第69回 : ヴィクトリアン・ヌード展 〜 (東京藝術大学大学美術館)

ヌードばかり集めた展覧会って意外と珍しいと思いませんか? それも、イギリスのヴィクトリア朝時代に的を絞っているのです。どんな展覧会なのだろうかと興味をそそられ、標記展覧会に行ってきました。会期は8月31日(日)までですから、終了まであと半月を切ってしまいましたね。休館日は毎週月曜日で、観覧料は一般(当日)が1,300円です。東京藝術大学大学美術館( http://www.geidai.ac.jp/museum/ )を予め見ておくと、特に有名とされる作品の画像や解説を読むこともできますし、出品リストも掲載されていますから便利ですよ(ただし、会場で無料で配布されるものと比べると、作品のサイズや、キャンバスに描いたのか板に描いたのかといった支持体が明記されていないといった限界が見出せます。ゆくゆくは改善されることを望みます)。

この展覧会の趣旨は、産業革命がすすんで経済的繁栄を誇ったヴィクトリア女王時代(1837年−1903年)のイギリスで、ヌード画がどのように発展して行ったかを追ってみようという試みです。主催者の言葉を借りれば、ヴィクトリア朝初期のヌード画はイタリア・ルネサンスの技法にならってイギリスの説話や文学を描いていますが、徐々に変化して20世紀初頭には印象主義の影響を受けた作品が残されるようになっています。一部に写真や珍しい映画なども用意されています。展示されている作品は、およそ100点にのぼっています。ちなみに、この展覧会は2001年、ロンドンのテイト・ブリテン( http://www.tate.org.uk/britain/default.htm )のリニューアル記念展として開催され、その後ミュンヘン、ニューヨークと巡回して今回、日本で開催されたわけです(テイト・ブリテンは、元テイト・ギャラリーと呼ばれていたところですが、収蔵品がうんと増えて1900年代以降の作品をテイト・モダン( http://www.tate.org.uk/modern/ )という美術館を作って収め、旧ギャラリーはテイト・ブリテンと改称されたのだそうです)。

会場の構成をご紹介しておきましょう。

第1部 英国の裸体画草創期
第2部 古典の美を求めて
第3部 ヌードとの私的な関係
第4部 画壇のセンセーション
第5部 新しい時代へ

もともとイギリスは基本的にプロテスタントの国であるため教会に飾られる絵の注文がありませんでしたし、異教的とみなされた神話に取材した絵画も認められなかったそうです。それに道徳的な意識も要素として加わって、ヌード画の発展する余地がなかったのでしょう。それが1830年代はじめから、ヌードが文学作品を下敷きにしたシーンを絵画化して公の場に登場してきます(なかでもヴェネツィアに留学した経験をもつウィリアム・エッティはヌード画に情熱を燃やしたイギリス最初の画家だと紹介されています)。これが第1部。しかしこうしたやり方は、しだいに飽きられてしまいました。1862年に開かれた第2回ロンドン万国博覧会にフランスのアングルが発表した《泉》は、イギリス美術界に刺激を与え、新しい世代の画家たちが物語りに固執しないヌードを描くようになっていきました。より具体的には、古典的なフォルムと官能性を排除したスタイルを用いて、ヌードを展開させたと解説されています。これが第2部、そして私には本展のハイライトに当たるパートに思えました。

展覧会場を飾るヌードのほかに、画家からコレクターの手に直接渡るヌードも存在しました。必ずしも公開を前提としないためか家族の目もはばかるほどの内容が描かれています。くわえて写真技術の発達もヌード写真を生みましたし、ひとりずつ装置の中を覗き込む映画が1890年代半ばに登場。女性の着替えシーンなどが撮影されました(最後まで脱がない作品を見ました)。こうした側面を扱ったのが第3部です。

ヌードに典型的な人体の理想美を求める代わりに、死や抑圧、誘惑を主題とする大胆な作品が公にされるようになったのを示すのが第4部です。ヴィクトリア朝も後期に入ったこの時期、神話や歴史を舞台にした作品であっても、常に現代社会とのかかわりで論じられるようになったといいます。このあたりは作品だけ見ていてるとわかりにくいのですが、会場の解説をあわせて読むと、この作品にそんな社会的な意味が込められていたのかと驚く場合がありました。ヌードを人体の理想美の追求くらいにしか考えていなかった私としては、驚きを覚えたしだいです。1890年ころになると、神話や歴史のお世話にもならず、寓意ももたない、いわば自立したヌード画が登場します。もちろん、そうでないものもあるのですが、多用なスタイルでヌードが展開するさまを示したのが最後の第5部です。

さいごに私の印象に残った作品をいくつか列挙しておきましょう。

ウィリアム・エッティ《水浴するミュージドーラ》(1846年、油彩/キャンバス)
⇒ジェイムズ・トムソンの『四季』に取材。誰かの視線を感じて恥じらいのポーズをとっている作品ですが、緊張した雰囲気が伝わってきます。

ロバート・ハスキスン《真夏の夜の妖精たち》(1847年、油彩/板)
⇒シェイクスピアに取材。文句なく美しく、幻想的です。

エドワード・ジョン・ポインター《アスクレピオスの診察》(1880年、油彩/キャンバス)
⇒狩をしていてウェヌスがけがを負い、三美神をしたがえて老医師アスクレピオスヲを訪ねてきたところです(4人の女性は裸体)。画面上部に描かれた濃い緑の木の葉とスポットライトが当てられたような4人の女神たちの色のバランスが心地よく、女神たちが軽やかに見えるところもまた良いのです。

テオドール・ルーセル《読書する少女》(1886−87年、油彩/キャンバス)
⇒裸体の女性が椅子にゆったりと座って、読書しているシーンを描いています。なんの寓意もなく、こんなふうに読書できたらいいだろうなと思ってしまう1枚でしたが、発表当時は「芸術の品位を落とすものである」と厳しく非難されたようです。

ヌードの意味をちょっと考えさせられた展覧会でした。
【2003年8月17日】


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