第35回 : ハインリッヒ・フォーゲラー展(東京ステーションギャラリー)

いま、東京ステーションギャラリーでは、来る2月12日(月)までを会期としてこの展覧会が行なわれています。休館日は2月12日(月)を除く毎週月曜日、入館料は一般800円となっています。油彩、版画、工芸、デザインなど多数の作品が展示されています。実を言うと「忘れられた愛と青春の画家」という副題がついた本展に、私は足を運ぼうかどうしようかとためらいがありました。チラシの表面にある作品を見ると、いかにもロマンチックで、しかしどこか私の趣味に合わなかったからです。でも、白樺派にも影響を与えたと言いますし、どんなものかな、といういつもの好奇心にかられて、ついつい出かけてしまったのです。

私は、フォーゲラーについて知りませんでした。会場には年譜が貼り出されていて、私はそれを写してきました。帰宅してからインターネットを調べてみると、ミズヌマカズオさんがまとめられた「略年表」を見つけました。これは「略年表」と銘打って入るものの、詳しいものだと思いますよ。一瞬「しまった」と思ったのですが、しかし、写してきた年譜と突き合せてみると、会場の年譜にしかない記述もいくつか見出せて、無駄ではなかったのだなとホッとしました(笑)。これら2つの年譜から私なりに摘記して、フォーゲラーの人と展示作品の印象をまとめてみることにしましょう。なお、作品については東京ステーションギャラリーのHP( http://www.ejrcf.or.jp/station/ )を、詳しい「略年表」は http://www.clat.hi-tech.ac.jp/~mizunuma/H.Vogelr.html を、それぞれ参照してください。では、フォーゲラーの足跡を追ってみます。

1872年12月12日  ヨハン・ハインリヒ・フォーゲラー、ブレーメンに生まれる。
1890年10月     デュッセルドルフのアカデミーに入学。
1894年 5月     初めてヴォルプスヴェーデへ。マルタ・シュレーダー(後に結婚)を知る。
1897年         《春》を制作
1898年初春      旅行先のフィレンツェでリルケと知り合う。
1901年 3月     マルタと結婚。
1905年 6月     北西ドイツ美術展に《夏の夕べ》を出品、金賞受賞。
1910年         ブレーメンの展覧会で反響なし。

《春》《夏の夕べ》を描いた頃のフォーゲラーは、ユーゲントシュティールを代表する画家だったというのです。ユーゲントシュティール、つまりアール・ヌーヴォーのドイツにおける呼び方で、私は「へえ、そうだったのかあ」という鈍い反応でした(汗)。たとえば1905年制作の《夏の夕べ》。横長の画面の中央に、マルタらしい女性が立ち、その足元には犬がいます。画面左手には客人がいてくつろぎ、右手には楽師たちがアンサンブルを奏でている。おお、何と麗しい光景だろうか、そしてたしかに綺麗にまとまってはいるけれど、だからどうなの? という印象が拭えず、気持ちが重くなったというのが正直なところでした。これと比べれば、まだしも《春》の方が素直に見られます。縦長の画面中央にマルタらしい女性がいて、その周りの木々は、これからまさしく春を迎えようとするところです。女性の眼差しの先には一羽の小鳥がいるのですが、これがフォーゲラー(Vogeler)の象徴だそうですよ。考えてみれば、ドイツ語でVogelといえば「鳥」ですからね。ちょっと駄洒落がきついんじゃなあないかな、と思いつつも、笑って許すことにしました。この絵は、HPの画像では粗すぎて細かいところがわかりませんし、もっと良く仕上がっているチラシの絵でも、中央の木に描かれた芽の緑が充分に鑑賞できません。これなど、やはり本物を見なくては、という好例でした。このようにフォーゲラーの歩みは順調に進んでいくのかと思わせましたが、さにあらず。1910年の記述を見るとわかるとおり、早くも落ち目(失礼!)の危機が訪れたようです。先に進みましょう。

1911年        1910年に創刊した日本の文芸雑誌『白樺』と接触し、東京で初の展覧会。
1912年        東京で第2回展覧会、京都でも展覧会開催。雑誌『白樺』10月号のために表紙を描く。
1914年        公私ともに展望を失い、志願兵になる。
1918年        政治的世界観が変貌し、ブレーメンの社会主義者たちと接触する。

この間で印象に残る作品を挙げるとしたら《メルジーネ(水の精)》(1912年)くらいでしょうか。白樺派がなぜフォーゲラーに興味を示したのか、私にはよく解かりませんでした。会場に展示されていた手紙は当然ドイツ語で、解からなくとも目を通してみようと試みましたが、挫折。日本側の手紙より、フォーゲラー自身の手紙の方が字が読みにくく感じて閉口しました。さらに第一次世界大戦の開始は、フォーゲラーにも影を落とすことになったようです。

1919年        結成されたドイツ共産党に入党。
1924年        複合絵画技法の形成。
              《ソビエトの土地における勤労学生たちの冬の任務》制作。
1926年        マルタと正式離婚、ソニア・マルフレスカと結婚。
1929年        共産党を脱退(あるいは追放される)。
1930年        バルケンホフで複合絵画展開催。

フォーゲラーは、前半生とは大きく異なった人生を送るようになっていますね。1924年制作の作品《ソビエトの土地における勤労学生たちの冬の任務》を見ると、画面が、いくつもの台形によって仕切られているように見えます(大雑把に表現していますよ)。画面中央にはレーニンと思しき人物の顔が描かれています。1924年1月にレーニンが死去したことと関連があるのでしょうか? 画面下のほうに描かれた机の上には<イズヴェスチャ>紙が置かれています。ざっと画面を見渡すと、何人もの人間と建物などが描かれていて、絵解きをするような楽しみがあるようには思えます。このまま複合技法の絵画を展開させるのかと思いきや・・・、1935年にモスクワで複合技法を放棄し、1941年にはソフィアと離婚、1942年に亡くなっています。

ユーゲントシュティールからスタートしたフォーゲラーが、1910年代の作風の変化を経て、第一次世界大戦とその後の期間、作風を大きく変えていったあたりが今回の見どころのように思えますが、フォーゲラーの後半生は、果たしてどこまで充実していたのか疑問が残りました。白樺派については、私は何かを語れるだけのものを持っていませんけれど、一時期、接触があったとしてもフォーゲラーの評価とどう関係してくるのか、これもまたほとんどわかりませんでした。
【2001年1月20日】


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