『音楽公論』記事に関するノート
第3巻第1号(1943.1)
◇国民音楽の問題 ― 日本文化の性格から見た/長谷川如是閑(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.18-29)
内容:−1−日本では、異国文化を日本文化の様相に変化させることと並んで、その異国文化を原形のまま保持するという特色がある。絵画における漢画とやまと絵、音楽における中国伝来の雅楽と声楽中心の邦楽などが想起される。−2−明治以降の洋楽と、それに基づいた唱歌・軍歌・歌謡曲などは、完全に消滅することは、ないのではないか。こうして日本にある新旧のさまざまな音楽のうち、そのいずれが現代の国民音楽としての日本音楽か? ということが問題となる。−3−「国民音楽」とは「国民の日常生活を指導陶治し、それに浸透すべき十分の働きを示す」音楽(乗杉東京音楽学校長)と理解することができる。−4−「国民音楽」は、日本的旋律をもち、音楽的にも価値をもつ音楽といえる。その意味からいうと、洋楽も音楽的性格を「日本的」に発展させ得るもので、そうなればこれも国民音楽の一つである(ただし、今日のように主として西洋の作曲を一部の愛好家が鑑賞している程度では、そう呼べない)。−5−日本の古典音楽は、今日では洋楽系統以上に、国民的と呼べないものが多い。しかし現代の青年も無自覚のうちに、邦楽の感覚・情操を身に付けていることがある。−6−日本音楽の一つの特徴は「生活の音楽」で言葉や所作を伴うことが多い。「抽象性」より「具体性」に長ずる日本人の国民性と関係がある。−7−さいきんの「新日本音楽」は、ほとんどすべて言葉を伴わない器楽であることが、国民生活にぴったりくるかどうか疑問である。−8−日本音楽のもつ室内楽的性格は、国民音楽としては不適当で、むしろ打破しなければならない弱点である。−9−日本的旋律の音楽は、必ず言葉か動作を伴うものとして発達させることが「国民的」であることの条件ではないか。−10−今日要求されることは、日本人の伝統的な音感覚を直観する力を、現代の音楽に持ってほしいということである。
【2000年7月24日記】
◇音楽の国家性 ― 12月7日夜シューベルト研究会に於ける講演速記/井上司朗(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.30-34)
内容:従来、音楽は一部の人々の贅沢品ないしは暇潰しの一方便として考えられていたが、一般に芸術が芸術自体のために存在するという考え方は誤りであり、芸術を含む一切の文化は、その民族のために存在している。芸術家は単に時代のあるがままの姿を反射するだけの機会では申し訳ない。芸術家が、なぜ社会から尊重されるかといえば、人気や特殊な才能によるだけではない。万葉作家を考えれば分かるように、他国から攻められるかもしれない警戒心があり、国家の来るべき姿に対する指導者的な、また予言者的な才能と洞察力によるものである。芸術家は、その高邁な世界観を豊かな創造の能力を通じて人心を打つことが使命である。平出大佐は「音楽は軍需品である」と言ったが、それは正に軍需品以上である。そうした意味からも、音楽は閑人の遊び道具ではなく、国家のものであり、民族のものである。
【2000年7月26日記】
◇音感教育雑感/宮澤俊義(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.36-39)
内容:宮澤は旧体制の音楽教育を受けたので、移動ドで育った。国民学校に行っている子どもから『ウタノホン』を見せてもらうと、こちらはイロハの固定音名が使われていた。いつか、絶対音というものを全国の国民学校の子どもに仕込むのだという新聞記事を見たときは、疑問をもったが、専門外なので忘れていた。/先日、友人が二葉薫の『音感教育』という本を薦めてくれた。コールユーブンゲンで音程練習をすることや、聴音練習などが槍玉にあがっている。二葉の言うとおり絶対音感をもつことは、正しい音楽能力の養成に益こそあれ害はない。ただ、その養成がどのくらい容易にできるのか、すなわち国民学校で教えるのがふさわしいかどうかが問題となるが、それは、もう少し時がたたないと分からないのではないか。/問題は日本の音感教育なので、ドイツの音感教育を鵜呑みにするのは避けてほしい。ドイツ人には絶対音感の所有者が多いそうだが、幼稚園や小学校で、日本の音感教育論者が主張するような大掛かりな教育は行なわれていないと聞く。イロハで教育された昭和の子どもたちが、旧体制の音楽教育を受けた明治・大正のわれわれと将来どう違ってくるのか、とても興味がある。
