彰するとともに遺族に対し弔慰金5000円ずつを贈った。土肥原航空総監は両氏の胸像を同大学と遺族に贈ることとなった。両氏の殉職が土肥原総監の奏上に際して上聞に達し、御下問を賜うこととなった。さらに橋田文相は文部省としては異例の殉職者顕彰規定を適用し表彰状および金一封を遺族に贈った。●情報局の強化新機構 政府は情報局の情報宣伝啓発機能を強化するため、このほどその機構を改組し1943年4月1日より実施された。新機構の主眼点は総裁直属の審議室を置いたことで、ここは基本事項の企画審議および大本営との連絡に当たることになっている。その他は次長のもとに官房および四部を置き、官房に秘書課、文書課、第一部に企画課、情報課、国民運動課、週報課、第二部に新聞課、出版課、放送課、第三部に対外報道課、対外事業課、調査課、第四部に検閲課、文芸課、芸能課を置くことになっている。●脚絆姿で文学報国大会 日本文学報国会主催の文学報国大会が1943年4月8日10時から九段の軍人会館で開かれた。文学界から小説家、詩人、歌人等が雖り、女流はモンペ姿、久米事務局長と司会の戸川幸雄等は脚絆姿で開会。各種文学賞の授与等を午前中に行ない、午後は「米英撃滅と文学者の実践」を主題として数氏の発言による協議をし、夜は大東亜会館で陸海軍報道作家の慰労会が催された。●第2回帝国芸術院賞 1943年3月初旬以来審査されていた1942年度(第2回)帝国芸術院賞は、4月9日文部省より発表され、第一部(美術)では日本画『素行先生』の作者島田墨仙、油絵『山下、パーシバル両司令官会見図』の作者宮本三郎、彫塑『建つ大東亜』の作者古賀忠雄、工芸『漆紅梅の棚』の作者吉田源十郎、第二部(文学)では評論「芸術殿」の作者野口米次郎、第三部(音楽)では諸井三郎『第二ソナタ』の演奏者井口基成の6名である。●フロリダ島沖海戦 大本営1943年4月9日の発表によれば、帝国海軍航空部隊は3月7日ソロモン群島フロリダ島方面の的艦隊を強襲し多大の成果を収めた。これによって敵巡洋艦1隻、駆逐艦1隻、輸送船10隻を撃沈、輸送船2隻を大破、輸送船1隻を小破、飛行機37機を撃墜したが、わが方も重行機自爆6機の犠牲を出した。この海戦をフロリダ島沖海戦と呼ぶことと発表された。フロリダ島はガダルカナル島ルンガの沖合に位置し、南岸にツラギ島を擁し、その間にツラギ港がある。撃破した敵艦はツラギ島およびルンガ島東方のコリ岬に碇泊していたもので、わが航空部隊が攻撃したものである。(完) 
【2004年12月25日+2005年1月7日】
音楽会記録唐端勝(『音楽之友』 第3巻第6号 1943年06月 p.34-36)
内容:●くろがね會に音楽部を組織 海軍の外郭団体である「くろがね會」では音楽部の組織を進めていたが、入会者も450名に達したので音楽部の結成を実践する運動に乗り出すことになり、海軍記念日行事に参加するほか、海軍軍楽隊とも緊密な連絡のもとに海軍軍歌の作成普及、優秀な海洋音楽の創造等に入ることとなった。先ごろ決定された音楽部委員は次の23名である。有坂愛彦、安藤幸子、牛山充、江本理一、譽壽夫、京極高鋭、小倉末子、小松耕輔、西條八十、白井保男、松山長谷雄、田村虎蔵、田邊尚雄、中山晋平、乗杉嘉壽、信時潔、原信子、萩原英一、早川彌左衛門、弘田龍太郎、藤原義江、堀内敬三、山田耕筰●南京へ文化使節 1943年3月30日中国の南京で開かれた遷都3周年記念祝典に際して、4月1日より3日間中日文化協会主催にて同地で全国文化代表者大会の招聘に応じ、国際文化振興会ではわが国の学術、芸術、体育、教育者各文化層の代表者約10名を派遣したが、音楽界からは信時潔が参加した。●警戒管制下の芸術報国大会 1943年4月9日9時半より芸術報国大会が九段会館で開かれ芸能各界から2000名が参会、午前午後にわたって戦う芸術一般について協議を行なった。音楽界からは山田耕筰が「米英撃滅のための音樂戦線確立」その他の発言があった。また夜は共立講堂で「戦ふ藝術の集ひ」が催された。●井口基成氏に芸術院賞 第2回(1942年度)帝国芸術院賞は1943年3月初旬以来審査されていたが、4月9日文部省より発表された。音楽関係では井口基成が受賞したが、音楽に芸術院賞が贈られるのは初である。発表では、1943年1月28日井口基成独奏会を開いた際に演奏された諸井三郎の第二ソナタによるとされている。●各種競演の文部大臣賞 日本文化中央聯盟では本年度挙行の各種競演会の入選者賞状授与指揮を1943年4月14日華族会館で行ない、文部大臣賞ならびに情報局総裁賞が次のように発表された。文部大臣賞−−米川敏子《御羽車》(三曲)、杵屋勝一(次作)《萬葉唱和》(長唄)、丸岡嶺作少国民舞踊《ナハトビ》(舞踊)。情報局総裁賞−−米川敏子《御羽車》(三曲)。●満洲作曲家協会設立 満洲作曲家協会が満洲藝文聯盟の加盟団体として1943年3月10日設立された。当初の役員は武藤弘報所長より次のように発表された。委員長:野口五郎/委員:市場幸助、丸山和雄、佐和輝禧、松本秀治、陳其芬、宮原康郎、イワニツキー、松浦和雄、安藤清彦/事務局長:村松道彌 (つづく) = 情報 = ●毎日新聞社の音楽コンクール 毎日新聞社主催、文部省・情報局後援、日本音楽文化協会協賛によって行なわれる第12回音楽コンクールの課題曲その他が発表された。要項は次のとおり。
