『音楽公論』記事に関するノート

第3巻第6号(1943.6)


音楽と批評に関する随想土田貞夫『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.18-23)
内容:音楽は天才が創り出すものだ。土田がいう天才とは、一つしかない究極の心理を形象(かたち)に表わすことのできる人である。作曲に限らず、芸術における技術とは、本質相なものを具体的な一つの形象にすることを意味する。/音楽の批評家とは、作曲家が音で表わす本質を、音楽に関する言葉によって表現する一種の創作家である。ある方面に音楽批評家は総力戦の立場から見て一向に何もしていないようだという声があるが、「厚生音楽運動」をいち早く方向づけたのは音楽批評家である。/芸術報国会の席上での菊池寛の発言は、明らかに失言だ。国事に奔走することによって質的な低下をもたらすような芸術作品ならば、無い方が良い。帝大の全学生が自ら歌い、合奏する楽しい音楽会をやり始めたことは、大いによろしい。/
【2000年11月19日】
軍艦行進曲記念碑竣工祭『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.23)
内容:戦果が発表される都度、その前奏曲として使われる《軍艦行進曲》を永く後代に伝えようと、1942年に「軍艦行進曲記念碑建設会」が楽壇各方面の総意で設立された(名誉会長=高橋三吉海軍大将、会長=武富邦茂海軍少将)。建設場所は日比谷公園旧音楽堂のかたわらに宮城に面して建設することに決定、1942年秋に鍬入式が挙行された。ほとんど竣工したので、1943年5月27日の海軍記念日に同行事の一つの催しとして、この記念碑の竣工祭を催すこととなった。
メモ:この記念碑は既にない。戦後、占領軍によって撤去され、その後どうなったかわからないという。この話は、1991年8月15日、たまたま日比谷公園近くを通りかかった小関がこの件を思い出し、旧日比谷公園管理事務所(だったと思う)で尋ねたところ、当時を知っている方から教えていただいた。残念ながら、お名前は聞きそびれた。
【2000年11月21日】
満洲の民俗音楽(写真説明)村松道彌『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.42-45)
内容:1942年に満洲藝文聯盟が「建国十周年慶祝藝文祭」を主催し、伝統的な芸文を文章や写真、映画、絵画、レコード、楽譜に記録して国内外に知らしめると同時に、永久に保有しようとした。15の民族が23の種目をもって、新京で慶祝絵巻を繰り広げた。そのとき写した写真から8枚を紹介(写真はp.44上段から下段へ4枚、p.45上段から下段へ4枚の順)。/(1)ゴルヂ歌舞伎:松花江下流、黒龍江、烏蘇黒河畔の湿原にいる民族のシャマン教[ママ]歌舞伎。(2)コサック民謡:三河地方で純農牧生活をしているコサック農民が、コサック合唱団の伴奏で踊っているところ。(3)朝鮮農樂:間島省の山奥の明月溝開拓部落の人々による、朝鮮の農民舞踊。(4)満洲雅楽:吉林雅楽社の演奏で、古く清朝の宮廷で演奏されていた雅楽曲を今日まで保持している。(5)オロチョン族歌舞:興安嶺の奥深くで生活するオロチョン族が鹿笛(オレーオン)を吹いているところ。(6)トルコ・タタール民族:ロシア革命後、満洲にきた回教民族で、写真は軽快なサガタットを踊っているところ。(7)華古民族[ママ]:蒙古民謡は広大気宇と素朴豪壮が人の心を揺さぶる。日本の東北地方の追分とほとんど同じ旋律もある。(8)ダホール族歌舞:興安嶺の東西に農牧生活を営む民族の歌舞。/他の民族も出演しているが、詳細な報告はない。村松は「各民族は日本画指導者民族としてその中核をなし、民族協和の獨立國が建設され、各々その所を得て樂土満洲建設にいそしんでいる現状である」と結んでいる。
【2000年11月23日】
日響のアルト・ラプソディ(音楽会評)加波潔『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.46-47)
内容:1943年4月21日、22日(於・日比谷公会堂)。演奏曲目は、伊福部昭《土俗的三連画》、ブラームス《アルト・ラプソディ》(独唱:千葉静子、合唱:成城合唱団)、その他にも演奏された曲があると思われるが記載されていない。指揮はローゼンシュトック[ロ氏と書いてあるので]。伊福部の作品は好意的に評価されている。ブラームスでは、まず過去の日本の演奏をひきあいに出している。1938(昭和13)年、リア・フォン・ヘッセルトが東京音楽学校に着任早々の披露演奏会で、同校の管弦楽団と合唱団、フェルマーの指揮で歌った演奏と、1942年の放送で、四家文子が歌った演奏。前者は、いくぶん印象に残ったが、後者は失望したと述べ、この作品は日本ではいい演奏が聴けなかったとまとめている。そのうえで、今回の独唱の千葉について、官能的にばかり効果をねらう向きが感じられると評している。ローゼンシュトックのテンポ、成城合唱団についても問題が指摘されている。
