第98回: 二期会《フィレンツェの悲劇》《ジャンニ・スキッキ》(新国立劇場オペラ劇場)

7月31日(日)、標記の公演を観に行ってきました。さっそくですが、当日のキャストとスタッフからご紹介しておきましょう。

《フィレンツェの悲劇》のキャスト
グイード・バルディ 羽山晃生
シモーネ 小森輝彦
ビアンカ 林正子


プッチーニ《ジャンニ・スキッキ》の主なキャスト
ジャンニ・スキッキ 蓮井求道
リヌッツィオ 水船桂太郎
ラウレッタ 臼木あい


管弦楽 新日本フィルハーモニー交響楽団
指揮 クリスティアン・アルミンク
演出 カロリーネ・グルーバー
舞台美術 ヘルマン・フォイヒター
衣装 ヘンリケ・ブロンバー
照明 大島祐夫
舞台監督 大仁田雅彦



ツェムリンスキーの《フィレンツェの悲劇》は、フィレンツェにある商人シモーネの邸宅が舞台です。登場人物は3人のみ。この家の主シモーネが行商から帰宅すると、家の中には妻ビアンカのほかにもう一人見知らぬ男性(フィレンツェの貴族!)が中にいます。きな臭いですね。夫はこの二人に疑いをもちます。じっさいオペラのなかでは、バルディが歌う歌詞の中にも夫シモーネを挑発するような内容が含まれていますし、舞台下手のシーツの上で貴族のグイード・バルディとビアンカの濡れ場のシーンをたっぷりと見せられました。しかも、舞台後方にしつらえられた壁の一部がスクリーンとなり、その濡れ場を夫がハンディビデオをもって映すなどという趣向も凝らされていました。さらに演出家の解釈で、夫婦のSMプレイや夫の女装趣味まで用意されていました(主催者は「演出上一部倒錯的性表現が含まれます。ご理解の上ご鑑賞ください」という謹告を会場に貼りだしていました)。こうしてオペラは展開していきますが、さいごシモーネがバルディに決闘を申込み、それをみたビアンカはバルディに夫を殺すよう迫るのですが、いざ決闘をした結果はシモーネに軍配が上がります(ビアンカは昇天してしまうのでした)。シモーネの次なる標的は浮気をしていたビアンカ。しかしビアンカはシモーネをうっとりと見つめ「なぜこんなに強い男だと言ってくれなかったの?」と問いかけ、シモーネも「なぜこんなにきれいな女だと言ってくれなかったのか?」と言い、二人が激しくキスするところで幕が下ります。なんだか、さいごの終わり方は狐につままれたような結末だと思えてきます。SMプレイも女装も、登場人物の性格設定や幕切れの展開などにみられる、こうした不自然さを補う意味をもたせたらしいのです。私は、このオペラを初めて見ましたので、この演出が成功していたかどうかを判断するのが難しいのです。でも正直なところ、かなり具体的なセックス・シーンに見入りながら、音楽は音楽で別に聴くといった案配でした。つまりどちらかがある瞬間バックグランドに追いやられてしまっていたというのが、私の今回の鑑賞態度でした。もっと思い切って言ってしまうと、音楽の印象が案外薄いのですよね。繰り返しになりますが、今回初めてこのオペラを見た私が、グルーバーの演出とが出会った結果は、演出と音楽がなかば遊離しかけてしまいました。2度、3度と見ていくうちに印象は変わってくるような気がします。だから、また見てみたいとも思いました。

休憩後は、プッチニー二の《ジャンニ・スキッキ》でした。幕が開くと、そこはまだ商人シモーネ宅。シモーネとビアンカが、舞台のセットを一部片づけます。すると、そこに外部へ広がる舞台セットがあらわれ、フォーゾ・ドナーティの邸宅に早変わり。演出のグルーバーは、ツェムリンスキーの舞台が一つの邸宅の地下室でおこったできごと、そしてこれから起きることがらは階上のサロンを舞台にするという構想をもったらしく、あたかも1幕2場もののようにみせようとしたようです。つまり《フィレンツェの悲劇》に出てくるグイード・バルディは《ジャンニ・スキッキ》のフォーゾ・ドナーティと同一人物として見ようではないかということになるのでしょう。死ぬ前と死んだあとというつながりは確かにできますが、でも、あまり場所の同一性にこだわってしまうと、なぜ商人シモーネが大富豪の屋敷の地下に住んでいるのかとか、なぜシモーネはその大富豪の氏素性も知らずに会話を始めたのかといった疑問が湧いてきて、かえって不自然です。まあ、こんな場面転換をしましたよ、という工夫があったという程度に理解すると、これはこれで面白く見られました。

ツェムリンスキーの時と違って《ジャンニ・スキッキ》ではオーケストラがよく鳴ること! しかも単純明快な音の運びで、深刻な内容を軽く明るいノリに変えているのですから、凄いですね。大富豪のフォーゾ・ドナーティが死んで(といっても世間一般にこのことが公にされているわけではありません)、親戚一同が集まって遺言書を見ると、自分たちに遺産が回ってこない内容となっています。怒った一同は、ジャンニ・スキッキを仲間に引き入れ、まんまと贋遺言書を作成します。しかも、親戚一同に分配しきれない一番いい屋敷や財産は、故人の親友と称してジャンニ・スキッキ自身が皆もっていってしまうのです。なんともちゃっかりとした大悪党です。有名なラウレッタのアリア〈私のお父さん〉も、こうしたドタバタの文脈の中に置くと、単にきれいにロマンティックに歌えばいいというわけではなく、しっかりと言いたいことを伝える面をもっていないと面白くありません。今回このアリアを歌った臼木あいは、この点、実に見事に歌いきっていたと思います。また演出は、このラウレッタとその彼氏リヌッチオを現代の若者(高校生くらいの年代か)の衣装をつけて演じさせていましたし、さいごの場面など、前半のツェムリンスキーとの整合性をとるかのごとく、二人を抱き合わせ、これから濡れ場が始まるぞと思わせるところで幕。

《ジャンニ・スキッキ》は、以前プッチーニの3部作のほかの2作品といっしょに見たことがありましたが、今回のような組合せ、すなわちフィレンツェつながりで2つを並べてみせる方がしっくり来るように思えます。いい舞台を見ききできました。
【2005年8月4日】



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