『音楽公論』記事に関するノート

第1巻第2号(1941.12)

◇反省(音楽公論)/ 山根銀二(『音楽公論』 第1巻第2号 1941.12 p.18-19)
内容:日本音楽文化協会発会式は11月29日の予定。/情報局は新旧が交錯し混沌とした楽壇の情勢を分析し、正しく掴んだ。/日本音楽文化協会は楽壇活動の統括者として活動すべきだし、国策に対応すべきものとして着想された。日本音楽文化協会の定款作成は、この点を盛り込むのにさんざん苦労した。/日本音楽文化協会は楽壇の実態を把握し、新鮮な活動を保たなければいけない。
メモ:1巻1号で園部三郎は、発会式が遅くとも11月中旬に挙げうると書いていた。11月29日の予定に日時がずれたのはなぜか?/ 日本音楽文化協会の定款作成にかかわる苦労とは、具体的にはどういうことを指すのか?/山根銀二が記事を執筆したのは、文末より1941年11月16日とわかる。
【1999年7月12日記】
◇抽象的なるものへの欲求 ― 日本作曲界への提言/早坂文雄(『音楽公論』 第1巻第2号 1941.12 p.20-33)
内容:日本音楽の本質は詩歌、舞踊、物語などの具体的なものと結合するため、具体的表出に重点を置くので現実的なものとなってきた。尺八でさえ、人間生活の詠嘆的感情の生んだ、現実を根底としたものだ。これに対して西洋音楽は抽象的なもの、観念的な形而上性をもつ。抽象的芸術は形式において大きなものを生んだ。この抽象を本質とした知的構成の大きさと力、理論的な組織と力を取り入れるべきことを自覚すべきだ。われわれが今日創造的行為として営んでいるものは西洋音楽の様式においてであるとはいえ、その創造の具体的語法として日本的なものの探求をすすめているが、その作品の中に抽象性を組み入れることによって、一層深く広大な芸術的意味と内容を獲得できるのではないかと思う。
【1999年7月16日記】

