『音楽公論』記事に関するノート

第3巻第8号(1943.8)


◇楽壇人よ、賢明なれ/野村光一(『音楽公論』 第3巻第8号 1943年08月 p.8-9)
内容:戦争は決戦態勢となり、熾烈の度を加えている。そこで日本音楽文化協会は楽壇人を総動員して御国のために邁進するのは当然である。音楽家諸氏に望むのは、物質的報酬を超越した勤労奉仕的行為であう。しかし野村からみると、言を左右にして応じない人間が楽壇に瀰浸していると指摘している。転業を余儀なくされる人々が多くいることを考え、われわれの活動が是認されていることを幸いと思い、滅私奉公するよう楽壇人に訴えている。
メモ:野村光一は、日本音楽文化協会常務理事。
【2001年1月17日】
◇楽壇決戦態勢強化緊急座談会(1) ― 決戦下音楽評論家の任務<座談会>園部三郎 山根銀二 野村光一 登川尚佐 土田貞夫 寺西春雄 関清武(『音楽公論』 第3巻第8号 1943年08月 p.16-37)
内容:園部三郎が、決戦態勢下における音楽評論家がいかに仕事を進めていくべきかを話し合って行きたい、と口火を切り山根銀二に意見を求める。/1.批評の創造性 山根は、批評本来の仕事は批判することによって新しい建設をもたらす創造的なものだと述べ、現在の音楽批評家の任務は、この態勢下で国民の士気を高めていき音楽の向上を計っていくことだ。この意味から、一時代前の批評の仕事の形は改変されなければならないが、根本の精神は一貫しているのだから、そう難しくないと言う。これに対し野村光一が、批評の根本精神は創造である、過去において批評家は紙をかりて批評という形態で音楽の創造のために努力したと思うが、今日紙が減ってきた、そればかりでなく紙をかりないでもっと現実的な実践形態を通じて音楽評論家が働かなければならない状況に到達したと思うと述べて、山根とは少し意見が違うと言う。山根は同じことを言っていると指摘するが、野村は同意せず、登川尚佐土田貞夫らも議論に参加する。土田は紙がなくなったから実践活動に移ったのではなく、批評というものの歴史的必然からそうなったのだと説き、登川は[批評の]創造的精神が現下の時代にあって、批評活動の現れ方を変えつつあることを見過ごせないと指摘する。/2.演奏会批評 山根から、いまの音楽会批評は創造的だろうかと問いが発せられた。園部が、一つの演奏に対して理由を挙げて上手い、拙いということ自体、それだけでも創造性がある。ところがそれだけでいいかと問題が出てきて、日本の批評家が対象とするのは演奏批評に終始し、作曲がないことだと指摘する。山根は、ただ辛らつに書けば創造的だというのは誤解だということ、作曲についての批評は思索を加えて結論が出せるが、演奏は瞬時に消えるので端的な把握が必要となり、より難しいと述べている。/3.批評の責任 個々の演奏家の弱点を矯正しようとして極度の悪口を言う場合もあれば、柔らかく言う場合もあるが、批評家の精神がものを創造させようとしている場合は先ほどの表現のテクニックの問題は二の次である、と野村。これに対し關清武は、表現の点で失敗しそういうつもりで言ったのではないということがしばしばあると指摘し、音楽の把握をしっかりしたうえで、表現の問題を重要に考えるべきだと主張している。/4.テクニック批評 土田が、たとえば「レガートが足りない」という表現が批評文に書かれた時、なぜレガートが足りなくてはいけないかを文章に入れてもらいたいと注文をつけた。園部、野村らは批評文はもっと端的は書き方をすると反発している。土田から演奏会批評は演奏会そのものを問題にすべきだとする意見が続き、園部がこれを受けてプログラムの立て方や作曲について言わなければならないとまとめている。/5.同志的批評 続けて園部は、建設的な批評は批評家の良心だけで成り立つものではなく、おべんちゃらではない同志的批評を行なう必要があると説くが、野村は批評される当人も真剣に批評を受け止めているから、心配ないと述べている。/6.音楽評論家の教養 音楽評論家が音を通じて人間性を感受しないようなら、音楽に対してものを言うことはできない(野村)が、そうでない場合もあるという。議論が進んで、寺西春雄が音楽評論家の教養について触れ、日本精神を把握していなければいけないのはもちろんだが、そのために『古事記』や『日本書紀』、あるいは道元などを読むべきだ、とほかから言われ、それを鵜呑みにして読みそれだけで日本精神を把握したような思い込みを持つ場合がある。