『音楽公論』記事に関するノート

第3巻第10号(1943.10)


◇大東亜音楽文化方策試論/広瀬正和(『音楽公論』 第3巻第10号 1943年10月 p.8-13)
内容:われわれがバッハの遁走曲[=フーガ]やベートーヴェンの交響曲に感動するのは、音楽が純粋感情の芸術であるためだが、しかし絶対的な普遍性をもっているものではない。各時代、各民族、さらには各芸術家によって異なった様式において顕現する。したがって共栄圏各地にいかなる音楽を持っていっても、必ず受容れられるとは限らない。ひとくちに音楽といっても、邦楽か、洋楽か、クラシック音楽か、いかなる音楽を選ぶかという問題が、大東亜音楽文化の方策をたてるにあたって、もっとも難しい問題である。/田邊尚雄の説によれば、いまさら日本が共栄圏各地に洋楽をもっていっても、かえって軽蔑されるであろう。邦楽は、伝統的な日本音楽を共栄圏にもっていたっとしても、現地の人々が日本の音楽に接する機会がないため、貧弱だ、刺激に乏しい、あまりにヴィルトゥオーゾ的だと思われかねないので、感心しない。次に《愛國行進曲》や《愛馬進軍歌》などの歌曲をもっていき、日本語教育を兼ね、文化工作としてもっとも輝かしい成果を挙げ得るものだろうが、この程度の方策に甘んずることはできない。現代日本音楽は、本来ならばこれがもっとも望ましいが、今日、多くは望めない。最後に現地の音楽を盛んにすることが考えられる。しかし、単に迎合的な現地音楽の保存のみで満足するわけにはいかない。/実際には、主に放送によって音楽文化工作が進められている。政治的に協力すべき文化工作としての音楽文化方策は、その時々の要請に応じて実施されてきた。しかし、大東亜の芸能文化の一つとしての音楽自体の確立という問題は、一朝一夕では解決し得ない。大東亜音楽文化の中心となるべき日本の音楽文化態勢の整備強化が何よりの急務である。/音楽文化の発展は止まるべき限界がないので、日本音楽と大東亜音楽の建設とは併行して行なわれなければならない。むしろ両者は一つのもので並列的な2つの事業であってはならないと思う。また、共栄圏各地の音楽は宗教と密接な関係を持っている場合が多いので、慎重な態度で接しなければいけない。さらに宗教音楽に限らず、音楽は、意外に生活と深く結びついているらしい。こうした音楽に対しても特に慎重な態度が必要だ。そして廣瀬は、共栄圏各地の音楽から速やかに米英的な分子を駆逐し純粋に大東亜的な音楽を盛大にしていくこと、現代日本のもっともよい音楽をできる限り共栄圏各地に普及させることの2点を提案している。
【2001年3月16日】
楽壇決戦態勢強化緊急座談会(3)――決戦下創作界の新構想山根銀二、片山頴太郎、吉田信、園部三郎、野村光一、平尾貴四男(『音楽公論』 第3巻第10号 1943年10月 p.20-43)
内容:今回のテーマは、戦局が日々苛烈を極めている中で、今日作曲家は何をなすべきか? また、創作界はどういう構想の下に奉公しなければならないか、というもの。
1.技術の修練時代
山根銀二から、事変[日中戦争]前の作曲界は技術修練の時代にあったといえるだろう。その後、周囲の事情が急激な変化に伴って、士気昂揚とか戦力増強という方向に向かってきているが、現勢はそれに充分に応えているかが問題で、いまだ充分でないと問題が提起される。山根は続けて、技術修練時代には外国の模倣を脱しきれないのが当然だが、こういう時局になると、愛国百人一首につけた作曲や《みたみわれ》のように独特のものを作らねばならぬ。しかし同時に作曲が一面的になる危険性ももっている。その点に技術の狭さがあるのではないか、と指摘している。片山頴太郎が、これを肯定し、日本的ということは大事なことだが外国の名曲の移入も吝かであってはいけないと思う。