メモ:筆者は東京帝国大学法学部教授。
【2000年7月27日記】
◇芸術音楽の大衆化/野村光一(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.40-42)
内容:野村は、社団法人日本音楽文化協会が主催した東北地方への音楽報国演奏会第1回巡演に協会の役員として参加した。[具体的な記録は、前号の記事を参照。]/従来と異なり、一切の入場料を廃止し、産業戦士や翼賛運動・教育事業に従事している人びと、その他音楽を聴きたい者のすべてを受入れた。プログラムもベートーヴェンなどの古典的作品、渡邊浦人のような日本人作品などを聞かせ、純音楽は知識階級だけのものという観念を打破した/昔なら戦争中には芸術も娯楽もないというのが一般通念だったろうが、戦争を行なっている最中も文化を破壊してはいけないという主張を、都市においてではなく、地方にその成果を上げるために行なわれた。/戦時下における芸術には、敵愾心をあおるものと国民を慰撫するものとがある。今回の巡演の音楽的内容は、そのどちらかが判然としないが、両方面を具備したものともいえ、時局に最適であったことは想像に難くない。/ただ目的が完全に達成できたかというと、そう断言はできない。しかし、彼ら[小関注:大衆]の現状より数歩先んじて高踏な芸術を鑑賞させる努力が妥当である。各地の演奏会の反響は凄まじいものだった。情報局の指導のもとに、戦時下における音楽普及の国策運動に邁進している以上は、判っても判らなくても大衆に立派で強健な芸術を与えていくことが今日の音楽家の使命である。/残る問題は一つである。大衆に良い音楽を与えるには経済的負担を軽くしなくてはならないが、その際、作曲家や演奏家の生活権をいかにして保証するか、ということになる。従来の自由主義的思潮のもとでは聴衆が直接ペイしてきたが、結局国家なり公共団体がその任に当たらなければならないだろう(もっとも、これは野村の夢である、と断っている)。
【2000年7月29日記】
◇農村生活と民謡/露木次男(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.43-45)
内容:その土地で作られた民謡と余所から伝わってきた民謡がある。秋田の場合、前者は「おばこ節」「秋田音頭」、後者は「岡本新内」などがその例に当たる。しかし数年前、たくさんの新民謡が作られたにもかかわらず、どれ一つ残っていないのは不思議である。/祭事、仏事、祝事にみられる行事の簡略化、仕事の型の変化などにより、民謡の生かされ方が変ったり、忘れられたりする。/今年の夏、隣組を通して盆踊りを踊るよう指令があった。しかし、その盆踊りは従来からのものでなく新しい盆踊りだった。音楽の大衆化とは、東京で作られた音楽を地方に移植させるばかりでなく、古くから伝わるものを受け継がせることも大いにあってよい。古くからのものを捨ててまで、統制で決めていくのは疑問だ。/さいきん農村から取材した芸術作品が多くなってきたが、そのほとんどが農村を弱々しく、悲愴的に描いている。この点を、先日出席した翼賛会文化部部会で、誰もが憤慨していた。中央の芸術家たちは、もっと考えてほしい。
メモ:翼賛会文化部部会というのは、秋田地方のそれなのかどうか? 日時も含めて具体的な記述がないのでわからない。
【2000年7月30日記】
◇日本歌曲の諸問題<座談会>/木下保 薗田誠一 四家文子 加古三枝子 久保田公平 園部三郎 山根銀二(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.46-67)
内容:どうしたら日本によい歌曲が生まれるか? 園部が、:シューベルトの歌曲のような、良い歌曲が生まれること自体が大切だと思うが、独唱会なり演奏会などでは外国人の作品に感動を多く感じられる。日本人作曲家に歌手の立場から求めたいものを率直に言っていただくことが一つの糸口になると思う、と切り出す。歌手たちからは、音楽会全体としてまとまったプログラムを作りたい、また大きなステージには大きな曲がほしい(木下)、短すぎてスケールが小さい(四谷)、小細工がきく作品になってしまい、それもドビュッシーの模倣だったりして(加古)、といった意見が出る。詩について 歌は、その国の言葉が基本だと思うが、われわれが歌っている歌は日常語ではない。詩は、視覚が中心になって言葉の美から離れているために、新しいものが音楽化されずにいる、と久保田が指摘する。