『音楽公論』記事に関するノート

第3巻第3号(1943.3)


国民皆唱運動に関連して久保田公平『音楽公論』 第3巻第3号 1943年03月 p.18-23)
内容:歌うこと、踊ることは人間の本能であることから述べ始め、現在求められる音楽は戦時下日本の正しい国家的感動を、国民全体のものとするものでなければならないと説く。厚生音楽も、単に工場の能率を高めることから、国民全体の精神生活の昂揚にまで進展し、国民皆唱運動として展開された。/歌うことを日常生活にもたない日本の民衆にとって、国民皆唱運動の指導は困難である。明治以来の急激な進展についてゆけず、それ以前からあった「田植唄」「茶摘唄」「舟唄」などが生活から遊離し、新しい時代のテンポに合った音楽が生まれてこなかった。しかし古来、日本ほど国を想った歌の多い国は、ほとんど見出せないであろう。そう考えてみれば、いま国家意識の昂揚したときに国民皆唱運動を起こすことは、困難はないと確信できる。/今度、国民皆唱運動の歌唱指導者が注意すべきことは、自分は歌手であり聴くものは素人だという考え方である。作詞、作曲家も同様で、過去の民謡が大衆の生活の中から必然的に生まれた作者不詳の名曲であったことを想起してもらいたい。
【2000年9月11日記】
音楽教育の諸問題<座談会>野村光一 外山国彦 城多又兵衛 井口基成 上田友亀 鷲見三郎 山根銀二『音楽公論』 第3巻第3号 1943年03月 p.24-47)
内容:洋楽は従来、輸入したものを勉強する時代だったが、大東亜戦争の勃発に伴って、わが国のための音楽を真に創設することが痛感されてきた。したがって音楽教育も再批判されなければならない現状にある。多くの子弟を教育された皆さんに忌憚のない意見を伺いたい。こう、野村光一が切り出し、発言が続く。/歌を歌うのに必要な要素は教えることができるが、曲そのものについては十分教えることができない。日本人は、いろいろな要素を習うことに冷淡だった(外山国彦)。音楽の歩みの結果をみると、ほかのものより非常に遅いと思う。何か教育の欠陥があるのではないか? 音楽は人間ができていなければいけないと言われ、もっともではあるが、私は音楽の基礎練習が足りないと思う(城多又兵衛)。けっきょく音楽が生活化していないということが根本だと思う(上田友亀)。例えばシューベルトを歌うにしても外国人の先生から習ったものを、そのままステージでやるやり方が圧倒的だった(山根銀二)。基礎がないから模倣になる。それと子どもが学校の勉強の負担が多過ぎると、音楽に伸びようと思ってもできない。その点どうするかと言われてもわからないが(井口基成)。近年、音楽会に行く人が、自分が奏きたい曲や歌ったことのある曲を聴こうとする傾向にあると思う。大正時代と比べるて多きな進歩だと思う。今は過渡期で、これを越すと全体のレベルが上がると思う(外山)。明治時代に音楽取調掛が開設され、伊澤修ニのような人が意見を実行に移したので、洋楽流の音楽がこれほど大きな成績を上げたと思う。それができた精神的、文化的理由はどこにあったのだろうか(野村)? 音楽それ自体の性質から来るもので、絵と違って、みんなで合唱できる(井口)。隣組で《海行かば》を合唱するまでに約一世紀かかっている。一世紀前にそうした理念[小関注:皆で合唱できるといった音楽自体がもつ性質]を掴んだとすれば、聡明な世の中が掴んだのだと思う(山根)。それが今はなくなった(井口)。技術のほうに向かい精神と遊離したからだ(上田)。/もう一度、こうしたほうが国民一般に音楽を普及しやすかったろうと思われる音楽教育の実際の方法についてお話願いたい(野村)。いわゆる基礎という観念にとらわれて、部分的な基礎修練をさきにやってきた。それよりも音楽そのものを心に感じさせることから音楽教育をはじめなければいけないと思う。だから鈴木鎭一氏の直感的な行き方に賛成する。例えば指の訓練ということより、カンナ者でも曲を奏くことから入っている(上田)。それは同感で、僕のところも初めから曲で教える(鷲見三郎)。専門家になる教育として考えれば、国民学校の3年くらいまではよくできるが、それ以降は負担過重になって駄目だ(城多)。時節柄裁縫をすれば役に立つが音楽は役に立たぬ。それが困る(野村)。