これからは日本にできた師匠の跡を追っていくことになり、非常に狭いことになりはしないかと思う、と意見を述べる。野村光一が、これまでの技術そのものの採り入れ方が疑問だ。日本の作曲の技術の採り入れ方がどんなメトードでやったかということを反省する必要があると思うと言うと、片山が、そう言うが、明治の初めには何もなかったのだ。今日のように整ったシステムでできたわけではない、と反論。園部三郎は、技術が、自分の歌の心から離れて観念的にあった。もっと突き進んでいけば、大衆の心を掴めないことになる。大衆音楽というと誰でも歌えると簡単に考えてきたが、技術が足りないで注文どおりに書こうというところに無理があった。いままでの技術の習得の仕方が、生活と遊離した文字通りの技術であったために、大きなギャップが生まれていると思うとまとめている。
2.大衆音楽の将来性
片山 が、 大衆音楽は難しい、将来音楽の本道は大衆音楽のほうへ行き、そこから新しい根が出てくると思うと意見を言う。吉田信、いままで卑俗と通俗が混同されて大衆歌に非難が向けられていた、と述べると、再び片山が[三味線音楽が日本に入って以後の歴史を概観し、]大衆音楽もいろいろ工夫して進歩していくのだと考えている。一方、純粋芸術の方は、マーラーのように百数十人のオーケストラや、300人の合唱を要する膨大な構造は、いっぺん整理される時期が来るのではないかと思う。西洋でも、ヒンデミットが転向したこと、ノイエザッハリヒカイトのこと、クルト・ワイルのことなどに見られるように、そういう状態が1930年頃から出ている、と予見を提示している。
3.世界音楽の動向
山根 は、 片山が言う様式の質的転換と、日本の音楽が同様に質的転換を迫られているという意見に賛成するが、例証として挙げられた内容に問題がある、と指摘する。ヒンデミットのようなノイエザッハリヒカイトの音楽や新古典派の音楽は、マーラーやシェーンベルク流のドイツ・ロマン派の批判から生まれたが、その際のいろいろな行き過ぎや無理やから、それらの人びとも再びロマン派へ後戻りしている傾向がある、というのが山根の言う内容。山根はもう一つ、日本における様式転換はわれわれ自身の感じ方の中にその原動力があるのではないか。それを方向づけるのが作曲家の仕事だと思う、とも述べている。これを受ける形で、吉田が、 大衆音楽の作曲家が心構えとして聴衆を意識においているということは、音楽の効果を純粋芸術方面の連中より深く考えているという意味になると言うと、園部は、 軽音楽の人は、あまり上を見ない、純粋芸術の人は下を見ない、ほんとうにいいものは、たいていの人にわかるものでなければならない、と述べる。吉田は、 卑近な例でいえば、国民歌、愛国歌の場合にも大衆音楽の作曲家の手になるものや、投書家級の作曲家の手になるものが受けて、純粋芸術の作曲はそうではない。自分たちはそういうものを作らないことを名誉とし、当然だという考え方があった、と指摘している。
4.大衆音楽と国民文化
野村音楽を受入れる層に、教養の高い層と低い層があり、どちらも大衆だと思うと述べ、音楽の畑においては、教養の低いところに向いているのが大衆音楽、上に向いているのが芸術音楽で、両方とも大衆だと思う。そして双方の層を充分に満足させる作曲家がいないことが、根本的な問題だとの意見を提示する。これに対し園部は、 国民文化は上と下を統合した問題だと思う。この二つを切り離してはいけない、そこが問題だと思う。たとえば「民族の祭典」という映画は、どの層が見ても面白い。そういうものが今日の戦争下における日本の音楽として出てくる必要がある、と述べている。
5.ベートーヴェンの大衆性
