『音楽公論』記事に関するノート

第3巻第2号(1943.2)


日本交響楽運動批判<座談会>山根銀二 園部三郎 大木正夫 諸井三郎 野村光一(『音楽公論』 第3巻第2号 1943年02月 p.28-48)
内容:記者から、日本の交響楽運動は日中戦争以後向上しているか、また東京には日響、東響、松竹と3つもオーケストラがあるが、これらが国家の要求する方向へ進んでいるかどうか、これらについて検討してほしいと切り出す。/園部は、国民に訴えていく企画性に乏しく、質的には向上していないと指摘する。山根は、過去において交響楽運動がよい形で発展しようとしていたが、そうした理想が失われ退歩している。現在は、日響が日本人作品を上演するなどの変化が起こったが、これも時代の要求を後から追いかける形でとりあげ、自発的な姿勢にかけている。日本人指揮者の養成についても同様のことが言える、と発言している。野村は、オーケストラは腕を鍛えられた人たちの集まりなので、社会認識に欠けている。プロの交響楽団として社会的に自治性をもつ団体となり、社会のほうが、オーケストラのように相当金のかかるものを自治性にばかり頼るのではなく、もっとしっかりとした団体にしようとして、新響が日響に改組されることとなった。しかし、その結果、これまでの自治的なまとまりによってでき上がっていたオーケストラのテクニックが停滞した、と述べている。諸井は、確かに音楽界全体が再編成の時期にきている。如何に打開していくかという方向で話した方がいいと提案。具体的な問題として、日本の交響楽団のプログラミングについて提示する。野村は、邦人作品の取り扱い方は悪く、外国の作品も一部インテリにしかわからない曲を選択する。オーケストラのように公共性が高いものは、演奏曲目の選定も国民的な組織が決定すべきだと唱える。大木、諸井も、ほぼ同調している。続いて山根は、特に日響のようなしっかりした組織になると個人的な意志や熱意がそのままの形では現れにくくなるので、各オーケストラが頭脳を持て、次にその頭脳の意志を伝達させるための段取りを整えろ、と提唱する。意志の伝達に失敗したために日響は技術が低下したのだと指摘する。諸井は、この議論を受ける形で、楽壇の再編成を推進するために協力会議のようなものをやろうと、野村は、同時に外国にあるミュージシャンズ・ユニオンのようなものを日本にも、と述べている。諸井から、これまでの議論は指揮者に嫌なものまで振らせるという誤解を与えないことが大切だと発言が出るが、山根から、日響の定期演奏会でオネガーの『勝利のオラース』のようなものを取り上げたことに疑念が出され、指揮者の自発的な選択も一定の制限の下でのことだと意見が出され、園部も同調する。/ここで記者から、日響がやっている予約会員制度について考えてほしいと発言が出る。園部から、興行の観点からすれば会員の確保は一つの条件だが、それに止まらず、東京の日比谷公会堂でだけ演奏会をやらずに巡回演奏も行なって、会員だけに聴かせるということのないようにしてもらいたいとまとめている。他の出席者も同調しているが、園部は、この議論が抽象論でないことは日本音楽文化協会が行なった巡回演奏がはっきり示していると強調する。野村は、演奏は生でなくればだめだとも述べている。/日響以外で、まず松竹交響楽団については、やっていることが行き当たりばったり(園部)、企画が悪い(山根)といった意見が出されている。東京交響楽団については、東北巡回演奏で熱意を示した功績が称えられる一方で、定期演奏会のやり方は低調だ(山根)、企画性がない(野村)などの指摘がなされている。
2000年9月10日記
二人のピアニストと東響公演(音楽会評)寺西春雄(『音楽公論』 第3巻第2号 1943年02月 p.52-55)
野辺地瓜丸独奏会
内容:
1942年12月13日、日比谷公会堂での独奏会。演奏曲目は、ショパン「エチュード」「ワルツ」「バルカローレ」。シューマンも演奏したようだが曲目の記述なし。/野辺地については、ペダリング、指使い、打鍵法などの技術的な方法や、解釈上の方法が細かく合理的に研究されているが、それらが完全に消化されて自己のパトスを表現するかと言えばそうなっていない、と指摘している。
井上園子三大奏鳴曲
