第101回: 生誕100年記念 吉原治良展(東京国立近代美術館)

吉原治良という画家をご存知でしょうか。残念ながら私は知りませんでした。実は、会場で「ああ、あの時に最低1回は見ていたんだ」という作品と出会いましたが、作家の名前さえ忘れているありさまでした。吉原は1905年生まれの画家ですから、正確に言うと昨年が記念の年だったのですね。主催者によれば、この画家は関西を本拠地にして活動していたせいか、東京ではその全貌に触れることができなかったといいます。その意味で、約190点の作品を集めての今回の大規模な回顧展は関東エリアに住む人間にとっては大きな意味をもちそうです。私自身は、ちょうど生誕100年を迎えたあたりの芸術家は、若い頃に1930年代のモダニズムと対峙している可能性がありますし、戦争も経験しています、さらに戦後の活動も展開しているということで、どんな画家だったのか実際に見てみたいと思い立って、会場へ足を運んだのでした。

6月13日から始まっていた本展の会期は、7月30日(日)まで休館日毎週月曜日ですが、7月17日(月)の「海の日」は開館し、翌18日(火)が休館となります。観覧料一般(当日)で800円です。ちなみに8月6日(日)から10月9日(月・祝)までは宮城県美術館に巡回するそうです。

会場の構成は次にようなものでした。

  第1章 初期作品 窓辺と窓外の風景:1923-1932.
  第2章 形而上学的イメージと純粋抽象:1930-1940
  第3章 戦時中の絵画 二つの風景:1940-1945
  第4章 鳥と人、そして線的抽象:1946-1954
  第5章 具体の誕生、アンフォルメルの時代へ:1954-1962
  第6章 「円」とその後:1963-1972


吉原は関西学院で学ぶ傍ら独学で油絵を修めていったといいます。1928年に初めての個展を開きましたが、当時の作品には、窓辺に魚や果物を配置した静物画が多く描かれています(窓の外は街の風景だったり、川だったり、海だったりとさまざまでしたが)。なぜ、こういう描き方になったのかはわかりませんでしたが、1929年に一時帰国をしていた藤田嗣治に自作の批評を求めたところ、他者の影響が強すぎると厳しく指摘され、それ以後「他人の真似をしない」ことを肝に銘じたといいます。ふと思ったのですが、1930年当時、日本人画家では藤田のように海外で評価を得ていた人がいたのですね(日本では、やっかみからか悪意に満ちた批評が蔓延していたそうですが・・・)。作曲家のほうに目をやると、まだまだ先のことだなと余計なことを考えながら次のコーナーへ進みました。

第2章を見て驚きました。初期の作品からはイメージできないくらいの変貌を遂げはじめていたからです。たとえば《手とカード》(1930年頃)。説明は難しいのですが、縦長のキャンバスの手前にヒトの手が2本。左手にカードをもち、右手には鉛筆です。カードに描かれているのは、画面奥の空を飛ぶ鳥たちのうち一羽を選んでのことのようです。カードの左下には英字でタイトルと署名があるのがわかります。こうした構図で描かれてみると、どこかシュールな感じが残って面白いのです。海辺の風景(いわゆる綺麗に描いてみせた絵葉書のようなそれではありませんでした)などを始め風景画が増えますが、抽象的な要素を織り込んだ、それでいて見ていて興味を惹かれるものが多かったと思います。30年代後半には、前衛画家としての地位を築きました。

そのまま順調に進展するかと思うと、戦争がその行く手を阻んできました。1937年(または1940年頃)の作品に《雪(イ)(作品)》というのがあります。抽象的な絵画です。やがてこうした傾向の絵画は批判の矢面に立たされることになりました。たとえば『みでゑ』1941年1月号に載った座談会で、鈴木庫三という軍人によって「円とか三角を描いて、だれが見ても分からぬのに芸術家だけが価値ありとしても、実に馬鹿らしい遊び事である」という具合にです。おそらくこの種の批判がすでに耳に届いたと思われる吉原は、そこで《雪山》(1940年)という作品を40年10月の「紀元2000年記念奉祝美術展」に出品したのでした。たしかに軍人や役人の目にもそれとわかる作品ではあります。シンプルな構図と少ない色で描かれたこの作品を見ていると、最小限の妥協をしたのかなと思えました。また、戦時中も幻想的で抽象的な作品をも書いていたのだそうで、それらの作品がさいきん発見され、今回の展覧会に来ていました。どういう作品を描くと画家生命が危うかったのかを知るうえでも貴重ですし、安全第一で考えるならそうした作品を描かないのが一番なのでしょうが、自分の描きたいスタイルを(他人にみつからないようにであっても)希求しつづけたこの画家の努力には頭が下がる思いがしました。

戦後になると吉原はまず、鳥や人(少女や女性)を描くことから始めました。どちらも幻想的であったり、抽象的であったりします。それがやがて線の抽象へと向かっていくさまが見てとれました。このあたりまでが本展第4章。さて、50年代になると、抽象的であると同時に素材の物質感をキャンバスに生かすアンフォルメルの時代へ吉原自身が飛び込んでいきました。その際、「具体美術協会」という団体を大阪に作りましたが、これがまたアンフォルメルを語る際に高く評価されているのだそうです。この章の作品はキャンバスに凸凹がたくさんあって、それらを含んだ全体を、キャンバスに近づいたり離れたりしながら(私の眼の動きが激しくなったのを自覚しました)「なんだ、これは?」と自問を繰り返しながら見ていきました。「なんだ、これは?」に対する具体的な答えが得られなかったにしても、このように見る作業それ自体がけっこう楽しかったです。

さいごの第6章は「円」でした。実は、本展をPRするチラシに採用されている作品は、この時期の《黒地に赤い円》(1965年)。タイトルどおりの作品です。第5章から第6章あたりは、マーク・ロスコやクラインあたりとの発想の共通性を感じつつ、見ていました。一人の作家の回顧展でこれだけ多様な変貌を遂げた例を、私はあまり知りません。心底行ってよかったと思える展覧会でしたよ。
【2006年7月2日】


トップページへ
展覧会の絵へ
前のページへ
次のページへ