『音楽公論』記事に関するノート

第3巻第9号(1943.9)


◇楽壇決戦態勢強化緊急座談会(2)――決戦下演奏家の道野村光一、山根銀二、宮澤縦一、中山富久、下八川圭祐、福井直弘、伊藤武雄(『音楽公論』 第3巻第9号 1943年09月 p.18-39)
内容:1.演奏家の時局認識 記者から、さいきん一部音楽家の時局認識が不足だと言われるが本当か?  また演奏家は、今日どういうふうに国に奉公したらよいか? について論じてほしい、と促され、
野村光一が、日本音楽文化協会の事業部門を担当して企画を実現する立場から考えると、演奏方面の方々は時局に対する認識はあるのかもしれないが、それに対する行動は比較的緩慢だったと思う、と指摘し、演奏家の時局に対する考え方や態度、そしてその実践化をどうしているかを伺いたいと考えている、と発言する。宮澤縦一(情報局芸能課は、それは楽壇全般について言えると述べて、評論家のうちにも、未だにレコードの録音の具合がいいとか、昔どおりの新譜の録音批評をやっているが、この頃できるレコードにこの頃できる針で10回もかければ録音など問題でなくなる。むしろ、いかなる企画にするかとか、戦時下レコードをいかに有効に役立てるかということでもやってほしい。作曲家にしても、一番要望のある厚生音楽のための曲を書かずに、相変わらず歌謡曲のようなものばかり書いたり、逆に独りよがりの曲を書いたりしている。演奏家のうちにも、戦時下ということを忘れた昔ながらの芸術至上主義的な演奏会が開かれたり、勝手なプログラムを並べたりしているものもある。またプログラムの紙や形式にしても十年前とほとんど変らず、国策標語もほとんど載せていない。日本音楽文化協会もそうしたものに対して、何らかの方策を講じてよいのではないか。こうした意見を展開している。野村は、特に演奏家を取り上げるのは、音楽の実践においては演奏が第一に来るからで、まず演奏家が率先して時局に目覚めてやってもらわなければいけない、と補足し、たとえば日本音楽文化協会や大政翼賛会から演奏家に依頼がきた場合、自分たちが当然やらなければならない仕事だと演奏家が認識してくれれば良いが、止むを得ずやるというのでは困る、と指摘している。山根は、真面目にやっている人が沢山いるが、そうでない若干の人たちによって一括して悪く言われる、と演奏家をかばう発言をしている。2.具体的な指導を望む 下八川から、指導的な立場にある人にどうしたらよいかを具体的に示してもらえれば、演奏家として充分に実行できるだろう、と意見が出た。中山富久(大政翼賛会宣伝部がこれを受ける形で、たとえば閣議で衣生活の簡素化が決定されたら、音楽家も、特に演奏の場合服装は大体こうしようと考えをまとめるようにし、その程度のことは日本音楽文化協会あたりで自発的に音楽家の意見をまとめるように手を打ったらいかがか、と問うている。山根から、そうした点は手抜かりがあったかもしれない、と反省の弁が出る。
中山はさらに、《みたみわれ》発表国民音楽会の歌唱指導者として下八川さんにしても、伊藤さんにしても、熱誠あふれる歌唱指導の態度が感激を呼んだ、と述べた。宮澤は、態度は重要だとして、プログラムの内容にしても、全部外国のものが並んだり、現代の言葉であったならば問題になるかもしれない意味の歌詞をもつ歌曲などが、平気でやられていると苦言を呈し、戦時下の音楽会ということで内省して決めてほしい、また、自分の発声法が今日ほんとうの意味で日本的なものになっているかくらいまで、内省してほしい、と注文をつけている。野村が、いままでのことから為政者、指導方面が音楽家に求めることの大なることは明瞭だとして、そこで演奏家の問題が上がってくると述べた。ここで再度、宮澤が発言し、はっきり言うと、もっと演奏家と日本音楽文化協会とが有機的に結びついて、演奏家は日本音楽文化協会を誇るような気持ちにならなければいけないと思う、今はまだそこまでしっくり行っていないと思う、とズバリ指摘している。/3.演奏家の内省と努力 宮澤が、今日までに転業を余儀なくされた人たち、あるいは今度また企業整備が強化されて先祖から受け継いできた家業を転業しなければならない人たちの感じている、今日の時局認識がどのようなものであるかを考えていいのではないか、と述べる。