声楽(第10回音楽コンクール評)/久保田公平(『音楽公論』 第1巻第2号 1941.12 p.46-49)
内容:1941年10月19日、第10回音楽コンクール第一夜「声楽公開審査」(於・公会堂)。/声の良さがフレージングや言葉に優先した結果になったことを指摘し、出演者の短評が続く。出演者は、韓平淑(ソプラノ)、大谷冽子(ソプラノ)、馬順南(ソプラノ)、垢木愛子(メゾソプラノ)、石井悠紀子(メゾソプラノ)、丸山きよ子(アルト)、山根一夫(テナー)、崔奉鎭(バリトン)、金烱魯(バス)、篠原慶人(バス)。演奏曲目は、書かれていない場合が多いため省略する。
メモ:会場の「公会堂」とは日比谷公会堂か?
【1999年7月15日記】
ピアノ(第10回音楽コンクール評)秋尾みち(『音楽公論』 第1巻第2号 1941.12 p.49-52)
内容:この年の課題曲はショパン『12の練習曲 作品25』より第2番へ短調と第3番へ長調の2曲。/出演者の短評が続く。出演者は、上原弘江、畑川美津子、伊藤裕、金澤奈津子、日原加珠子、山田操子、加藤るり子、佐伯明子、渡邊正巳の8氏。/
メモ:日時、会場は記載なし。
【1999年7月15日記】
最近の音楽会から<音楽会評>園部三郎(『音楽公論』 第1巻第2号 1941.12 p.53-56)
東京交響楽団第二回定期演奏会
内容:1941年11月29日 日比谷公会堂。指揮:グルリット。/演奏曲目。J.S.バッハ:管弦楽組曲第2番 ロ短調BWV.1067、ベートーヴェン:レオノーレ序曲第3作品作品72b、ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68。
メモ:中央交響楽団が改称した後の第2回定期演奏会演奏会だと書いてある。/バッハはフルート1本のところ2本で演奏し、弦楽セクションも大人数であったらしい。
鈴木聡・井口基成演奏会
内容:1941年11月5日 日本青年館。/演奏曲目。ベートーヴェン:チェロ・ソナタ第2番ト短調作品5-2、同:チェロ・ソナタ第3番イ長調作品69、同:チェロ・ソナタ第4番ハ長調作品102-1。
メモ:鈴木聡は新交響楽団チェリスト。
豊増昇ベートーヴェン順演
内容:1941年11月10日 明治生命講堂。/演奏曲目。ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第27番ホ短調作品90、同:ピアノ・ソナタ第28番イ長調作品101、同:ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106。
【1999年7月15日記】
ベートーヴェン写真展覧会啓成(『音楽公論』 第1巻第2号 1941.12 p.76-77)
内容:展示する写真の解説。/日時:1941年12月2日−5日。会場:銀座 三越。
【1999年7月16日記】
山田耕筰曲 交声詩曲『大陸の黎明』<名曲鑑賞>坂本良隆『音楽公論』 第1巻第2号 p.89-90
内容:山田耕筰作曲の『大陸の黎明』がコロンビアから10インチ5枚組の組物として限定発売されることとなった。/この曲は、1941年7月7日、明治神宮外苑競技場で行なわれた聖戦4周年楽壇総動員大演奏会のためのものだった。/曲は5楽章からなる。/演奏者の記述は不完全で、独唱者に浅野千鶴子と木下保、合唱は放送合唱団とあるが、オーケストラと指揮者が明記されていない。
メモ:レコードの発売日や価格は記述がない。
【1999年7月19日記】
楽壇消息 (『音楽公論』 第1巻第2号 p.94)
宮澤縦一氏
内容:情報局第五部第三課の氏は、今回情報局情報官に栄進する。
メモ:具体的な日時は書かれていない。
瀬戸口藤吉氏
内容:1941年11月8日死去。11月22日、後楽会主催で追悼献楽式が公会堂で行なわれた。
メモ:11月22日の会場は日比谷公会堂のことか?
【1999年7月19日記】
◇日本音楽文化協会関西支部役員決定 (『音楽公論』 第1巻第2号 p.102)
内容:大阪音楽文化協会が、日本音楽文化協会最初の支部として1941年10月25日に創立総会を開催した。会場は記載されていない。/大阪音楽文化協会の役員リスト。支部長は未定、副支部長に永井幸次、石倉小三郎、幹事長に竹内忠雄ら。/京都音楽文化協会が、日本音楽文化協会の支部として1941年10月26日に創立総会を開催した。会場は記載されていない。/京都音楽文化協会の役員リスト。幹事長に中川牧三。
メモ:京都音楽文化協会に支部長は置かれていないのだろうか?
【1999年7月21日記】
◇国際音楽事業委員 (『音楽公論』 第1巻第2号 p.102)
内容:委員21名のリスト。
【1999年7月21日記】
音協会員募集 (『音楽公論』 第1巻第2号 p.102)
内容:会員募集の記事。協会の住所は、東京市京橋区銀座5丁目3番地。/1941年11月29日に発会式を挙げる予定。/作曲部、演奏部、評論部を専門家と区分けし、年会費6円、入会金1円のところ1941年度中の申し込みに限り入会金共5円とする。各種学校音楽担当者が入る教育部、素人団体の国民部は年会費と入会金が明記されていないが、同じ割合で割引がある旨記されている。
【1999年7月21日記】
◇協会試演会作曲募集 (『音楽公論』 第1巻第2号 p.102)
内容:1941年12月23日に村山スタヂオで行なわれる「第1回試演会」(非公開)を開催するに当たって、歌曲、独奏曲、弦楽四重奏曲、小室内楽、小合唱曲等を募集している。締切りは、1941年11月末日。日本音楽文化協会作曲部宛。
メモ:非公開としたのは、なぜだろうか?
【1999年7月21日記】
◇音楽コンクール入賞者 (『音楽公論』 第1巻第2号 p.103)
内容:ピアノ、絃楽、声楽、作曲(第一部=管弦楽曲、第二部=弦楽四重奏曲)の入賞者のリスト。文部大臣音楽賞は、作曲の渡邊浦人。
【1999年7月21日記】
◇編集後記 (『音楽公論』 第1巻第2号 p.104)
内容:瀬戸口藤吉が1941年11月8日に死去、11月22日「後楽会」主催により日比谷で追悼献楽式が行なわれた。瀬戸口は、1940年夏『音楽評論』誌の「海の音楽を唐津座談会」に出席した。/関屋敏子の死去がラジオで報じられた。具体的な日時は記載されていない。/東京日々新聞社主催の音楽コンクールが1941年11月19日、20日、21日に公会堂で行なわれた。/1941年12月2日から5日まで銀座・三越で属啓成収集の写真による「ベートーヴェン写真展覧会」を開催する。/
メモ:「後楽会」は海軍軍楽隊出身者で組織されていたことが、記事から判明。また、追悼献楽式はp.94の記事と併せて考えると日比谷公会堂と考えてよさそうだ。
【1999年7月21日記】



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