『音楽公論』記事に関するノート

第2巻第12号(1942.12)


音楽紀行・5 ― シリングス教授の印象/京極高純(『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.26-30)
内容:マックス・フォン・シリングスについて 1868年4月19日生まれで、1919年にプロイセン国立歌劇場指揮者となる。ひきつづきベルリン国立歌劇場ゲネラル・インテンダント(総監督)としてオペラ界に貢献している。また作曲家として、オペラをはじめ管弦楽曲、歌曲、弦楽曲などを多数残した。なかでもオペラ「モナリザ」は、1924年、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演されたほか、世界各国の歌劇場で好評を博した。夫人はソプラノ歌手バルバラ・ケンプで、かつてはベルリン国立歌劇場のR.シュトラウスの「サロメ」などで一流の歌手として知られた。シリングスは1933年9月24日に死去した。/京極とシリングスの会見 1931年9月8日、京極が2度目のベルリン訪問の際に会った。紹介者はウィーンのビトナー教授。昼、京極がシリングスに電話すると、ちょうどその日の夜に自作の『プファイエルターク』がベルリン国立歌劇場で上演されるので、いっしょにオペラを見た。シリングスは午後7時にホテル「アドロン」に迎えに来て、作品についての話などを聞く。ただ、こうした形では社交の域を出なくなってしまった。なお、京極が滞在していたホテル「アドロン」は歌劇場のそばにある高級ホテルだという。1回目のベルリン滞在時には兼常清佐に教えられたパンシオン・シュタイプラッツというところに泊まった。/当日のシリングス『プファイエルターク』のスタッフなど 作曲:マックス・フォン・シリングス/指揮:エーリッヒ・クライバー/演出:フランシ[ママ]・ルードウヰヒ・ヘールト//15世紀末のエールザスを舞台にした作品で理解は難しかったが、後日、ベルリンで会ったレオニード・クロイツァーより親切な説明を受け、よく理解しえたという。
メモ:1)指揮者のクライバーは、当時ベルリン国立歌劇場の主席指揮者だとシリングスが説明している。 2)京極は1932(昭和7)年帰国。その翌年にシリングスが亡くなったという。 3)この音楽紀行は、今回で打ち切り。
【2000年6月20日記】
流行歌論< 座談会>小川近五郎 中山晋平 園部三郎 伊藤武雄 山根銀二 (『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.32-51)
内容:わが国の流行歌は、正しい道にのってきているか? をテーマに座談会が設定されているが、小川近五郎を中心として話が展開している。/小川近五郎  8年間、内務省でレコード検閲しているが、レコードで容認する流行歌の目安を発見するために「レコード文化協会」という機関で、専門的立場の人に研究してもらって手がかりを得ようとしている。さいきんは、取締上は無難になっている。現在は[小川は]情報局情報官兼任だが、やはり内務省の立場から考える。取締権をもった内務省が陣容を整えて指導に乗り出すのが妥当と考える。過去に非常にのびのびした時代があったにせよ、今日は時勢をよく見抜いて道を発見しなくてはならないと思う。日中事変以来、レコード会社は映画業者や出版業者と比べて楽をしてきたので、この点をよく考えてほしい、と発言。山根銀二が、 レコード文化協会じたいにも、その点をよく考えてもらいたいと注文をつけている。/小川:  中山晋平先生が「波浮の港」や「東京行進曲」をレコードに入れ、ひじょうにアピールした。これらは民謡を中心にしたノーマルなものをもっていたが、昭和になってコマーシャリズムによって混乱が生じ、大衆に迎合するようになった。そして1934(昭和9)年、レコードの取締りが始まった。流行歌に対する指導者もなかった。現在は、退廃的なもの、退嬰的なもの、時局にそぐわない軟調の大衆音楽はレコードにおいては遮断する。レコード文化協会では内務省から審査主任を出して[レコードの]企画審査を行なうようになり、日本音楽文化協会でも監視しているわけだ。記者が、いわゆる流行歌の作曲家は、ほとんどが浅草出身で常に民衆といっしょに楽しむという考えをもっていたが、芸術的作曲家は民衆より一段高いところにいるという考えをもっていると言っている。どう考えるか? と問うた。民衆の中にありすぎて、少しも高いものを与えられなかった。ひとりで気取っていた(小川、伊藤、山根)。中間的で、健康な明るいものができればいい(伊藤)。そのためには大衆音楽に天才が現れてほしい(山根)。それが出ない(小川)、とも嘆いている。/その後、歌手として灰田勝彦、李香蘭、霧島昇が、作曲家として佐々木俊一、宇賀神、古関雄而などが品定めされている。さいごに、記者から、この間の日本音楽文化協会の巡回演奏で日立に行った伊藤に、合唱指導をした感想を聞いている。伊藤は、みんなが歌いたがっていたと報告している。