さらに続けて、演奏家には、自分がどのようなものが適しているか、反省させるべきだと思う、ベートーヴェンをやるのが偉いのではなく、容易な曲でも立派に演奏するのが正しいことであり、良いのだと思う、と展開している。伊藤武雄が、国民歌でもやさしくない。非常に有名な大家が急に頼まれてやったとしても、なかなかうまくいかない、と意見を述べるが、少しして山根が、演奏家が何をしたら良いかということを突き詰めていこう、と舵を取り直した。伊藤は、演奏家といっても、学校の先生などしている人がほとんどだ。殊にピアノの人は、バイエル、チェルニーで毎日やっているから、国民歌《暁に祈る》を弾けと言っても、どうなるかわからない、と言う。しかし野村からは、やるようにならなければいけない、認識が足りない、と批判され、宮澤からも、残念ながら今までは、作曲家と演奏家とのあいだに有機的な連絡が充分になかった、皆で力を合わせて何か役に立とうという気概がほしい、と注文をつけられている。4.これからの演奏会 記者から、秋の演奏会はどうなくてはいけないか? と議論のテーマが提示された。山根は、秋に限らず、これからは高い国家意識からするものにならなければいけない。その中枢は、日本音楽文化協会でやる全国的な移動音楽報国運動だ、と指摘している。中山は、芸術的なものと国民歌は併行していかなければいけない、と発言。これに関連して野村が、7月号の『現代』に掲載された記事を取り上げ、この時局下では文化性のほかに、指導性と娯楽性をどのように提携させていくかが問題である、と述べ、指導性を発揚して民心を鼓舞するには、その指導性を娯楽のうちにしみ込ませる芸術上のテクニックが必要である、と結んでいる。一方、宮澤は、虚無的なものや敵国を謳歌するもの、戦争の暗い半面を歌ったものなどは、この時局にふさわしくない。また、ヒンデミットやシェーンベルクの、ある曲のごときを今日ことさらにやらなくても良いとか、音楽として楽しめる曲でも《ドン・ファン》というタイトルが付くような曲は考慮してもらいたいとか、邦人のものなら何でもいいというのも困る、と言い、日本音楽文化協会がそういうことを多くの演奏家に指導してもらいたい、と言っている。/5.クラシック論 中山、野村から、決戦下の壮大な音楽を創造することが阻止されるのは困る、といった意見が出されている。また、山根は、こういう時局にも芸術はできるだけ伸びる方向に成長していきたい。しかも、それは長期にわたって戦力増強のためにも役立つ、と発言している。/6.音楽は軍需品について 宮澤が、平出大佐が言った、音楽は軍需品なり、ということを楯にとって、重要物資で作られる楽器を配給するのも当然だという態度をとる人がいるが、これは良くないと発言。/7.器楽の活用 中山が、器楽は、新しい音楽報国運動の構想で初めて生かされている感じがする、と感想を述べている。また、宮澤が、楽器配給協議会が次官会議で決まり情報局にできて、楽器は禁製品だが音楽の重要性を考慮して、最低必要な量を計画生産し、計画配給することになった、しかし今、死蔵されている楽器が多くあるから、それらを役立つ向きに出せればとても良いと思う、と発言している。
【2001年3月14日】
◇藤原歌劇団のセヴィラと西浦の神(音楽会評)/久保田公平(『音楽公論』 第3巻第9号 1943年09月 p.40-42)
内容:1943年5月28日〜5月30日(5回公演)、藤原歌劇団第17回公演を歌舞伎座で。演目は、《セヴィラの理髪師》と弘田龍太郎《西浦の神》(新作)。/《セヴィラの理髪師》は、三林亮太郎の装置が時局がらグランドオペラの重厚さをもたなかった、また何よりも喜劇的演技が歌舞伎座の舞台のものではなく、軽演劇的要素が目立った。この点は青山杉作の演出が、歌手たちを役者として扱ったことにもよっている。これを機会に演技的訓練の再出発を行なうべきだ。次の機会には省略なしで再演してもらいたい。演奏は、東京交響楽団と指揮のグルリットは特に言うべきことなし。留田武は最上のフィガロ、大谷冽子(ロじーナ)も音色と歌の細かい注意がよい。高柳二葉(ロジーナ)も悪くないが、口先の甘さが気になる。/弘田の《西浦の神》について。劇的変化に乏しい松居桃樓の台本は、旋律をつけるには余りに演劇的で、巽聖歌作詞の歌詞は弱々しい。作曲は、《夜明け》の膨大ではあるがまとまりの弱さを思わせるものより、一段と歌劇であったことは認められて良い。