『音楽公論』記事に関するノート

第3巻第7号(1943.7)


◇山本元帥への回想 ― 楽壇人は何を学ぶべきか/登川尚佐(『音楽公論』 第3巻第7号 1943年07月 p.8-11)
内容:1943年4月に戦死を遂げた山本五十六元帥の死が、1943年5月21日、大本営によって発表された。6月5日には国葬の儀が営まれ、多摩の聖地に眠るであろう。1941年12月8日以降、山本は未曾有の戦果をもたらし、戦局は将に決選段階に入り敵の反攻も侮りがたいときに戦死した。英雄と呼ばれる元帥は、ワシントン軍縮会議に始まるヴェルサイユ体制の策謀に当面して対処した現れが、常在戦場を座右の銘とする行動であり、航空部隊硬教育だった。ときに音楽は坦々とした道をたどってきたが、そこにある文化的低調と混迷こそ、例えればヴェルサイユ体制の策謀にほかならない。楽壇人の日々の生活が、皇国のよき臣民たる姿を顕現するものでなければならない。
メモ:著者は情報局第四部芸能課。
【2000年12月18日】
◇戦力増強と音楽<座談会>/中山晋平 牛山充 相島敏夫 野村光一 山根銀二 京極高純 今井二郎(『音楽公論』 第3巻第7号 1943年07月 p.18-34)
内容:1.巡回演奏会の意図 国策である生産力増強に楽壇が奉公するため、日本音楽文化協会では、1942年秋に東北地方に、1943年春に東海道地方に巡回演奏会を開催して産業戦士に音楽を聴かせた。1943年秋には関西・山陰地方を巡る予定だと聞く。そこで、この仕事に参加し指導した人たちから、音楽が産業戦士に感銘と慰安を与え、士気を鼓舞したについて報告してもらい、将来への示唆も貰いたい。こう記者が切り出し、野村光一と相島敏夫が発言する。野村は、本音で言えば、巡回演奏会は私個人の芸術観からきているが、それを日本音楽文化協会の企画と事業という重要な仕事をしているので、反映させただけだという。日本も西洋も、楽壇的活動は従来都市を中心に行なわれるが、音楽の本当の良さは生でなければ伝わらないことを思うと、嘆かわしいことだ。日本音楽文化協会の地位と情報局からの経済的助成を得てオーケストラを全国にもっていくことを事業の一つとした。この時局に際してもっとも士気を昂揚させるのに適した手段でもあった、と述べている。一方、相島は、日本音楽文化協会の理事会で野村の提案があったときは反対した。企画の動機が個人の芸術観によるもので有閑的に思えたし、国民の税金である情報局の補助金で行なわれるわけだから。しかし話を聞いていくうちに、生産力の拡大という国策を考え、聴衆は生産に関わる工員や従業員を対象にしたらどうか、そういうことならば折衷案より賛成できるということになり、朝日新聞社が後援するようになった、と経過を明らかにしている。なお野村は、音楽を鑑賞享受する社会層は、現代にいたって大衆化しているから、ベートーヴェンをもっていっても受け容れられるのだと思うとも述べている。/2.生産力増強の具体例 相島によれば、日立では灯火管制をやっていて、暗い中3万人くらいの人が集まって、3時間、老若男女が立ったまま終りまで聴いていた。しかもその後の生産能率が非常に上がったという。続いて、日立の工場で毎週音楽の指導をしている鈴木章によると、演奏会の翌週は作業能率が30%以上上がったと報告された、と野村発言している。中山晋平から、2回巡回演奏の時は、オーケストラの人たちに工場が軍のものであり、軍需工場であることが敏感に響いて結果が良かった。また、海軍の中佐が行き届いた配慮をしてくれた、と意見が出され、相島は、楽員の旅行中の行動が非常に立派だった。東京交響楽団だったが、ほかのオーケストラにも見習わせる必要もあるといい、東北の時は熱狂のあまり会場が破壊されたことにも触れた。これを受けて、野村は、日立は野外なので良かったが、仙台、青森では損害賠償を払ったことを述べた。中山は、1943年春の東海道巡回のときは損害賠償がなかったと報告した。出演者の問題について、相島は、いつも東京交響楽団に限らずに日本交響楽団のような団体も国家的な仕事に参加すべきと思う。そういう時の放送は東響が代わるなどすれば実現不可能ではない。日響の定期演奏会のやり方などは、ともするとユダヤ的な色彩を帯びることが多いので、是正されるくるだろうと延べ、中山も「同感」と発言している。一方、野村は、さいきん移動演劇聯盟のある班の巡回公演を見て、演劇界の一部では時局に非常に目覚めて努力していることに感激し、楽壇ではそこまで徹底できていないことを、歎いている。