第19回 : フィレンツェの謝肉祭(北とぴあ・さくらホール)

第5回北とぴあ国際音楽祭のコンサートの一つ「フィレンツェの謝肉祭」を聴きに、11月10日(水)、北とぴあ・さくらホールへ行きました。コンサートのサブ・タイトルには「ロレンツェ・デ・メディチ豪華王の時代」とありますから、テーマはハッキリしています。でも、私にはこの人物についての知識や音楽との関係が、ぜんぜんわかっていませんでした。「ま、いいや」という乗りでチケットを求めたのでした。

当日のプログラムを見てみましょう。

カレンディマッジョ(5月1日の祭り)
太鼓、太鼓(作曲者不明)|さあ、とりかかれ(作曲者不明)|ようこそ5月よ(作曲者不明/詩:アンジェロ・ポリツィアーノ)|ガリアルダ「若草の上で」(作曲者不明)|それは5月のことだった(作曲者不明)|ラジオソーネのソルタレーロ(作曲者不明)|こんなふうに踊っていると(作曲者不明)|私の父さん(作曲者不明)|カラータ(ヨアン・アンブロジオ・ダ・ルツァ作曲)|バッカスの勝利(作曲者不明/詩:ロレンツォ・デ・メディチ)|村娘よ、なにができるのかい(作曲者不明)
謝肉祭の歌
巡礼兵士の歌(作曲者不明)|粟のパン(作曲者不明)|スカラメッラは戦争に行く(ジョスカン・デ・プレ作曲)|陽気な傭兵の歌(作曲者不明)|レベックを弾く傭兵の歌(作曲者不明)|
十字架の謝肉祭
スパーニャ(ジョスカン・デ・プレ作曲)|死神の山車(作曲者不明)|あなたのまなざしを向けてください(A.デモフォン作曲)|あなたのもとにまいります、聖母マリア様(作曲者不明)|煙突掃除人の歌(作曲者不明)|機織りの歌(作曲者不明)|煙突掃除人の歌(作曲者不明)

演奏はドゥルス・メモワールという、カウンターテナー(1)、テナー(2)、バス(1)という歌手陣と、7人の器楽奏者から成る団体でした。
私がいつかテレビで見たヨーロッパの祭り(詳しいことは忘れました)は、山車が出て、音楽が鳴り、人々が街中を練り歩くものでした。私は彼らの演奏を、テレビの光景とダブらせて聴いていました。
「カレンディマッジョ」と「謝肉祭の歌」で演奏されたり、歌われたりした音楽は陽気で、歌詞の内容を見ると卑猥で享楽的なもの含まれます。春を迎えて開放的になるんだなとか、謝肉祭の時期ってきっとこういうものなのだろうなと想像をめぐらせたりもしました。
演奏者たち自身が、けっこう楽しんでいる様子で、こちらも楽しめました。上手なアンサンブルだと感じました。

さて、ロレンツォ・デ・メディチ(1449−1492)が存命の時代の音楽は、「カレンディマッジョ」と「謝肉祭の歌」のあたりまでのようです。「十字架の謝肉祭」になると、実はロレンツォの没後にフィレンツェで実験を握ったサヴォナーラ(1452−1498)という人物の時代の音楽になります。ちょっと対照的な雰囲気に変わっていきます。

サヴォナーラは、陽気な謝肉祭を禁止したそうで(!)、それまで美しく飾り立てていた山車を、死神をしつらえたものに作り変えたりして、歌詞も陰気になっていきます。
人々の楽しみを奪ったせいかどうかは知りませんが、サヴォナーラは1498年、火刑に処せられたといいますから、どういう言葉を贈っていいやら。プログラムの解説を読んで、この日一番印象に残ったのはこのことでした。

「バッカスの勝利」(カレンディマッジョの部の最後に置かれた曲)について一言触れましょう。歌詞は次のように始まります。
なんと青春は美しいのだろう。/でも、それは逃げてしまう。/上機嫌たらんとするものは、上機嫌たれ。/明日のことはわからないのだから。[プログラム付随の対訳から]
この曲は、歌詞の内容と正比例した明るい曲でしたが、詩は、ほかならぬロレンツォ・デ・メディチの手になります。ロレンツォは詩が好きで、自分でも書いたそうです。
余談になりますが、当時の社会で凡庸な者は皇帝といえどもその地位を追われ、反対に優れた者は暗殺や毒殺の危険につきまとわれたそうです。ロレンツォは後者でした。そして、自作の「バッカスの勝利」の詩を、大宴会のときも、戦に出たときも、よく繰り返しとなえていたらしいです。ロレンツォ自身にとっては、いつ命がなくなるかわららない、そんな気持ちの裏返しが表現されたものだと解釈する人もいるのですね。(『世界の歴史 7 近代への序曲』中公文庫 p.26−29あたり)。
【1999年11月14日記】


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