2000年6月30日記

◇ピアノ(第11回音楽コンクール評)秋尾みち『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.52-57)
内容:1942年11月2日夜にピアノ公開審査が行なわれた。伊藤少年の第1位獲得は異議のないところだが、ほかの5人はどんぐりの背比べだった。着実で地味な点は同情がもてるが、一方何か無気力な印象が残る。技術第一義に陥った結果と思われる。/畑川美津子 バッハの『前奏曲とフーガ 嬰ハ長調』、シューベルトの『即興曲 ヘ短調』、ショパン『諧謔曲』[スケルツォのことか?−小関]を演奏。音色が悪くて、テンポが揺れる傾向がある。 南千枝子 バッハの『前奏曲とフーガ ト長調』、ブラームス『狂詩曲 ホ長調』、ショパン『諧謔』を演奏。演奏が平凡で面白くない。 望月勝世 バッハの『前奏曲とフーガ 嬰ハ長調』、リスト『演奏会用練習曲 変ニ長調』、ショパン『諧謔』を演奏。無造作に弾いた。 石濱和子 バッハの『前奏曲とフーガ イ短調』、リスト『森の囁き』、ショパン『諧謔』を演奏。非常にメカニックな演奏をするが、知的な品のよさがある。 堀昭子  バッハの『前奏曲とフーガ 嬰ハ長調』、シューベルト『即興曲 変ホ長調』、ショパン『諧謔曲』を演奏。はらはらさせる演奏なのだが、もっと堅実にピアノ的な技巧を学んでほしい。 伊藤裕 バッハの『前奏曲とフーガ 変ホ長調』、ドビュッシー『水の反影』、ショパン『諧謔曲』を演奏。音楽的な演奏をした。フィンガーテクニックがもっと洗練されると、将来の期待が持てる。
【2000年6月22日記】
◇提琴(第11回音楽コンクール評) /後藤望 『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.57-59)
内容:1942年11月4日のコンクール絃楽部を聴いた。課題曲はヴュータン『ヴァイオリン協奏曲第4番』。難解な技術を要するが高度の芸術性が要求されているか疑問な課題曲である。/宮下敬司 大きな失敗をしたがボーイングは優秀だった。 大津日出 線の細い演奏である。 植野豊子 感情にまかせて弾いていてが、リズム、フィンガリング、音の強弱に対する鋭敏さなどに将来性を感じた。 増門ニ 四人の中では最も難のない完成された演奏だったが、魅力もなかった。
【2000年6月27日記】
◇声楽(第11回音楽コンクール評)/久保田公平 『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.59-63)
内容:馬金喜 ドイツ語の発音は明瞭であったが、発声は未完成だった。神須美子 平井保喜『九十九里濱』を歌った。音程と呼吸に注意を要する。日本歌曲を課題とした点は喜ばしいが、より一層努力を望みたい。
三好百合子 好感は持てるがスケールは小さい。石川幸 『わが宿』と『ラ・ファヴォリータ』からのアリア。当夜、一番完成した歌唱だった。宮本鞠子 『砂丘の上』を歌った[神の項に書いてあった]。型は整っているが勉強が足りない。矢島信子 声も内容も薄手。富田正牧 『マルタ』より。それとR.シュトラウス『小夜曲』を歌った。発声のポジションが狭く、響いてこない。石塚靖 入隊直後、軍の理解によって出場できたと聞く。『わが宿』と『ルクレチア・ボルジア』よりアリア。/コンクールの日時は記載なし。演奏曲目は書いてあったり無かったりである。
【2000年7月1日記】
器楽(第14回新人演奏会評)/寺西春雄 『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.64-67)
