第79回:再考 近代日本の絵画 第二部(東京都現代美術館)

去る4月10日から標記の展覧会が開かれています。前項からのつづきですが、会期などは繰り返し書いておくことにします。6月20日(日)までやっていて、月曜が休館日です。さて、この展覧会は、会場が2ヵ所に分かれているのでしたね。第一部の会場は東京藝術大学大学美術館、第二部は東京都現代美術館です。2館あわせて見終わると、なんと600点ほどの作品を目にすることができるのです。観覧料は、2館共通券というのがあり、一般(つまり大人)が1500円。どちらか一方しか行かない(あるいは行けない)という人のためには単館券が用意されていて、一般1000円となっています。主催は、東京藝術大学、(財)東京都歴史文化財団、東京都現代美術館、(財)セゾン現代美術館。それに東京国立近代美術館が出品協力館に名を連ねています(ほかにも協力館や協力者は大勢いるみたいですけれど・・・)。今回は、第二部についてまとめておきましょう。

会場の構成は、次のとおりでした。

  第5章  画家とモデル−アカデミズムの視覚
  第6章  理想化と大衆性
  第7章  日常への眼差し−近代の規範
  第8章  <インターナショナル>スタイルへの連動
  第9章 〈東洋〉と〈日本〉
  第10章  戦争を描く
  第11章 〈戦後〉という時代
  第12章  リセット: 1950-1960年代
  第13章  ものと観念
  第14章  日本ポップ
  第15章  絵画の世紀



これまでに明治期から戦前・戦中にかけての日本の絵画を何度か見たという人にとって、この展覧会に展示してある作品のなかには、再会(または何度目かの対面)をしたものがいくつも含まれることでしょう。近代日本の絵画を再考しようとする際には外せない、コアになるとでもいえる作品が集まっているのでしょうか。それとも、たとえば東京美術学校出身のアカデミズムの流れを汲む画家を中心に展覧会が構成されている様子がうかがわれましたが、だからこうなったのでしょうか。

ともあれ、興味を惹かれて足が止まってしまった作品を一部列挙してみることにします。

赤松麟作《読書》(1898)
和田英作《思郷》(1902)
小磯良平《裁縫女》(1932)
藤島武二《神戸港の朝陽》(1935)
川合玉堂《彩雨》(1940)
宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》(1942)
中村宏《砂川五番》(1955)
中村宏《円環列車A(望遠鏡列車)》(1968)

赤松の作品は明治の日本で少女が読書をしているシーンを絵画にしたものです。着ている浴衣は、今日でも夏になればたまに着ている人を見かけますが、昔ほどではないはずです。それと本そのものが和とじの本に見えます。私の生きてきた時代の読書とは似ているようで、やはりどこか違うのです。でも、懐かしいのですよね。小磯の作品は昭和のはじめということになりますが、描かれている女性がモダンな感じになります。宮本の戦争画は、山下司令官が左肘をグッと突きだしたポーズがいつ見ても印象的なので挙げましたが、実際には、こんなポーズをとるわけないだろうと思いながら見てしまいます。中村の《砂川五番》は戦後、立川で起こった砂川闘争を題材として描かれました。

作品をよく見ていくと、近現代日本の歴史のできごとや事件を題材にしたものが混じっていることに気付きます。1894年に行なわれた明治天皇の銀婚式(大婚二十五年奉祝景況図)、1923年の関東大震災、昭和に入って15年戦争、原爆、東京裁判、砂川闘争、それに1964年の東京オリンピックなどです。歴史描写の役割をも担った、絵画の一側面をとらえることができるでしょうが、あまり記録性に富むと考えすぎるのはいかがなものでしょうか。画家の創造性に頼った作品も少なくありませんし、また戦争画は写真をもとに描いてるんじゃないの? と疑いたくなるものもありました(過去、そうした指摘を読んだ覚えがあるのですが、何で読んだのか思い出せません)。

さて、会場に足を踏み入れると天井に近いところまで所狭しと並べられていた、東京美術学校西洋画科の卒業制作として描かれた自画像は初めて見るものが多く、しかもこれだけまとまった点数を見る機会は、そう望めるものではないだろうと思いました。ひとくちに自画像といっても、個性は多様でした。そして、ヌード像が続いて並んでいました。

東京藝術大学の方ではシュールレアリズムの絵画を少々見ることができました。この会場では、くわえて昭和初期の抽象絵画を見ることができました。しかし、それは長い期間続いた様子はなく、戦後になって再びマルやサンカクやシカク、あるいは線や色が主役に躍り出た絵画作品が本格的に深められていったように見受けました(適当な見方かどうか・・・)。と同時に、歴史のできごとを描写的に描こうとする作品は、展示された作品から判断する限りでは、かなり弱まったと言わざるをえないのです。それはなぜか、と考えたいのですが、いまの私は自信をもって「これだ」という答えをもてません。ただ、戦争、大量殺戮、原爆、人類の存在の将来に対する不安、これらを体験したあとの画家たちが、そうしたプロパガンダ的な絵画にさして価値を見いださなくなったことに一因があるのではないか、と想像しています。

本の表紙図案とか演劇のポスターのようなものもあり、そこに文学と美術作品、演劇と美術作品といった繋がりを見いだすこともできました。翻って音楽との接点はないのだろうかと図録を繰って探してみると、神原泰の《音楽的創造(シンフォニィ第35番)》(1919年頃)を見つけました。神原泰は、《スクリアビンの『エクスタシーの詩』に題す》(1922年)の作者でもあり、イタリア未来派を研究する画家だったといいます。この程度かと嘆くべきなのか、それでもこうした意識を持って絵画を生み出した人物がいたと評すべきなのか大いに迷います。

とまあ、私なりに「再考」(?)する機会をもてた展覧会ではありました。それにしても、われながらまとまりのないことに苦笑してしまいますね。
【2004年6月4日】


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