【2000年11月26日】
◇草間加寿子独奏会(音楽会評)寺西春雄『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.47-49)
内容:1943年4月27日、リサイタル。取り上げた作曲家は、ドビュッシーとフォーレ(独自の味を示していた)、イベールとシャブリエ(草間としては不充分)、それとブラームス。ブラームスの《ヘンデルの主題による変奏曲》は、過去にみられなかった解釈上のぎこちなさが認められたが、これはブラームスの世界に歩み寄り、さらにより日本的な力強い自己の世界を築こうとする努力が認められる点で成長を示している。/ドビュッシー、フォーレ、イベール、シャブリエについては具体的な作品名が記載されていない。
メモ:演奏曲目については、この号のp.74-75の記事に全曲の記載がある。また、この号のp.77-78も参照。
【2000年11月30日、メモ欄は2000年12月14日】
三つの歌劇公演(音楽会評)久保田公平『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.49-54)
国民歌劇「大伴家持」
内容:1943年3月28日、歌舞伎座。この歌劇は希音家子交という日本音楽の師匠が、膨大なスタッフを動員して行なった新しい試みだった。文学報国会や毎日新聞を推薦、後援にかつぎだし、愛国歌人大伴家持とその「海ゆかば」を主題に、里見クと舟橋聖一の脚本を得たが、今日の日本の生活に立脚したものではなく、花柳界に映じた時代意識であって、国民歌劇と言われたことに矛盾が感じられた。渡邊浦人の作曲は無気力、日本合唱団と花柳濤美などは言語道断。これは歌劇ではなく、希音家子交の独唱と洋楽伴奏を含む中間的新劇である。汐見洋、永田靖、伊藤智子など新劇界のベテランが、このだらだらした舞台をいくらかでも救っていた。[本号のp.55-57も参照。]
藤原歌劇団「ボエーム」
内容:1943年4月3日〜5日、東京劇場で藤原歌劇団臨時公演が行なわれた(マチネーを含めて5公演)。日本では、いつでも出せるオペラのレパートリーを持っていないので、今回の「ボエーム」が練習不足であり、そのためのカットも行なわれていたこと、装置その他もこの歌劇団としては弱かったことなど、臨時公演となった所以であろう。/出演者:藤原義江(ルドルフ)、留田武(マルセル)、日比野秀吉(コリン)、林鶴年(ショーナル)、村尾護郎(家主、富豪)、大谷冽子・三上孝子(ミミ、ダブルキャスト)、高柳二葉・杉浦眞美子(ムゼッタ、ダブルキャスト)、大東亜交響楽団、グルリット指揮
帝劇歌劇「雪姫」
内容:1943年5月5日〜16日、帝劇でリムスキー・コルサコフの「雪姫(スニゲローチカ)」を上演した。これは、白井鐵造による第1回帝劇歌劇として行なわれたもの。この劇場はボックスが小さく楽師が20人くらいしか入らず、客席も少ない。/今回は葦原邦子に人気を当てにし、原曲を少女歌劇的なものにしていて、いただけない。プリングスハイムの不器用な編曲と20人くらいの小管弦楽によって、色彩にとんだリムスキー・コルサコフの音楽が変質させられてしまった。出演者は、葦原邦子、石井龜次郎、楠木繁夫、永田絃次郎、佐藤美子、辻輝子、下八川圭祐らだが、マイクを使わなければならぬようではどうにもならない。合唱もだめで、装置も安手で、おそまつな舞踊が乱発された。散漫なカットによる、台本と演出では、白井鐵造は歌劇演出家ではなく、レビュー演出家というほかない。
【2000年12月2日】
希音家子交の「大伴家持」(音楽会評)河田清史『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.54-55)
内容:長唄は日本の歌曲であるが、それをもって日本の歌劇が作れる筈であるとの信念が、希音家子交にはあったにちがいない。「大伴家持」を上演したことは何よりも勇気の仕事だった。この作品は、厳密に言えばオペラともオペレッタともいえず、まして芝居でもない。これを国民歌劇だというなら、誰も納得しないだろう。原作者=里見ク、舟橋聖一、作曲者=渡邊浦人、演出者=青山杉作、独唱者=希音家子交。これら各専門で熟達した人たちが集まっても、歌劇として一つのスタイルをもつことさえてこずる。今が一番困難な時期だ。必要なのは才能より勇気である。/上演月日、指揮者およびオーケストラ、会場などについての記載は、この記事には無い。本号のp.47-49も参照。