内容:1942年12月16日、ベートーヴェンの『月光』『ワルトシュタイン』『熱情』を演奏した。/従来の技巧的偏向からの転向を示しつつあるような演奏だが、内省的な努力とはいい得ず、外面的な効果を追及する悪い意味のヴィルテュオジティの一変形にすぎない。曲の精神を自己の全人格で捉えなくてはならない。
東京交響楽団定期公演
内容:1942年12月12日、第14回定期公演。指揮:グルリット、ヴァイオリン独奏:巌本メリー・エステル。演奏曲目はシベリウス『交響曲第4番』、ヴィヴァルディの協奏曲[具体的な曲名の記述なし]、ベートーヴェンの『ロマンス』2曲。/評者によれば、グルリットの独善的蕪雑さが眼についたという。
齋藤秀雄演奏会
内容:1942年12月22日、斎藤秀雄指揮交響楽演奏会。演奏曲目は、バッハ『管弦楽組曲第2番』、ショパン『ピアノ協奏曲第1番ホ短調』、ベートーヴェン『交響曲第3番 「英雄」』。管弦楽は東京交響楽団、ピアノ独奏は黒田睦子が受け持った。/齋藤の指揮は、細部に行き届いた緻密さ、明確なテンポ、歯切れよい清潔な解釈を示しているが、大きな流れを形成するまでには至っていない感がある。
【2000年8月23日記】
崔承喜の芸術性加波潔(『音楽公論』 第3巻第2号 1943年02月 p.56-59)
内容:舞踊について門外漢の加波は、同郷の朝鮮半島出身者として崔の芸術を眺めてみたいという。崔承喜は1942年12月6日から12月22日までの17日間、帝国劇場を観客で埋めつくすという、画期的な記録を残した。/崔の曲線美や華麗な容姿、朝鮮俗曲における豊富な表情や淡白で軽妙な気分など、魅惑的な雰囲気を作り出している。その領域を精神的な高さにまで引き上げていないが、現代の日本舞踊界からすると、崔の高さまで来た人がなく、また今後もそう簡単には現れないだろう。/柳宗悦は、朝鮮の芸術は愛の訪れを待つ芸術であり、線にその心情を訴えたという。崔の舞踊が線を強調しているかを察知するとき、柳の指摘と合い通じるものを感じる。人情がもつ素朴な美しさや親しさが、半島人の特性とも解されており、それが崔承喜という舞踊家の表現の中に閃いている。さいごに崔が、「追心」「普賢菩薩」「武魂」「七夕の夜」「二つの琵琶調」など日本的素材に視野を広げたことを、高く評価されるべきだと結んでいる。
【2000年8月25日記】
レッツ先生の思出大村多喜子(『音楽公論』 第3巻第2号 1943年02月 p.60-61)
内容:
ハンス・レッツは大村多喜子が留学していた5年間、指導を受けた教師である。/レッツはアルザスで生まれ、ベルリンでヨアヒムに師事し、のちに若くして渡米。ヴァイオリン独奏家として、またシカゴ交響楽団のコンサートマスターとして活躍した。さらにクナイゼル・クヮルテットのメンバーとして、また同団の解散後はレッツ・クヮルテットを組織して永年室内楽の普及に尽力した。/1936年、大村は、当時ジュリアードのヴァイオリン主席教授だったレッツに初めて教えを受けた。セヴスィックの指の教本も、レッツから助言をもらってから後は、大切なものとなって音に対する気持ちが変わっていったという。生徒の相談によくのり、室内楽の指導には特に優れていた。ただ、すでにレッツは公開演奏をほとんどしなくなっていた。教えている間は弾く時間がないし、旅に出てしまうのも生徒に対して無責任だと思うという考えからだという。
【2000年8月28日記】
ラヂオ短評露木次男(『音楽公論』 第3巻第2号 1943年02月 p.62-63)
内容:1942年12月2日。
大阪放送交響楽団の演奏で、宮原禎次作曲交響曲『十二月八日』(第1楽章「大詔奉戴」−第2楽章「英霊に涙す」−第3楽章「朗報全土に洽し」−第4楽章「黎明一億の進軍」)。指揮者の記載なし。12月4日。東京交響楽団の演奏で、池譲作曲の交響組曲『征服』(第1楽章「暁の海を征く」−第2楽章−第3楽章−第4楽章「大東亜の建設」−第5楽章「忠魂碑」)。指揮者の記載なし。12月6日。軍国歌謡「宣戦の大詔を拝して」ほか。露木は、陰気な歌ばかりだと怒っている。12月13日。モーツァルト『ピアノ協奏曲ハ短調』。演奏は、ピアノ独奏がリリー・クラウス、管弦楽がジャカルタ放送交響楽団、指揮が飯田信夫。ラジオのコンディションが悪かったという。12月16日。浅野千鶴子、奥田良三ほかの独唱で北原白秋歌曲集(作曲は山田)。こうした試みは時々放送してほしいが、奥田のようなレコード歌手は歌い方に嫌味が残るので、ご免こうむりたいと述べている。