自分の音楽を推し進めながら、教養が傍らから入って身につくなら良いが、教養をつけるためだけに手当たり次第にただ文学を読むのは間違いだと思う、と展開している。/7.批評家の実践活動 が、音楽政策という場合、それを論ずるのではなく行為において解決する必要があると思うと意見を出している。これを受けて野村が、演奏家が国家目的に役立とうとする意図で演奏する場合の、演奏会の計画までやりたいと発言。園部、關、登川、山根、寺西、土田も表現を変えながら賛意を表している。/8.音楽評論家の任務 そこで問題になるのが日本音楽文化協会であると園部が指摘。園部は続けて、こうして話し合ってみると、みな同感で[日本音楽文化協会の]評論部もだいたいにおいて同じだと思う。実行家である山根、野村の二人に批評家が持っている批評精神を反映させなければならない、と主張する。他の出席者からも、そうした点で足りない点があるかもしれないと発言があり(土田)、お互いに苦労しようという点で一致する(登川、山根、土田ら)。より議論が具体的に進んだところで、厚生音楽運動を取り上げ批評家の実践的な活動が要求されているとして、陣頭に立とうと意見が出される(土田、登川、山根)。そして評論家各自に反省を求めながら、座談会が終わっている。
【2001年2月21日】

◇神楽随想/田辺尚雄(『音楽公論』 第3巻第8号 1943年08月 p.38-41)
内容:広い意味で神楽といえば神祭に伴う音楽をいうが、神社で行なわれるものと神道協会で行なわれるものとに大別できる。今回は後者については触れない。前者は、御神楽(宮中、伊勢神宮などで天皇自ら行なわせしめるもの)、代神楽(庶民が伊勢神宮に詣でて奉納することのできる神楽で、雅楽を用いる)、里神楽(宮中ならびに神宮以外の神社で祭祀に用いる伎楽や田楽、猿楽の系統の神楽)の3種に分けられる。/紀元2600年奉祝記念として宮内省楽長・多忠朝が新作「浦安の舞」を作り、それを全国の神社に一斉に行なわせるよう非常な努力を払った。この新作は御神楽に範を取って神国ほんらいの[神楽の]姿に戻したいと考えたのだと思われる。音楽には、快楽や元気を与えられる「音楽の動物性」、作曲者の思想を体得しつつ向上しようとする「音楽の人間性」、神に近づこうとする「音楽の神性」の3つがあり、それぞれを区別して考える必要がある。そして、太古の人間は純な心をもって、いつわることをしなかった。その現れの一つは古代の音楽である。しかし現代の音楽は、その技巧のために至純の心がいつわり曲げられる惧れが多分にある。わが神に仕えるための音楽は、至純の心の表現である古楽をおいて無いと考えられる。/里神楽に馬鹿踊りというものがあるが、これは純真無垢の人間を指している。神社の社の前には狛犬(犬の類)があるが、猫や豹の像は置いていない。それは犬は、その心が極めて純だからである。
【2001年1月18日】
◇里神楽について/露木次男(『音楽公論』 第3巻第8号 1943年08月 p.42-43)
内容:露木は里神楽を多く見たことも調べたこともないので、他人の調べたものを報告する。秋田県でもっとも出色の里神楽は、鹿角郡宮川村大日堂のものだそうだ。これは奈良の大仏建立時、当地から金を献納した返礼として大日堂に楽人を送ったと伝えられているそうだ。その中に「凌王」もあるそうだ。数年前、山形県でも有志が「凌王」「太平楽」「越天楽」の3曲を放送したことを知り、どうしてその地方に伝えられているのか、いずれ調べてみたい。先日、当町の護国神社で「越天楽」を演奏していたが、宮内省の演奏のような荘重さはない。羽黒山の神楽も天平時代に伝えられたと言い伝えられている。こちらの神楽は正月の吹雪が吹きすさぶ頃演奏されるので、見に行く乗り物もなし、歩いていっても泊まるところも無いので聞く機会に恵まれないのだ。岩手県平泉の延年舞は全国的に有名だそうだし、気仙沼高田の法印神楽も非常に優雅なものだそうだ。あの地方は剣舞という菩薩が悪魔を退治するところを、農夫たちが田舎の道路上で巧く演じる。総じて、こうした神楽や舞には徳川鎖国時代の虚勢された態は少しも無く、男性的な豪奢なものばかりである。こうした舞こそ、本当に発展的な日本誠心がよく発露されている。日本の舞踊もここに戻って発足すべきだと考える。
【2001年1月23日】
◇歌手のスポーツ談義/木下保(『音楽公論』 第3巻第8号 1943年08月 p.44-45)