審査部門 声楽、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ
開催時期および場所 1943年11月、東京・日比谷公会堂
参加資格 日本人、満洲国人、中華民国人であること。年齢制限なし。
申込み締切日 1943年8月31日
予選期日および場所 
  第一次予選 1943年9月11日、12日大阪市 / 9月18日、19日東京市
  第二次予選 1943年9月25日、26日東京市
課題曲(声楽)
歌曲の詠唱2曲、邦人作曲の歌曲2曲、その他の歌曲(外国曲3曲)合計7曲を各自選択のうえ曲目を提出すること。ただし該当曲の中には次のいずれかを含むこと。
Francesco Durante : Danza, danza fanciulla gentile
Schubert : Der Musensohn
予選 第一次および第二次予選では、7曲のうちから審査当日会場で審査員が指定した2曲を歌うこと。ただし歌劇の詠唱は原曲の声域と歌詞によること。
本選 予選完了後、7曲の曲目中より予め審査員が指定した2曲を歌うこと。
課題曲(ヴァイオリン)
予選 第一予選では次の課題曲と各自の自由選択曲1曲を演奏すること。
Vitali : Chaconne (Vitali- Charlier-Auer版による演奏も可)
第二予選では次の課題曲および第一予選で演奏した自由選択曲を演奏すること。
Bach-Joachim : Chaconne (無伴奏鳴曲第4番より) Joachim 編の楽譜が入手できない場合は他の編曲を用いても良い。ただし必ず無伴奏のものであること。
本選 第二予選の課題曲および予選で演奏したものと異なる他の自由選択曲1曲(5分以内厳守)を演奏すること。
課題曲(チェロ)
予選、本選ともに次の課題曲を全員が演奏すること。
A.Vitali : Concertro D-Dur Op.3-9
課題曲(ピアノ)
予選 第一予選では次の課題曲の第1楽章を演奏すること。ただし繰り返しは省略。
Beethoven : Sonata "Les adieux" Op.81
第二予選では次の課題曲から異なる作曲家の作品を2曲(各1曲宛て。ただしドビュッシーとラヴェルは組み合わせてはいけない)。
Schumann : Novellette Op.21-2
Schumann : Toccata Op.7
Liszt : Etude de Concert No.2 F-moll ("La Leggierezza")
Liszt : Paganini Etude No.2 Es-Dur
Brahms : Capriccio Op.76 No.2 H-moll
Brahms : Rhapsodie Op.119 No.4 Es-Dur
Debussy : Toccata ("Pour le piano")
Ravel : Jeux d'Eau
本選 次の課題曲2曲と第二予選の課題曲のうち1曲の計3曲を演奏すること。
Bach : 48 Preludien und Fugen (Das wohltemperierte Klavier)より任意の1曲(前奏曲と遁走曲を含む)
●男子学校の合唱競演会 国民音楽協会主催の第2回男子学校合唱競演会は文部省、情報局、東京府、東京市の後援、日本音楽文化協会、日本文化中央聯盟の協賛のもとに1943年6月13日12時より日比谷公会堂で開催されることとなった。 
= 消息 =
●池内友次郎 東京府下北多摩郡調布町上布田303(電話 武蔵調布276)へ転居。
●紙恭輔 麻布区■簪■町155(電話 赤坂166)へ転居。
●萩原英一 四谷区信濃町32と番地変更。
●宮田東峰 四谷区四谷4−22と番地変更。
●藁科雅美 横須賀市逗子仲町710と番地変更。
●日本音楽文化協会 京橋区銀座西8ノ8新田ビル(電話 銀座4803)に移転。
●大木正夫 牛込区南榎町46へ転出。
●山本正夫 帝都学園高等女子校長の同氏は1943年4月5日に死去。享年64。
●日本ビクター蓄音器株式会社 日本音響株式会社と社名変更、発売レコード名は当分従前どおり。
●今井二郎 大阪音楽文化協会幹事長に就任。
(完)
【2005年1月13日+1月19日】
◇満洲音楽情報/鈴木正(『音楽之友』 第3巻第6号 1943年06月 p.37)
