第102回: 芸大コレクション展 斎藤佳三の軌跡−大正・昭和の総合芸術の試み−(東京藝術大学大学美術館)

斎藤佳三。「さいとう・かぞう」と読みます。Mixiでこの催しを知り、行ってきました。

すでに、去る11月4日(土)から会期が始まっているのですが、終わりも間近になっていて、来る12月17日(日)までです。そして月曜日が休館日となります。観覧料は一般(当日)300円とリーズナブルです。会場がこの美術館の地下2階の展示室1室だけということとも関係しているのかもしれませんが、それにしても、斎藤が残した舞台や衣装のデザイン画、楽譜、舞踊関係資料、着物、図面類、レコードのジャケット、書簡、教育関係資料などから約300点が選ばれて展示されていますから、点数的には文句ありません。ただし、いわゆる観賞用の美術作品がずらりと並んでいるわけではありませんので、そのお積りで。

会場の構成は以下のようなものでした。

■第1章 東京音楽学校から美校、ベルリンへ
■第2章 総合芸術の試み
  2−1 シュトゥルム分社・装飾美術家協会・春光会・主情派
  2−2 舞台芸術と斎藤佳三
  2−3 2度目の渡欧
■第3章 生活と芸術の統合
  3−1 図案・装飾と斎藤佳三
  3−2 組織工芸 ― 帝展への出品
  3−3 服飾について
■第4章 有鍵楽器の彩光投写装置
●視聴コーナー


図録の年譜のページを見ていくと、斎藤は1905年東京音楽学校師範科に入学。さいしょ音楽の道を志したのでした。1級上には山田耕筰がいて、生涯の友となったといいます。1906年には日本初のオペラ《羽衣》の主役を歌ったという記録が見出せましたたが、勧める人があって1907年に東京美術学校図案科に再入学しました。その後1908年には《ふるさとの》という歌曲を作曲しています(図録には斎藤の音楽関係資料のページもあり、参考になります)。

卒業制作を提出した1912年にベルリンに到着。この地には山田耕筰がすでに留学していて同宿したそうです。日本から行っていたほかの芸術家たちとも交友を深めましたが、斎藤と山田はシュトゥルム画廊からドイツ表現主義の版画を預かって帰国し、1914年3月に東京の日比谷で展覧会を開催しました(このあたりのことは、拙HPで「東京−ベルリン/ベルリン−東京展」をとりあげた時に、一部再現展示があったことをご報告しましたね)。

第2章のコーナーに展示されたものの中には、たとえば1931年のポスター「吉原飛行士太平洋横断飛行再挙後援 新舞踊家聨合大会」がありますが、当会の為に斎藤佳三氏新作十五種提供と印刷されていましたし、また1937年のポスターには「銃後赤誠 大舞踊音楽会 斎藤佳三氏美術音楽生活25年記念会」というものもありました。第2章全体を通して見ると、舞台芸術や舞踊や音楽と多面的に関わりながら活動してきた斎藤の姿を認めることができました。

その斎藤は、徐々に生活に根ざしたデザインを手がけるようになり、そうした面を確認できたのが第3章というわけです。一例を挙げれば、戦時中の国民服のデザインをてがけたりもしていたのですね。でも、それだけではなくて会場ではもっと多くの実例や図面が展示されていますから、興味のある方はお出かけになるとよろしいでしょう。

今回、視聴コーナーで聴くには聴いたのですが、私自身の時間的な都合があって思う存分にというわけにいきませんでした。これは既発売のCDなどから編集したのではなく、同大学大学院生による演奏を録音したもので、世に発売されているどのCDよりも多くの音楽作品に接することができる場でした。それだけに、ちょっと惜しいことをしました。

斎藤佳三という人物の業績をまとめて知る絶好のチャンスとなっています。
【2006年12月9日】


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