【2000年12月3日】
二つの独唱会(音楽会評)久保田公平『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.55-57)
高柳二葉独唱会
内容:
1943年3月21日、青年館で第2回独唱会が開催された。共演は内田栄一指揮の日本合唱団と、藤田晴子のピアノ伴奏。歌ったのは日・独・伊・西の藝術民謡だというが、具体的な曲目は記されていない。高柳の歌唱には、真面目な勉強と知的な表現への努力が感じられるが、スペインの情熱やドイツの朴訥、イタリアの明るさといった特質の表現の中に民衆の素朴な心を歌い得れば、聴き手は、これらの歌曲に同感させられるに違いない大もう。
加古三枝子独唱会
内容:1943年5月7日、青年館で第2回独唱会か開催された。取り上げた作曲家は、シューベルト、安部幸明、市川都市春、ブラームス、ヴォルフであった。加古の魅力も知的なものにあるが、その堅さは精神的な焦燥と肉体的な無理に起因している。1年に2回、3回と独唱会を開催するのは、そういう意味で自殺行為になることを心配する。
【2000年12月5日】
ラジオ短評露木次男『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.58-59)
内容:1943年4月13日。ピアノと管弦楽。ピアノ=井口基成、管弦楽=日本交響楽団、指揮=尾高尚忠。演奏曲目は書かれていない。ラジオの受信状態が悪いらしく、「第一樂章は雜音のため全々聽えない。第二樂章から聽えて來たが、何と評してよいか自分には言葉がない」と述べている。4月16日。室内楽。田中富貴子=ヴァイオリン、谷康子=ピアノ。演奏曲目はベートーヴェン《ヴァイオリン・ソナタト長調》[3楽章までの記述しかないところから推測すると、第10番ではなく、第8番か?]。4月19日。室内楽。フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの合奏。演奏曲目は、高田信一編曲で《さくら変奏曲》。ドビュッシー風で編曲・演奏とも巧い。池譲編曲《城ヶ島の雨》、齋藤秀雄編曲《春の海》。これらは編曲するより原曲の方がよいと評している。4月25日。ピアノ独奏。野邊地瓜丸=ピアノ。演奏曲目は、全てショパンで《舟歌》、《ワルツ》[何番か不明]、《ポロネーズ》[何番か不明]。4月28日。諏訪根自子=ヴァイオリン、ベルリン放送交響楽団、指揮者の記載なし。演奏曲目はブルッフ《ヴァイオリン協奏曲》。「公務のため遺憾ながら聽き逃す」とある。4月29日。東京交響楽団、指揮者の記載なし。演奏曲目は《越天楽》と《綾王》。前者の編曲は世界のどこへ出しても恥ずかしくないが、後者は恥ずかしい編曲。[5月]22日。日本交響楽団,指揮者の記載なし。演奏曲目は尾高尚忠《日本組曲》、大木正夫《五つの噺》。6月9日。黒川いさ子=ピアノ。演奏曲目はバッハ《イタリア協奏曲》。日本交響楽団、山田和男指揮で、ベートーヴェン《交響曲第5番》。
【2000年12月7日】
◇東響定期と草間加寿子独奏(読者評論)/五島雄一郎(『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.74-75)
東響第19回定期公演
内容:1943年5月7日。ウィリー・フライ=ヴァイオリン独奏、グルリット指揮、東京交響楽団。演奏曲目は、ワーグナー《ジークフリート牧歌》、ドビュッシー《イベリア》組曲、グラズーノフ《ヴァイオリン協奏曲》。ワーグナーは荒っぽい。グラズーノフは当夜の圧巻で、フライが現代的な見事な演奏を示した。ドビュッシーは、グルリットの解釈が当を得なかった。
草間加壽子の二つの演奏会
内容:@1943年4月27日、ピアノ独奏会。演奏曲目は、モーツァルト《ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調 K.333》、ブラームス《ヘンデルの主題による変奏曲 op.24》、ドビュッシー《ベルがマスク組曲》、フォーレ《即興曲第2番》、同《舟歌第5番》、イベール《可愛い白ロバ》、シャブリエ《ブレー・ファンタスク》。近代フランスの作品は鮮やかな技巧と独特のニュアンスが充分表現されていて、草間の独壇場だった。ドイツものは、些か場違いの感もあったが、並々ならぬ苦心を払っていることは認められた。A1943年5月5日・6日、日響第9回定期公演におけるダンディの《フランス山人の歌調 による交響曲》(山田和男=指揮)の演奏。草間は、妥当な解釈の下に、演奏もよく技巧的にも申し分なかったが、日響がせっかくのピアノの音を消してしまった。今後は、リサイタルにおいても、邦人作品を演奏して欲しい(すでにレコーディングは吹き込まれている)。