内容:1943年4月24日と25日の両日、昼夜2回にわたって新京音楽団創立1周年記念演奏会が、新京の記念公会堂で開催された。曲目は紙恭輔の《ボルネオ》、東松二郎作曲および指揮、柏崎三郎作、宮川敏夫演出による楽劇《娘々祭幻想》(1幕3場)の2作品。今回は、元新響奏者でその後新京音楽団に移ってコンサートマスターを務めていた吉田敏夫が[《ボルネオ》を]指揮したが、作品のもつ明快な色彩や鋭敏な律動は浮かび上がらなかった。《娘々祭(ニャンニャンマツリ)幻想》については「之は満洲に於ける歌劇の創造に對する一つの試みである。上演迄に種々制肘を受けたので、歌劇でも喜歌劇でも、又厳密な意味では楽劇でもないが、兎も角歌劇構成に必要な素材が、素の儘乍ら一應出てゐる。之は単なる試みとしてだけに終らせない心算である」という作者の言葉が添えられている。新京音楽団は、この作品を管絃楽部、満洲楽部、合唱部(日系満系)の総力を挙げ、それに満洲舞踊楽院及記念公会堂の芸術家たちが協力し、フィナーレでは舞台上だけでも60余人が並ぶ華やかさであった。しかし実は、その外面上の華麗さのみが新京音楽団の創立1周年を記念するものであった。娘々祭というのは満洲の伝説の中でももっとも通俗的なもので、満洲国民歌劇創造の趣旨に適う内容をもち、上演に至るまでの各方面の協力は涙ぐましいものがあったが、上演されたものについて言えば許しようのないものとなっていた。音楽のみをとっても、唱歌、国民歌、歌謡曲、雅楽等々の調子が混乱して接続されるばかりで何らの形式的配慮もないばかりか、声楽の訓練ができていない俳優を主役として歌わせたため、聴くに堪えない部分もあった。そのうえ舞踊の素養のない合唱団員に舞踊をさせるレビューばりの演出があり、唖然とした作品に仕上がっていた。哈響は白系ロシア人の楽団であるが、在哈3万の白系を基盤とする各種の芸術家と協力して、年に数回かなり大規模な歌劇を上演する。管絃は日本と比肩すべくもないが合唱団は日本では絶対聴くことのできない迫力をもっている(ドンコサック合唱団を想起すればよい)。うまいとか美しいとかいうよりも、土の香りの強い、逞しい奔放な合唱で、広く深い声帯をもっている。満洲の春は一瞬にして過ぎ、これからは屋外演奏の季節を迎える。
【2005年1月24日】
編輯室堀内敬三 沢田周久 加藤省吾 黒崎義英(『音楽之友』 第3巻第6号 1943年06月 p.40)
内容:雑誌用紙割当量が減少したため本号は記事を削減したが、掲載楽譜は従前のページ数を保った。今日の時局に重要な意義をもつ楽譜は、できる限り速く、広く、全国に普遍されなければならない。その使命のためには記事の量を犠牲にするのもやむを得ないと判断した結果の措置である。読者諸氏には了解を願いたい。(堀内)/堀内社長(兼主筆)は相変わらず多忙を極めている。昼は日本音楽文化協会、芸能文化[協会]、大日本青少年団ほか6箇所の理事または委員の仕事と本社社務の処理、夜は作曲と原稿の執筆で睡眠は4、5時間である。社長ほどではないにせよ、わが社の編輯部、営業部合計12名の奮戦は戦時下日本のほほえましい一つの風景ではなかろうか。(澤田)/校了間際に聯合艦隊司令長官山本五十六元帥の戦死が報じられた。司令長官の戦死ということは、世界戦史にも例を見ないところである。われわれは故元帥の闘志を受け継ぎ、いよいよ米英撃滅の一点に向かって最後の完勝を得るまで戦い抜かなければならない。(加藤)/今日の決戦下において音楽会が盛況を見せているのは慶賀しないわけにいかないが、同時にその在り様が正しく批判されなくてはならない。その第一歩として音楽マネージャーの方々に座談会をしていただいた。音楽界の現状を知る一つの手がかりとして多くの示唆が含まれているに違いない。(黒崎)/同業の『教育音楽』が輝かしい足跡を残して5月号限りで廃刊した。その事由は知らないが、中等学校、国民学校の音楽課目が緊密姓が加わる今日、同誌の廃刊は惜しまれる。おそらく「紙」に関する時局のきびしい現実を見るのである。われわれは今後できる限り音楽教育部門の面をも充実させなければならない。(黒崎)/今月の創作楽譜は短歌のうえに重点を置いた。31文字による独自の詩型式と伝統をもつ短歌がいかに音楽化されるか。短歌は元来朗詠されてきただけに、これに作曲するときは単純であるとともに困難である。短歌はわが国のあらゆる作曲家が一度は試みるのだが、未だ多くの問題を残している。これはいずれ取り上げる筈であるが、本号では「み民われ」「愛国百人一首」を機会に他の一般作品をも掲載した。楽譜はあくまでも32ページの建て前を堅持する予定である。(黒崎)
【2005年1月31日】



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