第100回: 藤田嗣治展(東京国立近代美術館)

今年、この展覧会が開催されると知ったとき、朗報だと思うと同時にどうしてこのタイミングで行なうのだろうとか疑問に思ったものでした。本展の詳細を知ってみると藤田の生誕120年を記念して行なうという、わかりやすい理由でした。主催者の弁によれば、藤田の生涯は波乱に満ちていただけに、数々の逸話に彩られた画家としてのみ語られてきた感があるといいます。つまり個々の作品を丁寧に検証することが少なくとも日本では不充分な現状にあるという意味に違いありません。そして、藤田の全画業を紹介する展覧会を始めて開催すると宣言していました。具体的に言うと、パリ時代から晩年にいたるまでの代表作約100点が、フランスやベルギーを加えた国内外から集めて展示されていました。

3月28日(火)からスタートしている本展の会期は5月21日(日)までで、休館日は毎週月曜日。観覧料は一般(当日)1300円です。

会場内の構成は

T章 エコール・ド・パリ時代
 T−1 パリとの出会い
 T−2 裸婦の世界
U章 日本へ
 U−1 色彩の開花
 U−2 日本回帰
 U−3 戦時下で
V章 再びフランスへ
 V−1 夢と日常
 V−2 神への祈り


というものでしたが、ほかにいくつかの資料の展示も含まれていました。

印象に残った作品を挙げておきます。

T章の「エコール・ド・パリ時代」は二つのパートに分かれています。T−1に含まれる《自画像》(1910年 油彩・キャンバス)は東京美術学校の卒業制作。黒を主体とした色づかいで、髪はのちの坊ちゃん刈りスタイルではなく五分五分に分け、少し斜に構えて顔は正面を見据えています。師事した黒田清輝は明るい色を好んだため、藤田の自画像を悪い作品の見本と言ったそうですが、見方によっては、卒業後は、学校時代に教わったままにはしないぞという意志の強さが反映されているように思えて、とても興味深い作品でした。渡仏後の《キュビズム風静物》(1914年 油彩・キャンバス)、《老人と子供》(1917年 水彩・紙)なども日本にいてアカデミズムの美術に浸っていたとしたら、はたしてこの時期に生まれただろうかと考えてしまいました。T−2からは《横たわる裸婦》(1922年 油彩・キャンバス)をとりましょう。画面をじっと見ると細い縁取りの線が認められ、透き通るような「乳白色の肌」で描かれた裸婦像に仕上がっています。

U章「日本へ」は三つのパートに分けられていますがU−1は中南米を旅している頃の作品が主たるものでした。強い色彩をもちいて、人物を描くときは身体の重量感をずしりと感じられるように変化していきます。U−2に含まれる《自画像》(1936年 油彩・キャンバス)は、おそらく朝食後に一服付けているときの藤田が描かれています。食事は、かなりの皿を中途半端に食べており、なにか行儀の悪い食べ方だと余計なことを思ってしまいます。私の記憶に間違いがなければ、この作品は「昭和」の終わりころ銀座のデパートで行なわれた昭和を回顧する洋画展で展示されていた記憶があり、当時も強く印象に残ったものです。それと初めて見た作品ですが《猫》(1940年 油彩・キャンバス)。多数の猫の律動感あふれる画面を見ていると惹きこまれそうになりました。U−3からは戦争末期に描かれた《サイパン島同胞臣節全うす》(1945年 油彩・キャンバス)をとりましょう。戦争画を描いた画家は大勢います。それはたとえば、いまから11年前の『芸術新潮』8月号の特集などを見れば明らかですが、戦後、藤田からみると戦争画を書いたことに対する戦争責任を一人で負わされたようなかたちになったようで、再び渡仏したのでした。

その後描かれた作品をまとめたのがV章の「再びフランスへ」です。こと私に限っていえば、それ以前の作品群よりも好きになれませんでしたが、その中からとれば《カフェにて》(1949−63年 油彩・キャンバス)、《校庭》(1956年 油彩・キャンバス)、《アージェ・メカニック》(1958−59年 油彩・キャンバス)などです。はじめの作品はカフェにいる女性を描いたもの、その他は子どもたちが画面に数多く登場します。

本展の一番の収穫は藤田の作風の変遷について、ほぼ全生涯にわたって見られることでした(習作時代の作品があればそれも見たかったです)。ちょっと総花的な気もしましたが、初めてのまとまった展覧会であることを考えればそれも当然かもしれません。得がたいチャンスを掴んで帰ってきたという感じです。
【2006年5月8日】


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