ベートーヴェンには大衆性があると思う、と園部が発言。すぐに野村が、 同じ主張の下に日本音楽文化協会の巡回演奏にベートーヴェンの《交響曲第5番》をもっていったが、各方面で評判が悪いのだと言う。 山根は、: ベートーヴェンはドイツの音楽で日本のでないから、ひじょうに違うのだと言うが、野村はこれを否定し、さらにドイツの国民音楽としてベートーヴェンが要求されていても、ドイツのラジオ放送ではジャズをやっている、と述べる。園部は、それは日本の現実も、より分りやすい音楽が要求される点で同様だとし、しかし、今は誰に見せても日本のものだというものを要求されていると指摘している。吉田 は、ベートーヴェンを持っていって喜ばれなかった事実と、ベートーヴェンに大衆性がないかという問題は別だとして、ベートーヴェンはメロディも美しく大衆性をもっているが、今日のように時局が切迫した決戦下では、1曲で30分も40分も演奏することは、特に産業戦士相手の巡回演奏としてどうかと思ったことがあった。何かの会合で吉本明光と吉田がこの疑問を呈したところ、野村が聴衆は喜んだというので引き下がったと野村に正している。その野村から、[日立では]実は3万人来たから成功したといったんで、そのこととベートーヴェンがわかっているかは別問題だ、とまるで開き直りともとれる発言が飛び出している。
6.放送音楽について
吉田 から、 放送音楽では大衆的でわかりやすいベートーヴェン、ヨハン・シュトラウス、シューベルト、それに民族的色彩がはっきりしているスメタナなどを取り上げてもいい。しかし第一に考えなければならないのは、日本人の作曲をもっていきたい。放送協会としては、どこまでも邦人作品を中心にしてプログラムを組む。この方針は、吉田が音楽部の仕事を引き継ぐ以前から決まっていたが、この方針を拡大強化していきたい。この決戦下では、放送音楽の使命は生活に潤いをつけ、慰安娯楽の使命を充分に果たすこと。放送協会としては、そういう要素をもった邦人作品を望んでおり、作曲委嘱費として莫大な予算が計上してあると説明がなされる。つづいて山根が、 放送事業とすれば必ずしも作曲家育成事業ではないから純粋芸術の作曲をひたむきに行こうとしている作曲家が冷遇され、それも仕方ない場合が出てくる。と同時に、日本の作曲界は放送が大きな刺激であり、門戸を提供する。そうした大局から見た場合の事情があるので、先ほどの放送局の方針につけくわえてうまくやってもらいたいと注文をつけている。吉田は、 私は外国作品だから番組から閉め出すほど狭量ではない。邦人作曲家の書きおろしの作品が聴衆になじまないのは分りきったことだが、放送音楽で発表されたいいものは、日本音楽文化協会の力を借りて生の音楽会にも取り上げてほしい。と同時に、今日では何よりも国民に慰安娯楽を与える要素を盛り込んでほしい、との意見が出されている。
7.唱歌形式と流行歌
野村から、 いまの国民合唱の中樞は唱歌形式だが、それだけではいけないと思うと問題が提起される。
吉田が、 外国の唱歌曲や賛美歌調の流れを汲んだ唱歌形式が正しい歌曲の行き筋だという考え方がある、そして日本の民謡や俚謡から生まれた流行歌は下品あるいは退廃的だという。流行歌に日本の音楽的血潮が流れていると思うが、その中のいい分子を取り上げて育成して、新しい音楽が生まれるのではないか、と続く。しかし山根は、 現実の問題としては、流行歌からいいものを取り上げようとしても、これまでいろいろの悪い要素がこびりついていたので難しく、一つの反動として唱歌形式でやってみようというような飛躍になってしまうのだ、と指摘する。吉田は反論し、 流行歌に悪いものばかり含まれているとは思わない、逆にひじょうにいい分子がある。