『音楽公論』記事に関するノート

第3巻第4号(1943.4)


批評する立場寺西春雄『音楽公論』 第3巻第4号 1943年04月 p.26-30)
内容:批評家はテクニックを身につけているわけではないが、演奏家の技術の動きを見ることができる。実際に批評する立場に回ってみると、科学的、論理的ということばかり気にして、単純で健全な自分の耳を信じなくなり、それで客観的なつもりなのだから、批評は地盤が固まらない。批評は、はっきりとものを見、それを語ることにほかならない。純粋に芸術であることも科学であることもできず、その中間に曖昧にぶらさがっているのが批評である。/評論家は批評という職能を通じて国策に協力しなければならない。それができぬならば、批評家をやめて工場へでも飛び込むほかない。
【2000年10月9日記】
松本絃楽四重奏團改名『音楽公論』 第3巻第4号 1943年04月 p.30)
内容:松本、井上、桑澤、喜安の四氏は日本交響楽団を円満退団し、4人の組織する四重奏団を日本絃楽四重奏團と改名した。
メモ:四氏のフルネームは、この記事からはわかならい。四氏が日響を退団したり、四重奏団を改名した具体的な日時も、わからない。
【2000年10月11日記】
国民音楽の理念<座談会>山根銀二 清水脩 秋吉元作 増沢健美 野村光一『音楽公論』 第3巻第4号 1943年04月 p.36-58)
内容:山根銀二(司会)が、国民の全体が音楽を需要するようになってきたことを踏まえて、音楽を一歩高いところに進めるために考えていきたいと切り出す。清水脩は、産業報国会に入って1年少し。昨年はほとんど、地方の工場関係を回り、歌と吹奏楽が非常に要求されているが、歌える歌や、手軽に演奏できる吹奏楽曲がきわめて少ないと言っている。だからレパートリーの供給と、いい指導者の派遣が地方の強い要求となる。国民生活の中に音楽が少なかった点については、一半の責任が音楽家の側にあったと認め、大衆の音楽的教養を高めなくてはいけない、という旨発言している。野村光一(日本音楽文化協会)は、清水の最後の箇所に対して異論を唱え、戦争が始まらない時代に音楽者が国民に何も音楽を与えていなかったわけではない。。国民大衆への音楽を用意していたのは、過去のレコード会社がやった流行歌だと思う。それは功罪相半ばすると思うが、国民に音楽を認識させ、さらに音楽を生活の一部分としたことは否定できないと主張し、しばらく平行線の議論が続く。/山根が、大衆の音楽水準を高める点について話してほしいと促す。清水が、工場に出かけるレコード会社の歌手が、歌謡曲などの変なものをやらなくなった。しかし、産業戦士が要求するのは「鷲?道中」や「愛染かつら」など禁止されている曲だ。産業戦士は何をもっていっても喜ぶから、その現実に甘えてはいけない(その証拠は、このあいだの[日本音楽文化協会の…小関注]管弦楽で立証された)。15、16歳の少年工は歌謡曲や流行歌を知らず、昔の流行歌を手帳に書いたものを先輩から教えられる。これらを駆逐するには健全な歌を持っていかなければならない。そうかといって、極めて高度なものばかりもっていくのも疑問だと発言している。これを受けて野村が、高度なものを与えると同時に、低い程度のもので、明朗であって上を向いているものを与え、二つの途をかけることが必要と思うと言い、清水も同意している。野村は、低い程度のもので一歩か二歩進んだ音楽として、放送局の国民歌唱ならびに国民合唱が、いままでのところ一番いい計画だったと思うが、あれだけでは足りない、と結んでいる。/山根が、どういう曲の感じになるかと尋ねる。清水は、勤労生活との関係で言えば、@士気を高めるものA勤労の喜びを称えた歌B勤労生活を歌ったもの。それに対する曲調は、いままでの流行歌やジャズがかったものを排斥する前に、それがなぜ歌われたかを分析する必要があるといい、野村は、西洋音階で、明朗で、健康で、単純な歌をつくることが、やるべきことだと言っている。山根は重ねて、その「感じ」をことばにするよう求めるが、増澤健美が答えは抽象的にならざるを得ず、作曲家が自分で体得すべきだとまとめる。