第17回 : 脳死と臓器移植[上](1999年6月30日)

6月26日(土)、オペラ『脳死をこえて』の公演に先立ってフォーラム「脳死移植の幕開け − 臓器移植法はスタートしたけれど」がありました。
ここで提出された一つの意見に触発されて、翌日も私はインターネットに向かっていました。

フォーラムについて簡単に報告しましょう。
まず大田和夫氏(東京女子医科大学名誉教授)の特別講演がありました。次に、高橋公太氏(新潟大学)、藤村志保さん(『脳死をこえて』の著者)、原加壽子さん(オペラ『脳死をこえて』の作曲家)、栗山昌良氏(演出家)、千葉大玄氏(ドナーの家族)、福田幸子さん(レシピエント)の出席を得て各氏から発言がありました。全体の司会は松村満美子さん(ジャーナリスト)。

私は、千葉大玄さんの発言に注意をひかれました。

◆現在の「臓器移植法」は悪法だと思っていると話し始めた千葉さんによれば、死亡宣告は医師の義務のはずですが、日本では、ひとが脳死と判定されても、医師が死亡宣告をすることはありません。それどころか、脳死判定された患者がドナーカードをもっている場合、臓器移植をするか否かという形でその患者の死亡判断までその家族に"丸投げ"している、という指摘でした。これでは、脳死が臓器移植の道具にされているに過ぎないというわけです。仮に、家族が移植に同意せず治療の続行を希望した場合は、医師は「脳死体」に対して治療をつづけなくてはならないのだそうです(!)。これは恥ずべき行為だ、と指摘されました。
◆千葉さんは、ご子息をアメリカで失いました。脳死だったそうです。アメリカ(のみならず多くの国)では、「死」の定義に従来の「死」(呼吸の停止、心臓の停止、瞳孔の拡大)と並んで、「脳死」が数えられているのだそうです。ですから脳死と確認された患者は、赤ん坊から老人にいたるまで医師から死亡宣告を受けます。千葉さんも、そのお一人でした。

千葉さんの発言を、もう少し追いかけましょう。

◆「脳死=死」という定義がなりたっているからこそ、脳死と臓器移植が別問題に切り離せる。臓器提供は飽くまで個人の意思によるのですから。
◆脳死が人の死であるとの認識が充分でないから、医師のほうも"にわか勉強"になり、ミスを犯してしまうことになるのでしょう。
◆ ドナーの家族が公の場に姿を現わしたがらない原因として、ドナーの死亡の判断を医師ではなく自分たち家族が行なったのではないかという、心の重荷を背負っていることにあるのではないか? と思います。

考えてみましょう。
▲仮に私が日本で脳死と判定されたとしたら、家族は医師から死亡宣告を受けられないことになります。しかし、もしアメリカで脳死判定されたとしたら、家族は死亡宣告を受けることになります。
どこで脳死になるかによって、生死の線引きそのものが異なってくる。これが現状なのですね。どこか不自然だとも思います。
▲「脳死=死」となれば、臓器移植と脳死の関係は矛盾の少なくなり、医師ももっと真剣に「新しい死=脳死」と向き合うことになるかもしれません。この定義を受け入れられるかどうか、私自身は、もう少し吟味したいと思いました。科学と医療に対する大いなる信頼がないと難しいからです。この問題に少しでも近づきたくて、冒頭で述べたように『高知新聞』のホームページを見出しました。

ここから先は『高知新聞』のホームページで読んだ連載について取り上げながら、次回あらためて考えることにします。



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