幼児のことはわからないが、絶対音をやっているとピアノがうまくなると考えている(井口)。それはいかん(上田)。あと、子どもの能力を限定して大人が妥協するのはよくない(井口)。師範学校では国民学校の授業を大いに考慮して授業が行なわれなければならないが、わかってもらえない(上田)。いま重大問題になっている音名唱法、階名唱法については、どうか?(野村) 絶対音感をつけることは有益だが、生のままの方法で国民学校にもちこんだところに問題があるのではないか。ソルフェージュを重要視したらどうだろう?(山根) その前に合唱や合奏の生活がないといけないと思う(上田)。上田さんの説は方法にこだわりすぎている。あまり子どものごきげんをとっては、子どもはよくならない(井口)。絶対音を覚えた耳はいい、だがそれが音楽的であるかどうかは別だ(城多)。/新しい日本のための音楽教育には、どういう方法がよいのか伺いたい(野村)。国民学校、中等学校はもっとやさしくして生活に食い入り、音楽を楽しむ方向に行ってもらいたい、専門教育はもっと専門的に(城多)。為政者側の音楽教育と国民の音楽趣味が合体しない限り、音楽は向上しない(野村)
【2000年10月7日記】

日響の「マーラー」(音楽会評)加田潔『音楽公論』 第3巻第3号 1943年03月 p.56-60)
内容:1943年1月20日、日比谷公会堂。ローゼンストック指揮の日本交響楽団で、モーツァルト《ハフナー》、マーラー《亡き児を偲ぶ歌》(アルト独唱:四家文子)、チャイコフスキー《悲愴》を演奏した。モーツァルトとチャイコフスキーは過去において何度も評価済みで、特に後者の熱演には讃辞を惜しまないが、当夜注目を集めたマーラーは期待を裏切った。指揮者は傍観的な立場で処理してしまったし、管楽器群に膨大な実力を要求するこの曲は今の日響には荷が重いように思われる。ハープの代わりにピアノ、グロッケンシュピールの代わりにチェレスタを使用したので柔らかい響きが出ず、迫力のない結果となった。四家の歌唱も概念的な唱法で終わったと述べている。
【2000年9月14日記】
東響定期公演と井口基成独奏会(音楽会評)寺西春雄『音楽公論』 第3巻第3号 1943年03月 p.60-64)
東京交響楽団第15回定期演奏会
内容:1943年1月14日。演奏曲目は、ベルリオーズ『ローマの謝肉祭』、サン・サーンス『ピアノ協奏曲第5番』(ピアノ独奏:草間加寿子)、グルリット『ゴヤ交響曲』。指揮は、グルリット。/サン・サーンスのピアノ協奏曲では、草間加寿子が名演で作品の美しさを再現した。評者は、グルリットの『ゴヤ交響曲』は冗長として、さらに「脆弱な構成力の上に脆弱なファンタジーが踊ってゐる。このやうな愚劣な作品を定期公演に持ち出すことを許したこの交響楽団首脳部の無企画性と無自覚性は賛成できない」「定期公演に日本人の作品一曲も持たなければ邦人指揮者の登場も許さないことはこの際、猛省すべき無自覚といはねばなるまい」と厳しい評価を下している。
井口基成独奏会
内容:1943年1月28日、日比谷公会堂で。曲目は、バッハ『パッサカリア ハ短調』、諸井三郎『第二奏鳴曲』、シューマン『ピアノ・ソナタ 作品11』、ラヴェル『夜のギャスパール』。どの曲も立派な演奏だったが、ただ諸井のソナタに対する共感が乏しく、聴衆は、ただでさえ長く難解な曲に疲れてしまった。
【2000年9月18日記】
遠見豊子洋琴独奏会(音楽会評)山岸光郎『音楽公論』 第3巻第3号 1943年03月 p.64-65)
内容:1943年1月15日、日比谷公会堂で。演奏曲目は、リスト《バッハのカンタータ12番を主題とする変奏曲》、ベートーヴェン《エロイカ変奏曲》、ドビュッシー《12の練習曲》、ショパン《4つのノクターン》。/技巧は鮮やかなのに、曲としての印象が物足りないと感じた。
【2000年9月19日記】
帰還兵の感想尾崎宗吉『音楽公論』 第3巻第3号 1943年03月 p.66-67)