一方、出席者からは過去に存在した曲から、「愛国行進曲」「海行かば」「荒城の月」のような方向だ、と発言が出る。加えて、「愛馬進軍歌」「國民進軍歌」「露営の歌」なども議論の対象に挙がってくる。/さいごに日本の作曲界はどういう方向に進むべきかが議論され、野村から日本人の立場では、世界的で日本的な音楽を作ることが責務である。秋吉が日本的な音の感覚で解決しようとしている努力を認めたい。作曲技術の問題で解決しなければならないのは、西洋の音階をわれわれのなかに取り入れなければならないことだ、という趣旨の発言がある。演奏家も特に若手が日本的傾向を示しているとして、座談会がしめくくられている。
【2000年11月1日記】

第二回音楽巡回演奏会『音楽公論』 第3巻第4号 1943年04月 p.59)
内容:第2回音楽報国運動巡回演奏会(日本音楽文化協会、朝日新聞社主催)は、1943年3月20日より26日の1週間にわたり、浜松、豊橋、名古屋、岐阜、四日市の5都市で行なわれている。参加者は、山田耕筰、早川彌左衛門(指揮)、四家文子(独唱)、牛山充(講演)、東京交響楽団(管弦楽)。演奏曲目は、行進曲《皇軍讃歌》、《旧友》、ベートーヴェン《交響曲第5番》、独唱《田植歌》、《荒城の月》、愛国百人一首より《わが背子は物な思ほしことあらば》、J.シュトラウス《碧きドナウ》、歌唱指導(四家文子)《海ゆかば》、《楽しい奉仕》、音楽体操=江木理一、会衆合唱《愛国行進曲》
【2000年10月11日記】
大東亜交響楽壇演奏会(音楽会評)/寺西春雄『音楽公論』 第3巻第4号 1943年04月 p.60-61)
内容:松竹交響楽団が大東亜交響楽団と改称した。1943年2月26日、大東亜交響楽団改名披露演奏会(於・歌舞伎座)。演奏曲目は、チャイコフスキー《交響曲第6番 悲愴》、ショパン《ピアノ協奏曲第1番ホ短調》(ピアノ独奏:草間加寿子)、渡辺浦人《野人》。指揮はローゼンシュトック。歌舞伎座の音響の悪さは不利な条件だが、それを差し引いても出来栄えは貧弱だった。チャイコフスキーは破綻を恐れるかのように無気力な弱さを示したし、ショパンは独奏者のコンディションが最上ではなかった。渡辺の作品は比較的良かったが、日響や東響のレヴェルには、ほど遠い。《新世界》を《悲愴》に、ウェーバーを渡辺浦人に変更したのは大出来だが、先進ニ楽団と違った新機軸を見出すことが必要だ。
【2000年10月12日記】
三宅春恵独唱会(音楽会評)/加波潔『音楽公論』 第3巻第4号 1943年04月 p.61-64)
内容:1939年に東京音楽学校を卒業した年の新人演奏会で歌った《トスカ》の<歌に活き恋に活き>は語り草になっている。当時と今回とを比べると着実な進歩をたどったと思う。モーツァルトの《フィガロの結婚》のカンツォーネとアリアは絶唱だった。シューマンの《女の愛と生涯》は感慨が伝わらない不満が残った。後半は日本歌曲でプログラムを組んだ。市川都志春《牛ぐるま》、石渡日出夫の三曲、山田和男《もう直き春になるだろう》など。全プロの半分を日本歌曲で組むことは容易ではないが、立派に歌った。しかし日本の歌曲作家に附言したいのは、瀧廉太郎、山田耕筰、信時潔らを消化して血と骨にしたあとでないと、決して新しい日本歌曲は生まれてこない。
メモ:演奏会日時と会場、伴奏者などは不明。
【2000年10月13日記】
二つの独唱会(音楽会評)/久保田公平『音楽公論』 第3巻第4号 1943年04月 p.64-68)
菅美沙緒第二回独唱会
内容:1943年2月22日夜、於・帝国劇場。グルリット指揮の大東亜交響楽団伴奏、およびグルリットのピアノ伴奏、下八川圭祐の賛助出演。プログラムが雑多なのはよくなかった。大東亜交響楽団も、指揮、ピアノのグルリットも気の抜けた演奏に終始した。戦う日本のの聴衆に呼びかける何ものもない。歌唱にも力がない。なお、具体的な演奏曲目は明記されていない。
三宅春惠独唱会
内容:1943年2月24日、於・日本青年館。ピアノ伴奏は三浦洋一郎。期待は大きかったが、ある物足りなさを感じさせられた。シューマンの《女の愛と生涯》に三宅春恵の愛と生涯がどれだけ描かれたかは疑問である。二部の日本歌曲は前半の外国曲よりも確実に自分のものであったことは認める。だが、日本語の発音にサイレントに類似したものが相当感じられた。演奏曲目は、《女の愛と生涯》以外は、モーツァルトのアリアとあるのみで、この記事からは具体的な曲目はわからない。