たとえば古関の《曉に祈る》、吉本明光の《父よあなたは強かった》、古賀の《そうだその意氣》、東の《荒鷲の歌》など流行歌の作曲家だから生まれたと思う、と意見を陳述している。一方野村は、 旋律なして音楽は成り立たないが、旋律につきまとう情緒が淫蕩的でも享楽的でもいいという時代ではない。たとえば古賀の《酒は涙か》は、今日では出したくても出ないと述べている。吉田 はここでも反論し、 歌詞を抜いた器楽曲として、先入観なしに聴いた場合は、あのくらい日本的な旋律は無いというが、山根 から、 そこまで抽象したら困る、と釘を刺されている。
8.民謡の編曲
あまり好きではない(片山)、連綿と続くメロディを分解してぶつぶつにする(山根)、音階がいくら研究しても駄目(野村。ただし異論もあり)、アクセントの違いもある(平尾貴四男)など、否定的な反応が大勢を占めているが、吉田は日本の民謡を洋楽形式に採り入れる場合、原型のまま採り入れなくてもいい。そうしているうちに何か一つのものができてくる、と意見を述べている。
9.真実なる音楽
記者 から、 さいごに今日の作曲家に望むことは? 慰安娯楽を与える音楽ということはどうか?と問われ、山根は 真実なる音楽という表現をとりたい、軽音楽でも芸術音楽でも、現在のような時局では音楽の社会的効果や士気昂揚ということに触れてきて、そうした面で楽しく、明るく、健全で心を引き立たせるということになるのではないかと発言している。園部は、 従来の芸術作曲家といわれる人たちが、要求されるもの以外作ってはいけないということで縮こまっている傾向がある。もっとおおらかにやってみろというチャンスが与えられていないと述べ、平尾が、 大衆に音楽を与えることが必要なのは無論だが、大東亜民族を文化的に引き上げていくことが一番大事だ。その点をもっと作曲家が自覚して、文化的なものを建設していくとこがなおざりにされていないか。こうしたことと、健全で明朗で、士気を昂揚する音楽が別々であってはならないのだろうが、現実はかなり別の形であらわれている、と問題を指摘し、その後若干の意見交換がなされて座談会は終了した。
【2001年4月14日】

◇武将と音楽/中井良太郎(『音楽公論』 第3巻第10号 1943年10月 p.50-51)
内容:加藤清正のように音楽や舞踊を敵視した武将もいるが、古くは新羅三郎義光、敦盛、上杉謙信、武田信玄、近くは八代大将など、武将や軍人にも音楽を好む人物は多かった。軍楽は士気を鼓舞する。軍陣生活中、郷土民謡を尺八で吹奏したとしても、思慕の念を呼び起こすものではなく、むしろ心を慰め士気を上げることは中井が体験済みだという。/戦時下に現れた多くの国民歌謡は、どれだけ国民の士気を鼓舞したか疑問だ。今日の国民歌謡の歌詞や曲は、日本民族の個性に適しないものが多いと思う。日清・日露戦争の前後から歌い継がれている軍歌や唱歌や徳川時代から伝わる民謡がすたれないのは、日本民族の個性に適しているからだ。懸賞募集した歌などで国民精神を奮い起こそうとするのは、まるで札束で臀を叩いて働かすのと同様の、拝金主義の延長のようなものだ。中井は《海行かば》のような民族信念の溢れる歌詞、雄渾荘重の曲からなる国民歌謡が続いて出ることを望む。とともに、安っぽい調子の、あるいは覇道気分の歌詞や曲からなる国民歌謡が消えうせることを祈るものである。
メモ:筆者は陸軍中将。
【2001年3月18日】
日本歌曲私見加古三枝子(『音楽公論』 第3巻第10号 1943年10月 p.52-53)