しかし台本の欠点も手伝って、アリアやレチタティーヴォの面白さは少なく、オイナクルの歌う最初と最後の古謡語りが一番面白く、ほかは印象が薄い。独唱者では、下八川圭祐(オイナクル)、長門美保(トレシマチ)が良く、三上孝子、菅美沙緒は無難。村尾護郎(サマイウンクル)は楽しめた。下八川の二役目の悪役ボロシラム・カムイはオーバーアクティングの感はあるが押し出しは良い。藤原義江のオキクルミは、その声から気迫が出ず、西浦の神としての力に欠けた。この若々しい英雄としては浪岡惣一郎の方が向くが、声がなく、音域が苦しい。/久保田によれば《西浦の神》は、過去における「熊野」の単なる歌劇化や、《思ひ出》《復活》といった外国歌劇のイミテーションから山田の《夜明け》を通って、今回の作品にいたり、新しい日本の現代歌劇の生みの苦しみがあるのだと思える。また、《カルメン》《お蝶夫人》《カヴァレリア・ルスティカーナ》等々、大部分の外国歌劇が戦時下日本の舞台に乗せられなくなった今日、創作歌劇の道は、わが国歌劇運動にとって重大な関心事でなければならない、と述べている。
【2001年2月23日】
◇東勇作の舞踊劇を観て(音楽会評)/内田岐三雄(『音楽公論』 第3巻第9号 1943年09月 p.43-44)
内容:1943年7月28日と29日、歌舞伎座で公演。東は、1941(昭和16)年2月に東勇作バレエ團を起こして日比谷公会堂で旗揚げ公演を行なった。今回の歌舞伎座公演を機として、団の名称を東勇作舞踊劇團と改めた。演目は、ベートーヴェン《交響曲第7番》(新作)、ドビュッシー《牧神の午後》、ショパン《レ・シルフィード》。ベートーヴェンはモンテカルロ・バレエ団上演のもの(レオニード・マシン振付)を参考にしたと聞いているが、全体として大きな破綻がない代わりに、余裕も感激もないといえる。《牧神の午後》は牧神一人が目立つばかりだ。また牧神がやや変態趣味に過ぎることも一考を要する。《レ・シルフィード》は第1回公演の時と比べてコール・ド・バレエがよく訓練され、全体の夢のトーンを醸成することにかなり寄与していた。東勇作には、「女性的な? 生優しさを、今こそ克服する必要がある」と説き、松尾暁子と杉山樹子には、今回はやや不振だったと評している。/なお本文には、1943年4月公演(東京劇場)についても若干触れられている。演目はモーツァルト《セレナーデ》(眼を被いたくなった、という)、ウェーバー《薔薇の精》(わが国でもこれほど踊れるのかという喜びを覚えた)、ショパン《ジゼール幻想》(内田を驚喜させた、とある)。
【2001年2月25日】
◇水/富永瑠璃子(『音楽公論』 第3巻第9号 1943年09月 p.52-53)
内容:富永による随筆。汚れた布を洗い、随分きれいになったと思いながらも、盥の水をかえてゆすぐと前よりも澄んでくる。そして、ゆすぎの足りない洗濯物には、まぶしいばかりの白さがない。それは練習不足の演奏のようで、時に単調で根気が要り、絶えず冷静な耳をもたなくてはならない細かい練習を通して、次第に判然と曲の姿が現れてくるのに似ている。洗濯の好きな富永が困っているのは、あまり隅々まできれいに仕上がっていない、ということだ。
メモ:p.53には富永瑠璃子の写真。
【2001年3月4日】
◇2つの希望/尾高尚忠(『音楽公論』 第3巻第9号 1943年09月 p.63-65)
内容:1.楽壇への希望 日本の楽壇への希望は「外形的改革よりも内容の充実を」ということである。ある機構が、その欠点にのみ注意を集中して外部から改革を行なおうとしても、内発的な力を欠いた機構は、再び多くの欠点を暴露し、別な一群の人々によってその欠点を指摘され、またまた改革が必要となるおいう無駄な循環を繰り返すこととなる。さいきん、わが楽壇においては、いわば無駄な「温室の設計」や「温室の修理案」のみが問題にされすぎているように感じられる。「先ず形をととのえて後内容の充実を期待する」という考え方は、現在楽壇に通用しないことであり、各自の技術に精進すべき作曲家や演奏家が、この「温室掃除」に首を突っ込むなど無用の長物である。/2.聴衆への希望 現在聴衆には、永年の鑑賞の間に音楽の細部にわたって知識をもつようになった「通人」と、いたずらに最初から批判的に走り作品や演奏に採点する趣味に堕した「半可通」がいる。いま我々は、あらゆる不便や困苦をしのんで戦っている。つまり状態の悪い楽器や部品を使って最善の演奏に努力している。調子が合わないことも、ある場合やむを得ない。「半可通」の聴衆は、ピアノのタッチや不調和、弦の雑音にがまんがならず、その原因が音楽家の不真面目からくるように思えてしまう。演奏の細かい技術や解釈の問題よりも、そこに演奏されている音楽そのものを聴き味わう正しい愛好家となることが、わが楽界の健全な発展に意義を持ってくるのである。