これに対し、日本の歌が良くない原因のすべてを詩に押し付けてしまうのは間違いだ。ミュラーのひどい詩に、シューベルトは立派な音楽をつけている、と山根から反論が出る。生きた歌 良い歌が作られるだけでなく、歌がよく歌われなければならない、と山根。薗田が、日本歌曲には、詩と音楽が良く結合しているものが少ないと思うと指摘し、だから、今の日本歌曲の作曲に関しては良い音楽が生まれてこなければいけないと思う、と続ける。また薗田は、歌い方については、正しい発声法でなければダメで、美声であることは得ではあるが尊敬には値しない、とも述べている。山根は、歌うテクニックがないと、ほんとうに感動的な歌にならず,生活から離れてしまう、と結んでいる。語学 語学の貧困を言うようだが、日本語で歌っていると素直に日本語を感じられるが、原語の場合は、それに浸りきれない、と四谷が発言。山根がこれを、いや、もっと深い問題だと位置付け、詩は、もちろんよく理解しなければならないが、その内面に感受性でもって入り込んでいけなくては問題にならないとフォローしている。続けて山根が、歌手が自分の受ける感銘をもとにしていない歌は聴けないと述べると、薗田が、その場合、人の心に訴えるというのは、やはりテクニックの力だと思う、と指摘する。このあと山根は、自説を裏付ける例としてパンゼラの歌うリートを例に出し、パンゼラ自身のリートになっているから良い、と言う。真実の感動 山根が、よく歌手が象牙の塔にこもっていると非難されるが、シューベルトやワーグナーを歌うことが国民生活やそこから生まれる感情の世界と関係ないように扱われている点を打開する必要があると指摘すると、木下が、歌手の側でも、自分が感じるものをどう表現したら一般の人に通じるかというテクニックの研究が案外できていない、と応じている。さらに園部が、日本語の歌の芸術的表現についてはどうか? と尋ねると、木下から母音と子音の研究がなおざりにされている、との返事が返ってくる。さいごに若い声楽家へ 木下、四谷から、さいきん日本語の歌曲を教えてくれといわれると報告され、加えて木下は、大向こうをねらう曲や、オペラアリアを教えているのは愚劣だと思う、と言う。このあと出席者たちは、声の問題を取り上げ、若さにまかせて出す声でなく、訓練された声を身に付けてほしいと結んでいる。
【2000年8月21日記】
◇いろはの研究(日本歌曲を勉強する人へ)/三浦環(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.68-70)
内容:音楽を学んだ日本人が歌う日本語は何を言っているか判らないことが多い。第一の原因は音楽家が西洋にかぶれ過ぎて、西洋人のように歌わなければ上手に聞こえないだろうと考えることである。第二は、歌う日本語の文章をよく理解していないことである。音楽を学ぶには日本語をそんなによくできなくてもいい、という間違った考えがある。第三に、歌曲は言葉よりも音を主とするということがある。日本語がついた場合は日本語を主として考えなくてはいけない(これは、たとえ西洋音楽の訳詞でも同様である)。さいごに発音法・発声法が正しくないことである。発音法が正しくないと音がにごる。発声法とは声を出すときに充分呼吸を用意していないと、音が続けられなくなったり、言葉が中途から出てわけのわからぬものになる。「いろは」は、それ自体が立派な文章になっており、その一字一字を長い音で発音、発声してみるとよい。三浦は「此様にして之から研究して見やうと自分も思ひます」と述べている。
【2000年7月31日記】
◇邦楽の教養(日本歌曲を勉強する人へ)/藤原義江(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.70-71)
内容:日本歌曲を独唱会で歌ったのは自分が最初ではないかと思う。翻訳ものと日本人の作曲の場合では、発声上の苦心が異なる。オペラの場合、日本語の一言一句を分らせることは、そう必要と思わないが、日本歌曲は言葉が分らなければいけないと思う。/自分が歌う日本歌曲の言葉が分る理由は、若い頃、清元や哥澤を夢中にやったことが役立っていると思う。延壽太夫や松永和風のレコードを聴いても日本語は半分くらいしかわからない。「からたちの花が咲いたよ」の「た」や「ち」の発音が少しくらいハッキリ聞こえなくても良いのではないか。世界中どこの国の歌を聴いても、言葉が一言一句きちんと分るようなものは無い。ただしフレーズだけは、ちゃんと分らせなければならない。(談)
【2000年8月2日記】
