『音楽公論』記事に関するノート

第1巻第1号(1941.11)

◇音楽公論/園部三郎(『音楽公論』 第1巻第1号 1941.11 p.17-18)
音楽文化協会の設立
内容:1941.09.13、社団法人日本音楽文化協会の設立総会が開かれた。 /同協会の発会式は遅くとも11月中旬に挙げ得る。
音楽雑誌協議会
内容:従来15、16種あった音楽雑誌が5種に統合された。/この統合を機会として「音楽雑誌協議会」ができた。斡旋者は佐伯郁郎氏(情報局第四部第一課)。/協議会は一個の組織団体ではなく、全音楽雑誌の関係者が互いにその約束を強制し厳守するための親睦的集いであり、情報局の監督の下に日本音楽文化協会と緊密な連絡を保つ。/
【1999.07.04記】
◇音楽文化協会の近況を語る/辻荘一(談)(『音楽公論』 第1巻第1号 1941.11 p.42-46)
理事会の活動
内容:日本音楽文化協会の創立以後1ヵ月あまりのあいだに5回の理事会を開いた(各回4、5時間に及ぶ)。多くの問題が集中している。
厚生音楽への対策
内容:概念が不明確。/問題を整理するため国民部の理事を中心に、作曲、演奏、評論、教育各部の理事も加えて原理、原則をたてることとなった。/実行に移す際には、大政翼賛会、産業報国会、青少年団等に連携をつけていくつもりである。
地方支部組織
内容:地方と中央のあいだに誤解もあったが、まもなく1、2の支部ができる。
国際事業委員会
内容:「音楽と外交の会」が発展してできた委員会。
少国民音楽委員会
内容:近く設立されるべき「少国民文化協会」の音楽分科会となるべきものである。
音楽雑誌委員会
内容:雑誌の取締は内務省の管轄。/音楽雑誌の数は、用紙使用制限と輿論統一の必要から減った。/ちかぢか日本音楽文化協会が音楽雑誌の向上について力を貸すための特別の委員を設ける。これは内務省と情報局の配慮と、雑誌関係者の強調的な態度によってできた。

内容(見出しにないもの):楽器の製造に必要な金属の使用ができなくなる形勢があり、働きかけをした可能性がある。/作曲については近くオーディションを開催できるようにしたい。
【1999.07.04記】
◇木下保独唱会<音楽会評>/久保田公平(『音楽公論』 第1巻第1号 1941.11 p.53-56)
内容:木下保独唱会「R.シュトラウスの夕」(1941年10月5日 日本青年館)。伴奏者名は記載なし。演奏曲目は「睡蓮」以外わからない。
メモ:「睡蓮」は、本文では「水蓮」とある。『おとめの花』作品22の第4曲のことか? − 小関
【1999.07.06記】

◇内山文子独唱会<音楽会評>/山根銀二(『音楽公論』 第1巻第1号 1941.11 p.56, 58)
内容:内山文子独唱会(1941年10月10日 日本青年館)。伴奏者名、演奏曲目は明記されていない。/山根はコンクールの理事会とぶつかって、やっと休憩後の半分を聴いたという。
【1999.07.06記】
上野の第九<音楽会評>/久保田公平(『音楽公論』 第1巻第1号 1941.11 p.58-60)
内容:東京音楽学校定期演奏会(1941年10月12日 東京音楽学校奏楽堂)。/演奏曲目。ベートーヴェン:序曲「コリオラン」、同:ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15、同:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」(全曲)/演奏。東京音楽学校(管弦楽・合唱) 富永瑠璃子(ピアノ) 中山悌一(バリトン) ヘルムート・フェルマー(指揮)。なお、「第九」のソリストのうちソプラノ、アルト、テノールは記載なし。/
メモ:内容欄の演奏会名、演奏の項目に東京音楽学校と記載したが、本文では「上野」とあるのみ。
【1999.07.06記】
◇最近の音楽会から<音楽会評>/園部三郎(『音楽公論』 第1巻第1号 1941.11 p.61-64)
豊増昇独奏会
内容:1941年10月6日 明治生命講堂。/豊増によるベートーヴェン・ピアノ・ソナタ順演の第五夜。/演奏曲目。ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第22番へ長調作品54、同:ピアノ・ソナタ第23番へ短調作品57「熱情」、同:ピアノ・ソナタ第24番嬰へ長調作品78、同:ピアノ・ソナタ第25番ト長調作品79、同:ピアノ・ソナタ第26番変ホ長調作品81a。/
メモ:本文の演奏曲目の記述はピアノ・ソナタの作品番号によって表記している。
クロイツァー教授独奏会
内容:1941年10月10日 日比谷公会堂。/演奏曲目。ショパン:ピアノ・ソナタ第2番ロ短調、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111。ほか不明。/園部は遅れて行き、2曲目のショパンのソナタから聴いたとある。
メモ:1曲目の「パガニーニのエチュード」は誰の作品か書かれていない。
上野音楽学校演奏会
内容:東京音楽学校演奏会(日時と会場の記載はない)。/演奏曲目。ベートーヴェン:序曲「コリオラン」、同:ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15、同:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」(全曲)/演奏。東京音楽学校(管弦楽・合唱) 富永瑠璃子(ピアノ)山内秀子(ソプラノ)千葉静子(アルト)渡辺高之助(テノール) 中山悌一(バリトン) 。なお指揮者の名は記載なし。/園部は遅れて行き、ピアノ協奏曲の第3楽章から聴いたとある。
原智恵子のシューマン独奏
内容:新交響楽団第229回定期演奏会(1941年10月27日、会場の記載なし)。原智恵子(ピアノ)の記載はあるが指揮者は明記されていない。/演奏曲目。シューマン:ピアノ協奏曲。ほかは記載なし。/
【1999年7月7日記】
◇第10回音楽コンクールを迎へて/増沢健美(『音楽公論』 第1巻第1号 1941.11 p.66-67)
内容:音楽コンクールの基礎建設時代は解散前の時事新報者が、それを引き継いだ大阪毎日・東京日日新聞社も今日一応完成の域に運んでくれた。/本年度からは参加資格を広げ、東亜共栄圏に及ぼす前提として、日、満、華の三国人たることとした。
【1999年7月9日記】

