第65回 : 花岡千春ピアノ独奏会 〜1930年代日本のピアノ曲の夕べ〜 (津田ホール)

去る12月2日(月)に、興味深いピアノ・リサイタルが行なわれました。次のプログラムにあるように、6人の作曲家の手になる7作品が演奏されたのです。
信時 潔 組曲《木の葉集》 (1934)
序曲(楽想乱舞)−口笛−わびしきジャズー散歩−子守唄−小さき物語−港の灯−人形の踊−おもいで−沈思−横笛−ロシアの田舎踊り−少女の思い−練習曲−行進曲−終曲(楽想乱舞)
松島彜 ヴァルス (1933)
松島彜 藻塩草 (1935?)
坂本良隆 ソナチネ (1937)
清瀬保二 小組曲 (1935)
古典舞曲−ヴァルス−ユモレスク−行進曲−おとぎ話−村祭り
橋本國彦 鏑木清方の三枚の絵の印象による三部作 (1934)
雨の道(新富町)−踊子の稽古帰り(浜町河岸)−夜曲(築地明石町)
尾高尚忠 日本組曲 (1936)
朝に−あそぶ子供−子守唄−祭り
この日の演奏は、すべて暗譜で行なわれました。演奏を聴いていると、作品が演奏者の中で充分に消化されていることがわかりました。もちろん、これまでにも戦前のピアノ曲を集めた演奏会が開かれたことはありますが、私の狭い経験の中では、すべて暗譜による演奏というのは記憶にありません。逆に、譜めくりの人がいないコンサートで、演奏者が自ら譜面のページをめくるケースに接したことがありますが、そのときだけ起こる不自然な間延びを我慢しなければならなかったことを思い出したりしました。たとえば二拍子の曲で「イチ・ニ、イチ・ニ」と進んでいくところを、譜面をめくるときだけ「イチ・ニ、イチ・ニ〜〜」となってしまうわけですね。聴いている側でも、意外と気持ち悪い思いをしたものです。

私はこれまで、こうした戦前の(あるいは戦中期でも)日本人作曲家による作品を聴いていて、西欧の作曲技法の中で創作している作品と、民族的な要素を取り入れて創作している作品とに大雑把に分かれるような気がしていましたが、演奏者・花岡さんによる詳細なプログラムの記事によると、少し違うようです。氏は「この時代」すなわち1930年代の作品群の傾向について触れ、(1)あくまでも西欧の厳格な作曲技法の中で創作する。(2)基本的な技法に近代的な響きを加味する。(3)民族的な要素を適宜取り入れる、という3派に分けて考えておいでです。

信時の作品は、あくまでも西欧の厳格な作曲技法の中で創作することを旨としたといいます。今回の《木の葉集》は15曲の小曲からなっています。<わびしきジャズ>など今の私たちからすれば、どこがジャズなんだろうと思いたくなる曲でした(それだけに印象に残りました)。また、<ロシアの田舎踊り>は、そのタイトルからくるイメージが浮かんでくる曲でした。ただ、15曲すべてがどれも面白く聴けるかというと、やや疑問(まじめに書かれた作品なんだなということがひしひしと伝わっては来るのですが)。松島の2つの小品は、わかりやすい曲で、生きいきと美しく演奏されました。私は、ことに《ヴァルス》が気に入りましたけれど。なんというか、プログラムの前半では、この2曲が聴けて良かったなという想いが不思議と強いのです。坂本の《ソナチネ》は、聴いているうちに3つの楽章が終わってしまいました。演奏者によれば、当時の日本の作品にしては珍しく新古典的な趣に仕上がっているといいます。プログラム前半のさいごは清瀬保二の《小組曲》。

後半は橋本國彦と尾高尚忠の作品でした。橋本の《鏑木清隆の三枚絵の印象による三部作》は、橋本が取材した鏑木の絵がどんなものかがわかりませんが、<雨の道>や<夜曲>などは、“雨”や“夜”を想いおこさせるのに充分でした。この作品は、日本的な情緒を感じさせながら、日本的な音階だけを強調する作品ではなかったのです。驚きました。最後は尾高尚忠の《日本組曲》。これも日本的な雰囲気を漂わせた作品でしたが、橋本作品と同じく、決して日本的な音の使い方だけに頼った作品ではありませんでした。私としては、プログラム後半の2曲が聴けて、とても嬉しい心持ちになりました。

花岡さんは、さいごにステージで、こうした企画を「必ずやまた」と約束してくださいました。楽しみに待つことにします。
【2002年12月9日】


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