内容:1942年10月30日、共立講堂で。半年間の修業年限短縮があったのでこの時期に新人演奏会が行なわれた。ヴァイオリン2人、ピアノ10人について短評を残しておく[断り書きがない限り、ピアノ演奏]。/高島妙子(武蔵野) バッハ=ブゾーニ『シャコンヌ』。粗雑な演奏。伊達良(上野) ヴァイオリン。ヴァイターリ『シャコンヌ』。演奏家らしい迫力に欠ける。古藤千代(神戸) バッハ『トッカータとフーガ ニ短調』。悪くないが、細かいニュアンスの変化に心を配ってほしい。光山信玉(国立) バッハ=ブゾーニ『シャコンヌ 二単調』。ペダル過剰。小杉博英(大阪) ヴァイオリン。ヴュータン『ヴァイオリン協奏曲ト短調』。きれいな運弓から清潔な音色が出ていたが、解釈にも清潔さを求めたい。内田映子(上野) リスト『練習曲』よりハ長調とヘ短調。一応基礎はできているが、内面的な心情に食い入るだけの余裕が無い。西田信子(武蔵野) リスト『バラード』変ニ長調。せせこましい演奏。長谷川久子(上野) リスト『タランテラ』。テクニックも具え、内面的なものも把握している唯一の人だが、後半にだれたのが惜しまれる。長井克、船城豊子(大阪) ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第4番』第1楽章。第2ピアノの楽器がひどい代物で気の毒だった。第1ピアノの長井は達者に弾いていたが曲の理解は不充分だった。第2ピアノの船城は少し落ちる。池田菊(東洋) リスト『演奏会用練習曲』より変ニ長調。弾き方に綿密さが乏しく、お供充分出ていない。荒川稜子(武蔵野) バッハ=タウジッヒ『トッカータとフーガ 二短調』。ペダルを濫用。なぜタウジッヒの編曲を使用したのか理解できない。阿保はつ(相愛) ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第23番 「熱情」』第1楽章。技巧未完成。/全体的に実力低下は如実な現実となった。学生は修業年限が短くなり、そのうえに勤労奉仕、教練などにエネルギーを割かれているが自己の能力を倍加せしめるよう努力することだ。
【2000年7月3日記】
声楽(第14回新人演奏会評)/久保田公平 『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.67-71)
内容:総体的に質的低下が印象に残った。原因は、第一に今回の新人たちが太平洋戦争以前の音楽学校における不安な状態の中を通過してきたこと。すなわち、もっとも大切な時期に技術の勉強から遠ざかるのではという不安をもち、技術以上のものを戦時下の生活から学ぶということができなかったこと。第二に戦時下の新しい時代的情熱の発芽が、才能と技術に平行しなかったことも考えられる。第三に卒業時期の短縮がある。/益子万里子(上野) 当夜の歌では一番しっかりしていた。白川義常(日本) バリトン。本間きよ(帝国) アルト。サン=サーンスの『サムソンとデリラ』より。城須美子(日本) ソプラノ。絶叫につぐ絶叫だった。水上房子(武蔵野) ソプラノ。モーツァルト『フィガロの結婚』より。輝かしさのない演奏。小林榮子(中央) ソプラノ。園田茂(東洋) テノール。プッチーニ『ラ・ボエーム』より。金田惠子(東洋) ソプラノ。石井好子(上野) メゾ・ソプラノ。こもった声。平山道良(日大) テノール。未完成。
メモ:日時、会場は不明。
【2000年7月5日記】

杉浦真美子独唱会(音楽会評)久保田公平 『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.72-73)
内容:1942年10月13日、青年館で行なわれた独唱会の後半のみ聴いた。関谷敏子門下で、リサイタル開催当時はノタルヂヤコモ女史に師事していた杉浦は、劇的な歌唱、迫力ある声量と音色はわが国のオペラ界にとって今後貴重なプラスをもたらすと思われる。ただし、抒情的なもの、静かな悲哀、陰影などに、ある感情の持続ができなかった。反省点である。
メモ: 伴奏者、プログラムなどは記載なし。
【2000年7月7日記】
小島静子独唱会(音楽会評)/加田潔 『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.73-74)
内容:1942年10月14日、日本青年館で小島静子第一回独唱会が行なわれた。演奏曲目は、シューベルト『ガニュメード』『泉の邊の若者』、ブラームスの『嘆き』、信時潔の『短歌連曲』、簗田貞の『蜘蛛』。このほかにオペラ2曲を歌ったが、そのうち1曲は伊藤武雄を賛助出演に迎えた二重唱だった。小島は伊藤に押されて歯が立たなかった。
メモ:演奏曲目が上記ですべてかどうかは不明。
【2000年7月7日記】
辻久子と日響定期(音楽会評)/寺西春雄 『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.75-76)
辻久子四大協奏曲の夕