メモ:前段で述べられている「温室」が、具体的に何を指しているのかは不明。
【2001年3月6日】
伯林の音楽会(『音楽公論』 第3巻第9号 1943年09月 p.66-67)
内容:さいきんのベルリン[伯林]の音楽会プログラムは、以前には見られなかったほど多数の外国音楽家の名が載り、はなはだ魅力に富んでいる。この活気ある音楽交換に参加して、決定的役割を演じているのは、従来イタリア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーおよびスウェーデンの諸国と行なわれた交換音楽会である。くわえてスペイン、クロアチア、スロヴァキアとは交換音楽会開催の申し合わせが、その緒についた。/イタリアから来る演奏家や演奏団体は、エンリコ・マイナルディ(チェロ)、リラ・ダンボーア(ヴァイオリン)、ルイギ・マゲストレッティ(ハープ)、ヴィッテイリオ・グイ(指揮)[ヴィットリオ・グイ Vittorio Gui のことと思われる]、クァルテット・ディ・ローマ、トリオ・アンティコ・イタリアーノ、トリオ・ディ・トリステ、トリオ・アルティス・ディ・ローマが挙げられる。ハンガリーからはゲジア・アンダ(ピアノ)[ゲザ・アンダ Geza Anda のことと思われる]、ティブール・ディ・マクラ(チェロ)、フェ―グ・クワルテット。ブルガリアからはリュポミール・ロマンスキ、コンスタンチノフ・エブロトフ、パウル・ツァンコフなど(いずれも指揮)。ルーマニアからはオイゲン・ゲンバリスティ、セルギン・ゼリビターシ、ゲオルゲ・エレオルゲスク(いずれも指揮)、テノール歌手のペトロ・モンデアヌはベルリンのフォルクスオーパーでオペラ歌手としてスタートした。クロアチアからはフォン・マタチック(指揮)[フォン・マタチッチのことと思われる]。ウクライナからはコレッサ(チェロ)。フィンランドデンマークからは指揮者ジミエラやピアノのテンベルクが、オランダからはコル・デ・グロート(ピアノ)が、スウェーデンからはクヌート・オラフ・ストラベルヒ(バリトン歌手)が、日本からは近衛秀麿(指揮)や諏訪根自子(ヴァイオリン)らが優れた力を示した。
【2001年3月11日】
◇霞浦土浦海軍航空隊慰問演奏記/東京音楽学校一女生徒(『音楽公論』 第3巻第9号 1943年09月 p.69-72)
内容:1943年7月21日朝8時30分、荒川沖駅に海軍が自動車7台を並べて待機していた。やがて着いた霞ヶ浦航空隊では、士官ばかりを養成するこの隊は、教官が生徒たちと寝食行動をすべて共にしているとの話を前田教頭から聞く。教官の大半は、ハワイ、マレー沖海戦等の実戦経験をもつ。霞ヶ浦神社に詣で、その後伊藤中尉の案内で飛行場見学をした。練習機と灰色のダグラス輸送機が並び、元ツェッペリンの入っていたとても大きな格納庫も見えたが、周囲があまり広いのでさほど大きく見えなかった。第一操縦室は初歩の夜間飛行のためのもので、部屋の周囲には飛行場を飛び立つときに見える景色がそっくりそのまま置いてあった。/士官と同じ食事をした後、演奏となる。工事中の航空参考館に約1500名が集まった。《大日本の歌》《愛國行進曲》《大東亜海軍の歌》が済むと、《航空隊の歌》の指導。《母の歌》《田植歌》も歌われ、さいごに乗杉[東京音楽学校]校長作詞、橋本國彦作曲の《山本元帥英霊讃歌》を歌った。/土浦航空隊の訪問記となる。訪問日が霞ヶ浦航空隊と同じかどうかは不明。海軍航空隊神社を拝んでから池田教官に話を聞く。水上偵察機、水上練習機もある。生徒たちの猛練習を見て、夕陽がさす頃帰ってきた。
【2001年3月12日】



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