◇軽音楽の行方 ― Xさんへの手紙/尾崎宏次(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.84-88)
内容:以前は軽音楽ファンだったが、近頃は絶望に近いものを感じている。ところが世間では滅茶苦茶に喜ばれている。しかし、軽音楽は生活に近いとか感覚的だとかいう理由で、軽音楽が興行という商業主義に呑み込まれていくのを看過しているのが聴衆なのだ。/戦争に協力しなくてはならない日本の文化のうち、1942年12月8日の芸能報国の行事が完全にオミットされているのは、軽音楽のみである(1942年12月5日夜の時点)。軽音楽の建て直しを図るには作曲家の協力を切望する。/軽音楽は一曲の演奏時間も短く、一つの曲目に重点がおかれるより、いくつかの演奏曲目のヴァラエティに主点が置かれてきたようだ。先日の軽音楽大会でも、前年の演奏曲目とほとんど同じものが並んでいる。腕のいい櫻井潔の楽団などが、何百円かを投じて作曲家に作曲を依頼するなどして、発展に寄与してもらいたい。/いま日本は南方を占領しているが、その地域では軽薄なアメリカ文化が沁みこんでいる。そのアメリカのジャズは、数年前には全世界に流行したことを忘れることはできない。日本に立派な軽音楽が続々と生まれれば、南方ばかりでなく世界の諸国を征服する日がくるかもしれない。このくらいの夢は持ちたい。
【2000年8月4日記】
◇日本的軽音楽の建設/桜井潔(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.89-91)
内容:1937(昭和12)年6月5日、九段の軍人会館で行なった櫻井潔の発表会で、外来の曲に日本民族的色彩と曲想を加味した編曲と演奏法により、「日本的軽音楽」の第一歩を踏み出したが、酷評された。/軽音楽の使命は重大だが、日本の軽音楽界は英米のジャズの型に依存されすぎ、「健全娯楽」の任務も果たしえない。このことについては、演奏家協会内部の第三金曜会というもので頭痛の種となっているが、日本によい軽音楽曲がないこと、軽音楽団の演奏曲目が外来の作品に依存するほかない。日本の作曲家に対し、国家と軽音楽団のために、よい軽音楽曲を書くよう懇願する。国民的感情や国民的精神を基調とした軽音楽曲が作曲されてこそ「日本的軽音楽」は建設されるであろうし、またこのことは急務である。
メモ:演奏家協会内部の第三金曜会は、軽音楽界のマスタークラスが集まり、討議、研究を図り、取締官庁の係官と、その質的向上について懇談する機関だという(p.90)。
【2000年8月5日記】
◇国民合唱について/弘田龍太郎(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.92-93)
内容:[国民合唱のような]一般向けの作曲について、近年は旋律や律動の歌いにくさが一掃されたばかりか、以前は歌うのが「無理」と思われていたものも、いまでは平気で歌われている。/今の国民合唱は二部合唱で、混声の時は女声が高音部を、男声が低音部を歌うことが多いが、逆の場合もあるので、そのつもりで作曲する必要がある。伴奏も難しすぎない程度、つまり中等学校用程度のものを用意したい。/国民合唱は放送協会音楽部が企画したもので、成功したものである。放送は夜8時前のわずかの時間だが、その時間帯は視聴者にも好都合で、2週間に渡ってだいたい6回続けているのも良い。放送は10〜15分以内だが、1曲6分というのがあって慌てたことがある。これでは2回歌えば時間がほとんどなくなり、指導の話すら思うようにならなかった。今年も、放送協会が企画したこの時間を有意義たらしめたい。
【2000年8月9日記】
◇ラヂオ短評/露木次男(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.94)
内容:1942年11月12日。井上園子(ピアノ)、日本交響楽団、ローゼンストック(指揮)でリストの『ピアノ協奏曲第1番』。11月15日。山田和夫作曲『鉄道交響楽』。オーケストラ曲だが、演奏者は記されていない。「第三楽章に至ってオネガーのパシフィック二三一號が其のまゝ出て来た」と批判されている。[→メモ欄参照]11月26日。高木東六のピアノ独奏。露木はラジオの調子が悪く聞きとれなかったが、終わりにドビュッシーの『花火』とファリア『火祭りの踊り』を弾いたと記録している。こういう曲目を弾かせたら、高木がわが国随一と称えている。11月27日。四谷文子(独唱)、日本放送合唱団、日本交響楽団、指揮者の記載なし。曲目はブラームスの『ハルツの冬の旅』。ラジオの調子が悪くよく聞こえないらしい。11月28日。宮城道雄『秋の流れ』[箏曲]、下聰完一『箏、フリュート、セロ三重奏曲』、伊藤超松『秋燕』[箏曲]。演奏者は記されていない。