内容:さいきん日本歌曲に対する再認識が目立ち、独唱会等においても全曲あるいは半ば以上を日本歌曲とする要求はけっこうなことだ。いままで私たちも、こういう状態を理想としてきたが実現しがたかった。理由の第一は作曲家の問題がある。これは傑作だと思える日本歌曲が、数からすると少ない。第二に演奏家の問題がある。いままで音楽学校では[声楽の]基礎訓練が終わると、きまってドイツ語かイタリア語の歌が与えられ、未だ語学力も充分できていない時に外国語の歌を歌わされるという矛盾を克服しなければならなかった。そういった教育を盲従的に受けて歌手となった場合、日本語の歌が外国語に聞こえるような現象も起きる。日本の演奏家の日本歌曲に対する態度がやや冷淡だったことは、反省しなければならない。第三に作曲家と演奏家が接近できる機関があってよいと思う。
メモ:p.54は加古三枝子の写真。
【2001年3月25日】
木下保独唱会(音楽会評)新井潔(『音楽公論』 第3巻第10号 1943年10月 p.54-55)
内容:演奏日時、会場については記載なし。予定ではドイツ近代歌曲を取り上げるはずだったが、「信時潔の夕」となった。ピアノ伴奏は水谷氏[フルネームの記載はなし]。外国の作曲家でさえ、一夜の全プログラムを一人の作曲家で編むのは難しいのに、日本人ではあまりに至難なのである。/信時潔は、日本人の祖先の声を聞くことに勉め、その精神を歌い上げ、流麗な旋律の中に日本的なものの真実を表現しようとした点、その淳朴さとともに、もっとも国民的な作曲家である。しかしピアニスティックな面白味を欠いた伴奏部の和音の連結や、類型的な旋律の素朴さゆえに、純粋さを漂わせながらもマンネリズムの弊を免れない。/木下には、ともかく納得させようとする熱意と常識や理論等を無視してまでも自分なりに合理化しようとする努力がみられた。これまで藤原義江が、模糊とした発音で巧妙なアタックや魅力的なデックングなどで味付けしていたのに対し、木下は発音の強調や邦楽の唱法の中に新生面を見出そうとした点、独自的なものがあった。/取り上げられた歌曲は《あづまやの、鴉、鹿柴》《占ふと》《北秋の、沙羅、我手の花》《妻に示す》《行々子》《薔薇の花》《久方の》《ばらの木》《君と別れて》《人はいざ、獨樂吟》《茱利花》。これですべてかどうかは、不明。
【2001年3月28日】
映画音楽に就いて宮澤縦一(『音楽公論』 第3巻第10号 1943年10月 p.62-67)
内容:さいきん南方に対する文化工作には音楽映画がすこぶる効果的だと言われ、各社が続々と音楽映画を製作し始めた。だが、音楽映画はもとより、音楽をさほど使用しない一般映画も旧態依然として低調である。映画音楽の貧困については、本年も日本文化中央聯盟の映画の部門賞に音楽だけ該当するものがなかったのをみても明らかである。宮澤は、邦画の映画音楽が見劣りするのは、単なる伴奏音楽的存在としてとらえられ映画のもっとも重要な構成分子の一つであるという根本認識に欠けていることだと考えている。/映画音楽の貧困は、作曲の貧困であり演奏の貧弱であり、また音の取り扱いと録音技術の拙劣を意味する。事実、映画音楽では間に合わせ的な作曲か既成作品の繋ぎ合わせであり、演奏はいい加減の楽隊を使い、録音も簡単にやられているようである。こうした具体例として、宮澤は、ニュース音楽における敵性音楽の使用、劇映画における低調な主題歌、検閲でカットされた前後における不自然な音楽の飛躍、音楽と画面のテンポの不調和などなどを指摘している。/音楽の取り扱いが周到な例として、「舞踏会の手帖」(音楽担当:モーリス・ジョベール)を取り上げて書き、日本映画の音楽も映画の重要な一部門として根本的に見直すよう主張している。
【2001年3月29日】
「御民われ」発表会(読者評論)伊奈正明(『音楽公論』 第3巻第10号 1943年10月 p.68)