【2000年10月17日記】
江藤俊哉提琴独奏会(音楽会評)山岸光郎『音楽公論』 第3巻第4号 1943年04月 p.68-69)
内容:1943年2月25日、於・日比谷公会堂。ピアノ伴奏は妹の江藤玲子。取り上げた作曲家は、バッハ、チャイコフスキー、ウィニアフスキー、サラサーテ、ショパン、バッチーニ、ラヴェル。演奏曲目は、チャイコフスキー《ヴァイオリン協奏曲》。これ以外はわからない。/コンクール以来、江藤の歩んできた方向が間違いであることを証明した。まず、運弓―ことにダウン・ボーイングが乱暴で音を荒々しくしている。テンポは滅茶苦茶でチャイコフスキーの協奏曲の第1楽章は驚くべき早さだった。不自然なエクスプレションのつけかたやテンポのゆさぶりなどがあり、このようなごまかしは今の時代には通用しない。伴奏も良くない。二人の再起のために指導者の再考を期待する。
【2000年10月18日記】
ラヂオ短評露木次男『音楽公論』 第3巻第4号 1943年04月 p.70-71)
内容:1943年2月11日。日本交響楽団の演奏で山田耕筰《神風》。指揮者は不明。オネガー風の曲だと書いてある。2月16日。三浦環(独唱)と宮城道雄(箏)の演奏。曲目は《千鳥の曲》、三浦環作詞作曲《子守唄》、宮城道雄《せきれい》。三浦の作曲は「止せばいいのに」と感じたことろう、と指摘している。2月17日。岡安喜三郎の《雪》(作曲者の三弦演奏。東京四重奏団の演奏でベートーヴェン《弦楽四重奏曲第2番 作品18-2 ト長調》。2月22日。辻久子(ヴァイオリン)と竹澤武(ピアノ)の演奏で、モーツァルトの《メヌエット》ほか。2月26日。今井慶松ほかの箏の演奏で、《都の春》など。2月27日。石井京(ピアノ)と東京交響楽団により、高木東六の《典雅なる舞曲》。指揮者は不明。3月3日。齋藤秀雄(チェロ)と井口基成(ピアノ)で、ベートーヴェンの《チェロ・ソナタ》[弟何番かは不明]。3月6日。草間加寿子(ピアノ)の演奏で、箕作秋吉の《メヌエット》ほか感覚的なもの数曲。
【2000年10月19日記】

鳥と犬 ― ビルマ紀行/前田『音楽公論』 第3巻第4号 1943年04月 p.72-75)
内容:前田は、日本放送協会南方派遣の慰問団のメンバーとしてマライ半島およびピルマに旅行した。ランビルマでは烏(からす)がとても多く、日本の烏よりも鳴き方がうるさい。ラングーンでのできごとだが、親犬が子犬に与えた餌さえも、烏がすきをみて狙いに来るほどだった。/ラングーンからインマピンという所へ移動し、掛小屋で演奏会をやった。兵隊は昼頃まで演習をした後、4里の道のりを徒歩で会場まで来る。床などはガタガタで、石井みどり一行の舞踊をやったときは譜面台がぐらぐらして演奏に困難を感じた。ほかに藤原千多歌の歌謡曲、浪岡惣一郎の歌、ビルマの住民も交えての《愛国行進曲》の合唱などがあったが、途中、舞台の横で5,6匹の野良犬が大喧嘩をし、腰を折られてしまった。砂塵の中を4里の道を歩いて帰る兵隊の姿を感謝の念を持って見送った。
メモ:前田■の■部分は、偏が「王」、つくりが「幾」の組合わせ。/慰問の具体的な時期は書かれていない。
【2000年10月21日記】
三つの音楽会(読者評論)/秋山稔『音楽公論』 第3巻第4号 1943年04月 p.80-81)
三宅春惠独唱会
内容:24日夜。声は柔らかくて円い。声量は思ったほどではない。シューマンの《女の愛と生涯》は内省的な深みが感じられずよろしくなかったが、後半の日本歌曲(とりわけ石渡日出夫の作品)が成功を収めた。演奏曲目の全体、ピアノ伴奏者、会場は書かれていない。
大東亜交響楽団披露演奏会
内容:1943年2月26日。ショパンの協奏曲を弾いた草間加寿子に人気をさらわれた。草間は自然ににじみ出る音楽的教養の良さがある。普通聴きなれたショパンとは違うが、和やかで華やかな雰囲気を醸し出していた。オーケストラは、ローゼンシュトックの懸命の指揮にもかかわらず、まだまだ若かった。特に《悲愴交響曲》の最初などは、はらはらした。
