第104回:オーケストラ・ニッポニカ第8回演奏会(紀尾井ホール)

11月20日(日)の午後、「昭和9年の交響曲シリーズ(その1)」というサブ・タイトルをもつ標記コンサートを聴きに行きました。なにやら意味ありげなサブタイトルですね。じっと眺めていると「昭和9年」すなわち1934年と「交響曲」の2つのキーワードがあるようです。その謎は、プログラムの解説を読んで解けましたが、それはまた後で触れましょう。まずは、当日のプログラムから。

伊藤 昇  《マドロスの悲哀への感覚》(米窪太刀雄の作品に拠る)(1930)
      T.自然的墓地 U.幽霊船 V.深更当直(a.モールス信号 b.帆の子守唄) 
      W.金曜日の出帆とDANKI X.シヤトルより浦塩まで

伊藤 昇  《シロカニペ ランラン ピシカン》(銀の滴降る降るまはりに)(1930)

橋本 國彦 《笛吹き女 作品6−3》(深尾須磨子作詞)(1928)


諸井 三郎 ソプラノの2つの歌曲《妹よ》《春と赤ン坊》(中原中也作詞)(1935)


諸井 三郎 《交響曲 ハ短調》(1934)


指揮:本名徹二
ソプラノ:半田美和子

管弦楽:オーケストラ・ニッポニカ


私が日本の近現代の音楽に興味をもったきっかけのひとつに、秋山邦晴氏が生前『音楽芸術』誌に連載した「日本の作曲界の半世紀」を読んで、それまで知らなかった世界に導かれたことが挙げられます(この連載は2003年4月に、みすず書房から『昭和の作曲家たち』という単行本にまとめられました)。当初の連載では、伊藤昇は「日本の未来派音楽」という枠の中で書かれていました。そんなこともあって、ろくに作品を聴いたこともないうちから、私の中で伊藤昇=未来派という単純な図式ができあがっていたことは否めませんでした。

オーケストラ・ニッポニカの昨年の演奏会、「菅原明朗とその周辺」で伊藤昇を取りあげた時に演奏した《2つの抒情曲》は、思ったよりも「日本的」な音の動きが聴き取れて、文字通り抒情的という印象をもち、どうも私のもっていた図式に当てはまらないように思えたものでした。で、今回の伊藤の《マドロスの悲哀への感覚》です。この作品は、和音のぶつかりあいや無調的なつくり、それに音色の交錯など、前回とは異なる要素が多く聴き取れて興味深く聴けました。いまでは、作品のこうした特徴を未来派という概念にあまりに重ねてしまうのはいかがなものかと思っています。

2曲目から4曲目まではオーケストラ伴奏付きのソプラノ独唱のための作品。伊藤の作品は、いわゆる歌を聴いているというより、一瞬、詩を聴いているような感じにとらわれました。それがなぜかはよくわかりませんが、たとえば大きくうねる旋律といったものを感じないで聴いたからかもしれません。橋本國彦の作品は、とても聴きやすく優しい旋律をもっていましたが、プログラムの解説を読むとそれは作品の一面に過ぎないみたいです(汗)。

休憩をはさんで諸井三郎の歌曲を聴いたあと、諸井の《交響曲 ハ短調》でコンサートが締めくくられました。プログラムの解説によれば、1934年は諸井三郎のこの交響曲、貴志康一の交響曲《仏陀の生涯》、それに大澤壽人の《交響曲第2番》という3曲の交響曲が海外で書かれ、しかも完成してさほど時間をおかずに現地で初演されたというのです。やっと機が熟してこういう状況が生まれるようになったというのですね。そういえば、作品のジャンルは違いますが諸井三郎の《ピアノ・ソナタ第1番》も1933年にドイツで書かれ、現地で外国人ピアニストによって初演されたという記事を読んだことがありますから、オーケストラ曲に限らず、海外で試演される作品が生まれつつあったことになります。しかしその後、日本は戦争へ向かって歩みを進めていきましたから、この種のことが続かなかったのですね。諸井三郎の《交響曲》は、ありていに言えば少々面白みには欠けるように思えますが、がっちりとした構成をもっていることがわかります。

オーケストラ・ニッポニカには、やはりこの種のコンサートが似合っています。次回は「昭和9年の交響曲シリーズ(その2)」として大澤壽人作品集。その次は早坂文雄作品展、さらにその次が深井史朗作品展と予定が続きますので、目が離せなくなりました。楽しみです。
【2005年11月24日】


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