内容:木下は少年時代に野球を行ない、中学(兵庫県立豊岡中学)時代には400m競走のナンバーワンだった。柔道は不得手で右腕を骨折したことがある。演奏家は健康の如何によって、その日の出来不出来のかなりの部分が左右される。酒、煙草、カレーライス、唐辛子茄子などは声楽家にはいかがなものかと指摘されるが、健康な状態を保っていれば、そんな瑣末なことはあまり問題にしないことにしている。そして水泳が水に慣れなければできないように、歌ならばまず声を出すことに慣れないとはじまらない。声楽の訓練もスポーツの訓練も、原理的にまちがった方法ではなく、正当な方法によれば伸びる。
メモ:p.45 は、木下保の写真を掲載。
【2001年1月25日】
◇シロタ門下生協奏曲の夕雑感(音楽会評)/寺西春雄(『音楽公論』 第3巻第8号 1943年08月 p.46-48)
内容:1943年6月16日、日本青年館で。独奏者は10歳前後から17、18歳までの年少ピアニストたちが登場。演奏曲目についての記載はなし。独奏者で名前がわかるのは、園田高弘と藤田晴子の二人。指揮はシロタ、オーケストラは不明。/シロタ門下生の演奏は、生徒それぞれの個性を生かす結果が出ているが、音の出し方 ― 音が貧しくて汚い、テンポが悪いなど ― を心得ていない点が共通していて、シロタの指導法に一抹の不安を抱かせた。そのなかで寺西が所用で聴けなかった園田高弘は、豊富な音を持っていたそうだと報告している。その先輩格の藤田晴子は、自己の弱点を知って音の出し方を研究しており、これはシロタの教育の効果とはいえないとも指摘している。
【2001年1月28日】
◇独唱会と合唱公演(音楽会評)/加波潔(『音楽公論』 第3巻第8号 1943年08月 p.48-51)
淺野千鶴子独唱会
内容:
1943年6月23日、日本青年館で。帰国後、1年の研究の総決算として独唱会を重ねてきたが、今回は失望した。第1回の浅野千鶴子独唱会ではアリアはきれいごとに終始し、リートも内面的な深さをもった表現はなされなかった。それが昨年の第2回では、表現は多角面から生かされ、ぐっと向上した。しかし第3回にあたる今回は、演奏曲目はピツェッティの《牧人》(第1回でも歌った)、アルファーノ《3つの抒情詩》、フォーレ《月の光》、山田耕筰《たゝへよ、しらべよ歌ひつれよ》(以上3曲は第2回で歌った)などで、新しいレパートリーはいくらもない。ことに昨年忘れられない歌唱だったアルファーノの《3つの抒情詩》は、その時のようなひたむきで清新な情熱は見当たらなかった。随分寂しい気持ちで会場を出た。伴奏者は記載されていない。
東京交聲樂團定期公演「ブラームスの夕」
内容:1943年6月25日、日本青年館で。上野[=東京音楽学校]出身の新人たちによる団体で、各自が確固とした専門的な修練を積んだうえで、自身の積極的な意志で成立しているから、楽壇にとって支持すべき存在である。/1941年の第1回公演では、音量や明暗はよく表現されていたが統一がとれていないという感があった。しかし今回は音色は予想以上にまとまった線の流麗さを示した(これは指揮者フェルマーの功績ともいえる)。演奏曲目は《4つのクヮルテット》、《ジプシーの歌》が記載されている。
【2001年1月31日】
◇伯林に於ける近衛秀麿子/芳賀檀(『音楽公論』 第3巻第8号 1943年08月 p.52-55)
内容:近衛秀麿と文藝評論家・芳賀檀は、ともにベルリンで過ごした。これまでヨーロッパに来て一時的に楽壇に立った者も少なくはないが、真に一人の音楽家として、しかも偉大な音楽家としてドイツの楽壇に楔を打ち込んだのは近衛をもって最初とするのではないだろうか。フルトヴェングラーやカラヤン級とまではいかなくとも、ドイツの毎日の新聞のどこかに近衛の演奏批評の載っていない日はない。近衛はベートーヴェンの交響曲に新しい楽器を加えた解釈版を用意している。北欧のシベリウスやパリにいた諏訪根自子をベルリンに呼ぼうとしたのも近衛である。なお、今、近衛がベルリンにいて一番不自由を感じていることは食券のことで、仕事のうえで多くの人に会ったり、旅行したりする人には、少なくとも大使館の書記生なみの食券がいくように大使館が便宜を計ってもよいのではないかと思う。
【2001年2月2日】
◇独唱会曲目とコンクール考察(音楽評論)/薗田誠一(『音楽公論』 第3巻第8号 1943年08月 p.56-58)