相島も大政翼賛会で全国皆唱運動をやっても楽壇人の時局に対する認識が低く、宿は一流を望んだりする。第1回の巡回演奏の時は指揮者とわれわれは二等車だったが反省して、今度は皆三等を使った。何の不足もなかったと意見を言うなどしている。演奏会のありかたについて、京極が、会場は現地の工場に突っ込んでいかないといけないのではないかと疑義を呈し、それに対し野村が、もっともだが、情報局の宣伝啓蒙は全国的、全国民的だから、産業戦士に重点を置くのは良いとしても、一般の市民も入れたいということになると弁明している。/3.関西楽壇の活動 今井二郎が、大阪は日響が聴かれるが、兵庫県、奈良県などはそれができない。[奈良の]瓜生警察部長もぜひそうした機会を与えたい、せめて東京交響楽団でも与えられたら幸せだと思う。従来は、大阪で日響が4日間(同じ曲目を2日間)やっても満員だった。大阪は音楽に対して熾烈な要求が多く、大阪で新しい企画として、工場を回って職場慰問巡回演奏を昨年10回以上やった。出演は、大阪支部所属の音楽家で、ごく小編成のもの。休憩時間の約25分を演奏に当てた。また、市民厚生音楽運動もやり、周囲の都市に行った。市役所と共同で小学校を利用した。工場でも、昼休みにハーモニカ、声楽、それと歌唱指導ということでやり、いくぶん国民皆唱運動の企画も織り込んだわけだが、いい結果だった。それで本年度は関西にオーケストラを与えたい、と訴えている。/4.演奏曲目について 記者から、山田耕筰が「音楽文化新聞」で[ベートーヴェンの]「第五」を全部やると、みんなが退屈するというようなことを書いていた、と感想を求められる。京極は、みんなの喜ぶものと、少しレベルの高いものを与えたい。ベートーヴェンの「第五」は長いと思うと意見を言う。これに対し野村は、時と場合によって曲目に変化をつけるのは、とてもいいことだと思う。ただ、初めてオーケストラを聴く人たちに、これだけの芸術の表現能力を持っていることを知らしめなくてはいけないわけで、オーケストラの能力を最上に発揮するという曲目は、ベートーヴェンの「第五」というようになってしまうと述べる。牛山充は、オーケストラのような大編成のものだけでなく、中編成、小編成のものも用意すると辺鄙なところまで行けて良いと指摘する。/5.移動音楽報国隊 先の牛山の発言を受けて、野村が、既に日本音楽文化協会の新規事業として考えていて、小規模の演奏団体を全国に派遣する計画を立てている。これを移動音楽報国隊という。一班は、歌手を中心として、それにアコーディオンのような楽器をつけて、恐らく5人になる。年に数百回の演奏するつもりだ。情報局からは、巡回演奏と移動音楽報国隊の両方をやるように助成金を貰う。移動音楽報国隊ができたら、産業関係は産報と提携し、国民皆唱運動ならば大政翼賛会と提携し、農産漁村なら農産漁村會を通じて各方面に使ってもらう。そして既成の音楽家ではなく新人を使うことになると思う、と構想を述べている。これが実現した場合の話として、牛山が、女性出演者の服装については研究を要すると指摘。さらに1943年春の巡回演奏会について、朝日新聞社の野呂、日本音楽文化協会の工藤がよくやってくれたと誉めている。
 
2001年1月16日
◇巡回演奏会反響 葉書回答(『音楽公論』 第3巻第7号 1943年07月 p.35)
内容:@吉川傳(○○海軍工廠)の回答 巡回演奏会は芸術的に優れたものより誰でも知っている歌曲を最上の手段で聴かせるのがもっとも効果的である。この度の演奏曲目を見ても、日本音楽文化協会の意図が、音楽を楽しませようとする運動であるとわかる。当廠の従業員が一般工員に比べ音楽的鑑賞眼が低いとは思わない。東京交響楽団の演奏に飛びついていき、会場外にも2,000人も溢れていた。健全な慰安は作業能率に好結果をもたらすことが認められているが、演奏翌日の兵器生産に有形無形のかたちで能率的だったと言えると思う。 A後藤長(○○○航空機)の回答 会場は弊所より遠く、同時に当夜防空演習中であったにも拘らず、満員の盛況で名曲を聴き、連日の疲労を癒した。こうした機会は少ないだけに感銘は大きく、職場の明朗化、士気の昂揚の効果を得た。今後、機会が多いことを希望する。B佐藤芳雄(日本楽器)の回答 一日中、ハンマーと機械の響きの中で仕事をしているので、休憩のとき静かな音楽でも聴けば、どれだけ気持ちが休まるか? 1943年3月、日本音楽文化協会主催の巡回演奏会が日本楽器で開催されると確定したとき、付近の工場の諸君とともに喜んだ。このような大規模の演奏は珍しく感銘を受けた。今後、少なくとも月一回くらいは定期的にこのような立派な演奏を聴きたい。私ども産業戦士は、ジャズや低俗な流行歌などを嫌悪し豪壮な演奏を渇望している。もっと音楽を楽しむ力や聞く知識をもてば、作業の能率も増進すると信じる。