12月17日。東京四重奏団の演奏でモーツァルト『弦楽四重奏曲二短調』。12月18日。ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第5番』。ピアノ独奏は井口基成、管弦楽は日本交響楽団、指揮はローゼンストック。12月23日。ナルディーニの『ヴァイオリン協奏曲』ほか。ヴァイオリン独奏は山本惠子、ピアノ伴奏は富永瑠璃子。12月27日。久本玄智『朝の歓び』。ヴァイオリンを琴で伴奏しているにすぎず、邦楽になっていない。中能島欣一『組曲』。こちらは、よく筝曲の伝統を守って好感が持てる。12月29日。管弦楽『山形の民謡による幻想曲』、作曲者不明。1943年1月4日。木琴独奏は平岡養一。演奏曲目は不明。1月5日。「邦楽さわりの夕」。三味線音楽の粋を集めた放送だったようだが、演奏曲目や演奏者は不明。1月6日。ヴァイオリン独奏・西川満枝で、ベートーヴェン『ヴァイオリン・ソナタ第5番 「スプリング」』。ピアノ伴奏者は不明。
メモ:1月号で「鉄道交響曲」の作曲者を山田和男としたが、山田耕筰の誤り、という訂正記事が出ている[なお、1月号では山田和男ではなく、山田和夫と表記されていた]。
【2000年8月30日記】
野邊地瓜丸独奏会(読者評論)/秋山稔(『音楽公論』 第3巻第2号 1943年02月 p.70)
内容:
1942年12月13日、会場は記載されていない。プログラムはメンデルスゾーン(演奏曲目は不明)、シューマン『交響練習曲』、ショパン『バルカロール』『スケルツォ』『練習曲(抜粋)』(どの曲を選んで演奏したかわからない)。野邊地は真に音楽的天分を持ち合わせた少数のピアニストの一人であるから、新しい曲を開拓して楽界に寄与してほしい。 
【2000年8月31日記】
佐藤清吉氏を悼む早川彌左衛門(『音楽公論』 第3巻第2号 1943年02月 p.71)
内容:早川が佐藤を知ったのは日露戦争後の園遊会で佐藤が女装して登場したときのようだ。軍楽隊では、佐藤はクラリネット(E♭管)を、早川はB♭管のクラリネットを受け持ち、佐藤が練習熱心だったことを伝えている。内藤少佐も早川も、のちに佐藤の下で指導を受けたが、佐藤が海軍を退いた後は、日本の吹奏楽の指導のために全力を尽くしたと結んでいる。
【2000年9月2日記】
◇新比律濱交響楽協会田代與志(『音楽公論』 第3巻第2号 1943年02月 p.72-74)
内容:ここ30年のアメリカによる植民地政策は、フィリピンにジャズの氾濫をもたらし、ダンスホール、キャバレー、教会の前の大広場で踊られている。マニラには十指に余る私立の音楽学校があるが、ジャズに押されてクラシックは影をひそめていた。このころ「フィリピンの音楽家及び作曲家は一丸となってジャズ其の他低級浅薄な音楽の為に久しく埋もれて居た、フィリピンの音楽とそのすぐれた質とを再建」しようとする国民音楽運動があって、新比律賓交響楽協会の結成もその一つの現れだという。これは日本軍の支持とフィリピン行政長官の後援を得て急速に実現した。/今回できたオーケストラは、フィリピン人のみの組織とすることを目的とし、フィリピン人の指揮者、コンサートマスター、独奏(唱)者、室内楽演奏者、作曲家を援助したり、有望な新人に奨励金を与えたり、優れた音楽研究生にも援助することが企画されている。/1942年8月25日、マニラで新比律賓交響楽団創立第1回演奏会があった。プログラムは、ヴィヴァルディ『コンチェルト・グロッソ 二短調』、フラシスコ・サンチャゴ『タガログ・シンフォニー』、チャイコフスキー『ヴァイオリン協奏曲』(独奏:ヴァスイリオ・マナロ)、チャイコフスキー『くるみわり人形組曲』より「花のワルツ」。指揮は『タガログ・シンフォニー』の作曲者でもあるサンチャゴ。オーケストラは、コンサートマスターのアーネスト・エクフバレジョー以下70名。まだアンサンブルの粗雑さは否めないが、ブラス・セクションは特に優秀で、真剣な演奏と熱情は洋々たる前途を感じさせた。
メモ:筆者は松竹株式会社作曲部員。約3ヵ月の慰問旅行中の体験である。
【2000年9月3日記】
『御民吾』の新国民歌作曲を一般から募集(『音楽公論』 第3巻第2号 1943年02月 p.80)