内容:1942年10月16日および17日、ローゼンシュトック指揮の東京交響楽団の伴奏、会場は記載されていない。ローゼンシュトックと東響の顔合わせは初めてだが、見違えるばかりの活気に満ちた演奏をした。辻の演奏曲目はブラームス、チャイコフスキー、メンデルスゾーン、ベートーヴェンの4曲の協奏曲。うち、第一夜にチャイコフスキーが演奏されたことは明記されているが、他の3曲がどちらの日に演奏されたかは書かれていない。/辻がこの二晩にわたって比較的輝かしさを示しえたのは、東京交響楽団の若々しさが反映したこととローゼンシュトックに対する信頼感から来るものといって過言ではない。チャイコフスキーの鋭い左手の動き、ブラームスとメンデルスゾーンに散見された清純さは、いままでに見られなかったところである。
日響定期
内容:日時と会場は記載なし。尾高尚忠指揮の日本交響楽団第2回定期演奏会では、平尾貴四男『砧』、フランク『交響変奏曲』(ピアノ独奏:草間加寿子)、ブルックナー『交響曲第4番』が演奏された。この日のオーケストラは空前の拙劣さを示した。
【2000年7月10日記】
松本四重奏団と永井進(音楽会評)/園部三郎 『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.76-78)
松本四重奏団
内容:1942年10月19日、松本四重奏団第2回演奏会。演奏曲目はベートーヴェン『弦楽四重奏曲第15番 イ短調 op.132』、同『弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調  op.135』。演奏会場は記載なし。/合奏が上達し、四重奏としてのまとまりに幅らしいものが感じられるようになった。
メモ:松本四重奏団は、旧フィルハーモニー・クワルテット。
永井進のピアノ独奏会
内容:1942年10月28日、東京音楽学校助教授、永井進の第1回独奏会。ローゼンシュトック指揮の日本交響楽団をバックに、リスト『ピアノ協奏曲第1番』とベートーヴェン『ピアノ協奏曲第5番 「皇帝」』の2曲を演奏した。/技巧的な破綻もなく、磨き上げられた精巧さを示しながら、楽曲全体としての感動が印象付けられなかった。
【2000年7月10日記】
ラヂオ短評/露木次男 『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.80-81)
内容:1942年10月19日。手風琴[=アコーディオン]独奏・長内端によりリストの『ハンガリー・ラプソディ第2番』。10月21日。ヴァイオリン独奏・諏訪光世。モーツァルトの『アダージョ』ほか。伴奏者は記載されていない。本文には「松永和風氏等の名演奏の後を継いで諏訪光世氏の演奏は少なからず聞きおとりがする」とあるが、[小関には]意味がわからなかった。10月27日。レスピーギの組曲『鳥』。演奏は大阪放送管弦楽団。指揮者は記載されていない。10月30日。ヴァイオリン独奏・江藤俊哉。『カルメン幻想曲』ほか。伴奏者の記載なし。10月31日。平尾貴四男作曲の交響詩『きぬた』。尾高尚忠指揮日本交響楽団。露木は、この作品をフランスの水彩画のような曲だと延べ、今われわれが求めているのはもっと豪壮雄渾な芸術である、と批評している。11月3日。杵屋勝五郎と杵屋佐之助で長唄『明治節』。11月6日。ピアノ独奏・原千恵子で、シューマン『謝肉祭』。11月7日。琴・三味線・ピアノ三重奏曲『蝶々』ほか。演奏は、宮城道雄(箏)、稀音家六治(三味線)、和田肇(ピアノ)。
【2000年7月11日記】
◇藤原歌劇団へ上野出身者志願 『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.81)
内容:さいきん東京音楽学校の卒業生が、藤原歌劇団にテストしてほしいと申込みが続出しているという。本誌8月号で、野村光一が、同校卒業生が歌劇運動に飛び込んでこないと憤慨したせいかどうかどうか不明だが、藤原[義江]は野村に感謝しているそうだ。
【2000年7月15日記】
蜜田善次郎氏『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.81)
内容:今回、日本ビクター蓄音機株式会社文芸部長に就任した。
メモ:具体的な日時は不明。
【2000年7月15日記】
東北巡回演奏感激記/山本直忠 (『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.82-86)
