第75回:香月泰男展(東京ステーションギャラリー)

標記展覧会は、今年没後30年を迎える香月泰男(1911〜1974)の回顧展で「<私の>シベリア、そして<私の>地球」という副題が添えられています。会期は来る3月28日(日)までで、入館料は一般800円です。私がこの展覧会へ行ったきっかけは、職場の先輩から一度シベリア・シリーズの絵を見るといい、と言われた一言でした。展示されている作品は、戦前の若い時期の香月の作品や、戦後になって郷里の山口県三隅町で描いた日常的な題材の作品など、合計約120点ほどでした。もちろん、シベリア・シリーズも見られます。

香月泰男は1911(明治44)年、山口県生まれ。画家を志し東京美術学校に進み、卒業後は美術教師をしながら展覧会に作品を出品していました。1943(昭和18)年に召集され満州へ行きました。満州から山口県の家族に宛てて送った絵入りのはがきなども、会場でみることができます。そこで敗戦を迎え、その後シベリアの収容所に送られました。収容所では、大勢の仲間が過酷な労働や病気などで死んだといいます。顔も姿も違う、そうした人々を絵に描き、帰国したら遺族に渡そうと考えたそうですが、それらの絵はソ連軍に見つかって没収されて帰ってきませんでした。しかし、満州からシベリア時代の体験が、帰国後20数年をかけて描き続けれらた「シベリア・シリーズ」へと結実していったのです。全部で57点あるというこのシリーズから、今回は約30点がドンとまとまって展示されています。見ごたえがありました。戦後、山口県の三隅町にアトリエを構え、日常の何気ない題材をいきいきとした絵に仕上げた作品群も、いいものでした。こうした香月のさまざまな作品が一堂に会しているのですから、興味は尽きません。

ここではシベリア・シリーズから、いくつか印象に強く残ったものを挙げておきましょう。

まず《海拉爾》(1972年)。地名でハイラルと読みます。街の家々にある煙突から、たくさんの煙がたちのぼっています。煙は夕餉のしたくの象徴となっています。街の生活のぬくもりが伝わってくるようですが、反面香月は家族と離れて満州に連れてこられ、絵も思う存分描けないのですからこの風景を目の当たりにして羨ましさを感じていたようです。次に《朕》(1970年)と《涅槃》(1960年)の2点です。どちらも画面に登場する人物(死者)は諦念に満ち、同じような顔立ちをしています。そして後者では、ほとんどの人物が合掌しているのです。どちらも、一度限りの人生を戦争に駆りだされて死んでいった人物を静かな表情で描くことによって、「人間が人間に命令服従を強請して、死に追いやることが許されるだろうか」と問い、あるいは「彼らの一人一人は私の中に生きていて、私の絵の中によみがえる」と述べて追悼しています(「 」内は、いずれも香月自身による作品解説文より引用)。もう一つ《−35°》(1971年)を挙げておきましょう。縦長の画面で上、下それぞれ4分の1ほどは、ほとんど地の色のみ。まん中の部分に人間たちと鉄条網などが描かれ、ところどころ白い色が配色されています。よく見ると、上4分の1の一部に、目立たぬように「−35°」という文字が見えます。解説文を読むと、この絵の意味がよくわかりましたが、ぞっとするものでした。「零下35度(−35℃ともいう)までは屋外作業があった」と香月は自作解説文で書いているのです。「手袋なしに金属にさわろうものなら、皮膚がはりついてしまい、無理にはなそうとすると皮膚がはがれてしまうのだ」とも書き「こんな重労働で、ほとんど負傷者が出なかったのは、この収容所が以前のとくらべ格段によかったことと、兵隊たちの神経が、ダモイ(帰国)の一念にこり固まっていたからであろう」と結んでいるのです。この絵の前では時間を使ってじっくり見入ってしまいました。
【2004年3月1日】


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