『音楽公論』記事に関するノート

第3巻第5号(1943.5)


秋吉元作作品集 詩と音楽の夕『音楽公論』 第3巻第5号 1943年05月 p.33)
内容:1943年5月10日(月)、産業組合中央会館で秋吉元作歌曲作品発表会が開催される。曲目は、《亡き子に》《小曲集》《閨秀抒情詩集》《芭蕉紀行集》《現代詩集第一輯》《現代詩集第ニ輯》《現代詩集第三輯》《逝ける人に》《啄木短歌集》。出演者は、森春子、留田武、千葉静子、藤田晴子。
【2000年11月2日】
音楽文化協会移転『音楽公論』 第3巻第5号 1943年05月 p.33)
内容:日本音楽文化協会事務局は、<京橋區銀座西8−8 新田ビル(4階) 電話 銀座4803番>に移転した(ただし、移転日時は不明)。
【2000年11月2日】
“第九”の演奏者加田潔『音楽公論』 第3巻第5号 1943年05月 p.46-51)
内容:1943年3月5日、日比谷公会堂で行なわれた東京交響楽団のベートーヴェン連続公演に、武蔵野音楽学校の合唱団が出演して《第九》を歌った。これで、現在日本で《第九》に動員し得る大方の団体が陽の目を見たことになる。武蔵野にとって、《第九》は初演であると記憶するが、現在われわれが関心を寄せる《第九》演奏の諸団体や、独唱者、指揮者等を回顧してみる。/1943年3月5日の演奏。指揮者はグルリットで、散漫な振り方をして粗雑である。フィナーレのドラマティックな迫力へと持っていく、大局的な処理法は感激させられた。武蔵野の合唱は成功だった。独唱者についていうと、藤井典明(バリトン)は緊張したせいか泰然とした風格に欠けた。その点、薗田誠一[テノール]は健全で信頼できる。三宅春惠(ソプラノ)、千葉静子(アルト)は取り立てていうことはない。/[《第九》の日本初演について記録によれば、1924(大正13)年11月29日、30日、上野の東京音楽学校奏楽堂で東京音楽学校第48回演奏会で《第九》の初演が行なわれた。指揮者はグスタフ・クローン。独唱者は、長坂好子、曾我部静子(現在の齋多静子)、澤崎定之、(故)船橋栄吉。合唱は東京音楽学校生徒および研究科生、管弦楽は東京音楽学校生徒職員、先輩および海軍軍楽隊委託生。/指揮者。初演よりあと、《第九》の指揮者としてはプリングスハイム、近衛秀麿、山田耕筰、山本直忠、メッテルらがいた。現在は、ローゼンシュトック、グルリット、フェルマー、山田和男が挙げられる。ローゼンシュトックは《第九》の場合、誰よりも権威的な存在で、殊に終楽章における変化の表現は独壇場である。フェルマーは1941年10月11、12日、奏楽堂で東京音楽学校を率いて演奏した。 妥協を許さない真摯な態度とひたむきな若さが良い。山田和男は1942年12月26、27日(だったと思う、と書いてある)、日響臨時公演で演奏。ローゼンシュトックの棒をそっくりそのまま受け継いだ。/管弦楽団東京音楽学校の管弦楽団は、海軍委託生の臨時出演から離脱して完全に独立して、まだ十年程と記憶する。1941年10月、すべて自分たちで奏楽堂で演奏した。日本交響楽団(旧・新交響楽団)は1927(昭和2)年に初めて《第九》を演奏した。近年、年中行事となり大晦日のラジオを通して全国民に豊かな情緒を与えてきた。回数を重ねて、マンネリズムの傾向をみせている。東京交響楽団は今度初めて聴いたが《第九》鑑賞に一つの有力な団体を加えることができた。ただ、練習の不備を暗示させるものがある。/独唱者・バリトン(故)船橋栄吉、矢田部勁吉。放送組では横田孝、(故)徳山l、藤堂顯一郎、増永丈夫(藤山一郎)ら。矢田部は声の技巧その他過去の存在になりかけている。伊藤武雄が安心して聴けるが、1941年に登場した中山悌一は堂々とした風格をもつ。今回の藤井典明も着実だ。/テノール澤崎定之のあと、もっとも活躍し反響を呼んだのは木下保である。放送組では明本京静、木川靖、奥田良三、永田絃次郎ら。今回の薗田誠一も興味がもてる。/アルト曾我部静子が初演し、その後新響では柳兼子が継ぎ、その後を四家文子が次いで地歩を固めた感がある。