【2000年8月11日記】
メモ:2月号の訂正記事によれば、11月15日「鉄道交響曲」の作曲者を山田和男[2月号の記載通り]としたが、山田耕筰の誤りとある。
【2000年8月30日記】
◇屬・日響・東京四重奏団(音楽会評)/寺西春雄(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.95-98)
屬澄江ピアノ独奏会
内容:1942年11月15日(於・軍人会館)。演奏曲目: ブラームス『6つの小品』、ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調 op.57 「熱情」』、ショパン『子守唄 op.57』、ラフ=ザウアー『リゴードン』ほか。/この日の屬は、コンディションが最上ではなく、特に前半落ち着きがなかった。
日響第3回定期公演
内容:1942年11月11日、12日。演奏曲目: ブラームス『交響曲第1番ハ短調 op.68』、リスト『ピアノ協奏曲第1番変ホ長調』。演奏者: 指揮=ローゼンシュトック、ピアノ独奏=井上園子/オーケストラは、どこか疲れを見せながらも近来にない快演をみせた。井上園子の演奏は、表情にとんだ演奏に到達していた。
東京四重奏団演奏会
内容:1942年11月23日、第1回演奏会(会場不明)。メンバーは、新響脱退組の黒柳、寺田、田中、橘で、新響在籍当時からカードライテ・クヮルテットとして放送などに活躍していた。演奏曲目: ベートーヴェン『弦楽四重奏曲第4番ハ短調 op.18-4』、モーツァルト『ピアノ四重奏曲第1番ト短調 K.478』(ピアノ=ローゼンシュトック)、ブラームス『ピアノ五重奏曲へ短調 op.34』(ピアノ=ローゼンシュトック)。/この団体は本当の意味の合奏へ進みつつある。松本四重奏団の真摯なまとまりをもつ合奏とともに、本邦室内楽演奏の質的向上が約束されて喜ばしい。
【2000年8月15日記】
◇平田美知子独奏会(音楽会評)/秋山準(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.98-99)
内容:1942年11月15日、日比谷公会堂に於いて。共演者は東京交響楽団と山田和男(指揮)で、演奏曲目はモーツァルトの『ピアノ協奏曲二短調 K.466』とハイドンの『ピアノ協奏曲二長調』である。当日の演奏は、独奏者の才能と山田和男の明快な指揮とが相俟って成功したといえよう。
【2000年8月17日記】
◇藤原歌劇団の「ローエングリン」(音楽会評)/久保田公平(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.100-107)
内容:1942年11月23日〜11月29日、藤原歌劇団第16回公演、ワーグナー『ローエングリン』(於・歌舞伎座)。マチネーを含めて8回、日本語(堀内敬三訳)による公演で日本初演された。スタッフは、指揮:グルリット、管弦楽:東京交響楽団、演出は記載なし、装置・衣装:三林亮太郎。キャストは、藤原義江(ローエングリン)、下八川圭祐、林鶴年(ドイツ王)、長門美保、磯村澄子、笹田和子(エルザ)、佐藤美子、井崎嘉代子(オルトルウト)、日比野秀吉(告知役)。/藤原歌劇団の歌手たちのもつ音楽と、グルリットのもつドイツ的なものは不一致であるが、ここではグルリットのワーグナーに対する信念によって音楽的に統一され、歌手たちはグルリットの体験に学んだ。しかし、歌手たちの声量不足、合唱の貧困、装置や衣装の弱体化といった面も見受けられた。また歌唱における日本語の発音、発声が未確立である今日、日本語によるワーグナーをもう少し研究する必要があったと思う。[なお、歌手一人一人に対する批評は略す。]
【2000年8月17日記】
◇編集後記(『音楽公論』 第3巻第1号 1943年01月 p.122)
内容:誓 「大東亜戦争二度目の新年です。勝負はまさにこれからです。戦ふ皇軍にことかヽせぬやう、あくまで生産を増強し勝って勝って勝ち抜いて敵を降参させませう。國内も戦場です。すべてが戦争生活です。誓って、すめらみたみの限りなき、戦力を発揮いたします」/そのほかには、今月号の記事について若干の説明が記されている。
【2000年8月23日記】
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