【2000年12月19日】
二つの独唱会(音楽会評)/加波潔(『音楽公論』 第3巻第7号 1943年07月 p.48-50)
ヘッセルト独唱会
内容:1943年5月26日、日本青年館で。演奏曲目はシューベルト《冬の旅》。ピアノ伴奏はフヘルマー[フェルマーか?]。全曲演奏のようだが「曲の細部に対する用意の不足が認められ、不愉快な印象さえ残した。前半は比較的感動させる歌唱もあったが、後半になるとほとんどの曲が本人の感情と遊離していった。
進藤梅子独唱会
内容:1943年6月10日、日本青年館で。ピアノ伴奏は富永瑠璃子。演奏曲目はシューマン《詩人の恋》[加波が聴いたのは、最後の3曲のみ]、グルック《オルフェオとエウリディーチェ》より、ブラームス<乙女は語りき>(《5つのリート op.107》第3曲)、ブルッフ《オデュッセウス》、ブラームス<我がまどろみはいよいよ軽く>(《低音のための5つのリート op.105》より第2曲)。この人の発声は確実なポイントを突き当てて共鳴を得たものではないので、声が吼え気味となる。今後の冷静で反省的な修練を望みたい。
【2000年12月21日】
◇二つの提琴独奏会(音楽会評)/志和朗(『音楽公論』 第3巻第7号 1943年07月 p.50-52)
辻久子独奏会
内容:本文には「辻久子独唱会」とある。1943年5月24日、日比谷公会堂で、東京交響楽団(ローゼンシュトック指揮)出演。演奏曲目はシューベルト《未完成交響曲》[志和は、この曲を聴かなかったという]、パガニーニ《ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調 op.6》、ラロ《スペイン交響曲》。パガニーニは理由はわからないがピアノ伴奏だった(伴奏者不明)。終始はらはらさせらる名演だったが、奏者にしても、ああ不本意に音が外れては愉快ではないだろう。ラロはオーケストラ伴奏。曲が進むにつれて退屈してきた。恐らく技術で見せかけの感動を表現するからだろう。体力に頼りすぎず、肘からかけるヴィブラートを矯正する(1、2年は演奏会を休まなければならないだろう)などして本当の技術で演奏するようになったら、一流になるであろう。
鳩山寛独奏会
内容:1943年6月4日、日比谷公会堂。演奏曲目はベートーヴェン《ヴァイオリン・ソナタ ト長調》[第8番か第10番かは不明]、モーツァルト《ヴァイオリン協奏曲二長調》[第2番か第4番かは不明]、ウィニャフスキ《華麗なるポロネーズ》、ほか。音程もよく技術にもまとまりがあるが、音量が足りず、食い足りない感が残り、どの作曲家を聴いても同じに聴こえる。また、あがるので損をしている。
メモ:伴奏者、より詳しい演奏曲目は、本号のp.62を参照。
【2000年12月23日、メモは2001年1月5日】
◇原智恵子と五つの奏鳴曲(音楽会評)/広瀬正和(『音楽公論』 第3巻第7号 1943年07月 p.53-55)
内容:1943年5月22日午後、帝国劇場で。演奏曲目はラヴェル《ソナチネ》、ショパン《ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調 op.35》、シューマン《ピアノ・ソナタ第2番ト短調 op.22》、モーツァルト《ピアノ・ソナタ第11番イ長調 K.331 <トルコ行進曲付き>》、ベートーヴェン《ピアノ・ソナタ第23番へ短調 op.57 <熱情>》。ラヴェルは柔軟なタッチと危なげない技巧で楽しめた。ショパンは熱演で、低音部が荒々しく、しかも明確さを欠くなどの欠点を補って余りある迫力をもった、輝かしい演奏だった。シューマンは曲がつまらない。モーツァルトは、ロココ風の類型的な演奏に陥ったきらいがないでもない。ベートーヴェンは熱演にもかかわらず、一本調子で性急なテンポがのみが耳に残った。原智恵子の情熱は比類がない。これをさらに純化し、高めてゆくことを期待したい。
【2000年12月26日】
◇音楽と相撲と歌舞伎/草間加寿子(『音楽公論』 第3巻第7号 1943年07月 p.56-57)