◇砲煙弾雨下の音楽 ― 10月2日のAKよりの放送/上田俊次(『音楽公論』第1巻第1号 1941.11 p.68-70)
内容:砲煙弾雨の実践場では軍歌が効果を発揮した。例を挙げると
日清戦争の時:「元寇の歌」
日露戦争の時:「軍艦マーチ
上海事変の時:「敵は幾萬」
/外国の例も挙げられている。
メモ:筆者は情報局第五部第三課長
【1999年7月9日記】

◇支那の音楽文化瞥見/相島敏夫(『音楽公論』 第1巻第1号 1941.11 p.70-74)
放送のこと
内容:上海、南京、漢口などの知識階級の音楽は洋楽である。上海共同租界には少なくとも十以上の短波放送局があり、豊富な種類の音楽が流れている。/流行歌の旋律は東洋的だが、アレンジはジャズ化されている。
中日文化協会
内容:日本軍の占領地帯に組織されていて、本部は南京、支部が上海、漢口にある。会長は楮民誼。/漢口の支部には音楽以外の部門もある。ここには漢口音楽協会がある。/上海では1941年9月末、日華合同大音楽会をやった。/
工部局のオーケストラ
内容:上海には工部局のオーケストラがあるが経営難らしい(イタリア政府の補助金打切りのおそれあり)。指揮者はイタリア人のパーチイ。/前年度のオーケストラの具体的な活動「上海共同租界工部局年報(1941年版・生活社発行)」で触れている。同書で工部局音楽部があることがわかる。
音楽委員会
内容:工部局の音楽委員会の事業を「上海共同租界工部局年報(1941年版・生活社発行)」をもとに紹介している。
流行歌
内容:内地にいて軍歌のセンチメンタリズムを排撃してきたが、兵士と苦労とともにすると、これは間違いだと分かったと書いている。
【1999年7月8日記】
◇随想三題/尾高尚忠(『音楽公論』 第1巻第1号 p.74-79)
音楽雑誌の統制
内容:音楽雑誌が音楽家や音楽愛好家の勉学の実質的な資料となってほしい。
積極的な指揮と消極的指揮
内容:外見上、熱演をしてみせようという考えは邪悪だ。練習の時の約束以上にそう変化するものではない。クナッパーツブッシュのようにオーケストラにひかせておく方法は、オケ側にとってもひきやすいようだ。
在るピアニストからの手紙
内容:ヨゼフ・ディヒラーから。「柔らかなフォルテ」「響くpp」といった曖昧な教え方は良くない。他よりも弱いフォルテとか強いピアニシモというべきという説を紹介している。
【1999年7月8日記】
◇全国勤労者音楽大会に於ける挨拶 ― 10月26日AKよりの放送/湯沢三千男 関正雄(『音楽公論』 第1巻第1号 p.90-91)
湯沢三千男
内容:第1回全国勤労者音楽大会(日本放送協会・大日本産業報国会の共同開催)でのあいさつ。/工場・鉱山の職場に対する音楽の指導をし、職場音楽団の設置促進を図る。/ゆくゆくは、楽壇第一線の音楽家による楽団を職場に送り演奏会なども開催したい。
メモ:湯沢は、大日本産業報国会理事長。/大会の開催日は1941年10月26日か? 会場は?
関正雄
内容:第1回全国勤労者音楽大会(日本放送協会・大日本産業報国会の共同開催)でのあいさつ。/近来、厚生慰安運動の一つとして音楽が盛んになり、吹奏楽団や合唱団が続々結成され、産業戦士の士気の昂揚、情操の滋養に効果を上げつつあることは喜ばしい。
メモ:関は、日本放送協会業務局長。/大会の開催日は1941年10月26日か? 会場は?
【1999年7月8日記】
日本音楽文化協会各部役員内定 (『音楽公論』 第1巻第1号 p.96)
内容:日本音楽文化協会の評議員、作曲部、演奏部、評論部、教育部、国民部、少国民音楽委員に内定した各役員のリスト。
【1999年7月8日記】
編集後記『音楽公論』 第1巻第1号 p.102
内容:旧『音楽評論』『音楽新潮』が合同して『音楽公論』第1号ができた。/1941年10月30日夜『音楽公論』編集顧問会議。/『音楽公論』編集顧問12名のリスト。旧『音楽新潮』の主筆・柿沼太郎が編集顧問に加わっている。
【1999年7月9日記】


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