内容:3年4ヵ月楽壇を離れていたが、帰還して約1ヵ月間に感じたことを若干述べる。/日本音楽文化協会ができたのはけっこうだが、そのために過去にあったような覇気がなくなったような気がする。この1年くらいの音楽雑誌も借りて読んだが、空漠たる弱さを感じた。日本音楽文化協会は地価に埋もれた力を取り上げるよう努力してほしい。/行進曲、国民合唱もたいへん良い企画で以前より進歩がうかがえるが、その実際的処理にあたって、いたずらにドイツの真似をすることなく日本、日本人というものを振り返って見直してみる必要がないか。/ラジオ放送も盛んだ。文句だけは愛国的だが依然アメリカの害毒をみにつけたようなものが現れる。また単に日本人の曲でさえあればという安易な態度も感じる。演奏家の人選にも注意を払ってほしく、井上園子が弾く予定の《リゴレット・パラフレーズ》など日本人には意味が無い。/帰還後もっとも感激したのは、井口基成のピアノ独奏会だった。独奏技術も演奏様式も完成した域に達していて、バッハ、シューマン、諸井三郎のソナタなどを演奏した。諸井の難曲を取り上げ完全な演奏を行なったことは感謝の念を禁じえない。前途には希望が満ちているようだ。
【2000年9月19日記】
思ひ出ずるまゝに千葉静子『音楽公論』 第3巻第3号 1943年03月 p.68-69)
内容:ある冬の晴れた日、日光浴をしながら、この3月に[東京音楽学校の]研究科を卒業する身を思って感慨無量だった。[東京音楽学校]予科から本科を卒業するまでの4年間は夢中で、そして幸福に過ごした。演奏旅行も忘れられない思い出のひとつだ。/研究科に籍を置くようになると、教えることやステージなど、活動の場が広がり忙しくなった。いろいろな場面で自分の若さと無経験が出て、辛さや苦しさ(時には面白さ)に遭遇した。時々、外国で勉強したいと考えるときもあるが、今日の日本にあっては、日本で大いに勉強し外国人に負けない、しかもその中に日本的な良さをもった歌手を目指すことこそ大切なことだろう。また、日本歌曲に対しても私たちはその正しい歌い方、解釈を大いに研究してゆかなければならない。/昨夏、満州に旅行したとき、立派な軍人になっている上級生や同級生に会った。豊かな天分に恵まれながらも、そのすべてを棄て一意専心御国のために身を捧げている姿は神々しささえ感じられた。日本の戦果が北に南にと拡大し、その文化交換も行なわれようとしている現在、私たちの活躍すべき分野も必ずそちらの方へ延びてゆくことと思う。自分に与えられた道に向かって邁進することが芸術家としての国家への御奉公であると信じている。
【2000年9月21日記】
ラヂオ短評露木次男『音楽公論』 第3巻第3号 1943年03月 p.70-71)
内容:1943年1月13日。室内楽。演奏は東京四重奏団。「この道」などの拙い編曲を演奏するのは惜しい。1月17日。チェンバロ独奏。演奏は、シュナイダ−。演奏曲目は信時潔《日本民謡集》、バッハ《トッカータ》。1月18日。室内楽。演奏曲目は諸井三郎《絃楽六重奏》(演奏:加藤為三郎ほか)。1月19日。管弦楽。演奏曲目は深井史郎《ジャワの唄声》。日響の演奏とあるが、指揮者は明記されていない。1月24日。ピアノ独奏。ベートーヴェン《ピアノ・ソナタ第23番、op.57、へ短調 <熱情>》。演奏は永井進。1月29日。ピアノ独奏。アルベニス《スペインの歌》。演奏は天池眞佐雄。2月3日。チェロと管弦楽。ラロ《チェロ協奏曲、二短調》。演奏は倉田高(チェロ)、管弦楽は日響。指揮者の記載なし。2月4日。ピアノ独奏。リスト《ハンガリアン狂詩曲第6番》ほか2曲。
【2000年9月22日記】
二つの日響公演(読者評論)佐藤次郎『音楽公論』 第3巻第3号 1943年03月 p.85)
内容:1943年1月20日、日本交響楽団臨時公演。指揮はローゼンシュトック。演奏曲目の最初はモーツァルトの《ハフナー》で、清らかな解釈だった。最後のチャイコフスキー《悲愴》は、指揮者の個性が強く現れた演奏で感動を与えられた。マーラーの《亡き児を偲ぶ歌》(アルト独唱:四家文子)は、人の心に深く触れる名作だ。/1月27日、日本交響楽団特別公演。指揮はローゼンシュトック。演奏曲目は、ドボルザーク《交響曲第4番》、ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第2番ハ短調》(ピアノ独奏:シロタ)、スメタナ《売られた花嫁》より<3つの舞曲>。ドボルザークは、のびやかに歌ったよき演奏。ラフマニノフを弾いたシロタは、ものすごいテクニックで弾きまくるが音が死んでいる。スメタナは華やかな演奏。/日響が少なくともローゼンシュトックの時には相当の偉力をみせるようになったことは喜ばしい。