原智惠子独奏会
内容:25日、27日。両日、少しプログラムを変えて演奏した。25日は総体に精彩を欠いたが、フランクとショパンの練習曲がよく、あとは平凡で《月光ソナタ》にいたっては技術的な破綻すらあた。27日は別人のごとく張り切り、フランクは我が意が出すぎ、シューマンの《交響練習曲》は立派だがフィナーレを急ぎすぎて興を削いだ。ショパンのバラードは両夜とも期待に反した。《熱情ソナタ》は一気呵成に弾きのけ、面白かった。
メモ:三宅春惠独唱会は1943年2月の演奏会、、原智惠子独奏会も同様と思われる。
【2000年10月23日記】
平井保喜小論(読者評論)/菅井喜八『音楽公論』 第3巻第4号 1943年04月 p.81-82)
内容:菅井のラジオ音楽鑑賞ノートによれば、この半年ほどのあいだに量的に一番活躍した作曲家の一人が平井だった。平井が上野[東京音楽学校]の教授であるが、この半年ほどに聴いた平井の作品のみをもって小論をまとめた。平井の作品を分類すると、
(1)ドイツ古典派、同ロマン派の影響のあるもの
   フルート、ヴィオラ、チェロ、ピアノのための四重奏曲 《冬の物語》、行進曲《南進日本》《愛馬行進曲》、合唱曲《春の夢》
(2)日本的なもの
   弦楽四重奏曲《幻の横笛》《日本組曲第2番》、提琴曲《漁村のあけぼの》。合唱曲《新たなる東歌》《農村の新年》《もったいない心》、お祭りの描写的歌謡曲《いろりかこんで》、短歌連曲《君が為命死にきと》中の<朝かげ>
(3)描写的なもの
   交響組曲《蟲の國の音楽祭》、提琴曲《屋上遊園地》
(4)いずれにも属さない平凡な曲
   合唱曲《秋のみのり》《徒歩の歌》ほか数曲
となる。菅井は、手軽に色々なことをやってのける平井の才能を買おうと言っている。
【2000年10月24日記】
愛国百人一首の作曲成る『音楽公論』 第3巻第4号 1943年04月 p.82)
内容:愛国百人一首の作曲化は情報局の指導の下に、日本音楽文化協会、日本蓄音機レコード文化協会によって十首に作曲することとなった。@山田耕筰が安倍女郎の歌、A箕作秋吉が吉田松蔭の歌、B清瀬保二が柿本人麻呂の歌、C弘田龍太郎が本居宣長の歌、D草川信が源実朝の歌、E佐々木すぐるが有村次左衛門の歌、F深海善次が小野老の歌、G河内秀雄が高橋蟲呂の歌、H小松清が児島草臣の歌、I飯田三郎が佐久良東雄の歌を、それぞれ依頼されて作曲することになっていたが、10曲とも完成した。1943年[3]月5日午後1時から日蓄本社で山田耕筰、清瀬保二、大木正夫、山根銀二、園部三郎、竹越和夫ら関係各方面審査員の最後的審査が行なわれ、いずれも通過決定した。[3]月6日から各音盤会社によって音盤化に着手することとなったが、吹込みには全審査員が立ち会う。1943年4月29日の天長節を期して、盛大な発表会を開催し、同時に一般に発売の予定である。
【2000年10月25日記】
編集後記『音楽公論』 第3巻第4号 1943年04月 p.96)
内容:1943年3月30日、中国の南京で還都三周年記念祝典が挙行される。4月1日〜3日まで南京で開かれる全国文化代表大会(中日文化協会主催)の招聘に応じて、国際文化振興会は学術、芸術、体育教育各界代表約10名を大会に派遣するとともに、6日間、中国文化層との交歓をすることとなった。鹽谷温氏を団長とする文化使節の一行に、楽壇からは信時潔(東京音楽学校教授)が参加することとなった。/日本音楽文化協会は昨年[1942年]10月に「第一回音楽報国運動巡回演奏会」を開催し成功を収めたが、今回、朝日新聞社と共同開催、大日本産業報国会の協賛により、1943年3月20日〜26日まで浜松、豊橋、名古屋、岐阜、四日市を回る「第二回音楽報国運動巡回演奏会」を開催する。指揮に山田耕筰、早川彌左衛門、管弦楽・東京交響楽団、独唱と歌唱指導を四家文子、講演を牛山充、音楽体操を江木理一が参加する。次号で参加者の報告を掲載予定。
【2000年10月27日記】


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