放送組では澤智子、熊澤?莵子、加藤智惠、西川静、竹本光江ら。千葉静子もいる。/ソプラノ。初演時は長坂好子。新響とは武岡鶴代が活躍したらしいが過去の話だ。放送組で田中路子、長門美保、永井八重子、マリアトル関種子も活躍したが、年齢のせいか最近は出てこない。三宅春惠、山内秀子が以後背負っていくだろう。/合唱団東京音楽学校が歴史と伝統があり良い。国立音楽学校 [本文にはこう書かれているが、当時は「東京高等音楽学院」が正式名称だった・・・小関注]は新響の専属同様に永年活躍してきたので《第九》にかけては老練だが、各パートのバランスに難がある。玉川学園、成城学園も国立音楽学校とともに新響と演奏してきたが、素人だけに粗雑な演奏になる。ただし素人にこれだけの団体を持っていることは頼もしい。今回の武蔵野は老練な団体を押しのけ実力を示した。
【2000年11月5日】
日響・富永・日本四重奏団(音楽会評)寺西春雄『音楽公論』 第3巻第5号 1943年05月 p.53-55)
日本絃楽四重奏団
内容:
フィルハーモニー・クヮルテットから松本絃楽四重奏団へと改称し、室内楽研究に先進するために日本交響楽団を退団して、日本絃楽四重奏団と名称を改めた弦楽四重奏団の第3回演奏会が、1943年3月19日に行なわれた。この四重奏団がもつ内面的な結合と楽曲の掘り下げ方は刮目すべき深さを有している。演奏曲目は、ベートーヴェン《弦楽四重奏曲第11番ヘ長調 作品95》、ハイドン《弦楽四重奏曲第39番ハ長調 作品33-3 <鳥>》、ブラームス《クラリネット五重奏曲ロ短調 作品115》(クラリネット独奏:辻井富逍)。
日本交響楽団第7回定期演奏会
内容:1943年4月9日、10日、日比谷公会堂で。演奏曲目は、ベートーヴェン《交響曲第2番ニ長調 作品36》、諸井三郎《交響的ニ楽章》、メンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲ホ短調 作品64》(ヴァイオリン独奏:巌本真理子[ママ])、ワーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲》、指揮はいずれも尾高尚忠。10日の日響は若々しい力に満ちていた。
富永瑠璃子ピアノ独奏会
内容:1943年4月12日、日本青年館で。モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス(《カプリチオ》)を演奏する。技術的にも精神的にもいま一歩という歯がゆさが感じられる。
【2000年11月7日】
ラジオ短評露木次男『音楽公論』 第3巻第5号 1943年05月 p.56-57)
内容:1943年3月10日。日本放送合唱團により、平井保喜《久米歌》、信時潔《神の軍》。平井の作品が「宝塚歌劇風な短調で終止するのは堪らなく嫌な感じがする」と述べている。3月13日。豊増昇のピアノ独奏で、シューベルトの《モーメント・ミュージカル》。外面的な技巧とともに内面的な詩情にも豊かだという。3月19日。放送音楽会。奥田良三、四家文子は何を歌ったか書かれていない。巌本真理は《チゴイネルワイゼン》を日本交響楽団の伴奏で弾き、「ハイフェッツの弾くのと大差ないようである」と述べている。合唱は団体名も演奏曲目も明記されていない。草間加寿子はドビュッシー《仔犬の舞》、ショパン《雨だれの曲》。原信子と藤原義江はプッチーニ《ラ・ボエーム》の中の二重唱。平岡養一は、ただ驚嘆するばかりだという。3月21日。筝曲と長唄による愛国百人一首。中能島作曲《旅人の》、杵尾佐吉《末の世の》、下總皖一《天の原》、宮城道雄《一方に》、杵屋六左衛門《君が代》。下總の作品は洋楽風な扱いである。杵屋の《君が代》は純然たる長唄の型を踏襲している、という。3月23日。日本絃楽四重奏団による室内楽。演奏曲目はベートーヴェン《弦楽四重奏曲 変ロ長調》[第2楽章が静か、と書かれているところから推測すると第13番ではなく、第6番のことか・・・小関]。3月26日。森正のフルートと東京音楽学校の管弦楽団で、モーツァルト《フルート協奏曲》。指揮者は明記されていない。3月28日。東京室内楽團により、モーツァルト《フルート、チェロ、ピアノのための三重奏曲》ほか。4月4日。平岡養一の木琴と管弦楽でリスト《ハンガリー狂詩曲第2番》。オーケストラと指揮者は不明。