内容:滞欧中は両親にそこかしこに連れていかれた。努めて各地の特色あるものを見たり、美術館、古刹史跡、風俗習慣、民謡俚歌などにも注意を払い、各国の音楽とその特長を理解するうえに非常に役立ったと思う。帰国して、日本特有のものを見るように努めたが、なかでも歌舞伎と相撲に興味を感じた。歌舞伎の羽三左門の芸風、音羽屋の舞踏、文楽の語り物と三味線の妙技など、その芸に対する真摯な努力や態度には打たれる。相撲は、あの強壮な体躯と敢闘精神、精神力の統一と真剣さに日本的で精神的なものを見た。音楽に携わるものも、この精神がないと人々の心を打つ音楽は奏でられるものではない。音楽するものの心がけは遊び事であってはならないので、力士の立ち上がりと同様の覚悟をもってする全生命を打ち込んだ心の叫び出なければならないと思われる。
メモ:p.57に写真。
【2000年12月29日】
◇唐端君を惜しむ/松本太郎(『音楽公論』 第3巻第7号 1943年07月 p.58-59)
内容:死亡日時と死亡原因については記述がない。39歳で没したとあるが、満年齢か否かはわからない。/唐端の経歴は、1930(昭和5)年4月[ママ]慶應義塾大学独文科を卒業、同年6月から『月刊楽譜』の編集主任となる。以来、1941年同誌が『音楽之友』に吸収されるまで(大脇禮ニの編集主任時代の1、2年を除いて)引き続いて同誌の編集に専念してきた。『音楽年鑑』の編集が共益商社から日本音楽文化協会へ委譲されたとき、唐端が編集者に推された。時代の要求にあった形式と内容をもつ音楽年鑑をまとめつつあったにもかかわらず、世を去ったのは誠に残念だ。/唐端は鎌倉在住者で、書斎には皇室中心主義や尊皇、臣道を説いた著書を多く見出した。また歴史と古典を通しての「日本への復帰」に対する志向を抱き、すでにその研究の基礎は完成されていた。
メモ:ここでいう唐端とは、唐端勝のことと思われる。
【2001年1月2日】
◇鳩山寛独奏会(読者評論)/三木田順清雄(『音楽公論』 第3巻第7号 1943年07月 p.62)
内容:1943年6月4日、鳩山寛連続独奏会第一夜。ピアノ伴奏は高木東六。なお会場の記載はない。演奏曲目はベートーヴェン《ヴァイオリン・ソナタ 第8番ト長調 op.30-3》]、モーツァルト《ヴァイオリン協奏曲二長調》[第2番か第4番かは不明]、ヴィタリ《シャコンヌ》、リムスキー=コルサコフ《太陽への讃歌》、リムスキー=コルサコフ《インドの歌》、アルベニス《マラゲーニャ》、ウィニャフスキ《ポロネーズ》。ベートーヴェンとモーツァルトは、楽曲を解剖しすぎて大きな流れとすることに失敗した。それ以降の小品、とりわけ《シャコンヌ》と《ポロネーズ》は非常な成功だった。
メモ:会場は本号のp.50-52の中の鳩山寛独奏会の項を参照のこと。
【2001年1月5日】
◇三浦環独唱会(読者評論)/與澤庄三郎(『音楽公論』 第3巻第7号 1943年07月 p.63, 62)
内容:日時、会場については記載なし。ピアノ伴奏は原智惠子。独唱会は山本五十六の戦死を受けて、三浦の『君が代』独唱から始められた。その後、三浦は初めてドイツ曲ばかりを並べて歌った。ピアノの原にもアンコールを分け、モーツァルトのピアノ・ソナタ イ長調を弾かせたりもした。また、三浦はステージから聴衆に、ドイツ歌曲は2000回も歌っていないのでまだまだ不味いだろうが、これからも勉強していくといった旨を述べた。最後に、来場していたドイツ大使およびドイツ水兵に対し、満場起立のうえドイツ国家を独唱してコンサートを結んだ。
【2001年1月11日】
◇戦艦獻納寄附金募集/社団法人 日本音楽文化協会(『音楽公論』 第3巻第7号 1943年07月 p.72)
内容:敵米英は反撃の態勢を強化しつつある。1艦の犠牲に対しては10艦の建造をもって応えることが急務である。これまでに日本音楽文化協会は「戦艦獻納大演奏會」を企画し、成功した。しかし全楽壇は、この秋、一丸となってこの運動に起ち上がるべきである。この趣旨の下に日本音楽文化協会は、戦艦獻納寄附金募集を開始する。協力を切望する。/募集要項: 1.寄附金は一口金1円とする 2.納付先は京橋区銀座西8−8新田ビル日本音楽文化協会「戦艦獻納寄附金募集係」宛 3.寄託者氏名は「音楽文化新聞」ほか音楽雑誌に掲載する。/受託済: 1.戦艦獻納大演奏會純益(金5024円86銭) 2.音楽雑誌協議会(金1000円) 3.田中伸枝(金200円)[聲伸會音楽純益より] 合計 金6224円86銭。
【2001年1月13日】


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