メモ:@のリサイタルについては、この号のp.47-49、およびこの号のp.77-78も参照。
【2000年12月8日、メモ欄は2000年12月14日】
二人の提琴家(読者評論)雪谷勝彦『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.75-76)
内容:@1943年4月9日、10日。日本交響楽団定期公演における巌本真理のヴァイオリン演奏(尾高[尚忠]=指揮)。演奏曲目はメンデルスゾーンの《ヴァイオリン協奏曲ホ短調》。今までこれだけ立派な演奏を聴いたことがないと評されている。A1943年4月29日放送、渡邊暁雄。演奏曲目は《春の海》、草川信《取入頃》、シベリウス《田園舞曲》。放送によっても優れたボーイングが偲ばれ、上品な奏法である。だが、その上に何か望みたい。
【2000年12月11日】
黒田睦子独奏(読者評論)元塚良馬『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.76-77)
内容:1943年4月23日、東響ベートーヴェン・チクルス。演奏曲目は、すべてベートーヴェンで《フィデリオ序曲》《ピアノ協奏曲第3番》(黒田睦子=ピアノ独奏)《交響曲第7番》、グルリット=指揮。前日の4月22日、日本交響楽団がベートーヴェンの《交響曲第7番》を演奏したためか、東京交響楽団の演奏会は不入りだった。日本交響楽団が弦楽器セクションから黒柳や日本絃楽四重奏団のメンバーを失って、その弦のレベル低下を言われる今日、東響の弦こそ、もっとも期待されるべきものだったが、貧弱な音だった。/独奏者の黒田は、音がにごる欠点が認められた。テクニックも、同じ中堅の藤田、松隈の方が上だと思うが、黒田にはダイナミックな演奏があり、特に強靭な左手首を活かした演奏は前ニ者には見られないものである。協奏曲の演奏は、堂々たる印象を与えた。当夜の山であったことに間違いない。
【2000年12月13日】
◇草間加寿子独奏会(読者評論)木田西男『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.77-78)
内容:1943年4月27日、ピアノ独奏会。演奏曲目は、モーツァルト《ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調 K.333》、ブラームス《ヘンデルの主題による変奏曲 op.24》、ドビュッシー《ベルがマスク組曲》、フォーレ2曲、イベール、シャブリエ各1曲。/モーツァルトは上手く、優秀な演奏。ブラームスは草間の特質に適合しない曲だった。ドビュッシーは感銘深くはなかった。フォーレ、イベール、シャブリエ(殊に後二者)は、鮮やかで上手かった。しかし木田には、イベールやシャブリエの曲は、芸術が持つ人の心を高めるものが感じられないから、なくてもよい音楽のように思えるという。
メモ:演奏曲目については、この号のp.74-75の記事に全曲の記載がある。また、この号のp,47-49も参照。
【2000年12月14日】
改名『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.81)
内容:@ビクター → 日本音響株式會社と改名。Aコロムビア → 日蓄工業株式會社と改名。B大日本講談社発売のキング・タイヘイレコード → 富士音盤と改名。
メモ:いつ、改名したかは記述が無い。
【2000年12月16日】
◇社告 楽壇挙って建艦愛国運動へ!!音楽雑誌協議会『音楽公論』 第3巻第6号 1943年06月 p.82)
内容:芸術界全般にわたって建艦愛国運動が熾烈に展開されている。この運動は、芸術家各自がそれぞれの技能をもって得た金を建艦費用として奉献するものであり、すでに演奏会・展覧会などの催しが各方面に行なわれている。社団法人日本音楽文化協会では、楽壇人からの献金を取りまとめて、その筋へ手続きを取ることになっている。音楽雑誌協議会においても、この趣旨に基づき金1,000円を日本音楽文化協会に寄託した。
メモ:音楽雑誌協議会メンバーは、「音楽教育」「音楽公論」「音楽之友」「音楽文化新聞」「国民の音楽」「吹奏楽」「レコード文化」(p.90の記述による)。
【2000年12月16日】


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