内容:1943年8月21日夜、横浜公園音楽堂で行なわれた「『御民われ』發表市民音樂會」について。午後6時40分、開会の挨拶。その後、まず保土ヶ谷国民学校の見事な吹奏楽があり、次いで雨の降る中で四家による《御民われ》の歌の稽古があった。雨が一層強く降る中で、倉田によるチェロの演奏でサンサーンスの《白鳥》、尾高の《夜曲》、グラナドスの《スペイン舞曲第5番》、《宵待草》《海ゆかば》があった。その後、四家も《愛國百人一首》や時局歌を歌った。最後に横濱交響楽団(メンバーは約35人)の演奏があり、《御民われ》を全員合唱したが、大政翼賛会の人たちがこれをみて感激した。この急迫する決戦下において、この演奏会におけるような真の熱意を表明し、一般人に対する指導的演奏会を数多く行なってほしい。
【2001年4月2日】
ビクター吹込の第9「第4楽章」<名盤鑑賞>入井夏夫(『音楽公論』 第3巻第10号 1943年10月 p.69)
内容:ビクター・レコードが出したベートーヴェンの「第九」第4楽章のレコードについて。/まず、ビクターのこの企画のように、「第九」の4楽章だけを分離して独立させることは許されないことだ。しかし、入井は、こうした時局において無理や矛盾を押しても「第九」の崇高性の至高なる一部分を残しておきたいと念願した良心的な思いを買いたいという。レコードを視聴して少なからず頼もしく思ったという。/演奏は、橋本國彦指揮の東京交響楽団、合唱は国立と玉川、独唱は香山(ソプラノ)、木下[テノールの木下保か]、藤井(バリトン)の名が挙がっているが、アルト歌手の名は記載が無い。表現上の不満は残るが、実演で想像していた以上の出来栄えである。特に二面の深深としたおおらかさや冴えて美しい音色は、賞賛に値する。
【2001年4月5日】
夏の鮮満演奏紀行守田貞勝(『音楽公論』 第3巻第10号 1943年10月 p.70-72)
内容:1943年春、満鉄から武蔵野音楽学校の演奏団招聘希望の話があって、決行にいたり、福井団長以下全員無事に帰京した。満洲における演奏会は、安東(文化協会主催)、大連(市役所主催)、奉天、桴、新京、ハルビン、チチハル、牡丹江(奉天から牡丹江は、満鉄主催)で行なわれ、朝鮮における演奏会は、京城(京城日報社主催)、平攘(平攘毎日と毎日新報社の共同主催)、新義州(鴨江日報社主催)、定州(町の全機関による)で行なわれた。演奏団は、武蔵野音楽学校の卒業生40名によって組織され、合唱を中心に、ピアノとヴァイオリンの独奏および男女の独唱と重唱でプログラムを作った。合唱の曲目は、日本の曲として保科正民、市川都志春の曲に民謡を混声に編曲したものをやり、ドイツの曲は民謡にシュトラウスのワルツを2曲並べた。演奏会数は合計23回になるが、くわえて放送4回、慰問演奏を10回やった。1ヵ月で汽車の中の日を除くと、連日少なくとも2回演奏したことになる。朝鮮も満洲も音楽に従事する人たちは少なく、いたるところで大陸で働く希望の人はいないかと言われた。
メモ:著者は武蔵野音楽学校演奏団メンバー。なお、具体的な日程は記載されていない。
【2001年4月8日】
社告:本誌の廃刊について(『音楽公論』 第3巻第10号 1943年10月 p.72)
内容:時局はいよいよ急を告げ音楽雑誌の再整理が必要となり、音楽雑誌協議会において検討の結果、『音楽公論』は今10月号をもって廃刊のやむなきに至った。編集顧問、執筆者各位ならびに愛読者に対しお礼申し上げる、という内容。日付は昭和18(1943)年10月1日、「音楽評論社 岩田重雄」の名で。
【2001年4月9日】

2001年4月14日は、座談会をまとめました。


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