『音楽公論』記事に関するノート

第2巻第5号(1942.05)


音楽と教養[座談会]特集・[2] 音楽と教養野村光一 園部三郎 土田貞夫 山根銀二『音楽公論』 第2巻第5号 1942年5月 p.36-51
内容:テーマは、どうしたら音楽愛好家が自分の音楽的教養を高めることができるか。このテーマに対して、数多く音楽を聴くことと強く感じること ―― 後者は音楽を自分の心で受け止め理解することらしい ―― と言っている。出席者たちがどうやって音楽的教養を得たかについては「我々自身が暗中模索した経験を伝えるだけ」(野村、p.45)として、各自の鑑賞歴を述べ合い、それらをめぐって意見を交換している。また、当時多く出版されるようになった音楽書を有効に使わせることに触れ、さいごに立派だといわれる音楽をたくさん聴き、すべての日本人がそれを家庭の音楽にしてしまおうと結んでいる。
メモ:テーマと議論が、うまく噛み合っていないように思われる・・・。
【1999年11月19日記】
声楽評(音楽会評)久保田公平『音楽公論』 第2巻第5号 1942年5月 p.58-62
菅美紗緒独唱会
内容:1942年3月20日、昼夜2回、於・日劇小劇場。/演奏曲目:越谷達之助『啄木によせて歌へる』(15曲、初演)。
メモ:菅は三浦環門下だと書いてある。また、本文中に「二人の出演者」ということばが出てくるが、共演者は明記されていない。/越谷達之助の作品だけで独唱会を歌ったそうだが、演奏曲目はこの曲だけだったのだろうか?
佐藤美子独唱会
内容:1942年3月21日、於・青年館。/演奏曲目は全プログラム、石渡日出夫の作品。深尾須磨子、中原中也の詩に作曲した作品や、『大詔を拝し奉る日』『落下傘隊に捧ぐの歌』などが歌われたようだ。/共演者の記載は無し。
【1999年11月25日記】
◇2つのチェロ独奏会 ― 井上頼豊氏と倉田高氏(音楽会評)/山根銀二『音楽公論』 第2巻第5号 1942年5月 p.62-65
井上頼豊独奏会
内容:1942年4月5日、於・産業組合中央会館。/演奏曲目: ボッケリーニ『チェロ協奏曲』[第何番かは不明]、ヘンデル『ソナタ』、ベートーヴェン『「魔笛」の主題による変奏曲』[12の変奏曲か、7つの変奏曲か記載がない]、ドビュッシー『チェロ・ソナタ』/共演者の記載は無し。
メモ:井上は、新交響楽団とフィルハーモニー絃楽四重奏団のチェロ奏者として知られ、今回が初のリサイタル。
倉田高独奏会
内容:1942年4月9日、於・日比谷公会堂。/演奏曲目は、ベートーヴェン『チェロ・ソナタ第3番イ長調 op.69』以外はわからない。/共演者の記載は無し。
【1999年11月25日記】
ラヂオ短評/露木次男『音楽公論』 第2巻第5号 1942年5月 p.66-67
内容:1942年3月12日。『戦捷囃子』、演奏は望月太左衛門社中。3月21日。和田肇ピアノ独奏。演奏曲目は記載なし。3月24日。前田環のヴァイオリン、小林のギター[ギター奏者のフルネームは不明]。演奏曲目は記載なし。3月27日。ベートーヴェン『ヴァイオリン協奏曲』。独奏は巌本メリー・エステル。伴奏者不明。4月3日。杵屋佐吉、今井慶松作曲長唄筝曲組曲『御まつりの春』。4月7日。江文也作曲『祝典奏鳴曲』。フルートは岡村雅夫、ピアノは萬澤恒。
【1999年11月27日記】
大木正夫論早坂文雄『音楽公論』 第2巻第5号 1942年5月 p.75-81
内容:大木は情熱の人だ(情熱過多で内省の余裕がない)。行動的積極的なので氏の情熱は芸術創作のうえに、音楽政治的活動のうえに良い結果をもたらしている。大木はまた主観的観念の強烈な人だ。このことが氏の作品に普遍性を失わせる主たる原因となっているが、氏の場合、むしろこれは美点である。氏は近年、民族主義的傾向に転進したが、これは氏にとって自然な変化だった。
今日の芸術は、作品の基底的な思想的条件として、悠遠崇厳な過去と輝かしい未来に期待する歴史的な思想的なロマンの心情に即した歴史的自覚をなさねばならぬ時代であるように思うが、大木はこのような時代性格を直感している。