内容:1.独唱会 声楽家が演奏家としての力量を示す独唱会の曲目編成については、慎重でなければならない。編成の型は、
   1)渋がった曲目による編成
   2)技巧に正面からぶつかり、曲目の系統や体裁をほとんど考慮に入れない編成
   3)適当に中庸を得て、中心になるものを置く編成
   4)何も考えずに、ただ習得した曲目を並べる編成
4)以外は、いずれも研究発表としての外面的資格は整う。声楽家は技巧の訓練だけでも難事であり、しかも技巧を土台にしなければならないことは明白である。そうすると、3)の方法、すなわち自己の技巧の許す範囲で、これならばと思う曲目をある程度系統的に並べ、その中に中心となる曲目を置くしか方法がない。自己のもつ声を自由にコントロールできる技巧から、内面的な心の表現などが滲み出てくるのであり、ただ曲目の格好をつけるだけでは人を感動させることはできない。 2.コンクール(声楽) ここ数年、声楽コンクールが低調で優秀者が出ない。声の素質が素晴らしい者は誠に少ない。技巧の訓練が必要で、それを土台にして正しい声を目標に精進することである。しかし今までは、ただ楽曲の恰好の周囲を取り巻いていたから進歩がないのである。
【2001年2月5日】
歌唱運動から(音楽評論)/下八川圭祐(『音楽公論』 第3巻第8号 1943年08月 p.58-60)
内容:音楽が享楽的な有閑階級の遊び道具と見られたのは過去のことである。平出海軍大佐は音楽が軍需品であると喝破したが、この言葉くらい音楽人を感激させたものはない。下八川は大政翼賛会および産業報国会の委嘱により、京浜地方の諸工場および東京近県の諸都市において受け持った指導歌唱会で、かつてない力を感受したと述べている。/歌唱は音楽の中でも最も国民大衆の心に深く訴える力を持っている。今日、困苦と欠乏と闘う国民の深刻な苦しみや悲しみは、歌によって優しく慰められ、勇気を与える。下八川は自分の歌唱法がどのように感得されるか疑問と不安をもっていたが、満場の聴衆に心からの感動を与えた。国民大衆はマイクロフォンを通じて歌われる鼻歌のごとき低調な流行歌しかもたず、今まで本当の音楽に接する機会が与えられなかったのである。/《空の神兵》《月々火水》《暁に祈る》《國に誓ふ》《荒城の月》《海ゆかば》などを指導演唱し、シューベルトの《菩提樹》や伊藤昇の《戦線》などを模範演唱し、しだいにレベルの高いものを与えるようにした。聴衆は歌曲の指導中、一つの旋律の歌い方も聞き逃さない熱心さをもって臨んでいた。歌唱指導は、そのまま音楽報国の理念に通じる。こうした意味から、全楽壇の半数以上は再訓練を受けなければならない。大衆に良い音楽を与え歌唱指導運動を継続するには、これはビジネスではないのだから、生活に余裕がある歌手を強制的に徴用令をもって参加させなければならない。
【2001年2月9日】
日響の第九公演(読者評論)/佐藤次郎(『音楽公論』 第3巻第8号 1943年08月 p.62)
内容:1943年6月18日、日比谷公会堂で行なわれた日響特別公演の《第九》について。演奏者は、加古、四家、薗田、伊藤武雄の独唱、国立、玉川合同の合唱(600名)、指揮者はローゼンシュトック。/演奏を総合的に見れば戦時下にふさわしい快演だった。日本交響楽団は一時より技術が低下し、弦に重厚味を欠く。ローゼンシュトックの指揮はさいきん確かに荒くなったけれど、現在では氏ほど感銘の深い演奏を行なえる者はいない。ことに700名近い演奏者を掌握した終楽章の演奏は、ローゼンシュトックの独壇場だった。独唱者は概して平凡だった。
【2001年2月11日】
◇二台のピアノ演奏会(読者評論)/五島雄一郎(『音楽公論』 第3巻第8号 1943年08月 p.62-63)
内容:1943年6月20日(日)、石井京、レオ・シロタによる2台のピアノ演奏会(会場は記載されていない)。石井は技巧とダイナミズムに見るべき点があるが、外面的技巧に促され過ぎる嫌いがあり、内省的方面にまで曲を掘り下げていくようなものが感じられなかった。この点はシロタにも相当の責任がある。/演奏した曲のうち、最後のラフマニノフ《組曲第2番》、アレンスキー《ポロネーズ》、サン・サーンス《死の舞踏》などは外面的な技巧をねらった作品だけに、シロタの冷徹な技巧と石井のダイナミズムが相俟って、相当の効果を上げた。アレンスキー《ロマンス》、シューベルト《即興曲》、ブラームス《ハイドンの主題による変奏曲》などでは感情の表現が行なわれず、落ち着きのない演奏となった。