【2000年9月26日記】
井口基成独奏会(読者評論)秋山稔『音楽公論』 第3巻第3号 1943年03月 p.85-86)
内容:1943年1月28日、会場の記載なし。井口の芸風は重厚と洗練の度を加えていた。/始めに演奏したバッハ[曲名は記載されていない]は、ダルベアの手の込んだ編曲で、バッハの精神からほど遠いばかりか演奏も気乗りうすだった。次の諸井三郎のソナタは熱演だったが、力強さを強調するあまり終始一貫して緊迫感が押し通されたため、かえって空虚な倦怠を招いた感がある。3曲目はシューマンのソナタだった。幻想とロマン的情緒に乏しく物足りない思いがした。最後に演奏されたラヴェルの《夜のガスパール》は、かつて聴いたことのない名演だった。
【2000年9月28日記】
東響第16回公演(読者評論)五島雄一郎『音楽公論』 第3巻第3号 1943年03月 p.86-87)
内容:1943年2月9日、会場の記載なし、指揮はグルリット。演奏曲目は、シューマン《マンフレッド序曲》、チャイコフスキー《交響曲第4番》、モーツァルト《セレナード》(木琴独奏:平岡養一)、エネスコ《ルーマニヤ狂詩曲》(木琴独奏:平岡養一)。/平岡は《セレナード》を得意としてレコード吹込みまでしている。平岡編曲のエネスコは原曲以上の楽しさを与えてくれた。ただし木琴は大きなホールには不適であると思われる。シューマンの演奏は、ロマンティックとは縁遠いものだった。チャイコフスキーではロマンティックな演奏を行なったが、金管楽器に破綻をひたす羽目にもなる。/
【2000年10月1日記】
大日本音楽振興会役員決定『音楽公論』 第3巻第3号 1943年03月 p.95)
内容:音楽文化事業の助成機関として旧臘[きゅうろう 前年の暮れ=1942年12月・・・小関注]設立された財団法人大日本音楽振興会(発起人:藤山愛一郎、平生釟三郎、伊澤多喜男、山田耕筰等)は、このほど第1回評議員会を開き、設立発起人中より伊澤多喜男、福井菊三郎、清水脩[?・・・小関]を顧問に推薦、会長に藤山愛一郎、常務理事に福井巖、白井保男、山田耕筰、その他の評議員、委員を決定した。
メモ:この団体の正確な設立日時、第1回評議員会の日時は明記されていない。/発起人は全員が記されていないようだ。本記事でわかるのは上記の範囲である。/顧問に推薦された清水は、脩だと思われるが、文字がかすれて自信がもてないため「?」をつけた。/その他の評議員、委員の氏名も不明。
【2000年10月3日記】

室崎琴月氏楽壇生活25年記念会『音楽公論』 第3巻第3号 1943年03月 p.95)
内容:来る1943年3月5日、中央音楽学校校長の室崎琴月のため、知友諸氏が発起人となり安部大将、岸本市長、大倉男爵等の賛助を得て、午後5時、軍人会館において室崎琴月氏楽壇生活25年記念会を開催する。
【2000年10月4日記】
編集後記『音楽公論』 第3巻第3号 1943年03月 p.96)
内容:勝ち抜く合言葉は「撃ちてし止まむ」と決まった。その一大国民運動は、来る1943年3月10日の第38回陸軍記念日を目指して展開されることとなった。/1943年2月19日の貴族院委員会の席上、京極高鋭子爵が「南方占領地の諸民族に東亜建国の理想を知らしめるうえに音楽の有する役割の大きいこと」を強調した。これに対し奥村情報局長は、現在は映画や幻灯が使用されているが「元来南方民族は舞踊や音楽を非常に好むので、この点からも南方の音楽普及の必要を痛感している。しかし南方民族はジャズが好きなので、これは望ましくないから今後は日本の交響楽などを聴かせるようにしたい方針で目下関係専門家が調査中である」旨答えた。/「国民皆唱運動」(大政翼賛会提唱、情報局後援、日本音楽文化協会主催)は、先頃より三浦環、四谷[ママ]文子、伊藤武雄らの一流音楽家の総出動で全国の工場農村に展開されている。巻頭の久保田論文は、この運動の意義を明らかにするものである。/音楽文化向上の鍵は、ひとえに音楽教育にあることを痛感し座談会を組んだが、本誌の性質上、学校教育について深入りすることは遠慮した。
【2000年10月5日記】


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