第36回 : 没後100年 トゥールーズ=ロートレック展(東武美術館)

本展は昨年の11月から12月にかけて大阪で、そして今年の1月2日から(火)から3月4日(日)まで、会場を東京の東武美術館に移して、行なわれています。雑誌『芸術新潮』1月号は、この展覧会にあわせて「没後100年記念 ロートレック」という特集を組みました。私はこれを読みましたが、生き生きした記述の連続で、興味深いのなんのって。いまは、すでに2月号に切り替わってしまいましたから、ちょっと手に入らないかもしれませんね。さらに、1992年度から活動をはじめた東武美術館は、これが最後の展覧会となります(涙)。それにしても、10年に満たない活動で閉館とは、なんとも残念な気がします。入館料は一般1,200円、休館日は毎週水曜日となっています。

さて、会場内は油彩素描版画ポスターという順に作品が並べられされ、油彩画の約40点をはじめとして、合計して約120点が展示されています。これらが、なかなかの作品ぞろいだなと感じながら見てきました。

ロートレックは1864年、伯爵の息子として生まれました。父親は乗馬と狩猟が大好きで、しばしば人が着ないような服装をして喜んでいたといいます。それもサービス精神からというよりも、マジだったらしいのです。そんな父親を描いた一枚《アウフォンス・ド・トゥールーズ=ロートレック伯爵》(1881年 油彩/板)は、馬にまたがって右手でたずなを持ち、左手に鳥を止まらせて、粋(というのかな?)な服装に身を包んだ、貴族の<ドン・キホーテ>とでも言いたくなる姿が認められます。ロートレックは、13歳の時に左足を、14歳の時に右足を骨折し、以来、下半身の成長が止まったといいます。こうして乗馬もスポーツもできなくなったロートレックは、絵画の世界に入っていくことになります。16歳の頃描いた《自画像》(1880年? 油彩/厚紙)はインパクトが強かったです。はすに構えた上半身から顔を正面に向けているのですが、この作品は、写真のようにリアルではなく、顔は暗さも手伝ってか少々ぼけて見えます。そして、右手にある2本の蝋燭の見え方からして、鏡を通して見ているのでしょう。私は、この《自画像》が他人を拒絶して自分自身と対話しようとしているように見えてしまいました。当時は、馬や母親、そして故郷の風景なども描いています。

1882年、ロートレックはパリに行き、まずレオン・ボナの画塾へ、のちにフェルナン・コルモンの画塾へ通います。中でも特に強い刺激を受けたのが、コルモン画塾で同門だったゴッホです。《裸婦習作》(1882年 油彩/カンヴァス)などこの時期のものですが「これが習作?」と疑いたくなるような出来栄えです。

こうして画塾仲間やそのほか身の回りの人物を多く描いてきたロートレックですが、1890年代に入るとムーラン・ルージュの酒場に取材した作品が多く生み出されていきます。この時期になると、絵画や素描だけでなく、版画、ポスターにも手を染めていきます。私は、描かれたダンサーや歌手たちを「こんな特徴をもっているのか。似ているのだろうな。」と思って見てきましたが、あとで『芸術新潮』の特集を見てビックリ。えらくカリカチャイズされているのです。たとえばジャヌ・アヴリル。もっと年増の女性かなと思ってみてました。ところが、雑誌にのった彼女の写真は、もっとずっと若い人でした。さらに年代を追っていくと、娼婦を対象に作品を描くようになっていくのですね。これは酒場だけで取材するのではなく、ロートレック自身が娼婦館に寝泊りし(!)、食事を作るなどして獲得した信頼にもとづいて多数の作品が生み出されたのです。これまた驚きです。ですから、かなりいたらしいレズビアンの娼婦たちの絵画も描けたわけで、会場にも展示されていましたね。娼婦を対象に描いた作品の中では《化粧するプープール夫人》(1898年頃 油彩/板)の前で足が止まりました。鏡に向かって化粧しているモデルの視線や手などを見ていると、鏡を見て考えながら化粧している姿が、どことなく哀愁を漂わせていて、素通りできなかったのです。

駆け足で述べてきましたが、会場に展示された作品を見ていくと、ロートレックの人生もどこからとなく見えてくるような展覧会で、私にとっては記憶に残る展覧会となりそうです。
【2001年1月29日】


トップページへ
展覧会の絵へ
前のページへ
次のページへ