内容:大政翼賛会は『海ゆかば』と並んで決戦下の国民が斉唱するにふさわしい国民歌を創ることとなり、日本音楽文化協会と共催で、愛国百人一首の海太養岡麻呂作の「御民吾生ける験あり天地の栄ゆる時に・・・」に一首を選んで作曲を募集することとなった。/締切は1943年2月20日、送付先は銀座四丁目日本音楽文化協会。曲は国民の斉唱に適するピアノ伴奏つきの歌曲で、当選者一名に賞状および副賞として1,000円を出す。発表は3月中旬。
【2000年9月5日記】
一流声楽家による国民皆唱運動展開(『音楽公論』 第3巻第2号 1943年02月 p.80)
内容:
大政翼賛会の提唱、情報局の後援、日本音楽文化協会の主催で、1943年1月から2月にかけて、北海道から九州にいたる全国の工場農村に、藤原義江、三浦環、矢田部勁吉、四家文子、斎田愛子らを指導者として派遣、さらに地方在住の音楽家たちも積極的に動員する予定。/なお大政翼賛会では、国民皆唱歌曲として『海ゆかば』『愛国行進曲』『大政翼賛の歌』『この決戦』など70余曲を選定した。
【2000年9月5日記】
音楽協会主催の行事(『音楽公論』 第3巻第2号 1943年02月 p.80-81)
全国音楽教育者練成大会
内容:日本音楽文化協会では29日、30日[1943年1月のことか?−小関]の両日、東京女子高師で全国音楽教育者練成大会を文部省、情報局、東京府市[ママ]の後援で開催する。わが国初の試みで、29日午前9時の開講式に次いで、文部省教化局教学官、東京音楽学校長、情報局第五部第三課長らの講演、講習があり、職域奉公の具体的方策と国民音楽創造に資する教育方策について協議会を開く。
国民士気昂揚厚生音楽大会
内容:厚生音楽運動についての認識を深めさせるために、1943年2月7日昼、日比谷公会堂で国民士気昂揚厚生音楽大会を行なう(日本音楽文化協会、日本厚生協会が主催、情報局、大政翼賛会後援、大日本産業報国会協賛)。/出演者は、東洋紡毛工業ハーモニカ楽団、宮田ハーモニカ楽団、加古三枝子(独唱)、武井マンドリン楽団、安田貯蓄合唱団、貿易統制会興亜合唱団、日本電気合唱団、東京鉄道局大宮工機部吹奏楽団、石川島造船所吹奏楽団、海洋吹奏楽団、奥田良三(独唱)、藤原義江。
第二回音楽報国運動
内容:朝日新聞社と日本音楽文化協会が共催し、3月下旬に岐阜、大垣、四日市などの工業地帯を中心に産業戦士に巡回演奏を行なって戦争精神の昂揚を図る。出演者は指揮者に山田耕筰、管弦楽が東京交響楽団、独唱者に四家文子を予定している。
南方共栄圏音楽会
内容:日本音楽文化協会国際音楽専門委員会の主催で、1943年3月16日に南方共栄圏の音楽会が行なわれる。出演者は、藤原義江,三上孝子、瀧田菊江、齊田愛子、日本合唱団など。
第二回推薦演奏会
内容:1943年3月24日、昨年もっとも活躍し優秀な成績を上げた演奏家を推薦する音楽会が開かれる(毎日新聞社と日本音楽文化協会の共催)。
【2000年9月6日記】
編集後記(『音楽公論』 第3巻第2号 1943年02月 p.92)
内容:1943年1月13日情報局は英米のジャズ音楽を国民の耳から閉め出して健全な国民音楽を普及するため、これら煽情レコードの演奏禁止と自発的な供出方を指示した。情報局の提唱に応えて各レコード会社では英米レコードの製造中止、それらの廃盤、さらに全国4500のレコード販売業者の手許にある在庫レコードを2月中に回収することとなった。情報局には頻繁に問合せが舞い込んだので、1943年1月17日夜、井上[情報局]第五部第三課長が「英米音楽は一切合切禁止するものではない」とする談話を発表し、禁止の対象はジャズと外国語で歌われている輸入レコードが主眼であること、日本語で歌われ国民感情に沁みこんでいる曲(たとえば『蛍の光』『埴生の宿』『庭の千草』など)は禁止していないと説明した。/作曲家・信時潔は、今回『海ゆかば』の作曲により昭和17年度朝日文化賞を受賞した。『海ゆかば』は1937(昭和12)年、放送局の依頼により国民精神強調週間のために作曲され、1942年12月15日、大政翼賛会によって「国民の歌」に指定された。/今月号の座談会について簡単に紹介。また、用紙割当の激減により本誌の入手がますます困難になるであろうから、直接読者となってほしいと述べている。
【2000年9月8日記】


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