第108回: 東京二期会「皇帝ティトの慈悲」(新国立劇場オペラ劇場)

去る4月23日(日)、標記公演の最終日に行きました。まずはキャストとスタッフのご紹介からはじめましょう。

■キャストとスタッフ

ティト      高橋淳
ヴィテッリア  吉田恭子
セリヴィーリア 菊地美奈
セスト     谷口睦美
アンニオ    穴澤ゆう子
プブリオ    大塚博章
死       エマニュエル・ヌヴー


演出      ペーター・コンヴィチュニー
舞台美術    ヘルムート・ブラーデ
照明      マンフレート・フォス
ドラマトゥルク ベッティーナ・バルツ

フォルテピアノ 山口佳代
合唱      二期会合唱団
管弦楽     東京交響楽団
指揮      ユベール・スダーン



今年はモーツァルト生誕250年にあたりますので、モーツァルトの作品に接する機会は例年にもまして多くなります。東京二期会もいくつかのモーツァルトの作品を用意しているのですが、その第一弾として《皇帝ティトの慈悲》を取り上げました。このオペラは比較的上演される機会に恵まれません。見に行こうと思った第一の理由は、いわば珍しいもの見たさでした。それにくわえて今回の公演はハンブルク州立歌劇場との共同制作となり、演出はペーター・コンヴィチュニー。その演出をめぐって賛否両論真っ二つに評価が分かれることもある人だけに、どんな舞台を見せてくれるのかという興味もありました。行って良かったです、大いに舞台を堪能してきました。

話を進めるに当たって、まずオペラのあらすじを押さえておきましょう。

舞台は古代ローマ、先帝の娘ヴィテッリアは自分こそ今の皇帝ティトの妃になれるものと自分で決め込んでいましたが、ティトは親友セストの妹セルヴィリアを妃にすると言い出します。現代の私たちからみると不思議なことなのですが、この宣言はセルヴィリアの意思とは関わりなくなされてしまいます。セルヴィリアは自分には恋人がいるので妃になるのは勘弁してと皇帝に直談判にでかけます。皇帝は了解し、それならばヴィテッリアを妃にしようと心に決めますが、そうとは知らないヴィテッリアが怒り心頭でやってきて皇帝に不満をぶつけ、その後ヴィテッリアに恋しているセストに、早く王宮を放し皇帝を暗殺するようけしかけます。セストは渋々ながらもこれを引き受けます。その直後、ヴィテッリアがに決まったとの知らせを受け取ったときは後の祭りで、王宮は火の海となり、皇帝は殺されます(しかし、実際に殺されたのは皇帝のダミー)。後半になって徐々に真実が明かされ、さいごは皇帝がヴィテッリアもセストも許すという筋書きです。

このような重苦しい内容とは裏腹に、演出はコミカルな側面を強調しつつ、ことあるごとに笑いを取りながら舞台を進めていくといった具合でした。さいしょ、こうした「くすぐり」が認められたのは序曲においてでした。スタートからこんな調子でさいごまで持つのかなと不安もよぎりましたが、まあこれは杞憂でした。演出にみられた印象的な箇所をいくつか挙げておくと、次のようになるでしょうか。

全体を通してみれば皇帝は「いい人」に描かれていますが、細かい箇所(といっても人間の実相が現れるようなところ)では、けっして聖人君子には描かれていませんでした。たとえば、セルヴィリアが妃になることを断りに来たときに、物分りよく承知するのですが、ただ帰すのではなく、エプロンの紐を解き一時の関係を迫ろうとします。まあ、この危機はヴィテッリアが“私を何だと思ってんのよ!”といわんばかりの剣幕で乗り込んできたので、運よくきりぬけることができました(このタイミングのもっていきかたも感心しながら見ていました)し、暗殺者が来たときにその手を後ろからとって、ダミーの人物を刺すように仕向けたのも皇帝にみえました。私にとっては、こういう箇所が興味をもって見た箇所でもあったのです。第2幕の前半では、皇帝を客席の最前列の真ん中あたりに陣取らせ、舞台とかけあいをさせるように演出していました。これも楽しめたのですが、難点はバルコニー席(要するにサイドの席)から見ていた私は、通常の姿勢ではよく見えずに前のめりになって見るほかありませんでした。でも、これは後ろにいるお客さんにとっては邪魔になったみたいで、途中からふだんの姿勢に戻したのですが、皇帝は声のみの存在になっちゃいました。

このオペラにはクラリネットと声が絡む箇所が2回あります。1回は第1幕でクラリネットが、もう1回は第2幕でバセットホルンが登場するのです。どちらも「死」の影が関係してくる内容なので、今回の演出ではバンダのクラリネット奏者に若干の演技もつけて、「死」というキャラクターとして登場させていました。これなども演出の妙と思いました。

さて、この内容ではどこをどう演出してもヴィテッリアの復讐を手助けするセストには、なんの見返りもありません。こんなことなら単に失恋するほうがどれだけ救いがあることか。それが恩を感じているティトの宮殿に火付けし、(結果的に別人だったとはいえ)殺人まで犯すわけですから身も蓋もありません。しかも、囚われの身になったのちも、ヴィテッリアにそそのかされたことは一言も漏らさないのですよね。どうしてこんな犠牲を払えるのか、ちょっと理解の域を超えます。あまり上演されないほんとうの理由はわかりませんが、案外、粗筋にみられるこうした一面にあるのかもしれないと想像しました。

さて、演出はさまざまな箇所でいわゆる「くすぐり」を入れたと書きましたが、序曲が始まったと思うとすぐに、舞台の床に埋め込まれた照明がちかちかしはじめて消え、そのあいだオーケストラは音を出さず、元通りになるとまた演奏を始めるということを何度か繰り返し、そのあいだに裏方役の歌手が出てきては台詞をいう(日本語で)仕掛けが用意されていました。これが、オペラのどこと関係してくるのだろうと思っていたら、終演後のカーテンコールに結びついていたみたいです。私にとっては初めての経験でしたが、歌手たちが順々に呼び出されてくる正にそのときに、序曲が鳴っているのです。それも、終演後、序曲が演奏され始めたと思ったら客席の明かりがつき、そのあいだはオーケストラが音を出さず、客席の明かりを落としてから(だったと思いますが・・・)再びオーケストラが鳴り響き、そしてカーテンコールの始まりにつながるといった手順を踏んだのでした。何のオペラでもお構いなしに常套手段になってほしくはありませんが、今回は、とても自然でさいごのさいごまで楽しめる仕掛けの一部になっていたように思います。

演出ばかり褒めたたえた文章になってしまいましたが、復讐の意思に燃えたヴィテッリア、陽気でちょっとおっちょこちょいなキャラクターも見て取れる名君ティト、アンニオという恋人が皇帝の妃の座より大事とはっきりと物をいう役のセルヴィリアはセストの妹でもあるため、後半は兄の助命を願う嘆願に一役買います。こうした歌手陣も、オーケストラも、とても聴きごたえがありました。

【2006年4月29日】


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