【2001年2月12日】
◇海鷲志願音楽学徒の決意/伊達良 岡本泰 牧野茂(『音楽公論』 第3巻第8号 1943年08月 p.64-65)
内容:伊達良(東京音楽学校研究科1年) これまで音楽で世の中のためにつくす決心で、その勉強に努めてきたが、何を抛うっても大君の御楯になって祖国を守り米英を一刻も早く打倒して、微力のすべてを捧げたい。兄の純は、すでに中支の戦野にあって戦場の空の下にいる幸福を感じつつ銃をとって戦っている。自分は天皇陛下に対する一番の忠の道であり、両親に対する一番の孝の道であり、先生に対するご恩報いと考え、また兄に対する愛の一つだと信じて海軍予備学生を志願する決心をした。/岡本泰(東京音楽学校本科3年) 海軍予備学生に志願した。理由は自宅が鎌倉にあり、横須賀に近かったため自然に海軍軍人の影響を受けてきたのかもしれない。また従来、音楽家や芸術家は個人主義的の傾向が強いと社会から非難され通してきたが、われわれはそれを打開して世人の認識を改めさせる義務を切実に感じ、訓練過程がより厳重と聞く海軍に志願した。軍人となっても音楽は忘れずに勉強したい。/牧野茂(東京音楽学校師範科3年) 国運を賭しての一大決戦に想いを致すとき、音楽に精進する者が楽器を銃に変えたり、操縦桿を握ったりすることは、音が教育者たらんとする者からすれば当然過ぎることと思う。奈良に育って故郷に海がなく、行くなら海軍という願望をもっていた。[戦場に]行って、先輩の音楽家諸氏のお顔に泥を塗らぬように立派に死んでみせる。楽壇に残られる諸先輩が一層音楽報国に邁進され、音楽文化の面においても勝ち抜くことを切望する。
【2001年2月17日】
◇音盤「敵機爆音集」による国民学校聴覚訓練報告/山口保治(『音楽公論』 第3巻第8号 1943年08月 p.66-72)
内容:音盤「敵機爆音集」を使用して児童の訓練を始めたところ、1943年5月26日付朝日新聞夕刊に紹介された。聴覚訓練では音高・強弱・長短・音色・方向などが扱われるが、山口は、聴覚訓練のみが重要であるという考え方や、音感教育でなければ音楽教育でないという両極端の考え方はとらず、爆音についての聴覚訓練に対する教育的態度は、国民学校の一分野(音楽の中の聴覚訓練)として取り扱っている。児童のこの音盤に聴き入る真摯な態度を巧みに利用すれば、聴覚訓練全般における聴く態度を習慣づけるのに役立つと思う。/▲音盤について。名称「敵機爆音集 第1輯」(製作・日蓄工業株式会社 監修・千葉陸軍防空学校)。内容は、ボーイングB17D重爆機、ロッキード・ハドソン重爆機、カーチスP40戦闘機、バッファロー(ブリュスター)戦闘機。▲訓練の方法について。同一高度で各種飛行機の音を聞き比べ、訓練ができたら違った高度で試みる方法を薦めている(他に、同一飛行機の各種高度における音の違いを示す方法もある)。用具は電気蓄音機と疵のない音盤、回転調整盤その他が示されている。山口は、手巻きのサウンド・ボックスでは実感に富んだ音色や音量が出ないといい、回転数は正確に78回転に調整しないと異なった爆音となり無意味だとも指摘している。高度は1,000メートルから始め、5,000メートル、最後に3,000メートルの順が良いとして、その組合わせはボーイングとカーチス、次にロッキードとバッファロー等々この順序で実施すると良いと思われる順に列挙されている。訓練の時間は5分前後と短くし回数を重ねるように努力しないと効果が上がらない。▲常盤国民学校における現況。毎日一回朝礼後の3分、5分、あるいは全校体操の時間の僅かを割いて行なっている。高度1,000メートルについては9割ほどの児童がほとんど絶対的に識別できるといい、5,000メートルでは4〜5割。3,000メートルは未だ実施していない。▲この訓練の将来について。友軍機の爆音についても訓練する必要があると思う。なお、飛行速度による爆音の相違、天候による相違、風の速度方向があたえる影響、同一種類の飛行機であっても甲、乙、丙それぞれによって相違はないのか、単機と編隊による相違など知りたい点がある。
メモ:山口は常盤国民学校訓導。
【2001年2月18日】


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