内容:音楽報国運動第1回巡回大演奏会(日本音楽文化協会、朝日新聞社主催、情報局後援、財団法人職業協会、東京交響楽団賛助)が1942年10月19日より23日まで、日立市、仙台市、盛岡市、青森市、秋田市で行なわれた。一行は、情報局第5部第3課・井上課長、同課・斎藤國夫、日本音楽文化協会・山田耕筰副会長、同協会より野村光一常務理事(先発)、山本直忠理事、松尾事務主任、朝日新聞社学芸部・相島敏夫、同社企画部・太田照彦(先発)、東京交響楽団・早川彌左衛門、同団・桂近乎、団員53名、独唱者として伊藤武雄、辻輝子(ソプラノ)の合計65名。/1.日立市 1942年10月19日午前10時半に一行は上野を発ち、午後2時日立駅に到着。演奏は野外演奏で、会場には20,000人以上の聴衆が来ていた。第一部は、国民儀礼の後、各種挨拶(山田耕筰、井上課長も含む)が続き、日本音楽文化協会評論部の桂の講演で終わる。第二部は、『ウィリアム・テル序曲』(山本直忠指揮)、渡邊浦人『野人』(山田耕筰指揮)、『本庄追分』『闘牛士の歌』など(以上、伊藤武雄独唱)、『あkらたちの花』『松島音頭』など(以上、辻輝子独唱)。次に伊藤武雄による歌唱指導で厚生省職業協会選定の勤労報国隊歌『楽しき奉仕』。シューベルトの交響曲「未完成」(山田耕筰指揮)、最後に会衆一同とともに『愛国行進曲』(早川彌左衛門指揮)。/2.仙台市 [日時は明記されていないが、10月20日と思われる。]劇場での公演で、満員であったこと、東京とは比較にならぬほど熱心に聴くことが書かれている。演奏曲目については触れられていない。山田耕筰と辻輝子は所用のため仙台から帰京した。/3.盛岡市 会場はステージ、控室の具合もよく、演奏も良かった。ここでは、『ウィリアム・テル序曲』『野人』のほか、ベートーヴェンの交響曲第5番が演奏された。盛岡からは全曲を山本直忠が指揮。/4.青森 都合で、長島国民学校の講堂が会場となった。場内はもちろん、廊下、運動場にも大勢の人がつめかけた。/5.秋田 県記念館は大きな会場だった。団員一同も良いコンディションであった。伊藤が歌う『本庄追分』の作曲者・露木次男が本庄から聴きに来たので皆に紹介した。
【2000年7月15日記】
独唱会後日譚/加古三枝子 『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.87-89)
内容:先日リサイタルを開いた。最初のマルツェリーナのアリアは、好きな曲だが練習を重ねるうち、本当の価値は[オペラとして]上演しなければ解らないものだと思った。モーツァルトのアレルヤは一つの音もごまかせず、今回は自分の理想どおりに歌えなかった。シューマンの『民謡』と『ことづけ』は、コミカルな感情を出すのに苦労した。日本歌曲は、もっと入れたかった。ヴォルフの『秘めたる恋』の大切な箇所で、パウゼをとる重要性を勉強できた。マーラーの『ラインの物語』の解釈には、伴奏者・谷康子ともども困った。最後のシュトラウスの『君よ、さらば』『小夜曲』は、マーラーの苦心の後であるだけにエクスプレションがつけやすかった。
【2000年7月19日記】

巌本メリーと辻久子(読者評論)/川添勝治 『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.90)
内容:名曲鑑賞会で巌本メリーエステルの公開演奏が行なわれた。演奏曲目は、ブルッフの『ヴァイオリン協奏曲第1番』とベートーヴェンの『ヴァイオリン・ソナタ第8番』。ピアノ伴奏は、グルリット。選曲に成功し、いい演奏を披露した。対照的なのが、二日にわたって行なわれた辻久子の四大協奏曲演奏会だった。線の細い、萎縮した演奏は一種悲壮な感じを受けた。
メモ:巌本の主演した名曲演奏会の日時・会場は記載されていない。辻の演奏会も同様だが、この号の演奏会評では、1942年10月16日および17日とある。会場は記載なし。
【2000年7月18日記】
◇音楽コンクール入賞者 『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.91)
内容:1942年11月2日、4日にわたり行なわれた第1[ママ]回音楽コンクールの受賞者。■ピアノ■文部大臣賞/第1位: 伊藤裕(17) 第2位: 畑川美津子(20) 第3位: 望月勝世(18) ■ヴァイオリン■情報局総裁賞/第1位: 増門祥二(17) 第2位: 宮下敬司(19) 第3位: 植野豊子(17)■声楽■第3位:石川幸(24) 次席: 馬金喜(24)
メモ:この年の音楽コンクールは、第1回ではなく第11回。/声楽の第1位、第2位は記載なし。該当者なしか?
【2000年7月22日記】
◇編集後記 『音楽公論』 第2巻第12号 1942年12月 p.106)
内容:野村光一の『自伝』は、筆者が東北地方演奏旅行の疲労から今月も掲載できなかった。残念だが、打ち切ることにした。/その他、掲載記事についての趣旨など。
【2000年7月22日記】


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