大木はロマティスとである。ただ西欧的のロマン主義と違って、民族主義的、神秘主義的、人道主義的、瞑想派的、愛国派的などの一切の要素を包含していると感じる。氏の創作は美的夢幻の世界を憧憬するところから生まれる。そのため、「抽象的」性格を帯びている。純粋音楽に欠くべからざる抽象性と民族的色彩の統合は、大木の芸術においてかなり生かされている。
さいきんの作品は『狂詩曲第一』『羽衣』『提琴とティムパニーのための司伴楽』『名作萬葉集よりの挽歌ニ首』『鯨取り淡路の海に』『やすみしし我が大王の』『夜の瞑想』などがある。初期および中期の作品としては『工場交響曲』『鑛抗』『農民交響曲』『六つの小品』『五つのお話し』『信濃路』などで、すべて管弦楽。すでに今日の転身のモティーフが潜められているのも見逃せない。大木の日本的傾向のうち最も強い要素は「あわれ」的感情である。
【1999年12月4日記】
日本交響楽団誕生『音楽公論』 第2巻第5号 1942年5月 p.91
内容:新交響楽団は、情報局の斡旋と日本放送協会の出費によって「財団法人日本交響楽団」として新発足することとなった。1942年4月10日、帝国ホテルで設立総会を開き、理事長に小森七郎、理事に関正雄、清水順治、三井高陽、辻荘一、武井守成、有馬大五郎、監事に金指英一を選出。
東京交響楽団の新陣容『音楽公論』 第2巻第5号 1942年5月 p.91
内容:東京交響楽団は一部陣容の立て直しを図り、楽務常任幹事に桂近乎、福西潤、財務常任幹事に森上康夫を起用した。
メモ:いつのことか書かれていない。
【以上の2記事、1999年12月6日記】
レコード界藁科雅美 『音楽公論』 第2巻第5号 1942年5月 p.94
内容:日本音楽文化協会のレコード専門委員会が誕生し、理事、参与、評論部員その他からなる専門委員14名が発表された。委員会の性格は、わが国レコード界の文化政策を研究統一し指導する機関である。業者の団体であるレコード文化協会は、もっぱら技術的方面にタッチするものと信じられているが、文化面を日本音楽文化協会が指導するのは当然で、両者は切っても切れない関係を有する。/ポリドールから12インチ6枚からなる邦人作品レコード吹込みの企画があり、委員会に対して曲目推薦の委嘱があった。
メモ:委員会誕生の具体的な日時は不明。専門委員14名のうちに藁科雅美が入っていると書かれているが、他の13名については言及がない。/いつ、ポリドールから委員会に対しての委嘱があったのか不明。
【1999年12月8日記】
◇音楽に聴く大東亜/黒沢隆朝『音楽公論』 第2巻第5号 1942年5月 p.96
内容: p.97にビクターレコードの『大東亜音楽集成』の広告が掲載されている。本記事は、これを紹介するための文章だと思われる。/要約:10億人に及ぶ東亜の音楽についてどれだけ知っているか。満蒙支の民謡やその他の音楽についても充分な理解がなく、南方の伝統に生きてきた合奏音楽やインドの音楽についても同様のことが言える。/p.97の広告について:『大東亜音楽集成』(東洋音楽学会・監修)、ビクターレコードより。監修委員として、田辺尚雄、岸辺成雄、黒澤隆明、瀧遼一、桝源次郎。第1回配本=第10輯「インドネシヤ篇(上)」。その他に「満蒙編」「中華民国篇(上)(中)(下)」「仏印篇」「泰国篇」「ビルマ・マレー篇」「印度篇(上)(下)」「インドネシア篇(下)」「西南亜細亜篇」
【1999年12月11日記】
◇編集後記『音楽公論』 第2巻第5号 1942年5月 p.106
内容: わが国吹奏楽器の功労者で田辺楽器社長・田邊鐘太郎死去。「去る19日」とあるが1942年3月でよいのだろうか?/ほかにいくつかの記事(略)。
【1999年12月11日記】


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