【2000年11月9日】
帝国芸術院賞を頂いて井口基成『音楽公論』 第3巻第5号 1943年05月 p.58-59)
内容:楽壇で初めて帝国芸術院賞を受賞した。日本の音楽界で一番進歩してきたのは演奏で、その中でもピアノが秀でているのではないかと思う。日本楽壇が世界的水準から遅れていたのは、専ら外人に頼っていたためだ。戦争以来、外国からの名人が来なくなり、楽界も外国流の表現と縁を切ってみて、われわれの技術も決して世界的水準に劣るものではないことが判ってきた。ほんとうの日本人の音楽というものは、ベートーヴェンでもショパンでも日本人の魂を通じて表現されたものでなければならない。真の日本音楽創造のために微力を捧げたい。
メモ:p.59は、井口基成の写真。
【2000年11月10日】
東海道巡回演奏感激記牛山充『音楽公論』 第3巻第5号 1943年05月 p.64-67)
内容:巡回公演1日目は浜松の日本楽器工場では、入場者に若干の制限を行なったため、場内は比較的静粛を保った。2日目の工廠では会場に当てられた大食堂に聴衆が収まりきらず、場外に多くの工員が集まった。初めて聴く管弦楽に感動して大きな拍手をしていた。この日の指揮は金子登、独唱と歌唱指導が四家文子、音楽体操が江木理一。ここの工員は、みな20歳前後だと書いてある。[3日目は]名古屋で、山田耕筰によってベートーヴェンの《交響曲第5番》が演奏されたが、これは、多少の音楽会の経験をもつ聴衆にも絶好の機会だったようである。[4日目の]岐阜と[5日目の]四日市の産業戦士の大多数にとって、管弦楽の演奏は初めての経験だが、《美しく青きドナウ》やベートーヴェンの《交響曲第5番》を退屈することなく聴いた。東京交響楽団が完全に任務を遂行し、予期以上の成果を収めた。先発して、会場の準備に最新の用意をした朝日新聞社の野呂氏に感謝する。
メモ:2日目の演奏地、会場名は、この記事では伏せられている。
【2000年11月13日】
池内友次郎氏転居『音楽公論』 第3巻第5号 1943年05月 p.67)
内容:東京府北多摩郡調布町土布田303。電話:武蔵調布276番。
【2000年11月15日】
編集後記『音楽公論』 第3巻第5号 1943年05月 p.80)
内容:1943年4月9日、帝国芸術院賞第2回授賞者として音楽部門から、ピアニスト井口基成の名が発表された。推薦理由は「本邦ピアノ演奏家中其ノ實力抜群ニシテ獨奏、合奏ヲ通ジ多數ノ代表的樂曲ヲ公演シ、其ノ成績優秀ニシテ我ガ樂界ノ進歩ニ資スルコト多大ナリ」というものである。/1943年4月9日、九段の軍人開館で行なわれた「藝術報国大会」(大政翼賛会主催)で、菊池寛は「藝術家の戦争協力」と題して「ピアノを弾き山水を描いて戦争へ協力することは難しい、この決選下ではどんな繪でも描き、どんな音樂を演奏しても、これを金に代へて献金するといふ行為を貴しとする、戦争下にあってはいい作品を作ったといはれるより、作品の価値は悪くてもより多くくに國家に盡したといはれる方が藝術家にとっては名誉だと思ふ」と絶叫した。その精神においては、われわれも賛成する。全音楽家の戦争協力は未だ完全とはいえない。日本音楽文化協会が一層適切な具体策をもって、音楽家を戦争協力に動員することを切望する。なお音楽雑誌協議会では楽壇献金運動の推進力となるべく、今回、戦艦献納のため金壱千圓を日本音楽文化協会を通じて献金することとなった。
【2000年11月15日】


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